「うい~っす、おはようさ~ん!」
教室のドアを開けて挨拶の声をあげると、教室内は一斉にざわめきだした。ほぼ全ての人間が、俺に対して奇異の眼差しを向けている。
「……?」
そんな光景に、訳が分からず目をぱちくりさせていると、一人の男子生徒が俺のもとへと近づく。
「君ってさ……ほ、本当に、二階堂君……?」
「……はぁ?」
視線をちらちらさせ、訝しげな表情で尋ねる彼の言葉が俺はしばらく理解できなかったが、少し考えてみればすぐに分かることだった。
――そりゃあそうか。昨日までの俺を見てたら、誰だってそう思うだろう。
常に暗い表情で、ましてや挨拶とは無縁だった奴が、こんな変わりっぷりを見せたら十中八九同じリアクションをとり、何があったのか疑うだろう。
変なものでも食べたのか? 頭でも打ったのか? 亡霊に取り憑かれたのか? そういったことを。だけど残念ながら、どれも不正解だ。
俺は『普通』に生まれ変わった……いや、まだ生まれ変わってはいない。その一歩を踏み出した、と言うべきだろう。あるべき日常を歩むために。自殺願望を捨て去り、血の味を蜜から『普通』の鉄の味に変えるために。『普通』の感覚を、手にするために。
――新生二階堂正美、今ここに、爆誕。
「んも~っ、嫌ね~。どこからどう見たってアタシ以外の何者でもないじゃない。まったく、薄情なんだから~っ」
「「「「――――――――」」」」
ここはひとつ冗談でも言ってみようと、身体をくねらせながらそんなことを口にした途端、一瞬の静寂の後に教室のざわつきは混乱へと姿を変えた。
「うわ~っ! あ、あの二階堂くんがオネエになっちまった~!」
「やべえよやべえよ……絶対何かに取り憑かれてるよ……」
「も、もしかしたら大雪が降ったりして……」
「いや、隕石が落ちるかも……」
「やだぁぁっ! まだ死にたくねえよぉぉっ!」
「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏……」
「…………」
口々にふざけたことをのたまい出す。
――確かに、やったことが明らかに空回りしているのは認める。でも、何でさも恐怖の大王が舞い降りてきたかのような混乱ぶりなんだよ。というか、念仏唱えんな。
「な、何よ! みんなよってたかってアタシのこと馬鹿にして! あんまりだわぁぁぁ!」
両手で顔を覆って泣き真似をするも、混乱の収拾には効果がなく、むしろ火に油を注ぐだけの結果となった。
「ひぃぃっ! 怖えよぉぉ!」
「崇りじゃぁ! 亡霊の崇りじゃぁぁぁ!」
「彼氏作ってから、死にたかったな……」
「アーメンアーメン……ソーメンヒヤムギ……」
――やっぱり、昨日までの俺に戻ろうかな。
一瞬だけではあるが、そんな考えに至りそうなほどに教室は混乱の極みへ達してしまった。それと、神に祈るか仏に祈るかはっきりしろ。そもそも、何で途中から食い物に変わってるんだよ。
「あぁぁぁぁぁもうやだぁぁぁぁぁ! みんなアタシの繊細な心を踏みにじってぇぇぇぇ!」
顔は手で覆ったまま、廊下へ駆けだす。しかし、覆われたその顔はにやついていた。
最高に清々しい気分だった。これが、『普通』というものなら、それはなんと素晴らしいことだろう。さっきはあんなことを思ったが、実際にはもう戻るつもりなんかない。絶対、この日常を送り続けてやる。
――こんなところで死んでたまるか、こんちくしょう。
廊下へ駆けだしたはいいが、行くあてがあるわけでもないので、1分もしないうちに教室へ俺は何食わぬ顔で戻った。
授業の際は静かになっていたが、休み時間になると途端に教室はざわつきを再開した。しかしそれも、昼になる頃には大分落ち着きつつあった。
ほとぼりが冷めるのが早すぎるだろうと、半分呆れと半分感謝の気持ちに浸りながら、鞄から弁当を取り出し、机に置いたところで、小野寺さんが怪訝な表情でやってきた。
「に、二階堂ちゃん、どうしちゃったのさ? 何か変なものでも食べた?」
朝といい、どいつもこいつも品のないことばかり尋ねてくる。失礼しちゃうわね。
「んなわけないでしょうが……」
「それにしたって、印象変わり過ぎじゃない? 昨日まではもっとこう、クールというか、キリっとした感じだったのに、今日は教室に入ったらやたらいい声で挨拶するし、終いにはオネエになるしで、驚かない人の方が珍しいと思うけどねえ」
「生まれ変わることにしたんだよ、俺は」
「……生まれ変わり方を完全に間違えてる気がするのは、私の気のせいなのかな?」
渋い顔をしながら首を傾げる彼女の仕草に、俺の繊細な心は悲鳴を上げていた。
「いちいちうるさいわね~。少なくとも愛想は良くなったんだから、もう少し好意的に捉えなさいよ!」
「はいはい、分かったよ……話を戻すけど、何があったのさ?」
「それは――」
「恋ね! 間違いないわ!」
渋い表情を解除し、興味ありげな表情に変わった小野寺さんの質問に答えようとしたところで、有栖川さんがやたらとうっとりした表情かつ大きな声を上げて横やりを入れてきた。
「二階堂くん、彼女できたでしょ? 誰? 誰? 教えて?」
目を輝かせながら顔を至近距離までずいっと近づけてくる彼女に、思わず俺は気圧される。そんなに他人の色恋沙汰が好きなのか、あんたは。
「そんなもん、できてないっての……そう言う有栖川さんは、どうなのよ?」
「えっ、私? ……う~ん?」
俺の質問に有栖川さんはきょとんとした表情を浮かべる。『何を言っているの?』とでも言わんばかりだった。
小野寺さんは苦笑いを浮かべて俺に耳打ちする。
「有栖川ちゃんってさ……人の恋愛事情にはやたら首突っ込むけど、自分のことには全く関心がないんだよね……。というか、むしろ気付いてないって言った方がいいかな? 結構狙ってる男子はいるんだけど、あまりにニブチンなせいで自分のことだっていうのが分かってないみたいだから」
「どういうこっちゃ、それ……」
あれだけの執拗さを見せるのだから、自分の恋愛話もさぞ豊富なのだろうと漠然ながら思っていたが、俺の予想とは正反対だった。
小説で恋に鈍感な男の話は多々読んできたが、まさか女で、しかもフィクションではなく現実の存在として目の前にいるとは。世の中って不思議。
「ふたりとも、何の話をしてるの?」
「……いや、世の中って不思議なもんだなってね」
「……うんうん」
「?」
嘘は言っていない。それに俺の勘だが、有栖川さんにこのことを話したとしても恐らく理解しないだろう。余計な口出しは無用だった。
「また話がそれたから戻すけど、別に彼女ができたわけじゃないよ。黒川くんがね……」
「……や、やっぱり二人は幸せなキスをして終了な展開だった……?」
「……ま、前にも言ったけど、応援してるからね、私!」
「…………おい」
何でそういうネタに持ってきたがるんだ、小野寺女史よ。
そしてそこ! 勝手に応援しなくてよろしい!
「もうアタシ疲れた……」
ため息をついて机に突っ伏すと、前から件の人物がやってきた。今までと同じように、俺の前の席の持ち主がいないことを確認して、椅子に座る。
「よかった。もうみんな、二階堂くんの今の姿に慣れてきたみたいだね。早速女子二人とも仲良くなってるし、やるね」
冗談なのか素なのか分からないが、どちらにしても彼のその言葉は俺の疲労の進行を加速させた。相変わらずのまぶしい笑顔で効果も倍以上だ、このやろう。
「これのどこが仲良くなってるように見えるのよ……」
「ははは。でも誤解は解いておかないとね。小野寺さんに、有栖川さん。前にも言ったけど、俺たちはそんな関係じゃないよ」
「うん、知ってるから大丈夫」
「あら、そうなの?」
――もう嫌だ、この方々。
悪い笑みと、素で驚く彼女たちの、それぞれの表情に俺はノックアウトされた。
もういいわよ。こうなりゃ、いじけまくってやるわよ。
「それでそれで、何があったのさ~?」
「聞こえなーい……」
机に突っ伏した体勢のまま、耳を塞いで現実逃避の構えに入る。誰かさんが何か言っているような気がするが、知らん知らん。
そんな体勢をずっと続けていたおかげで弁当に手をつけるのを忘れ、気付いた時には終了一分前。ほとんど噛まずに弁当をかきこむ羽目になった。
小野寺さんと有栖川さんには授業が終わるまで呪詛の言葉を心の中で唱えたのは言うまでもない。あと、少しだが黒川くんにも。
生まれ変わったと周囲に触れ回っているとは言っても、俺の生活習慣はほとんど変わっていない。むしろ、より規則正しい生活を心がけるようになったと言ってもいいだろう。
早寝早起きはもちろん、日々作る料理の栄養バランスにも今まで以上に気を使っているし、自習の時間はわずかだが増え、キックボクシングのジムに通う頻度も、今までは週2日だったのが週3日から4日になった。
当然ながら、図書室へも放課後には必ず通い続けていた。家で過ごす時間やキックボクシングなどとの兼ね合いもあり、最終下校時刻までいるということはほぼなくなったが。
今日は長居せずに、2刷海外の文学作品を借りてすぐ帰ることにした。いずれの本も1年の時、黒川くんに『読んでみたい』と何気なく呟いた作品で、図書委員会での新しい本を入れる会議で彼が候補に上げ、導入されたものだった。
カウンターにいる村上さんに本を渡して、借りるための手続きを行う。
「……二階堂君、随分印象変わりましたよね。この前はすごかったです」
生まれ変わった宣言をしてから1週間が経過し、俺の変化に慣れてきたクラスメイトは増えつつあるが、まだ驚きや違和感を覚える人は多い。村上さんも、そんな俺の変化に違和感があるうちのひとりのようだった。
ちなみに俺の噂は他クラスにも飛び火し、そいつらに至っては、初日における俺のクラスのように念仏を唱える輩もいるらしい。……ふざけんな。
「生まれ変わったからね」
「何かあったんですか?」
「まあ、村上さんには話しても大丈夫かな……」
どこかのOさんやAさんと違って、村上さんならややこしいことにはならないだろうと判断し、ことのいきさつを――図書室の中であるし、勝手に誤解する人間が出てまた面倒事になるのは嫌なので、もちろん小声で――話した。
一応、『奴ら』のことや自殺願望を持っていたことに関しては伏せた。それでも当事者ではない人間にいきさつを話すのは、これが初めてだった。
「そんなことがあったんですね……」
「うん。だから、黒川くんには感謝してもしきれないんだよ。もう無理だと思ってたのに、和解することができたし、突き放すなんて馬鹿な真似して、何度拒絶しても逃げずに正面から向き合ってくれたから。何よりも、俺のことを『友達』って言ってくれたからね」
「……」
俺の言葉に、村上さんは何かを考えているようだった。
急かすわけにもいかないので、いったん話の手を止め、彼女が考え終わるのを待った。
「…………あっ、ごめんなさい。ずっと考え事してました」
「気にしないでいいよ。別に急かすつもりはないから。そういえば今日は黒川くん、委員の仕事ないの?」
辺りに彼の姿は見受けられなかったのでつい話してしまったが、もし死角にいたらやばいな、と今更ながら思う。
「奥の書庫で本の整理してますけど……良かったら呼んできましょうか?」
しかしながら、それは杞憂に終わった。仮に見えていたとしても、カウンターから奥の書庫までは結構な距離があるので、何を話しているかまでは分からないだろう。おまけに小声ならなおのこと心配ないはずだ。
「いや、大丈夫。けど、村上さんにはひとつ頼みたいことがあるんだ。お願いしてもいいかな?」
「何ですか?」
「もし嫌じゃなければ、黒川くんに俺がお礼を言っていたって、伝えておいてくれないかな?」
弊害、と言うにはおかしいのかもしれないが、生まれ変わることにした俺は少々困ったものも手に入れてしまっていた。いわゆる、『こっ恥ずかしさ』というものだ。
かつての俺なら、平然と本人に伝えることができていただろうが、今の俺にはそれをする度胸が消えてなくなっていた。
感謝の言葉なら、なおのこと本人に直接伝えるべきだというのは百も承知だ。しかし、そう簡単に割り切ることができないのが人間という生き物だ。実に面倒な習性だと思う。
「……は、はい。大丈夫ですけど……でも、何で私に?」
「同じ図書委員ってのもあるし、その中でも一番黒川くんと仲いいのが村上さんだと思うからね」
図書室におけるふたりの様子を見ると、お互いに仲がいいと俺は思う。教室内ではさほど会話をしてはいないが、委員の作業中は親しげにしていたのを、幾度か図書室に来る度に目にしていた。
そういう理由から、彼女は頼む相手にうってつけと言えた。それに他の図書委員より、同じクラスである彼女の方が頼みやすいとも感じたからである。
「……えっ!? 仲、良さそうに見えますか……?」
「うおっ」
顔を赤くし、大げさなくらいに身体をびくっと跳ねた村上さんに、思わず俺も似たようなリアクションを返した。しかし、俺は村上さんのその動作よりも、普段からは考えられないような大きさの声を上げたことに驚いた。ぼそぼそ、とまではいかないが、村上さんはそこまで大きな声で話さない人だ。こんな姿を目の当たりにしたら、きっと俺でなくても驚く。
そんなことより、ここは図書室だ。図書委員がそんな大きな声出したらいかんでしょうに。案の定、利用者の迷惑そうな視線が降り注いだ。
……おい、何で俺にまで向けるんだ。言っとくが俺は当事者じゃないぞ。
「……す、すいません……失礼しました……」
当事者の方は、先ほどよりも顔を赤くして、視線の送り主たちに頭を何度も下げていた。そんな光景に軽く吹き出しそうになる。そんな矢先、背後でカシャッ、と音が鳴った。
「あ~っ、やっぱり文緒ちゃんはかわいいわね~。今のはすごくいいのが撮れたわ~♪」
振り向くと、そこには恍惚とした表情をしながらカメラを持つ女子生徒の姿だった。音の発生源はそのカメラであることは確かめるまでもない。こんな場所で写真を撮る人間は、彼女しかあり得ないからだ。
ただ、彼女が主に撮る写真の被写体は、かなり特殊なものだ。『彼女しかあり得ない』という言葉も、それが理由だ。
一体何を撮るのかって? 校内の風景? 違う。
動植物の撮影? ある意味『動物』ではあるが違う。
人の写真しか撮らない? 半分正解だが、半分不正解だ。
じゃあ正解を教えよう。彼女が主に撮影するのは、女子生徒なのだ。
ん? 良く聞こえなかった? それじゃあもう一回。彼女が主に撮影するのは、女 子 生 徒、なのだ。
……………………。
『何言ってんだ、こいつ』と思うだろう。俺自身も、『何言ってるんだろう、俺』と思っているから安心してくれ。だが、嘘は言っていない。本当のことだ。言うなれば、彼女は『変態』なのだ。それもかなりやばいレベルで。
とにもかくにも、女子生徒の撮影に心血を注ぎ、三度の飯より女子生徒が好きという有様である。挙句の果てには、到底女がするものではない表情になって撮影をすることもあり、噂ではあるがよだれを垂らしていたという話もある。きたない。
当然のことながら彼女は学園内でもトップクラスの有名人だ。ただし有栖川さんのような、良い意味でも悪い意味でも有名というタイプではなく、ほぼ100%悪い意味での有名人だった。
そんな今も、彼女は『文緒ちゃんの困り顔も最高~』などとのたまいながら、シャッターを切りまくっていた。
「も、望月さん……図書室では静かにしてください……あと、撮影もほどほどにしてください……」
「あ、ごめんね。前にも言われたのにこれじゃあだめよね……でも、写真は撮るけどね~、ぐふふ~っ♪」
「に、二階堂君……望月さんを止めてください……」
「そんなこと言うけど、あんまり村上さん、嫌がってないよね?」
実際のところ、止めて欲しいという言葉とは裏腹に、村上さんの表情はまんざらでもないように見えた。村上さんがおとなしく、自分の意見をあまり表に出せない性格だからというわけでは決してないように感じる。
「そりゃあそうよ、私と文緒ちゃん、友達だもの~」
ようやく望月さんは撮影の手を止めて、俺の方へ身体を向けた。その表情は先ほどまでの恍惚としたものから、純粋な喜びのものに見えた。恋愛沙汰など無縁の人生を送ってきた俺だが、そんな俺でも彼女の表情は魅力的に見えた。
そんなことより、性格が真反対なふたりが友人同士であることに驚く。珍しい例ではないと思うが、望月さんの性格が性格だけに、一方的なものではないのかと勘ぐってしまう。
念のため、村上さんに確認をとっておく。
「……こんなこと言ってるけど、本当?」
「は、はい……私はそうだと思ってますけど……」
「んも~っ、そこははっきり『いえ、むしろ親友です』って言ってくれないと~」
まあ、さっきの村上さんの表情から察するに、俺の予想は外れだろう。実際のところ望月さんの悪い噂は、変態であることに集約されており、性格面での悪い噂は聞いたことがない。むしろ、いい人と言う話すら聞くので、なおのこと間違いないと言える……と、思いたいが。
「それじゃあ村上さん、黒川くんにさっきのこと伝えといてね」
「あ、はい。分かりました」
ついつい話し込んでしまったが、今日のところはさっさと退散しよう。長居して時間を無駄にするわけにもいかないし、何より二人の邪魔をしては駄目だろう。村上さんに黒川くんへの伝言のお願いを再確認して、俺は図書室をあとにすることにした。
「そんじゃ、お幸せに~」
「……えっ?」
「きゃ~っ、お幸せにだって♪ 文緒ちゃんひとり占めできるわ~♪」
「も、望月さんっ……だ、誰か助けてください……」
背後から喜びの声と困惑の声が聞こえたが、聞こえないふりをしてそのまま帰路についた。
さあ、死ぬための人生ではなく、生きるための人生を走りだそう。全力疾走だ。邪魔をする障害は、みんな跳ねのけてやれ。