夜凪景にとって石杖綱吉は、お母さんのような人であり、夜凪景が石杖綱吉を呼ぶ時は、名前でも名字でもなく「お母さん」と呼んでいた。
そんな石杖綱吉と高校の屋上で弁当を一緒に食べることが、夜凪景にとっては楽しみなことであり、互いにおかずを交換して食べている一時に、穏やかな幸せを感じていた夜凪景。
「このきんぴらごぼう凄く美味しい。お母さんの料理の腕が、更に上がっているような気がするわ」
自分の弁当箱に入れていたもやし炒めと交換し、手に入れた石杖綱吉作のきんぴらごぼうを食べながら夜凪景は感想を言う。
「弁当のおかずをよく交換するようになったから、美味しいと言ってもらえるようにはりきってるんだよ」
優しい笑みを浮かべて言った石杖綱吉の顔を見た夜凪景は「やっぱりお母さんは、お母さんね」と嬉しそうな顔で笑った。
「このもやし炒めも味付けがしっかりしていて美味しい。ご飯が進む」
きんぴらごぼうと交換した夜凪景作のもやし炒めをおかずにご飯を食べながら石杖綱吉は、夜凪景に食べたもやし炒めの感想を言っておく。
屋上で穏やかな一時を過ごしていた石杖綱吉と夜凪景だったが、昼食を終えて教室に戻ると真面目な生徒に戻った。
高校が終わってからは石杖綱吉も夜凪景も互いに仕事があり、迎えに来たスタジオ大黒天の車に乗り込む2人。
「今日は、お母さんも一緒の仕事なのね」
「前に一緒に撮ったCMが好評だったから、今回の新商品のCMも同じ組み合わせになるように頼まれたらしいよ」
スタジオ大黒天の車の後部座席で会話している夜凪景と石杖綱吉に対して、黒山墨字は車を運転しながら声をかける。
「今日演じるのも料理上手な母親と娘だ。しっかり頼むぞお前ら」
「お母さんが演じる優しいお母さんは、とってもお母さんって感じがするから、私もしっかり娘を演じるように頑張るわ」
「夜凪さんに負けないように、俺も頑張りますよ黒山さん」
黒山墨字に声を返した夜凪景と石杖綱吉は、気合いが入っていた。
2人の様子を見て、問題が無さそうだと思った黒山墨字は、疑問に思っていたことを聞く。
「高校でも石杖のことをお母さんって呼んでんのか夜凪」
「そう呼んでるわよ。だってお母さんは、お母さんだもの」
「石杖は、そう呼ばれて困ってないのか」
「まあ、お母さんみたいだと、よく言われますから、夜凪さんにお母さんと呼ばれても困ってはいませんよ」
2人の答えを聞いて、当の本人達が納得してるなら俺がとやかく言うことじゃねぇか、と思った黒山墨字。
車体にスタジオ大黒天と書かれた車を走らせて、現場に向かっていく3人。
到着した現場では既にキッチンが用意されていた。
直ぐに着替えた夜凪景とカツラを着けてメイクを施し、女装した石杖綱吉は、用意されたキッチンで演技をしていく。
今回2人が演じるのは以前と同じく料理上手な母親と娘であり、扱う商品が違っていても演じる内容は、そう変わるものではない。
以前と違っていたのは経験を積み重ねてきて成長した夜凪景と、更に進化を続ける石杖綱吉の演技だろう。
自分の芝居に振り回されることなく、芝居の深さと伝わりやすさを両立した表現ができるようになった夜凪景は、間違いなく成長していたことは確かだ。
料理上手な娘を演じる夜凪景は、メソッド演技を行っていても自分を俯瞰することができていて、自分を完璧にコントロールすることができている。
その役柄を演じる為に、その感情と呼応する自らの過去を追体験する演技法であるメソッド演技。
本当のお母さんの料理を手伝っていた時の記憶と、美味しく料理が作れた時の記憶を思い出して、演技していた夜凪景。
極まっているメソッド演技と、しっかりとした表現力を身に付けた夜凪景の芝居は、以前石杖綱吉と一緒にCMの撮影をした時よりも段違いに良くなっていたようだ。
しかし進化を続けている石杖綱吉の芝居は更にその上を行く。
まるで料理上手な優しいお母さんを演じる為だけに生まれてきたかのように、石杖綱吉は完全に母親の役に入っていき、最早演じているのが男性とすら思えない程に、料理上手な優しいお母さんがそこに存在していた。
人は本当に上手い芝居を目にした時、上手いということすら意識できない。
石杖綱吉が演じる母親は、あまりにも自然で、上手いとすら思わせることはなく、完全に母親となっている。
石杖綱吉が男子高校生であるということを誰もが忘れるほどに、どこから見ても母親にしか見えない石杖綱吉。
石杖綱吉が演じる料理上手な優しいお母さんと共演していると、まるで本当のお母さんと一緒に過ごしているかのように、幸せな気持ちになれた夜凪景。
誰よりも間近で石杖綱吉の演技を見ていた夜凪景は、惹き付けられるような魅力を石杖綱吉から感じていた。
料理上手な優しいお母さんを演じている石杖綱吉は夜凪景が成長していることを敏感に感じ取っていて、今の夜凪景なら飲み込まれることはないと判断し、普段は抑えている存在感を露にしたようだ。
ただそこに立っているだけで人心を掴むことができる役者でもある石杖綱吉が喋り、動く度に、誰もが石杖綱吉が演じる母親を見てしまう。
それに負けないようにオーラとしか言えないような存在感を見せる夜凪景が演じる娘。
ネットで流れる数十秒のCMであっても石杖綱吉と夜凪景が演じる料理上手な母親と娘の存在感は凄まじいものとなった。
進化していた石杖綱吉と、しっかり共演ができていた夜凪景は、成長したことで素晴らしい役者になっていたのだろう。
新商品の紹介をする為のCMであることは忘れていない石杖綱吉は、料理上手な優しいお母さんとして料理をしていき、新商品のルーを使ったカレーを作っていく。
それを手伝う料理上手な娘を演じる夜凪景は、手際よく野菜の皮を剥き、料理の手伝いをした。
2人で一緒に料理を作っていく石杖綱吉と夜凪景は、どちらも料理が上手な設定であり、実際の本人達も料理が上手なので問題なくカレーを完成させる。
出来上がったとても美味しそうなカレーを見て、料理上手なお母さんと娘は顔を見合わせて笑い、皿に盛りつけた。
ご飯とカレーが乗った美味しそうな皿が映されてから、新商品のカレールーが紹介されてCMは終わりとなり、カットが入ったことで演技を終わらせた石杖綱吉と夜凪景の2人。
2人の演技を見ていたスポンサーは、大興奮した状態で「以前と同じく、お2人に任せて良かった」と大満足していたらしい。
石杖綱吉と夜凪景の演技を見ていた黒山墨字は、今回は夜凪が喰われることはなかったが、まだ石杖は本気を出してねぇな、と冷静に観察していたようだ。
母親の役を演じさせたなら、現役だった頃の星アリサでも演技で勝てない領域まで、間違いなく石杖は到達してやがる、と思っていた黒山墨字。
俺の映画の母親役は、お前以外はあり得ねえよ石杖、そう考えていた黒山墨字の顔は、間違いなく笑っていた。
演技を終えて服装を元に戻した石杖綱吉と夜凪景は、他に仕事もないので直ぐに家に帰るつもりのようだったが、そんな2人を機嫌良く呼び止めた黒山墨字が「車で家まで送ってやるよ」と言い出す。
黒山墨字が運転する車に乗り込んだ石杖綱吉と夜凪景は、後部座席で会話していった。
弁当に入れるおかずのことだったり、今日の演技のことについてだったりした2人の会話。
仲は悪くない石杖綱吉と夜凪景は楽しげに会話を続けていき、何故役者の道を選んだかという話にまでなった。
石杖綱吉が役者の道を選んだ理由までは知らなかった黒山墨字は、運転しながら後部座席の会話に耳を傾ける。
「笑ってほしいなって思った人がいたことが、初めて演技をした切っ掛けで、その人に役者になるべきだと言われたから役者になろうと思って子役になったんだよ」
そう言って笑った石杖綱吉の笑顔が、とても綺麗に見えた夜凪景。
笑顔の石杖綱吉が、やっぱり優しいお母さんに見えた夜凪景は、思ったことを正直に言葉にする。
「じゃあ、その切っ掛けになった人には感謝しておかないといけないわね。おかけで私は、お母さんと会えたんだもの」
本心からそう言っていた夜凪景にとって、石杖綱吉というお母さんみたいな人に会えたことが、役者になって良かったことの1つであることは確かだろう。
本当のお母さんのことを思い出させる石杖綱吉のことが、夜凪景は嫌いではない。
優しい記憶を思い出させる優しい石杖綱吉のことを、お母さんと呼ぶこともやめることなく夜凪景は続けていく。
誰になんと言われようと夜凪景にとって石杖綱吉は、お母さんであるようだ。
夜凪景の家に先に到着した黒山墨字が運転する車。
車から降りる際に、石杖綱吉に向けて夜凪景は言う。
「また明日、学校で会いましょうね、お母さん」
そんな夜凪景に向かって石杖綱吉も言葉を返す。
「明日の弁当は豪華なやつにするから楽しみに待っててね」
微笑みながら優しい声で言った石杖綱吉が、まるで娘に弁当を用意する母親であるかのように見えた夜凪景。
「うん、楽しみに待ってるわ、お母さん」
そう言って嬉しそうに頷いた夜凪景は、家に帰っていく。
家で弟と妹に「何で嬉しそうに笑ってるのお姉ちゃん」と言われた夜凪景は迷わず笑顔で「明日は、お母さんが豪華な弁当を作ってくれるから」と答えていた。