「おい、将ちゃんに何があったんだ!」
黒川くんが去ったあとも、俺はずっと立ち尽くしたままだった。その最中、後ろから聞こえた芹澤の声で我に返る。
視線を後ろにやると、険しい表情の芹澤と、困惑した表情の高桑と鴨田が走ってきた。
何で今頃になって来たのかという疑問が湧いたが、恐らく変に黒川くんを刺激するのはまずいと判断したのだろう。
「朝怒鳴ってたのって、将ちゃんだろ!? 一体何があったんだ!?」
「分からねえよ……1年の教室の棟で、傷だらけで怒鳴り散らしてて、理由を聞こうにも何のことだかさっぱり分からなかった……」
「ということは、何か言ってたんだな!? 教えろ、今すぐ!」
俺の返答に芹澤は物凄い剣幕だった。鬼のような形相で俺に掴みかかり、問い詰める。
「ここの1年に、袋叩きにされたって……。『もう、俺のことは忘れてくれ』って……」
「なるほど……」
俺を掴んでいた手を離した芹澤は、少し何かを考えるような仕草をしたあと、踵を返してどこかへ行こうとする。
「お、おい! どこ行くんだよ!?」
「決まってんだろ。将ちゃんを助けるんだよ」
呼び止める高桑の声に、芹澤は極めて真剣な表情で言い切った。
俺はそのあまりにも無謀な試みに、変な笑いが出てしまった。俺の黒川くんに対する気持ちは、もはや諦観しかなかったからだ。数分前まで抱いていた考えを、俺はあっさり翻していた。
「もう、無理だろ……お前なんかが何かしたところで、黒川くんは口なんて聞いちゃくれねえよ……」
そうだ。迂闊な真似をして、黒川くんの傷を抉るようなことをしてはいけない。俺たちにできることなんて、何も――――。
「…………ふざけんなよ」
だが俺の思考は、鬼――いや、
「てめえにとって将ちゃんってのは、その程度の存在だったのかよ!」
「…………」
「てめえがこうやって俺たちと話せてるのも、馬鹿なこと言えてるのも、全部将ちゃんのおかげだろうが!」
「…………っ」
「将ちゃんに馬鹿でかい借りを作っといて、いざ将ちゃんが困っていたら『無理』とかほざいてポイか!? てめえはそんな薄情者だったのかよ!? あの時言ってたのは、全部嘘だったってのかよ!?」
「…………」
その通りだ。俺は薄情者だ。自分の考えをあっさり翻し、恩を仇で返す薄情者だ。
「どうしたらいいか、分からないんだよ……」
「……はっ?」
「俺だって、何とかしてやりたいって思ってる! だけど俺は、お前らほど人付き合いが長くないせいで、人の気持ちってのをそこまで理解できてないんだよ!」
そのくせに、俺は自己弁護に走る。
何とかしてやりたい。でも分からないから、仕方ない。そんな説得力のない擁護の言葉を、躊躇いもなく発していた。
「おい、ふたりとも落ち着けっての。こんなところで言い合いしてる場合じゃないだろ」
俺たちのやり取りに慌てた様子で鴨田が止めに入るが、俺はともかく、芹澤にとっては逆効果でしかなかった。
「お前らもお前らだ! 何でさっきから平気そうでいられるんだよ!」
「そんなわけないだろ。俺たちだって……」
「……もういい。俺はひとりでも動く。ずっとそこで『もう無理』って言い続けてろ!」
鴨田が言い終わる前に、芹澤は捨て台詞を吐いて去ってしまった。
「なあ、やっぱり一二三ってさ、
「……? 誰だそれ?」
「やめろ源五郎。一二三がいないからって、その話はするなっての」
聞いたこともない名前に、俺は質問を投げかける。しかし、鴨田はそう言って遮った。
「別にいいだろ。やばい話ってわけでもないんだし、正美は知る権利があると思うんだけど?」
「ふぅ……まあいいか……。俺も一二三があんなにムキになったのは、多分村田君のことをまだ引きずってるからだって思ったからな……」
高桑の説得に、大きく息を吐く鴨田だった。そして、あまり気乗りしないようではあったが、芹澤が何であそこまで躍起になったのかを話してくれた。
中学1年の終わりごろ――つまりは、俺が3バカと疎遠になってしばらくして――芹澤には、高桑や鴨田以上に仲のいい友達がいたらしい。それが、先ほどふたりが口にした『村田くん』ということだった。
村田くんはかなりおとなしい性格で、どうして芹澤とそこまで仲が良かったのか疑問に思う人間も多かったようだ。しかしながら、別に芹澤は村田くんをこき使っていたとか、そういったことは一切せず、本当に強い信頼関係を築いていたようだった。
だが、事件は起きる。芹澤が気付かないところで、村田くんは
村田くんは必死になって弁解したものの、教員はまるで聞き入れてくれなかったとのことだ。
当時の俺は勉強に必死でさほど気にしてはいなかったが、思い返してみれば中学の教員は、ろくでもない人間が多かった気がする。
そして、2年次の半ば。芹澤に相談できないまま、彼は自殺を図る。幸い一命は取り留めたものの、その後中学に顔を出すことはなく、他県へと引っ越してしまったらしい。
このことは
これも秘匿されていたことと、前述したように勉強のみに目を向けていたせいで、俺はそのことに全く気が付かなかった。
ただ、それだけではあそこまで芹澤が必死になる理由にはならない。村田くんには、もうひとつ大きな特徴があった。
黒川くんは村田くんと、かなり顔が似ていたらしい。初め芹澤たちが黒川くんを見たときは、村田くんが名前を変えて聖櫻に入学したのだと、本気で思いかけたそうだ。
だが村田くんと黒川くんの声は全然違うものであり、体格も村田くんと違って小柄だったためにすぐ別人だと判断したようだが。
「多分一二三の奴は、村田君を守れなかったことの清算をしようとしてるのかもな……」
「
「何だかんだで、一二三はすごい奴だよ。人とのつながりを、すごく大切にする奴だからさ……」
「…………」
神楽坂さんの話題の時、過剰に心配していたのはそういう理由もあったというわけか。だが、それなら――――。
「なあ、黒川くんのこと、あいつに任せてみないか?」
それなら俺たちができることは、ただひとつ。芹澤に全てを任せるのだ。
「他力本願なのは重々承知してる。だけど、俺たちが変にしゃしゃり出ても、何の意味もない。悔しいが、ここはあいつを信じてみよう」
「……だな」
「しょうがない、楽観視するつもりはないけど、一二三に任せてみるかー」
――頼む、芹澤。黒川くんを、助けてやってくれ!
「ふぅ……」
翌日の土曜日。笹原さんの喫茶店で仕事をする日だが、俺はなかなか作業に身が入らなかった。休日ということもあって客の数は多いというのに、注文を間違えたり、別の客に注文されたのものを持って行ってしまったりなど、普段はやらかさないミスを連発してしまった。
客の人がみんないい人で、フォローを入れてくれたことに感謝せずにはいられない。今はピークの時間も過ぎ、テーブルを拭いているところだった。
「二階堂くん、大丈夫?」
そんな俺の様子を見て、笹原さんが心配そうに声をかけてくる。
「まあ、なんとかね……色々迷惑かけちゃって、ごめん……」
「黒川くんのこと、心配?」
「……えっ? ……まあね。芹澤の奴が何とかするって言ってるけど……」
笹原さんにしても、黒川くんの怒りの咆哮を間近で耳にしている。彼女と黒川くんの関係性は俺はよく知らないが、人脈の広い黒川くんのことだ、きっと彼女ともよく会話をしていたのだろう。
「笹原さんは、あのときの黒川くんを見て、どう思った?」
「うーん、そのことなんだけど……」
だがその予想は、意外にも覆されることになる。
「実は私、黒川くんと話したこと、ほとんどないのよ」
「えっ? それは本当に?」
「ええ。黒川くんは私をどう思っているか分からないけど、私は黒川くんのこと、ちょっと怖い人だな、って思っちゃってるから……」
「……」
「時谷さんとトラブルがあったことは知ってる?」
「ああ、うん。黒川くんは、どうしてあんなことしちゃったんだろうって思っているみたいだけど」
「あっ、そうなの? それなら、ちょっと安心したけど……」
俺の返答に笹原さんは、わずかばかり安堵したような表情になった。
あの事件は正直なところ、どちらか一方だけが悪いと言える問題ではない。だがそれでも、どちらかに肩入れしてしまいたくなる人はいるのだろう。もちろん俺はそれを糾弾するつもりはない。落ち度はどちらにもあると言えるのだから、気持ちは分かる。
「あとは、神楽坂さんのことも嫌っているみたいだから」
「……」
あの時黒川くんは、神楽坂さんのことを『苦手』と言っていたが、実際には嫌っていたとしてもさほど驚きはない。そうでなければ、彼女があそこまで焦った表情になった説明が付かない。
また芹澤の言う通り、神楽坂さんを嫌う声はそれなりにあった。あの話を聞いて以降、何度か陰口じみたことを話している同級生を目にしたからだ。
「私、神楽坂さんとはよく話すから、どうしても黒川くんのことは怖い人って思っちゃうのよ。だからあの時も、すごく怖かったわ」
「そうなんだ……」
誰からも好かれるなんてことは、夢物語だということは分かる。だが俺は、笹原さんの黒川くんに対する評価に、やるせない気持ちにならざるを得なかった。
「……でも私は、黒川くんのことは嫌いじゃないわ」
「……えっ?」
俯き、下に向いていた視線は笹原さんのその言葉で引き戻された。
「私はああ言ったけど、黒川くんを慕ってる人はたくさんいるからね。小野寺さんとか有栖川さんは黒川くんとよく話してるところ見るし、図書室に行った時は村上さんとも仲よさそうだったからね」
「……そっか」
「それに1年生にも、もう仲のいい人がいるからね。この前のお昼休み、ジャグリングやってた子に何かおごってあげてたみたいだし、新体操部の
あとは、春宮も。彼は新学期が始まってわずか2か月ほどで、数多くの後輩と交流していたのだ。
――俺なんかより、ずっとすごいじゃないか。
「他の1年生から聞いた話だけど、妹さんもいるみたいね。会ったことはないけど、黒川くんのことすごく慕ってるって聞いたから、仲がいいのね。羨ましいわ」
「そっか、仲はよかったんだね……」
春宮の言う通り、黒川くんには妹がいたようだ。彼は兄妹がいるということを話さなかったが、それは妹を嫌っているからではないということに安心する。
妹は、今の黒川くんをどう思っているだろうか。力になってやってほしいと、心の底から俺は思った。
「それに望月さんからもいい人って聞いたから。こんなこと言っちゃうのはよくないかもしれないけど、普段女の子のことばかり考えてる望月さんがそう言うなら、黒川くんは本当はいい人なんだって思うわ」
「……」
「そうは言っても、まだ怖いって印象は拭いきれてないけどね」
「いや、十分だよ。笹原さんのおかげで、大分気持ちが和らいだ」
あの時の咆哮を機に、黒川くんは冷ややかな目で見られてしまうのではないかという不安が少なからずあったが、その心配は杞憂だった。ここまで信頼している人間が多いなら、彼は必ず今までと変わりない日々を過ごせるはずだ。
「……そうかしら? それならよかったけど。……だから二階堂くん、黒川くんの力になってあげてね?」
「……えっ?」
「芹澤くんが何とかしてくれるって言っていたけど、二階堂くんにしかできないこともきっとあるはずよ?」
「……そうだね」
そうだ。俺には俺にしかできないことがきっとある。それは何なのかまだわからない。だからこそ考えるのだ。俺だけができる、黒川くんの力になれる方法を。
――このまま薄情者でいて、たまるかってんだ。