「ひどい顔色……ご気分が悪いのですか?」
こちらへ振り向き、手を伸ばしてくる女性。紅は咄嗟にミュウの手を握り締めて上体を反らしつつも眼だけはその女から逸らしはしなかった。
――― アルテマティアッ!!
(見つけた)(狩れ)(好機!)(待て)(クリムゾン)(いない)(なぜこんな所に)(キメラ)(単独で挑むな)(ゴーレム)(むこうも一人)(スライム)(一対一)(なら勝てる)(本当に?)(ゴキブンガワルイノデスカ)(どういう意味?)(ネビュリム)(敵意を感じない)(未来と同じ)(ここは街中だ)(迷っている)(迷いながら戦うのはマズイ)(ミュウを遠くへ)(子供を連れている)(シアはどこだ?)(早く)(あの子供ナニ?)(殺せ)(なぜ迷う?)(気味が悪い)(ハジメ)(待て)(一度狩ってる!)(だがオレは未来のオレとは違)(関係ない!! 決断をッ!!!)
吹き出る汗の量は増加し、吐き気も込み上げてくる。嫌悪感から思わずミュウの手を握りしめているが、街中での戦闘は避けなければならない。
だがようやく見つけた怨敵を、易々と見逃すことだけはできない。
人の多い場所。傍らにいるミュウ。決断を降せず、心中には迷いが生じている。戦うにしろ逃げるにしろ、それだけは絶対に避けなければならなかった。
(マズい。マズいマズいマズいマズ───)
「お兄ちゃん、もしかして人混みに酔ったの?」
思考が澱み、音も遠くなってきた紅の耳にミュウの愛らしい声が届く。
心配そうな声と手から伝わる体温を感じ、正気に戻れた。
「人混みに? そういうことがあるんですか?」
「うん! ママも昔はよく酔ったって言ってたの! 少し休めば治るの!」
「まあ、フフ。物知りですね」
(ミュウ……)
ミュウは紅の事情を知らない。自分が殺したくて仕方ない敵が目の前の女だと、知るはずがない。
これは純粋に紅を心配しての言葉。嘘も計算も駆け引きもない、純粋無垢な子供の善意。それも相まってアルテマティアはこちらを一切警戒していなかった。
どちらにせよ好機。仕切り直すなら今しかない。
「……そう、オレは、そうなので、お気に
「お兄ちゃん、噛んでるの……」
ミュウのツッコミに詰まる紅だが、おかげで大分冷静になることができた。
(……決めた、今は戦わない。何事もなくこの場を離れる。今戦うのはリスクが高すぎる。一度立て直さなくては………それで、いいはずだ。それが正しい判断だ……)
今は条件が悪すぎる。今優先すべきことはミュウの離脱。翼の王がいる以上、この街のどこにいても安全とは言えないが、仮に戦うとするならそれはこの町の人間を避難させてからだ。
そうしなければ戦闘の余波だけでどれだけの死者が出ることになるか───。
「人に酔う……なるほど、そういうこともあるのですね。早とちりししてごめんなさい。ですが無理はなさらないで」
そう微笑んで謝罪をする女。やはり何度見ても間違いない。ずっと追い続けていた敵。翼の血族の第一位階、竜の神より『王』の称号を与えられた翼の王・アルテマティアだ。
未来の世界でトータスの人間やクラスメイトを大量虐殺してのけたくせに、いつも優しい言葉を投げかけてくる。その矛盾、常識とのズレが酷く気持ち悪い。
「お二人はその……兄妹、というわけではありませんよね? 種族も違いますし」
「ミュウはお兄ちゃんたちとデート?なの! でもシアお姉ちゃんが迷子になっちゃったの……」
「まあ。ではあなた方も人探しの途中でしたか。それはお忙しい所をお声掛けしてごめんなさい」
ミュウとアルテマティアが楽しそうに談笑している中、冷や汗を流しながらどうやって離脱するか考えていると男の子が不満そうな顔でアルテマティアの手を引っ張った。
「あらごめんなさい、すっかり話し込んでしまいました。実を言うとわたくしもこの子の親御さんを探しているところなんです」
「みゅ? ふたりは姉弟じゃないの?」
「ええ。迷子になっているのを見つけて、それから一緒に……ね?」
「ボク迷子じゃないよ! お母さんの方が迷子だもん!」
「あらあら。それじゃあ早く見つけてあげないといけませんね」
そんな仲睦まじい光景を前にミュウは「ほぇ……」と声を漏らす。しかしその横で紅は無意識に震える手を強く握りしめた。
「……なんでだ?」
そんな疑問の声が紅の口から漏れ出す。理性が『やめろ』『聞くな』と警報を鳴らしているにも関わらず、紅の口は止まることなく動き続けた。
「なんでその子に、親切にするんだ?」
「? 人に親切にするのに理由が必要でしょうか?」
心底不思議だと言いたげな表情で首を傾げる。その様に全身をゾッと過去最大級の悪寒が走る。
恐怖。この世界に来て、最大の恐怖が全身を支配した。嫌な汗が吹き出し、血の気が引いていくのを自覚する。
「……行こう、ミュウ」
「? はいなの」
「あ、お待ちください!」
ミュウの手を引っ張って少々強引にその場を離れようとする。しかしそれより一瞬早く女に袖を掴まれた。
「申し訳ございません、わたくし達以前どこかでお会いしたことがありませんか……?」
「───ない。では」
「お兄ちゃん。挨拶は相手の目を見てしなさいってママがいつも言ってるの……」
不自然に脈動する鼓動を聞きながらミュウとともにその場を離れようとした。その時だった。
「ゼェ……ゼェ……あ、アルテマティア様! よかった、ようやく見つけた……」
「ネビュリムさん?」
人ごみの中を掻き分けて、黒髪の少年がヒョコッと目の前に現れたのだ。
「ッ……」
ネビュリムと呼ばれた少年は息を切らしながら紅達の横を通り過ぎ、アルテマティアの正面に辿り着くと膝に手を付いた。
「気が付けば姿が見えなくなっていたので町中走り回ってたんですよ!? 何かあったらと思うと気が気でなくて……!」
「まぁ、それは苦労をおかけしましたね。申し訳ございません……」
「い、いいいいえ! こちらこそ護衛なのに仕事を疎かにしてしまって……!───それより」
空気が変わった。
ネビュリムの視線がアルテマティアから紅へと移る。紅は内心で舌打ちを零した。
「あれは誰ですか? 一介の冒険者、という風には見えませんが」
この時代のネビュリムは未来とは違って位階は低い。だがそれは侮って良い相手という事にはならない。
ネビュリムの視線が背中越しに突き刺さる中、紅は静かに腰の剣へ手を伸ばす。
「ネビュリムさん、その方にはわたくしの方から声をかけたのですよ? ご気分が悪そうだったのでつい……。人ごみに酔われたそうです」
しかしアルテマティアは肩に手を置いて諭すように語りかけた。ネビュリムは血族の中でも特にアルテマティアを崇拝している。だからか、ネビュリムは何も疑うこともなく彼女の言葉を飲みこんだ。
「人ごみに酔う……なるほど、そういうこともあるんですね。どうりでさっきから気分が悪オエエエエエェェェッ」
「ネビュリムさん!?」
突如盛大に嘔吐し始めたネビュリムにアルテマティアが悲鳴を上げた。とうとう我慢できなくなったのか、ネビュリムは膝から崩れ落ちてさらに胃の中身みを路上に撒き散らしていく。
「もうじわげありまぜん……うぷっ……人が多ずぎて気持ち悪いです……」
「あなたもですか!? どうしましょう少しでも人が少ない場所に……あら?」
少しでも気分が良くなるよう背中を擦っていると、ふと目の前にいたはずの紅とミュウが姿を消している事に気が付いた。
「いつの間に行ってしまわれたのかしら……」
◇
隙をついてアルテマティアから離れた紅は、ミュウを抱き上げて適当な路地裏へと避難した。
「ッ、ふぅ……」
これだけ離れても汗が止まらない。心臓も不規則に鳴り響いている。ようやく怨敵である竜王を発見できたというのに情けないなと自嘲気味に笑みを浮かべた。
「お兄ちゃん大丈夫……?」
「……ああ、心配ない。一刻も早くシアを探そう。ハジメ達もこの町から遠ざけないと」
まさかこんな場所で遭遇するとは夢にも思わなかった。未来の記憶ではハジメによる神殺しが為されるまで目立った動きはなかったはず。だがこの町にくるまでにもすでに四体もの血族を狩ってきた。しまいには竜王まで……。
『オレは正しい判断をしたのか?』
ふと、自分に問いかける。
もし仮に、今ここに居るのが未来の紅だったのなら迷わず戦っていただろう。だがその迷いのなさがいつだっていい結果に繋がっていたかといえばそうでもない。護りたいもの、護るべきものを失い続けた未来の紅とは違って、今ここに居る紅はまだ何も失っていない。故に怒りに狂わず冷静な行動ができた。
(気持ち悪い───)
ではこれは正しい判断だったのか? 未来の自分は怒りに狂って最強の力を手に入れた。だが既に強さを得ている自分に怒りは必要ない。
(気持ち悪い───)
実際すぐ近くにネビュリムがいた。彼奴は血族としての位階は低いが、単純な才能だけなら群を抜いている。決して侮って良い相手ではない。一度退くのは正しい判断だ。
なのに。
(人ごみなんかじゃない。アルテマティアとも違う。オレ自身から感じるこの気持ち悪さは何だ!?)
思わず服の上から胸元を握り締める。ミュウは様子のおかしい紅を心配してか服の裾を握っていた。
その時だ。
「あ~! ようやく見つけましたよ紅さん! ミュウちゃん! もうっ折角のデートなのに私を置いてどこに行ってたんですか!」
ウサミミをピコピコと揺らして人影が元気に駆け寄ってきた。
「あ、シアお姉ちゃん!」
「シア……」
ずっと探していた目当ての人物が現れたことに一息つく。そんな紅の様子を疑問に思ったのか、シアは駆け寄ると首を傾げた。
「どうかしたんですか? なんだか顔色が悪いですよ」
「……シア、合流して早々だが頼みがある」
「むっ。今日は私へのご褒美のはずでは!? まだ全然デートらしいこと出来てないんですけど!」
「頼む。今はお前だけが頼りなんだ」
ぷんぷんっ、と私怒ってますアピールをするシアの手を掴む。流石に冗談ではない空気を察したのか、シアはおずおずと頷いた。
「今すぐ念話石でハジメ達と連絡を取ってミュウと一緒に合流しろ。そしてイルワ支部長にも連絡してくれ。内容は『フューレンにいる全ての人間の避難』だ。一秒でも早く、一センチでも遠くに逃げるようハジメ達にも伝えてくれ」
「……えっ? ち、ちょっと待ってください!」
伝えるべきことを早口で喋ると紅はその場を後にしようとした。だが当然シアは納得がいくはずもない。
「町民を全員避難ってどういうことですか! 何があったのかちゃんと説明してください!」
「そんな時間はない!!」
しつこく食い下がってくるシアに思わず怒鳴り返してしまった。突然の怒声にミュウは肩をビクッ、と震わせる。
「……ごめん、けど本当に時間がないんだ。だから今すぐにこの町から離れて欲しい」
「……それは、例の血族とかいうのが関係してますか?」
シアの質問に対して、紅は何も答えなかった。沈黙こそが回答であると言わんばかりに。
「関係、してるんですね。それも既にこのフューレンの中にいる。だからあなたは私たちをこの町から遠ざけようとしている」
「……そうだ。わかったら早く───」
「だったら私も一緒に戦います!」
シアの声が路地裏に木霊する。それを聞いた紅は僅かに顔を顰めた。
「私だって強くなってるんです! ハジメさんやユエさんだってそうです! もうこれ以上無理に一人で戦おうとしないでください!」
この話を切り出した時、こうなることは簡単に想像できた。だから詳しいことを説明せずに済めばと思ったのだ。
ウルの町で期待していると言った言葉に嘘はない。だがそれは今ではない。
協力してどうにかなるような相手ならこんな苦労はしないのだ。
「今ならティオさんもいます! どんな相手だって私達なら絶対」
「無理だ」
故に、紅はシアの言葉を斬り捨てた。
「今この町にいるのはそんな簡単な奴じゃない。オレも全力で戦わなければならない相手だ。はっきり言ってハジメ達がいると邪魔になる」
仮に、ここに居たのが他の上位竜ならそれでもよかっただろう。第四位階以下ならば今のハジメ達でもやりようによっては勝てる可能性がある。
だがそれ以上は無理だ。第三位階は既に狩っているが、第二・第一位階は理外の存在。翼の王の戦闘力はそれほど高くないとはいえ、対抗策を作るにはあまりにも時間が足りない。
「そもそも戦闘になるか定かじゃない。ただ、もし仮に奴らが暴れ始めたらどれだけの被害になるのか想像がつかないんだ」
ここでの戦闘はリスクが高すぎる。だがようやく見つけた敵を易々と見逃すわけにもいかない。
今まで遭遇してきた上位竜とは全く違う。もし戦うのならそれは確実に殺せる準備を整えてからだ。
シアがスカートを力強く握りしめて俯いている。少しばかり罪悪感が湧いたが、紅の旅の目的は最初に伝えている。
「……危険なことはしないでくださいね」
「……悪い、この埋め合わせは必ずする」
そう言って紅は一人で表通りの人ごみに入って行った。人の流れを掻き分ける様にスイスイと遠ざかり、あっという間に見えなくなる。
「シアお姉ちゃん……」
「……大丈夫ですよミュウちゃん。すぐにハジメさん達と合流しましょう」
ミュウの手前、シアは弱音を吐くことはしなかった。
だが隣に立つことはおろか、足手纏いだと言われたことにシアは悔しさを感じていた。
(強くなりたい……)
生まれながらに魔力を持ち、本来はあり得ない青みがかった白髪だったことから同族からは『化物』だと蔑まれていた。その末に同じように魔力の直接操作を行えるハジメやユエ、そして自身と同じ異端児でありながらその逆境を跳ね除けていた紅と出会い、化物で良かったと初めて心から笑えた。
だけど足りない。
甘えていたのかもしれない。大迷宮を攻略し、少しは強くなれたと、隣に並び立てたと思っていた。だがその背中は未だはるか遠くにある。
もっと強くならないと並べない。もっと強くならないとあの人を守れない。そうしなければ自分は一体何のためにこの旅についてきたのか。
「……今はまだ届かないかもしれません。だけど必ずそこに辿り着いて見せます。だから───」
どうかご無事で。
もはや声は届かない。けれどシアはそう祈らずにはいられなかった。
シア達と別れた紅はすぐにアルテマティアと遭遇した場所へと戻った。だがそこにはもう彼女等の影はない。人探しをしていると言っていたため移動するのは当然だろう。だがそれほど遠くへは行っていないはずだ。
(……いた)
数分ほど捜索すると広場に件の二人がいた。
アルテマティアとネビュリム。その視線の先には迷子になっていたという少年とその母親らしき女性。どうやら人探しは終わったらしい。
紅との距離はおよそ10m。この距離ならばそうそう気付かれたりしないだろう。
少なくとも町民の避難が済むまで奴らが何か仕出かさないか監視する必要があった。
「ありがとうございます、ネビュリムさん。気分が悪いにもかかわらずわたくしの我儘を聞いていただいて」
「とっととととんでもないです!! ア、アルテマティア様の優しさの一助になれることは光栄なこと……ですのでっ!」
離れていく母子に手を振りながらアルテマティアは視線を少し下げた。
「わたくしは優しくありませんよ。これはただの自己満足ですから……」
「───アルテマティア様はお優しいです!! 救っていただいた僕が言うんだから間違いありません!!」
突然の大声に、周囲の人たちが驚いて振り返る。その視線に気が付いたネビュリムは顔を真っ赤に染めておどおどと俯いた。
「も、ももも申し訳ございません出過ぎたことを……」
「……いいえ、ありがとうネビュリムさん。少なくともあなたにとってわたくしの行動は自己満足ではなかったのですね」
『はぅ~』とあたふたしているネビュリムと、そんな様子を微笑ましく見つめているアルテマティア。この光景を何も知らない第三者が見れば可愛らしい姉弟に見えるかもしれない。
だがあれらがそんな可愛い存在ではないことを知っている紅は、じんわりと滲む汗を服で拭った。
しかし紅の視線の先で、先ほどまで顔を真っ赤にしていたネビュリムが突然真剣な表情を浮かべた。
「それとご報告が。───第十三位階、バロム・シュエラとの連絡が途絶えたそうです」
「ッ……………それは」
「はい。おそらく、トロワさん達を殺した者と同じ可能性が高いかと……」
ネビュリムの言葉にアルテマティアは息を呑む。そしてそれは遠くから聞き耳を立てていた紅も同じだった。
バロム・シュエラの名前は憶えている。ウルの町で現れた『成りかけ』のことだ。
バロム・シュエラもディザス・トロワも殺したのは紅だ。そういう意味ではネビュリムの推測は当たっている。
少し派手に動きすぎたか、と内心で舌打ちを零した。
「ウルの町、ですか……ここからそう離れてはいませんね」
「はい。敵の正体も分からない以上、やはり早々に帰還した方がいいかと。また、ゾラさんの方ももう数日で準備が整うそうです。完了次第『神山』を墜としに行くと」
(なっ───!?)
今度こそ、紅の内心を動揺が埋め尽くした。
あの駄竜は今何と言った? 神山を墜とす? あの場所はクソ神、牽いては神教教会の総本山だ。それを攻撃するということはこの世界の殆どの人間を敵にまわすことと同義だ。
彼ら血族の目的が神殺しである以上、むしろ今までどうして神山を攻撃しなかったのかと疑問に思うかもしれないが、それは血主であるアルテマティアの我儘というのが大きい。目的は竜の神を
未来の世界では神が死んだ後にトータスの人間へ攻撃を開始していたが、とある協力者によるとそれには別の理由があったらしい。それがどういう理由なのか微塵も興味はないが、少なくともそれまで血族が歴史の表側に出てきたことはなかった。
なにより神山を攻撃するということは、ハイリヒ王国へ攻め入るということ。クソ神の影響下にあるとはいえ、多くの人々が生活を営むあの国に。クラスメイトたちもいるあの国に。
なぜ、どうしてこのタイミングでそんなことを……。
「……そうですか。あまり気は進みませんが、いつまでもわたくしの我儘を押し通すわけにもいきませんしね。それに神エヒトのお膝元である神山とハイリヒ王国を攻撃すれば、謎の敵の正体が少なくとも神側か否かは判断ができる様になります」
「はい。……あの、アルテマティア様の気が進まないのであれば王国民を僕の結界で消滅させることもできますが……」
つまり、こいつらは紅を炙り出すためだけにハイリヒ王国を、神山を攻撃するというのだ。仮に紅が現れないのであれば神側、つまり人間族に与する者ではないということになる。何の情報もない『正体不明』から多少は前進することができるだろう。
(そんな……そんなくだらない事のために……!)
わざわざそれだけのために戦争をしかけるのか。歴史から消えるほど長い間表に出てこなかった血族が。
ただ、
グッ、と足を動かそうとする。しかし紅の足はまるで地面にくっ付いたかのようにびくともしない。無論、物理的にくっ付いているわけではない。足を踏み出すことを躊躇った理由を、自分の中に渦巻く気持ち悪さの理由を紅は悟った。
「……いいえ、わたくしはわたくしの名の下にゾラさんたちを送り出しました。その選択による結末を受け入れる覚悟は出来ているつもりです。───ではそろそろ帰りましょうかネビュリムさん。持ち場を離れすぎていたら先生に怒られてしまいそうです」
ネビュリムの気づかいを嬉しく思いながらアルテマティアは振り返った。
「───やり直しがしたい」
振り返った先にはネビュリムともう一人、先ほど立ち去った人間の男がいた。
「あら? あなたは先ほどの……あの子なら無事、ご家族の元へ帰りましたよ?」
「
「? 人ごみではなかったのですか?」
「さっきオレは、冷静になって戦いを避けたわけじゃなかった。怖気づいたんだ」
相変わらずの意味不明さに心底恐怖した。託された力を満足に使えない自分自身に心底苛立った。
「判断が正しかったかどうかじゃないんだ。オレは冷静なフリで自分を誤魔化して退いた。それが気持ち悪さの原因だ」
あれだけ怒って。
『もう一度狩る! あいつが何かする前に! この先、失われるはずのものを守る! オレにはそれができるはずだ!!』
あれだけ覚悟を口にしておいて。
『〝翼の王〟を狩る。もう一度、あいつが何かをする前に。この先失われるはずのものを守る。それが最強の力を与えられたオレの使命だ』
『オレはここに誓う。解放者ミレディ・ライセン、未来のオレと共に戦った貴女に。この時代でもう一度翼の血族を滅ぼすと』
「オレは自分が恥ずかしい……ッ!」
「ごめんなさい……おっしゃっていることが今一つ分からないのですが…………………ネビュリムさん?」
違和感。先ほどまで人混みに酔っていた筈のネビュリムが微動だにしていない。
するとピシッという音と共にネビュリムの顔にひびが入る。そしてぐらりと身体が重力に従って倒れ────砕けた。
―――─ごめんハジメ、シア。オレ、やっぱり不器用だから
「今ここでなりふりかまわず挑まなかったら! 竜を滅ぼすって〝誓い〟も〝覚悟〟も全部がゴミになる!!」
―――─こんなやり方しか、できそうにない。
ガシャーン!と音を立てて、年端もいかない少年が文字通り砕けた。どう見ても死んでいる。街中で起きた異常な光景に周りの人間は理解が追い付いていない。
だが……
「……そう、あなたがわたくし達の
―――
竜の神より与えられし『王』の称号は伊達ではない。紅の右手には銀気がほとばしる一本の剣。その足元には全身が砕け、地に伏すネビュリムの死体。その光景に衝撃が走るもすぐに切替え、自身が持つ最強の魔法を行使する。
―――
だが魔法が発動することはなかった。紅の振るった銀剣が、アルテマティアの肉体を斬り刻んだからだ。
バラバラと崩れ落ちていく肉塊。いかな『竜王』といえどこれほど細かく刻まれれば死ぬ。現に今目の前にいるアルテマティアは確かに死んでいた。
だがそう簡単に終わるのなら何の苦労もありはしない。
―――
崩れ落ちていくアルテマティアの肉体が停止し、まるでビデオの逆再生のように巻き戻っていく。
0.59秒経過。肉体の崩壊が停止し、巻き戻しが始まる。紅は剣を地面に突き刺し、鞘をベルトごと外しコートを脱いだ。
0.66秒。下半身の再生が完了。腕部の再生もじきに終了する。
1.02秒。脱いだコートを腰に巻き付け、強く締める。
1.97秒。アルテマティアの肉体再生が完了。今一度魔法を行使した。
――― 世界よ、静止
だがそれよりも迅く、紅の拳がアルテマティアの顔面を粉砕した。
銀気闘法。体内で爆発的に生成した銀気を放出しながら振り抜いた拳は当然のように音速を超え『ドゴオオオォォォン!!!』と音を立てて再生したばかりの身体は砕けながら吹き飛んでいった。
だが、その瞬間〝巻き戻し〟は発動を再開した。
「キャッ!」
「うわぁ!!」
「なんだ!?」
フューレンの住民たちが恐怖で逃げていく。だが怪我を負った者は一人もいない。
「何度でも巻き戻せ」
突き刺していた銀剣を引き抜き、いまだ再生が終わっていない竜王目掛けて投擲する。投げつけた剣は一直線に頭部へと向かい───
「その度に殺す」
辺りの地面ごと、アルテマティアを爆散させた。
再び王を殺さんと、飛び散った瓦礫を踏み越える。
「死ね、翼の王。お前が人々のためにできる一番の〝優しさ〟は、ここで死ぬことだ」
身体から膨大な銀気と桁違いの殺気を放ちながら、〝死神〟は前へと足を進めた。
だからこそ
……………。
……………………。
…………………………ギロリッ。
こちらを睨みつける視線に気づかなかった。