幸せという名の自殺未遂   作:ROCKSTAR

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保存料・着色料不使用

 

 

 学校の図書室にある本を読むという、金のかからない行為が俺の今までの趣味であったが、生まれ変わった宣言をして以降、新たな趣味のため金を使いに町へと繰り出すことが非常に多くなった。

 主な目当ては漫画だ。学内における交流が増えたと言っても、彼ら彼女らとの共通の趣味が俺にはまるでない。それは黒川くんや3バカなどの友人間にも言える。それでは彼らにとって俺の最終的な印象は、『何も知らない、つまらない奴』になってしまうような気がする。それを防ぐために俺は、漫画を始めとした嗜好品の類に手を付けて知識を得、交流を維持できるようにしようと画策したのであった(もっとも、図書室にある本も嗜好品と言えるのかもしれないが)。

 

 

 

 

 

 

「そういや、昼飯まだ食ってなかったな……」

 

 今年の6月最初の日曜日。

 今日も今日とて俺は町を歩き回っていた。両手に大量の漫画が入った袋をぶら下げながら。

 この光景を『奴ら』が見たら激怒するか、発狂するか、はたまた失神するだろうか。そんなことを考えていたら、腹の虫が鳴り、空腹感が浮上する。漫画の物色に夢中になりすぎて、食事をとることをすっかり忘れていた。

 腕時計に目をやると、時刻は2時半。昼食には中途半端な時間だ。かと言って何も食べないのも良いとは言い難いので、俺は軽食のできる店を探すことにした。

 

「おっ、ちょうどいいところに」

 

 10分ほど歩き回っていると、個人経営と思わしき小洒落た喫茶店を発見した。チェーン店はあまり利用したくないと思っていた俺に、そこはうってつけの場所だった。

 一も二もなく俺は扉を押し、店へ入った。

 

「いらっしゃいませ~……って、二階堂くん?」

 

「……な、何で笹原さんがここに?」

 

 そんな俺を出迎えた店員は、同じクラスに在籍している、笹原(ささはら)野々花(ののか)であった。

 

 

 

 

 

 

 色々と聞きたいことがあったが、何よりもまず腹を満たしたかったので、サンドイッチとコーヒーを注文した。

 

「はい、どうぞ」

 

「ああ、ありがとう……」

 

 それを持ってきた笹原さんに礼を言い、どちらも一口だけ口にする。

 ……どちらも、申し分ない味だ。気に入った。

 

「もしかしてこれ、笹原さんが作ったの?」

 

「コーヒーは私が淹れたけど、サンドイッチはおじいちゃん」

 

「えっ? もしかしてここって、笹原さんのおじいさんの店なの?」

 

「うん。私はお手伝いをしてるの」

 

 世間というものは、意外にも狭いものだとしみじみ思う。俺と同じような経験をした人はこの世にごまんといるのかもしれないが、学外における人との交流が皆無であった俺にとってみれば、この出来事はかなり新鮮味があった。

 

「二階堂くんは何をしてたの? お買いものかしら?」

 

「そうだね。最近漫画に結構はまりだしたから、滅茶苦茶買っちまったよ。おかげで昼飯が遅くなっちゃってさ」

 

 そう言いながら、俺はテーブルの下に置いておいた大量の漫画が入った袋を掲げる。

 一瞬、笹原さんと話し込んでも大丈夫だろうかと思ったが、辺りを見ると中途半端な時間ということもあり、俺以外に客はわずかしかおらず、そのわずかな客も注文を済ませ、携帯電話の画面を見つめたり、読書にふけったりしていた。

 

「わっ、すごいわね。でも、お金は大丈夫なの? 二階堂くん、ひとり暮らしなんでしょ?」

 

「そうだね。確かに、何かバイトでもしようかなとは思ってるね。仕送りの金、使いたくないし」

 

 ――そうだ。こんな汚い金、正直使いたくもなんともない。

 『仕送り』と呼ぶには、もはや桁違いの額の金を『奴ら』は未だに送り続けている。

 本来ならば1銭として使うべきではないというのに、この世で最も憎むべき者から渡された汚い金を俺はわずかながら使ってしまっていた。この漫画にしたってそうだ。

 

 そんな矛盾した行動に、俺は激しく自己嫌悪する。『生活費はしょうがないだろう』と、内心で免罪符を掲げて言い訳をほざいていることにも、嫌悪感を増加させる原因となった。

 一刻も早くこの状況を脱却しなければならない。この汚い金はたっぷり利息を付けて叩き返さなければならないのだ。

 

 ほとんど勉強のみに明け暮れていた、あのクソみたいな人生からはおさらばすることを俺はあの時宣言したのだ。そのためにも、自分の手で金を稼ぐ手段を見つけなければならない。

 笹原さんの『お金は大丈夫なの?』という言葉に、俺はそれを強く意識させられることになった。

 

「そうだわ。良かったら二階堂くん、うちで仕事してみない?」

 

「……えっ?」

 

 初めは呆気にとられて理解するのが遅れたが、後になって思い返してみるとその言葉は慈悲深き女神の発した言葉だったのかもしれないと、俺は思う。

 

「ここのところお店が忙しくて、私とおじいちゃんだけじゃなかなか大変なの。体力がすごくある二階堂くんがここで働いてくれたら、すごく助かるな~」

 

「……俺としては願ってもないことだけど、笹原さんは俺なんかでいいの? いくらあの時生まれ変わった宣言したからといっても、変に信用しない方が……。逆に、不審に思わなかった……?」

 

「う~ん、私はそう思わないけどな~。むしろあの時から、二階堂くんに対する印象がいい方向に変わったと思うのよ。私だけじゃなくて、他のみんなにもね」

 

「……そうなのかな?」

 

「ええ。それに私は今の二階堂くんが、本当の二階堂くんだなって思うの」

 

「…………」

 

 本当の俺、か。

 

 どうやら俺は情けないことに、まだ他人を信用しきれていなかったのかもしれない。笹原さんの言葉は、その考えをぶん投げるためのきっかけとなってくれた。

 ――さあ、今度こそスタートしよう。まともな人生を。『普通』の人生を。

 

「それじゃあ、是非とも頼みたい……って言いたいところだけど、おじいさんの方は大丈夫? 経営者はおじいさんの方だし、承諾はもらわないと」

 

「そうね。でも、確認するまでもないと思うけどね」

 

 

 

 

 

 

 笹原さんの言う通り、彼女のおじいさんはあっさりと許可をくれた。それどころかとても嬉しそうな顔をしながら、俺を歓迎してくれた。

 少しばかり眼が潤みそうになった一方で、あまりに都合よく事が運ぶので、何か不吉なことが起こる前触れなのではないかとわずかながら怯えた。いらぬ心配であることは分かっているつもりなのだが。

 

「じゃあ、改めてこれからよろしくね、二階堂くん」

 

「ああ、うん。俺の方こそよろしく。申し訳ないね、色々世話になっちゃって」

 

「そんなことないわよ。むしろ私の方こそ、いきなり『働いてくれ』なんて言っちゃったんだし。でも、すごく助かったわ。本当にありがとう、二階堂くん」

 

「だけど、俺が笹原さんと仕事することを男子連中が知ったら、俺、袋叩きにされるかもな……」

 

 心の底から嬉しそうに微笑み、感謝の言葉を俺に述べる笹原さんを見ながら、俺はそうぼそりと呟いた。

 

 村上さんの時と同じように、クラスの男子生徒が話していたのを聞いただけだが、彼女はとても優しくおっとりした性格で、男子生徒からの評価は非常に高いとのことだった。実際、こうして笹原さん本人とコミュニケーションを取ったことにより、その話は間違いではないことを確信した。

 

 また、スタイルがいいことも人気の一端を担っているらしい。確かに彼女は『モデル体型』とまではいかないが、身長は比較的高めな上に、下卑た話だがバストも結構あるような気がする。3バカたちも、やたら彼女のスタイルを褒めちぎっていたことを思い出す。

 

 そんな彼女と一緒に仕事をするということが校内に知れ渡れば、男子連中に石でも投げつけられそうな気がするが……まあ、あまり考えないことにしよう。

 

 もちろん、女子生徒との交友関係も広く、多くの女子生徒と親しそうに会話をしていた現場を、俺は何度も目撃していた。

 

 

 

 

 

『野々花ちゃ~ん、今日も可愛いわね~っ♪ 100枚くらい撮らせて~っ♪』

 

 

 

 

 ……………………。

 

 

 

 

 一瞬、よくない人物が俺の脳裏をよぎったような気がするが、気のせいだろう。ああ、間違いなく気のせいだ。

 

「えっ、どういうこと?」

 

 そんな俺の呟きの意味を笹原さんは理解できなかったらしく、きょとんとした表情で俺に尋ねてきた。

 ……どうやら彼女も有栖川さんほどではないかもしれないが、自身の評価には鈍感なところがあるようだった。

 

「いや、分からなければいいんだ。そんなことよりも俺、笹原さんに言っておかないといけないことがあったんだ」

 

 悪い噂は皆無と言っても、他の生徒からの評価を変に話すのは好ましいとは言えないだろう。藪蛇になりかねない可能性もある。

 俺は話題を別のものにすり替え、笹原さんの疑問を無理矢理打ち消すことにした。

 

「……? 何かしら?」

 

「あの時心配してくれたのに、そっけない態度取っちゃって、本当にごめん」

 

 椅子に座っていた俺は立ち上がると、彼女に向かって深く頭を下げた。

 生まれ変わる宣言をする前、疲労困憊で死にそうな俺を村上さんと一緒に気遣ってくれたのが彼女だった。しかし俺は見栄を張り、少しもその気遣いを受け取ろうとはしなかった。『生まれ変わる宣言をする前だから』とか、『疲れていたから』などといったふざけた言い訳はしない。絶対にしてはならない。

 

「えっ? ……い、いいのよ。気にしてないから。それに私だって余計なお節介を焼いちゃったと思うし」

 

「いや、誰がどう見たってあれはお節介焼きでも何でもなかったよ。笹原さんがどう思うにしても、これくらいはさせてほしい」

 

「……うん、分かったわ。でも、もう十分二階堂くんの気持ちは伝わったから、頭を上げて、ね?」

 

「……そう言ってくれるなら、そうするよ」

 

 彼女の言葉に、俺は素直に従う。

 

「それに、私なんかより村上さんにフォローを入れてあげてね。最初に二階堂くんのことを心配してくれたのは村上さんだし、私はどちらかと言えば便乗したようなものだから」

 

「そうだね。忘れないようにするよ」

 

「ええ、お願いね。……あっ、そうだわ。二階堂くんにひとつお願いしたいことがあるんだけど、いいかしら?」

 

「ああ、うん。俺に出来ることなら」

 

「ありがとう。それで、実は私もお店でお料理が出せるようになりたくて練習しているんだけど、良かったら感想を聞かせてくれない?」

 

「もちろんいいけど、そんなことでいいの? というか笹原さん、料理得意そうだけどね」

 

 見た目で判断するのは好ましいとは言えないのだが、笹原さんは料理が得意そうな雰囲気だと思う。そのため、彼女がキッチンに立つのはコーヒーを淹れる時だけで、料理は作っていないことが不思議だった。

 

「う~ん、料理は好きなんだけどなかなかうまく行かなくてね。おじいちゃんからも『コーヒーだけ淹れてくれれば十分だから』って言われちゃって」

 

「そうなんだ。意外だね」

 

「二階堂くんって、お弁当全部ひとりで作ってるんでしょ? それにすごくおいしそうだってクラスの子から聞いたの。だから二階堂くんなら、お料理について色々教えてもらえるかなって思って」

 

 俺が自分で弁当を作っていることは、黒川くんと3バカにしか話した覚えはないのだが。大方、その中の誰かが他の人間に話して、広まったのだろうか。

 黒川くんと芹澤はそういったことをするとは考えにくいので、高桑か鴨田のどちらかだろう。

 

「ん~、さっきは『もちろんいい』なんて言ったけど、俺、誰かに何かを教えるなんてしたことないから、上手く教えられないかもしれないけど、それでも大丈夫?」

 

「ええ、もちろん大丈夫よ。それに私、二階堂くんが上手く教えられないとは思わないわよ?」

 

 その根拠のない自信はいったいどこから来るのやら。一月ほどしか経っていないというのに、俺のことを信用しすぎではないだろうか。

 

「……どうだかね……まあいいや。それじゃあまず笹原さん、まずは何か作ってみてくれない?」

 

「えっ? いきなり作るの?」

 

「そう。料理を一度も作ったことがないのならともかく、今までに結構作ってるみたいだから、最初は笹原さんひとりだけで作ったものを食べて、そこからどこがどういいか、どう悪いかを判断したいんだ。もしかしたら、口出しする必要まったくないかもしれないしね」

 

「う、うん、分かったわ。頑張るわね」

 

 両手の拳をぐっと握りしめる彼女に、少しだけ噴き出してしまう。

 

「まあ、気楽にやってくれればいいよ」

 

「え、ええ。それじゃあ、何を作ればいいかな? 二階堂くんが食べたいものを作ろうと思うけど」

 

「サンドイッチ食ってからそこまで時間経ってないけど……じゃあ、ホットケーキをふたり分で」

 

「えっ、どうしてふたり分? お腹空いてるの?」

 

「笹原さんの分。ひとりで食ってもつまらん」

 

 例え試食であっても、ひとりよりふたりで食べる方がいいと思うし、それ以外にもその料理の味を共有できるので、指摘を理解しやすいという利点もある。とはいえ、俺は後者の言葉は口には出さなかった。

 

「あっ……うん。じゃあ、ちょっと待っててね」

 

 嬉しそうに微笑みながら、笹原さんはキッチンへと駆けていく。この光景を男子連中に見られたら、投石どころか機銃掃射されるかもしれないと、ぼんやり考えた。

 だが俺は、そんなことよりもはるかに恐ろしい事態に直面することに、この時はまだ気付いていなかった。

 

 

 

 

 

 

「お待たせ~」

 

 10分ほどして、笹原さんがキッチンから戻ってきた。

 しかし、不思議なことに菓子の焼ける匂いはせず、不快な臭いが漂っていた。例えるなら、化学薬品のような刺激臭に近かった。

 ゴトリという妙に重々しい音を立てて、それが乗った皿がテーブルに置かれる。それを見た俺は、自分の目を疑った。

 

「…………(あね)さん」

 

「……えっ? もしかして、私のこと?」

 

「……これは一体、何でしょうか?」

 

「……? ホットケーキだけど、どこかおかしいかしら?」

 

 化学薬品のような刺激臭、禍々しさすらうかがえるピンク色、地獄の底の瘴気のようなどす黒いオーラ。

 彼女が『ホットケーキ』と呼んだ物体は、この世に存在してはいけない、異形の物質としか思えなかった。

 

 

 

 

 ――どこが、ホットケーキなんだよぉぉぉぉぉ!

 

 

 

 

 おかしいだろ! 何でこんな臭いがするんだよ!

 おかしいだろ! 何を使ったらこんなピンク色になるんだよ! 食紅使ったってこうはならねえよ!

 おかしいだろ! このどす黒いオーラは何なんだよ! 悪魔の卵かよ!

 

「…………」

 

 テーブル上のホットケーキのような……いや、『ような』ですらない『何か』を、俺は大量の脂汗をダラダラと流し、無言で――内心では、突っ込みを入れまくっていたが――眺めていた。

 

「に、二階堂くん、どうしたの? すごい汗よ? お腹でも痛くなった?」

 

 そんな俺の姿に、笹原さんはかなり心配した様子で尋ねてくる。

 

 ――俺の心配なんかしなくていい! テーブルにある『それ』を疑うのが先だろうがぁぁぁぁぁ!

 

 笹原さんは、この『何か』を微塵も変なものだと思っていないのだろうか。

 いや、それとも俺がおかしいのか?

 

 ――そんなわけ、あってたまるかぁぁぁぁぁっ!

 

「……大丈夫? 食べられそうにないなら、無理しなくてもいいのよ?」

 

 いかん、このままでは埒が明かない。笹原さんの悲しそうな表情も加わり、この状況を脱却する義務が俺には課せられていた。

 グビリと唾を飲み込み、相変わらず禍々しいオーラを出している『何か』を俺は見つめる。俺に課せられた義務というのは、つまりこれを食べることであった。

 『おら、食ってみろよ』という声が、それから聞こえたような気がした。

 本当は即刻ここから走って逃げたかったが、笹原さんにああ言った手前、そんなことをするわけにはいかなかった。

 

『どうか、死にませんように』と、生涯初めて俺は神に祈りを捧げ、覚悟を決めた。だが、俺だけがこれを食うわけにはいかない。

 

「……笹原さん、良かったら同時に食わない?」

 

「えっ、どうして?」

 

「いや、そっちの方が雰囲気的にもいいからさぁ……はっはっは……」

 

 引きつった笑みを浮かべながら、まるで理由になっていない言葉をのたまう。

 だが俺は、死なばもろともというつもりで笹原さんに『同時に食おう』と言ったわけではない。恐らくこれは、うまいということは断じてあり得ないだろう。食ったら確実にやばいことになるのは目に見えている。

 だからこそこれは俺だけが食うわけにはいかない。彼女にも食べてもらい、どこがどう悪いかをよく理解してもらう必要があるのだ。しかしながら、これで彼女が『おいしい』と言ってしまえばもうおしまいだ。俺に出来ることなど何ひとつない。だが、そうなることはないと思う……というか、そうであってくれ!

 

「え、ええ。分かったわ」

 

 俺の言葉に笹原さんは、首を傾げながらも同意して、テーブルに置いてあるかごからフォークとナイフを取り出した。俺もそれにならってフォークとナイフを取る。

 

「…………」

 

 そして俺は、無言で『何か』を一口大に切り、フォークで刺す。笹原さんもフォークに刺したことを確認する。

 

「よし、笹原さん。3、2、1で食おう。いい?」

 

 確認したところで俺は念を押すように笹原さんに告げる。俺が先でも、彼女が先でもない。絶対に同時に食わなければならない。

 

「う、うん」

 

 頷き、『何か』が刺さったフォークを口元へ運んだのを見た俺は、一度深く深呼吸をする。

 さあ行こう、未知の領域へ。

 

「じゃあ行くよ……3、2、1」

 

 その合図と同時に、俺と笹原さんは『何か』を口内へと放り込み、すかさず咀嚼する。

 

 ――よし、笹原さんも噛んでるな。これなら大丈…………

 

「……うぐっ!?」

 

 下を向いていた視線を正面にずらし、彼女が『何か』を咀嚼している姿を目に入れた瞬間、猛烈な吐き気が俺を襲った。

 すかさず俺は立ち上がり、断りを入れる間もなく店内のトイレに駆け込む。蓋と便座を上げ、便器と対面した俺は――――。

 

 

 

 

「ヴォエェェェェェェェェェェェェ!!!!」

 

 口内と、若干食道にあった『何か』を、全て便器にぶちまけたのだった。

 

 

 

 

 

 

 身体がふらつくのを気力でこらえながら、俺はトイレをあとにし、席へと戻った。

 壁の時計に目をやると、トイレに駆け込んでから出るまでに経過した時間は10分程度だったが、そんな短時間にも関わらず、トイレには数時間いたような気分だった。満身創痍の状態で戻ると、笹原さんがぐったりとテーブルに突っ伏していた。

 

 良かった。笹原さんにとっても、あれはやばいものだったみたいだ。

 彼女には大変失礼ながら、その状態を見た俺は安堵してしまった。

 

「笹原さん……大丈夫……?」

 

 声をかけると、彼女は極めてゆっくりした動作で頭を上げ、俺の方を向く。

 

「う、うん……何とか……二階堂くんは……?」

 

「大丈夫って言いたいところだけど、さっきの音、聞いたでしょ?」

 

「え、ええ……」

 

 ちなみに吐き戻したのは『何か』だけで、その前に食べたサンドイッチとコーヒーは、気力で胃の中に押し戻した。彼らに罪はない。それどころか、それらまで吐き戻すような真似をすれば、『よくもあんなものと一緒に吐き出しやがったな』と、呪われるかもしれない。

 

「感想の前にひとつ聞きたいんだけど、笹原さんって、自分の作った物を自分で食べたことってある?」

 

「う~ん、そういえば、なかったような気がするわ……」

 

「なるほどね……」

 

 味見という作業は、人に料理を作る際には欠かせないものだ。まあ、この『何か』の味は、それどころの話ではないのだが。もっとも、彼女が一度でも味見をしたことがあるのなら、このような事態は避けられたかもしれない。

 

「追い打ちかけることになっちゃうかもしれないけど、率直な感想を言わせてもらうわ……」

 

「……」

 

「はっきり言って、美味いとか不味いとか以前の問題だよ。かなりやばい。このままの状態で店に出したら、それ以上の問題になっちゃうと思う」

 

「ううっ……」

 

 涙目になる笹原さんを見て、計り知れない罪悪感が湧く。

 もちろん、このままこき下ろして終わり、ということにはしない。駄目出しには、余程のことがない限りは何らかのフォローが大切だ。

 

「だから、アタシが笹原さんに料理教えちゃるわ。基礎から応用まで、徹底的にね」

 

「……えっ?」

 

 下手なら、上手くなるようにすればいいだけだ。笹原さんに頼まれた時は、正直なところあまりやる気はなかったのだが、前言撤回だ。

 

「でも、上手くできるようになるかしら……? このホットケーキ、すごく不味かったんでしょ……?」

 

「大丈夫よ。アタシは料理のプロなのよ? アタシにかかれば笹原さんも同じくらい――いや、それ以上に上手くなるわ。任しときなさい」

 

 俺は今まで、このような調子に乗った発言をすることはなかった。だが、やたらと上昇したモチベーションから、そう言わずにはいられなかったのだった。

 

「で、でも、スパルタなのはちょっと……。できれば、優しく教えてほしいかな」

 

「その点は心配ご無用。というかスパルタとか大嫌いだしね。でも、しっかり作れるようになるまでずっと教えるわよ。どんなに時間かけてもね」

 

「……うんっ、分かった。それじゃあ、よろしくお願いします、先生!」

 

 彼女は椅子から立ち上がって、俺に向かって深くお辞儀をした。表情もさっきとは打って変わって活き活きとしたものになっている。

 その気概があれば、絶対に誰もが『美味い』と言える料理を作れるようになるだろう。俺も教えがいがあるというものだ。

 

 

 

 

 かくして俺は、笹原さんの店で働くことになり、加えて彼女への料理の指導を行うことになった。これじゃあ、ばれた時に機銃掃射どころか消し炭にされそうだ。

 

 

 

 

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