岩陰に身を潜めて『紙』から取り出した布を左足に巻き付けて止血をしているなのはをよそに、トリッシュはただただ呆然と立ち尽くしていた。
トリッシュは今までも暗殺チームにスタンド攻撃を受けたことはあるが、直接傷つけられた経験は一度もなかった。
自分の目で父親の正体を確かめたいという覚悟はあったが、トリッシュには暴力に抗うための強さがない。
スタンド使いに対抗できる手段もないトリッシュに、この場でできることなど何一つ残されていなかった。
怯えたまま動こうとしないトリッシュを後回しにして、リゾットはなのはにトドメを刺すために動いている。
完全に戦いの蚊帳の外に置かれているトリッシュは、情けなく後悔の言葉を呟いていた。
「あたしのせいだ……あたしが付いてこなければ、きっとこんなことにはならなかった。あたしが足を引っ張ったせいで……」
青ざめて汗を流しているトリッシュの思考が、どんどんマイナスの方向へ傾いていく。
もしこの場にトリッシュがいなかったとしても、リゾットはなのはを狙って現れただろう。
確かになのははトリッシュをいつでも守れるように動いていたが、それだけで状況が不利になったわけではない。
どちらにしてもリゾットは相性が悪いナランチャを真っ先に始末するために動いたはずだ。
自責の念にとらわれている彼女は、どうしても自分が悪いと考えてしまう。
そんな負の感情に飲まれかけていたトリッシュに声をかけるものがいた。
「イツマデ、ツッタッテイルツモリ? アナタニモ、デキルコトはアルハズデス」
「だ、誰……? 誰の声なのッ!?」
唐突に背後から聞こえてきた女性の声に驚いたトリッシュが振り返る。
慌てていて最初は気が付かなかったが、その声をトリッシュは知っていた。
歌手としてのトレーニングで自分を声を録音して聞く機会が多かったトリッシュにとって、とても馴染み深い声だった。
「ズット前カラ、ワタシはイマス。アナタが幼イ時カラ、イツモアナタのソバにイマシタ。
アナタはスデに『戦ウタメの武器』を手ニ入レテイル! アトは進ムダケデス。命令をシテクダサイ、ワタシに……」
「……この声は、あたしの声? そ、そこにいるのは……誰!?」
トリッシュの視線の先には、膝を抱えて岩の上に座っている女性のような姿の亜人がいた。
胴体とふくらはぎから下は赤色で網目模様が入っていて、残りの部分はピンク色という人としてはあり得ない色合いをした亜人──スタンドが、トリッシュに語りかけていたのだ。
「ワタシはアナタデス! サア……戦ウ『覚悟』ヲ決メタノナラ、ミスタとナランチャに近ヅイテクダサイ。マズハ、彼ラを助ケルノデス!」
「でも……近寄ったら、あいつの能力の射程距離内に入ってしまうのよッ! そんなことをしたら、今度こそ取り返しのつかないことに……」
「モウ一度言イイマスガ、ワタシはアナタナノデス。自分ヲ信ジテ前ニ進ムノデス。ソレニ……スデニ時間はアマリ残サレテイマセン」
スタンドの指差す先には地面に倒れて気を失っているナランチャとミスタがいる。
言われるがまま、目を凝らしたトリッシュは思わず叫びそうになった。
リゾットが首元に生成していたナイフが徐々に首に食い込み始めているのだ。
リゾットはなのはが時間を飛ばして射程距離外に逃げたと気がついて、人質は意味がないと判断したのだ。
距離が離れているので磁力操作は弱々しいが、それでも10秒もすれば頸動脈を傷つけてしまうだろう。
「……
自分しか二人を助けられないと気がついたトリッシュは、覚悟を決めて危険を
げるのではなく逆に近寄ってきたトリッシュに、透明になって様子を見ていたリゾットは顔には出さないが驚いている。
彼はトリッシュのことを、ただの一般人と大差ない相手だと考えていた。
一度殺されかければ恐怖に支配され動けなくなるか、我が身可愛さに逃げるだろうと予想していたが、ミスタとナランチャの下へ向かうとは思わなかったのだ。
「情報にはなかったが、トリッシュはすでにスタンド能力に目覚めていたのか。
だが無策にも前に出るとはな。いいだろう……ナノハより先に、おまえから再起不能になってもらうッ!」
トリッシュが動くのは計算外だったが、次なる攻撃のためのナイフは
本来はなのはを再起不能にするために用意していた攻撃がトリッシュへと襲いかかった。
トリッシュの背後では先程姿を現したばかりのスタンドがナイフを防ぐために拳を振るおうとしている。
そんなトリッシュの行動を見たなのはは、慌てて岩陰から足を引きずりながら声を荒げて止めに入ろうとした。
「やめろ、トリッシュ! そのまま進んだらナイフがおまえに当たるぞッ!」
「止マッテはイケナイ。ムシロ走リ続ケルノデス。敵の攻撃はワタシが全テ防ギマス」
なのははエピタフの予知で
いかにキング・クリムゾンが優れたスタンドといえども、足を負傷しているなのはでは時を飛ばしてもトリッシュには追いつけない。
なのはの言葉で足を止めかけたが、スタンドの後押しで覚悟を決めたトリッシュは逆に更に加速した。
しかし全力で走っても、鍛えてもいないただの少女の脚力などたかが知れている。
地面の鉄分によって作られたナイフが磁力操作によって凄まじい勢いで加速して、寸分違わずトリッシュの背中へと飛来する。
先ほどとは違い動いている相手なので一方向のみの攻撃だが、それでも防ぎ切るのは難しい。
トリッシュのスタンドが拳を振るうが、力ではなく速度を優先した殴打では弾き飛ばせないほどの攻撃だった。
拳こそ当たったが軌道を変えるには至らなかったナイフがトリッシュのスタンドをすり抜けて、弾丸のような速度で背骨の付近に直撃する。
スタンドはスタンドでしか攻撃できないというルールがある。
メタリカの能力で生み出した鉄製品は独立した物品で、セックス・ピストルズのようにスタンドパワーを帯びさせる能力は持っていない。
実体化しているスタンドでも、力負けしている物理的な攻撃は受け止められずにすり抜けてしまう。
無理やりスタンドの耐久度を超える物品を殴れば本体がダメージを受ける。
物質と同化していないスタンドはスタンド以外に対しては無敵だが、仁王立ちさせていれば本体を問答無用で守れるというわけではないのだ。
「あっけなかったが、これでトリッシュは動けないだろう。このままナランチャとミスタを始末して──ッ!?
な、なぜだ……
透明になっているためトリッシュとなのはには見えなかったが、脊髄を損傷させたと確信していたリゾットは驚きのあまり表情を歪めていた。
もっともトリッシュからしてみれば、背中に僅かに衝撃を受けたぐらいにしか感じていない。
トリッシュの背中に刺さったように見えたナイフは、まるでゴム製のオモチャのように硬さを失っていた。
いかに鋭い刃物でも、刃先が柔らかければ本来の切れ味は発揮できない。
エピタフの予知で見えた光景はこれだった。
刃先が柔らかくなり曲がったことで、なのはが見ていた予知の角度からは深々と突き刺さったように見えたのだ。
確実に当たるだろうと思っていた攻撃が不発に終わり、リゾットにはトリッシュの足を止める手立てがなくなった。
すでにトリッシュとなのはの体内の鉄分操作は開始しているが、出来上がるにはまだ時間がかかる。
時間を稼ぐために液体金属を使おうにも、あれは非常に高価な物品で協力者の男がいつの間にか調達していた物だ。
一回きりの罠として使える以上の量をリゾットは持ち合わせていなかった。
リゾットの妨害を乗り切って、なんとか二人の下に辿り着いたトリッシュだったが事態は好転しなかった。
二人の首の皮膚の下に作られたナイフは、すでに表皮を裂いて無理やり摘出できないほどの大きさになっていたのだ。
「ああ、クソッ! ナイフが大きすぎるわ。これじゃあ、無理やり動かしたら頸動脈を傷つけてしまう!」
「イイエ、モウ何モ心配はアリマセン。コレがアナタの能力ッ! 首に埋マッタ『ナイフ』を
悪態をついているトリッシュを遮って、スタンドが皮膚を僅かに突き破って両手の人差し指を使ってそれぞれのナイフに触れる。
すると見る見る間にナイフは液体のように柔らかくなり皮膚の裂け目からこぼれ落ちていった。
異物がめり込んでいたため出血こそしているが、失血死するほどの量は流れていない。
自分の行動で二人を助けることができたトリッシュは、ほっとして安堵のため息を漏らしている。
「あなたのおかげで二人を助けられたわ。ねえ、あなた……名前はあるの? あんたのこと、なんて呼べばいいの?」
「『スパイス・ガール』、ワタシのコトはソウ呼ンデクダサイ。
ソシテ、ムダ話をスル暇はアリマセン。トリッシュ、マダ戦イは終ワッテイマセン」
「トリッシュのスタンドの言うとおりだ。リゾットは今ここで始末しなければ大きな障害となる」
「ナ、ナノハッ!? 一体いつのまに移動していたの!?」
岩陰に隠れていたはずのなのはの声が背後から聞こえてきたことに驚いたトリッシュは、肩をびくっと震わせながら振り返った。
そこには岩に座って険しい表情で予知を見ながら周囲を警戒しているなのはがいた。
なのはは守りを固めるために時を飛ばしてトリッシュの背後まで移動していた。
最大時間の10秒を飛ばしたので勘が鋭いものはすぐに気がついてもおかしくないが、ナランチャたちを助けるのに集中していたトリッシュは時が飛んだのに気が付かなかった。
「さっきは助けてくれてありがとう……足は大丈夫なの?」
「わたしのほうこそ、予知を見間違えてしまってすまない。足は歩くだけならなんとかなるが……走ったり激しい動きをするのは厳しい。
そこでだ……トリッシュ、おまえのスタンド能力でわたしを援護してくれないか」
守るべき相手を頼らざるをえない状況に、なのはは複雑そうな顔をしながらもトリッシュにどう動くべきか作戦を伝えた。トリッシュは決意に満ちた眼差しで頷き返した。
待っていれば遅かれ早かれ時間が飛んだことに気がついた承太郎たちが現れるだろうが、それを見過ごすほどリゾットは甘くはないだろう。
リゾットに対抗するため、なのはは相手方に能力が知られていないであろうトリッシュに協力してもらうことにしたのだ。
その作戦はトリッシュが怪我をする可能性が高かったが、なのはだけで動いたとしても無傷でいられる確率は低い。
そもそもトリッシュが作戦に協力する義理などないのだが、不思議と彼女はなのはのことを『信頼』していた。
信じてくれと言われたわけではないが、彼女の行動は自分の身と心を案じてのものだとトリッシュは理解し始めていた。
時間を飛ばして逃げ出すことも十分可能なのに戦い続ける選択を選んだのは、トリッシュの『覚悟』を尊重しているからだ。
リゾットを取り逃がしたら姿の見えない死神に狙われ続けるようなものなので、この場で始末しようとしている打算的な理由もある。
だが比率としては、ナランチャたちを見殺しにしてトリッシュの心に影を落とさないように立ち回っているほうが大きい。
そんな彼女の不器用な感情をトリッシュは正確に読み取っていた。
よく分からない部分も多いが、
あるいは僅かながらに残っている魂の繋がりによる影響かもしれないが、これこそがトリッシュも自覚していなかったなのはを怪しまなかった感情の正体だ。
(ナノハがオレに攻撃を当てられたのは、こちらが立ち止まっていたからだ。
たとえ未来を読めて時間を飛ばせようが、こちらの位置をリアルタイムで把握できているわけではない。
あの怪我では、まともに動き回るのは不可能だろう。あとは近づかれないように、ひとつの場所に留まらずに常に立ち位置を変えていればいい。
優先すべきは……刃物による裂傷を無効化できるトリッシュの方からだッ!)
なのはの読みは正しく、リゾットはのんびりと尋問しながら戦うのをやめて、速攻でケリをつけてこの場から二人を連れ去るプランに切り替えていた。
エピタフの予知による位置の確認は厄介ではあるが、リゾットはなのはを射程距離のギリギリに入れていれば近寄る必要はない。
一方のなのはは距離を詰めるか遠距離攻撃をうまく当てるしかないが、どちらもリゾットは対策していた。
同じ攻撃を何度も食らうほどマヌケなら、リゾットは危険と隣り合わせだった暗殺チームでリーダーなど務められない。
先程は手痛い反撃を受けてしまったが遠近問わず多数のスタンド使いを暗殺してきたリゾットは対処法を心得ている。
リゾットは常になのはたちを視界内に入れながらも、射線を通さないように岩や地形を利用して移動していた。予知はなのはに有利な視点で見えるわけではない。
本体が目視していないとピンポイントの磁力操作ができないので効率は落ちるが、リゾットは安定性を選んだ。
トリッシュやなのはの体格なら、1回から2回ほど鉄分を集めてしまえば鉄欠乏性貧血を起こすとリゾットは今までの経験から把握している。
そして貧血にしてしまえば倦怠感やめまいで動けなくなる。
生成した鉄製品を柔らかくされたとしても鉄分が血中からなくなることに変わりはない。
負傷させて動けなくするのが難しくなっただけで、依然リゾットの有利は変わりないのだ。
「た、助けてッ! ブチャラティッ! あたしたちは敵に襲われているわ!」
あと数秒で鉄製品を肌の下に作り出す下準備が終わりそうになったそのとき、いきなりトリッシュが助けを求めて走り出しながら、やたらめったらにスタンドの拳を振りかざして攻撃をし始めた。
トリッシュのスタンド──スパイス・ガールはキング・クリムゾンと同じく近距離パワー型のスタンドだ。
射程距離は若干キング・クリムゾンより長く、全力で遠ざければ5メートルほど離れられる。
そのかわり離れれば離れるほどスペックが下がっていき、2メートル以内にいたとしても力や速さはキング・クリムゾンより劣っている。
メタリカは本体の体内に潜んでいる群体型スタンドなので、本体を防御できるスタンドのヴィジョンを持たない。
リゾットにとって防御できない近距離パワー型の相手は脅威ではあるが、当たらない攻撃に意味などない。
トリッシュがスタンドを自分から遠ざけて攻撃に回したのは明らかにミスであった。
「逃がすものかッ!」
「きゃあッ!?」
逃すまいとアキレス腱を切断するために、リゾットはトリッシュの右足首にハサミを作り出した。
急に足に異物が現れたトリッシュは踏ん張りが利かなくなり転んでしまった。
それを好機と見たリゾットは近づいて、一気に血中の鉄分を固めて意識を刈り取るために移動を開始した。
時間を飛ばすという圧倒的な能力を前に、リゾットは無意識ながらも焦っていたのだ。
普段なら冷静に判断していたであろう状況にもかかわらず、リゾットはトリッシュのスタンド能力を注意深く観察することなく動いてしまった。
なのはがボスと同じ能力の持ち主だと知ってしまったリゾットは、もしかしたら親衛隊には他人の姿を変えるスタンド使いが在籍していて、なのははボスが変装している姿なのかもしれないと最初は考えていた。
だが、それならトリッシュを早急に始末して行方をくらますはずだ。
そこまで考えたところで、リゾットはひとりのスタンド使いの存在を思い出した。
本名は不明でスタンドの姿しか知られていないが、その人物は裏社会で密かに語り継がれている。
その人物は、スタンド使いの能力と記憶を円盤にして抜き取ってしまうという都市伝説のような噂だけが独り歩きしていた。
その人物が関わっているとは思わないが、記憶を抜き取るという部分にリゾットは引っかかりを覚えたのだ。
スタンド能力は千差万別、誰にも予想もつかないような能力が存在しうる。
ならば、
基となる記憶が同じなら、同一のスタンド能力を持っていてもおかしくはない。
ボスは信頼できる部下を作るために自分の記憶を子供に転写したまではいいが、裏切られてしまったのではないかというSF映画のような結論に辿り着いていた。
自分自身でも半分はありえないと思っていたが、部分的にリゾットは真実に辿り着いていた。
「おまえは優秀な男だ。それこそパッショーネのボスを追い詰められるだけの可能性を持っていた。
おまえが『暗殺者』のままなら、わたしたちは勝てなかったかもしれない」
「……え? 一体……なに、が……?」
いつの間にか首が深く裂けて肩から胸にかけてスタンドの手刀で深くえぐられていたリゾットが、口元から血を垂らしながら途切れ途切れに問いかける。
時間が飛んだのは理解できる。だが、どうやって自分の位置を把握したのかリゾットには分からなかった。
血溜まりに沈んでいくリゾットは、冷酷ながらも敬意を感じられる目で自分を見下ろすなのはの顔を見上げながら思った。
ああ、自分の予想は間違っていた。この子供はボスではないと。
誤字脱字、表記のぶれ、おかしな日本語、展開の矛盾を指摘していただける国語の先生をお待ちしております。