オレは睡眠という行為が怖い。
死の記憶を悪夢として見るから──ではない。
だんだんと意識が薄れて体が冷たくなっていく、あの感覚を思い出してしまうからだ。
そんなことはないと頭で理解していても、心までは納得してはくれない。
その恐怖が形として現れたのが、あの悪夢だ。
死に近づいているからこそ、夢の中で死を追体験するのだろう。
重く閉じた瞳を開けると、見慣れて『ない』が見慣れて『いる』天井が視界に入ってきた。
スプリングがやけに硬い安物のベッド、薄汚れていて肌触りの悪いシーツ。そうだ、オレはこの場所を知っている。
「どうして、いまさらこんな夢を見る」
日本ではすっかり使うことのなくなったイタリア語が、すんなりと口から出た。
この場所の空気に当てられてしまったのだろうか。
慣れた手つきで窓を開けると、そこには酷く懐かしい風景が広がっていた。
一面に広がる青い海と、杜王町と比べるとひどく寂れているように見えてしまう町並み。
ここはオレの生まれ故郷、サルディニア島だ。
ベッドから降りると、わたしの足のサイズにあった靴が用意されていた。
夢なのだから都合がいいのは当たり前だが、なぜ
夢だからの一言で片付けてしまえばいいが、一度もこんな夢を見たことがなかったということは、今の姿にもなにか意味があるのだろうか。
……考えたところで、ここはわたしの記憶が創りだしたマヤカシの世界だ。どれだけ考えても答えなどわからないだろう。
外に出るために靴を取ろうとしたオレの視界に、コンクリートで塗り固められた床が飛び込んできた。
この床の下に、オレは何年も母親を閉じ込めていた。
声を出せないように口を縫いつけて、僅かな食料だけを与えてほんのちょっぴりだけ生かしていた。
恐る恐る、出入口に使っていた部分から中を覗き込む。
そこには暗闇が広がっているだけで、オレの母親の姿はどこにもなかった。
オレは思わずほっとして、大きなため息を吐いてしまった。
彼女がここにいなくてよかった。そう思ってしまったのだ。
これもオレが犯した罪の一つだというのに、無意識のうちに見たくないものに蓋をしようとしていた。過去から逃げようとしていたのだ。
オレは母親を愛していたのだろうか。それとも恨んでいたのだろうか。
今となっては、当時のオレが考えていたことはわからない。
一言では言い表せない愛情と憎悪、独占欲が混じった異質な感情だったということだけは覚えている。
あの女はオレのことを拒絶した。出所してきたあいつは実の子供にもかかわらず、オレのことを悪魔の子と罵ったのだ。
そこから先は覚えていない。気がついたらオレは彼女を自室の床下に監禁していた。
常軌を逸した行動だということは自覚している。
そんな環境で平然と日常生活を送れていたというのもおかしな話だ。
そういったオレの中の異常な部分が残り、残った人間的な部分がドッピオに引き継がれたのだろう。
古びた扉を開けて礼拝堂を通りぬけ屋外に出ると、そこにはオレが焼き払ったはずの町並みが広がっていた。
昔と比べると道幅が広く見えるのは、体が小さくなってしまったからだろうか。
しかし再現されているのは町並みだけで、人っ子一人歩いていない。
いつも見ている悪夢では、欠片も覚えていないような人間が山ほど出てくるというのに、こんなときにかぎって誰も出てこないとは、なんとも不便な夢だ。
無人となった町並みはオレの記憶しているものと寸分
夢の中でまで憂鬱な気分になるぐらいなら、さっさと目を覚ましてしまいたい。
「……目を覚ましたところで、なにが残っているというんだ」
オレは父親の敵討ちで承太郎や康一を襲ったが、結局のところは敗北してしまった。
その過程でオレは無関係の人間を傷つけた。オレは父に怪我をさせた吉良吉影という男と同じことをしでかしたのだ。
これからどうなるのかなど、深く考えなくともすぐにわかる。
問答無用で殺されるか、最低でも家族から切り離されSPW財団の施設に閉じ込められるだろう。
あの組織がどれだけのスタンド使いを抱え込んでいるかは推測しかできないが、もしかしたらオレの記憶を覗けるようなスタンド使いがいるかもしれない。
そうなった場合は、情報を引き出された上で殺されるだろう。
もしエピタフを使えるようになれば、オレを確実に仕留められるスタンド使いは限りなくゼロになる。
あの承太郎でも、逃げに徹したオレを殺すのは難しいはずだ。
道端にポツンと置かれていた木製のベンチに腰掛けて、空を流れていく雲を眺めながらそんなことを考えていると、視界の端になにかが入り込んできた。
動くものなど雲ぐらいしかないというのに、なにが動いたのかと気になって視線を下げると、それは逃げるように物陰に隠れてしまった。
ベンチから飛び降りてなにかがいた場所まで行ってみると、逃げるように背中を見せて走り去っていく少年の姿が見えた。
「待てッ!」
そいつの姿を見た瞬間、オレは思わず声を上げていた。
必死に追いかけるが、青年に差し掛かっているあいつには、とてもではないが追いつけない。
海に向かって走っているということは、おそらく『あそこ』に向かっているのだろう。ここで会うつもりはない、ということだろうか。
夢の中なのに息が上がってしまったオレは、肩で息をしながら走り去るアイツの姿を眺めることしかできなかった。
オレの住んでいた村は
有名な観光地やリゾートホテルからは少し離れていたが、毎年それなりの数の観光客がサマーバケーションに訪れていた。
その名の通り浅瀬にはエメラルドグリーンの海が広がっており、沖はわたしの瞳とよく似た深い蒼色の海となっている。
くっきりと境界が分かれているその様は、まるでオレの二面性を表しているかのようだった。
『彼女』との思い出の場所に辿り着くと、あいつは海岸沿いに設置されている石造りの長椅子に腰掛けて、オレが来るのを待っていた。
「待ってましたよ、
「……久しぶりだな、ドッピオ」
穴の空いた紫色のタートルネックを着込んだ青年になりかけの少年──ヴィネガー・ドッピオが微笑みかけてくる。
なんと答えるか迷ってしまったオレは、そっけなく返事を返すことしかできなかった。
「おまえは、あのとき消えたはずだ」
「ええ、そうですね。ぼくはドッピオ本人じゃあない。ボスの中に残った記憶が創りだした、ただの残りカスです」
ドッピオの魂はオレが死ぬよりも前に、あの世へと旅立った。
レクイエムによってあの死の無限回廊に送られたわけではないのだから、コイツがオレの知るドッピオではないことぐらいわかっている。
ドッピオはオレの正体が、自分の別人格だとは気がついていなかったはずだ。
それに今まで影も形もなかった人格が突然復活するなど、到底あり得ない話だ。
「つまり、おまえはオレが生み出した都合のいい存在ということか」
「それは違います。ぼくはヴィネガー・ドッピオであり、ボス自身でもある。ボスの指令に従うだけの操り人形じゃあない」
「……おまえがなにを言いたいのかサッパリわからない。おまえはオレを、ディアボロを否定したいのか?」
ズカズカとドッピオの正面まで歩み寄ったオレは、見上げながら睨みつけた。
なぜ夢の中で、自分自身に否定されなければならないのだ。
対するドッピオは返事も返さずに、腰を上げて海の方へと向かい古びた石碑に手をかけた。
彼女──ドナテラのポートレートを撮ったときも、同じように石碑に触れていた。
「ボスは彼女と共に過ごしていた頃のような、平穏な幸せが欲しいと願っている。それ自体は悪いことじゃあない」
「まるで、オレがなにか間違いを犯しているとでも言いたげな口ぶりだな」
オレは自然と自分の目付きが鋭くなるのを自覚した。
目の前に立っているコイツは、オレの知っているドッピオ本人ではない。妄想の産物にすぎないというのに、なぜか苛立ちすら感じている。
そんなオレの様子を見てもドッピオは一切動じない。
それどころか子供をなだめる親のような口調で、オレに言い聞かせるように続きの言葉を紡ぎだした。
「その通りです、ボス。あなたは昔からなにも変わっていない。結局のところ、追い求めていたものが『絶頂』から『平穏』に変わっただけだ」
「そんなことは──」
否定しようと思ったが、続きの言葉を口にすることができなかった。
オレの本質的な部分はなにも変わっていない。必要であればオレは殺人すら罪とは思わないだろう。
実際、オレは父に怪我を負わせた連中に暴力という形で復讐しようとした。
そのために人質をとるという作戦を使ったが、罪の意識など一切浮かんでこなかった。
オレから平穏を奪ったのだから、再起不能にされて当然だと考えていた。
『生き残るのは、この世の『真実』だけだ。真実から出た『誠の行動』は、決して滅びはしない。ブチャラティは死んだ、アバッキオも、ナランチャも……しかし彼らの行動や意志は、滅んではいない。彼らがこの『矢』をぼくに手渡してくれたんだ。
そして、おまえの行動が真実から出たものなのか……それともうわっ面だけの邪悪から出たものなのか? それはこれからわかる。
ふと脳裏にジョルノの喋っていた言葉が思い浮かんできた。
永遠に死に続ける前のオレは、絶頂という結果だけを追い求めていた。
そこには、なんの信念や思想も宿ってない。
しかし今は違う。少なくともわたしは自分の意志で、未来を視る力に頼らず行動を起こした。
その結果がどうであれ、わたしの行動には家族を守るという意志が宿っていた。
「そんなことは、ない。わたしが承太郎たちを襲撃したのは、復讐のためであり家族を危険から守るためだ! その結果が破滅であろうと後悔はしていないッ!」
無意識にわたしは震えた声で吠えていた。
結果がどうであれ、これはわたしが自分の意志で選んだ道だ。
レクイエムから解放されたわたしが、初めて自分の意志で歩みを進めたのだ。
わたしの行動が間違っているか間違っていないかなど関係ない。
死んだまま生きているぐらいなら、生きたまま死んだほうがマシに決まっている。
「あなたは『絶頂』を維持するためなら、なにも知らぬ無知な者を自分の利益のために平然と利用する人間だ。今のボスはそれが『平穏』に置き換わっただけなんじゃないですか?」
「それは違うな。わたしは地位や名誉など求めてはいない。現状の暮らしに満足している。平穏を邪魔する要因を排除することはあれど、利益のために利用する必要などない」
試すような挑発的な目つきでドッピオが見つめてくる。
しかし口にしている言葉は、わたしにとっては無意味な内容だ。
人というものは簡単には変われない。
あの終わりのない死の連鎖で帝王としてのプライドを砕かれたからといって、わたしの本質まではそう簡単には変化しない。
わたしは一切の悪意なく他人を利用できる外道だ。
ならば利用してやろうではないか。わたしの状況は正しく絶体絶命だが、完全に詰んでいるわけではない。
足掻けば現状を打開できる可能性は十分にあるはずだ。
考えがまとまったそのとき、ドッピオの体に異変が起き始めた。
なんと幽霊のように足元から徐々に体が消え始めたのだ。
ドッピオの体に触れようと手を伸ばすが、煙を掴むかのようにすり抜けてしまう。
「ドッピオ……?」
「ボス──いや、あなたのことは、なのはと呼ぶべきですね。なのは、そろそろこの夢も終わりです。最後に一つだけ、助言をさせてください」
表情を和らげたドッピオは、微笑を浮かべながら穏やかな口調で語りかけてきた。
まるでわたしの本心を聞けて安心したような、そんな表情を浮かべながら。
「あなたはもう独りじゃあない。もう少し、誰かを頼るということを覚えてください」
「……そんなこと、できるわけがない」
生まれてこの方、真に信用できる人間など自分以外には誰も居なかったわたしが、そんなことできるはずがない。
そんなわたしの情けない答えを聞いたドッピオは、困ったような笑みを浮かべながら最後の言葉を呟いた。
「まったく、しょうがない人ですね。なら、借りていたものをお返しします。これを使ってどうかうまくやってくださいよ。それでは、
「おい、待てッ! わたしはまだおまえに言いたいことが──」
わたしの口が最後まで言葉を紡ぐことはなかった。
喋っている途中で猛烈な睡魔が押し寄せ、体が言うことを聞かなくなったのだ。
最後に見えたのは、安心したような表情で風景に溶けていくドッピオの姿だった。