大切だから、遠くにいて欲しいの。
傷付いて欲しくなくて、巻き込みたくなくて。
それって、我儘なの?
『これは予想外でしたねぇ』
「墨田区周辺は何本も川に囲まれてて、都心を水上バスで色んなところに、渋滞を気にせず移動できるんです!」
ミズキの車を降りて暫く、現在は誉、千束、たきな、松下の四人で船に乗船していた。正確には、東京水辺ラインを跨ぐ水上バスである。乗車と言うべきか乗船と言うべきか、兎も角松下の反応は意外に好感触であった。
隅田川、荒川、臨海部を運航し、中でも人気の観光地、浅草からお台場を結ぶコースは、毎日定期的に運航している。その他、お台場の夜景を楽しむナイトクルーズ等不定期で運航している便もあるらしい。
浅草の下町の風景を楽しみつつ、手前の橋を潜り抜けるその手前で、旧電波塔が見える位置に水上バスが差し掛かる。十年前に傾いてしまった平和の象徴を前にして、松下がどこか寂しそうに呟いた。
『やはり折れてしまってますねぇ……』
「折れてないのを見た事あるんですか?」
『いえ、東京に来るのは初めてで……娘と約束してたんです。“一緒に見上げよう、首が痛くなるまで”って……あの世で土産話ができる』
「まだまだぁ〜!始まったばっかりですよぉ〜?」
松下へと顔を寄せて満面の笑みを見せる千束。
そろそろ目的地に到達する為、彼の車椅子の取っ手を引っ掴み───その瞬間、誉と彼女の視線が交錯する。
「っ────ふんっ」
「あっ……」
千束はすぐに誉から視線を逸らし、到着時すぐ降りれるようにと出口に松下を運んでいく。誉の横を通り過ぎる瞬間に目配せも無く、此方を無視するように彼女は船の中へと戻って行った。
────なんとなく、無理して無視してる様な雰囲気を出しながら。されど、誉がそれに気付くわけもなく。
「……はあ」
「千束、分かりやすく態度に出ますね」
「あんな露骨に怒ってんの初めてかも……」
意外そうな顔で千束の後ろ姿を見つめるたきなを隣りに、誉は小さく溜め息を吐いた。
松下の頼みをただの善意で了承しはしたが、本音を言えば東京観光に千束やたきなと一緒に行けるという誘惑に負けてしまったとも言える。先日は千束の私情や私欲で行きたい所を決めてるのではと邪推もしたが、彼女は純粋に松下に楽しんでもらえるものを企画していたに過ぎない。
松下に頼まれたあの時、私欲でこの仕事に同行したのは他でもない誉自身だった。
「錦木がこういう仕事に俺を関わらせるの、嫌がってたの知ってたんだけどさ……」
「依頼主に頼まれての事ですし、今回は仕方無かったと思いますけど……」
「……さっき謝ったんだけどな……」
それすら返事をくれなかったけれど。
何だかんだ言って最終的に『仕方ないな』と笑ってくれるものだとばかり思っていたから、本当に申し訳ないと思った。松下にお願いされて来てはいるけれど、それを言い訳にしたくなくて、あの後すぐに千束に謝罪した。
彼女が自分自身を危険から遠ざけようとしてくれているのを、誉自身なんとなく気が付いていたから。
けれど、取り付く島もない。あそこまで露骨に無視されるとは思ってなかった。
「俺的には、たきなも反対すると思ってたけど」
「あの時は色々な情報で混乱していたというか……」
「……ああ、錦木の人工心臓か」
何の脈絡も伏線も無く、突如として突き付けられた千束の人工心臓。黙っていたのは隠したかったからか、聞かれなかったからかは分からない。問いただせば教えてくれたりするのだろうか。
サラリと告げた誉のあっけらかんとした態度を見て、たきなは思わず視線が傾いた。
「気にならないんですか?」
「いや別にそんな事もないけど……錦木も今まで黙ってたんだし、隠してたのかなって」
「でも、依頼主には話してましたよ」
「あの時はああ言うしかなかったってだけでしょ。あの感じだと別に隠してたわけでもなさそうだけど」
誉は手摺に寄りかかって、旧電波塔を見上げる。
人工心臓────今のテクノロジーで、DAでの危険な任務やそれに伴う運動量を耐え切れる程のものが作れるとは、と思わなかったわけでもない。誉が
千束の普段からの行動力や運動量を垣間見ているからこそ、人の手ずから生み出されたとする機械仕掛けの心臓の存在に疑問が生じてはいた。
「…………まあ、想像はつくけど」
「?何がですか?」
────ただ、千束が以前水族館の一見から、敢えて露出するように付け始めたフクロウのチャーム。あれを見た時から、誉はなんとなく察しが付いていた。その仮説を、たきなに説明する。
アラン機関────およそ百年前から存在するとされている謎の支援機関。スポーツ・文学・芸能・科学などのありとあらゆる分野の天才を探し出し、無償の支援を行っている。
その支援にて、まだ世に出回っていない先進技術による支援が行われることもある、と聞いた事があった。
支援者は支援した人物に接触してはならないという規則が存在しているらしく、その為
「使命、ですか?」
「……調べれば、すぐに出てくるんだけどさ」
彼女の心臓は、恐らくアランによるもの。
つまるところ千束は、自身の命と引き換えに世界への使命を与えられたということ。どういう経緯で人工心臓になったのかは知らないが、彼女はアランによって生かされており、そうするだけの価値があるという事だ。
それも、人工心臓なんてオーバーテクノロジーに見合うだけのもの、それ相応の価値が。
きっと、今いるリコリスとしての立ち位置も、彼女自身の在り方も、それに関わるものなのかもしれない。誉が憧れたあの生き方は元来のものでなく、その“使命”によって形成されたものなのかもしれない。
(……人工の、心臓)
嫌な予感がしないでもないけれど。
彼女があれほど毎日笑顔で過ごしているのを見るに、あまり心配するものでもないのかもしれない。杞憂で終われば良いと切に思う。
彼女と出会ったのは、本当に偶然。けれど、今にして思えばそれは必然だったのではないかと、そう思う時がある。
それは、運命にも似た、歪な因果で。出会うべきではなくて、けど出会うべくして出会ってしまったような。
そんな気がした。
●○●○
────井ノ上たきなは、その光景を離れた場所で眺めていた。
場所は変わって、浅草の浅草寺。《雷門》と書かれた巨大な提灯が観光客を出迎えるかの如く、そこへ続く道も人と喧騒で溢れ返っており、気を抜けば固まって歩いている自分達も逸れてしまいそうだった。
巨大な門を見上げながら、千束が浅草寺に纏わる知識を松下へと披露するのを、たきなは耳にする。
「正式名称は『風雷神門』。創建年数は西暦942年!左に雷神、右には風神、浅草寺を災害や争いから守ってくれる神様……あ、ガードマンですね!私とたきなと同じ!私達は松下さん専属〜♪」
『可愛い神様ですねぇ』
松下からのそれを聞いて嬉しそうに笑う千束。何よりたきなが驚いたのは、彼女の持つ豊富な知識。恐らく事前に予習していたのだろうが、隣りにいた誉は目を丸くしながら彼女に話し掛けていた。
「……凄い。錦木、よく知ってるね」
「っ……べ、つに、良いガイドする為に覚えただけっ」
誉に褒められて一瞬だけ嬉しそうに表情を赤らめ───すぐに我に返ってそっぽを向いてしまう千束。先程から誉限定でご機嫌ナナメなのは相変わらずである。
それに誉も多少なりとも落ち込みながら、自身の肉眼で初めて目の当たりにする浅草寺を見て、その瞳を輝かせていた。
雷門は然る事乍ら、千束が松下に説明していた風神と雷神の仏像の荘厳たるや。たきなもこの場所に人並み以上の知識がある訳では無い。テレビ番組などで何度か取り上げられていたのを見ているくらいだ。
けれど、隣りに立つ誉の感激振りはやはり異常というかなんというか。
「……凄い」
「……誉さんって東京在住ですよね。一度も来た事無かったんですか?」
「うん、初めて!」
「っ……」
いつかの水族館で見た既視感。誉のこのはしゃぐ姿は水族館から数えて二度目だが、やはりいつものギャップが大きくて慣れない。直視できないほどの眩しさに、たきなの心臓は不意に跳ね、思わず彼の輝く瞳から目線を逸らした。
しかし本当に楽しそうに観光する人だな、と不意に思った。やはり彼の年齢にもなって、一度も水族館や東京に赴いた事が無いというのは違和感である。学校に行っていなかったと以前聞いた事があったが、それが関係しているのだろうかと気になってしまう。
それに、千束の人工心臓の件だってまだ咀嚼し切れている訳ではないのだ、自分の中で色々な思考が脳内を駆け巡る。千束といい誉といい、どうしてこう自分の心を掻き乱すのだろうか。
「……っ、あれ」
ふと我に返って辺りを見渡すと、大勢の人混みに囲まれていた。どの方向を見ても観光客で溢れ返っており、身動きが取れずに立ち尽くす。
そうして、先程まで行動を共にしていた千束達が人混みに紛れて視認すら難しくなっていた。端的にいえば、たきなは彼らを見失っていた。
────まずい、はぐれてしまった。
この歳で迷子────いや、それよりも任務中に無関係な事を考えて護衛対象を見失った事実に困惑と、混乱が生じた。今までそこまで思考を鈍らせた事がなかっただけに焦燥が走る。
慌てて辺りを見渡し、首を回し、額に汗を滲ませながら、恐らく前へ進んだのだろうと推測しながら前へと歩み始める。人混みがまるで立ちはだかる壁のように固く、中々前に進まない。これならそんなに離れていないだろうと自分に言い聞かせながら、自分の体を人の束に押し込んでいく。
その中ですれ違う、日本人だけでなく観光に来ているのであろう異国の人間達。まるで日本ではないような、知らない世界にいるようだ。それを知って、ふと自身の心に恐怖や不安に近い様な心細さがあるのを感じた。
前まではそんな事なかったのにと、何度目か分からない思考を繰り返す。
知らない土地、知らない言葉、知らない人達の中に、まるで一人だけ取り残された様な、そんな寂しさ。
「あっ……」
前の人集りに弾かれ、体が自然と仰け反る。
そのままよろめき、倒れそうになったその瞬間───腕を掴まれ、引き寄せられた。温かく、それでいて優しい腕に。
その先にいるであろう存在を見上げて、思わず目を見開く。
「たきな、大丈夫?」
「っ……誉、さん?」
目の前にあったのは、誉の顔。人混みの中視線が交わる。
こちらを心配して探してくれたのか、その表情は焦りから、見つけた事への安堵へと変わっていくのが、他者の感情に疎いたきなでさえ分かった。
また、心臓が高鳴る。よく分からない感情の波が押し寄せて、堪らず視線を逸らした。
「す、すみません……私、ボーッとしてて……」
「大丈夫だよ。すぐに気付けて良かった」
「護衛対象を見失うなんて……リコリス失格ですね」
「大丈夫、錦木と松下さんなら近くで待っててもらってるから」
柔らかな笑みで教えてくれる彼の表情を見て、瞳が揺れ動いた。思わずドキリとしてしまう様な、優しい笑顔。
誉は変わらずたきなの腕を掴んでしまっている事に気が付いて、申し訳なさそうに手を離す。『強く握り過ぎてゴメン』と、お門違いな謝罪までして。
「っ……たきな?」
「合流するまでこれでお願いします」
たきなは、誉の服の裾を摘んだ。
離さぬように、はぐれないようにと。
また迷子になってしまったらと思うと、不安だった。先程一人になってしまったからだろうか。知らない世界に置き去りになったような感覚を、今まで知らない感情を覚えてしまったからだろうか。
今まで感じなかったものを感じるようになったのは、千束と誉のせいかもしれない。
「そんな顔しなくても大丈夫だよ」
「え……?」
透き通る様な声音を耳に、俯いた顔が上がる。
変わらず微笑む彼の姿がたきなの眼に映り、裾を摘む力がやや強くなる。
「またたきなが迷子になっても、この人混みにまた紛れても、きっと見つける。絶対、一人にしないから」
「────……っ」
そんな、気障っぽい台詞……と、思わなかった訳では無い。
けれど、そんな格好付けた言葉だって、容姿の整った彼が放てば破壊力も凄まじく。
「……なんですか、それ。まるで私が迷子になってて寂しかったみたいな言い方じゃないですか」
「あれ違った?焦った顔でキョロキョロしてるからそうなのかと」
「心外です。なんなら私が誉さんを置いてって迷子にさせても良いんですよ」
「ヤバい事言い出したんだけど。やめて置いてかないで」
「早く進んでください。二人を待たせてます」
「ああ、うん君がね?」
こちらに押されるような形で前進し始めた彼の裾を摘んで、彼に引かれて人混みを掻き分ける。
それほど変わらない身長差だけれど、少し見上げた先でチラリと何度もこちらを心配して振り返ってくれる彼の瞳が、何度もたきなの心臓を波打たせる。初めての感情に戸惑いを禁じ得ない。
……寂しそうに、見えたのだとしたら。
きっと、千束と誉に関わってしまったからだと思った。一人でも平気で、一人で何でもこなせる様にと、思っていた。それが先の銃取引現場での独断専行に繋がった。周りを省みない行為だったと、今では多少なりとも反省している。
こんなにも特定の誰かと関わった経験などたきなには無くて。だから、こんな感情が芽生えてしまっていたのだろうか。
───“ またたきなが迷子になっても、この人混みにまた紛れても、きっと見つける。絶対、一人にしないから”
きっと、あの言葉はただの例え話で。
彼が気休めに放っただけの、なんて事ない言葉なのかもしれないけれど。
「────……ありがとう、ございます」
「……?何か言った?」
「いいえ、早く進んで下さい」
「この人混みだぞ、無茶言うな」
何故こんなにも、嬉しくて、堪らなくなるのだろうか。
どうして彼なら本当に、見つけてくれるかもと思うのだろうか。
世界中何処にいても、どんな大勢の中からも、何をしていようとも、たった一人自分だけを。
●○●○
『……あれが“延空木”ですね』
「十一月には完成らしいです!」
『知り合いが設計に関わってるんです』
「ええっ!?凄っ!」
『そう、彼は未来に凄いものを残してる』
再び水上バスで沖を走っていると、建設中の電波塔“延空木”が視界に入る。新しく平和の象徴となるあの塔は、遠目から見ると空へと打ち上がるロケットの様だ。完成したらいつか行ってみたいなと、誉はずっと思っていた。十一月に完成するなら、行けるかもしれない。
松下も、機械音声とは思えない程に憂いた声音で、何かを懐かしむ様に語る。何処か寂しそうに聞こえたその横顔を見て、身を乗り出していた千束は嬉々として笑いかけた。
「じゃあ完成したら見に来て下さいね!またご案内しますよ!」
『……ええ、またお願いします。君は素晴らしいガイドだからね』
車椅子を千束へと向けて、そう告げる松下。
千束は、そんな彼の言葉を受け止め、小さく微笑んでいて、誉にはそれが心底嬉しそうに見えた。
『今日は暑いですね。少し中で休ませて貰います』
「じゃあ到着前に迎えに行きますね」
『ああ、ありがとう』
誉にそう感謝を述べて、自動販売機で飲み物を購入するたきなの背を通り過ぎると、松下はそのまま船内へと消えて行った。
それを確認し追えると、千束は自動販売機隣りの長い腰掛けに座り込む。飲み物を買い終えたたきなが、彼女に向けて缶ジュースを差し出した。
「どうぞ」
「ありがとぉ〜!」
「誉さんも」
「あ、俺も?ありがとう。幾らだった?」
「良いですよ、さっき見つけてくれたお礼に奢ります」
「歳下の女の子に奢られる絵面……」
「別に良いでしょ」
そんなに高くないですよ、と軽く微笑んでから千束の横に腰掛けるたきな。同時に、缶ジュースを開けてすぐに喉を潤す千束を見ながら、誉もたきなの横に座った。
「喜んで貰えてるみたいですね」
「にひっ、私、良いガイドだって!才能あるかもぉ♪」
「依頼者の警護が優先ですよ?」
「……そうだね。そうだった」
忘れてた、と言わんばかりに息を吐いて天井を見上げる。日本に来たばかりで襲われるとも考えにくい、と千束は言っていたしその通りだとは思うけれど、こうして遊んでいるとそんな予感を杞憂で終わるのではないかとさえ思う。そうあってくれればどれほど良いか。
「……そういえば、仕事だったんだよな、これ」
「そう、観光気分で付いてきて良いもんじゃないのよ、本当は」
「……ウキウキでしおりまで作ってた癖に」
「何か言った?」
千束の鋭い視線が刺さる。
彼女の、その自分に対する変わらない態度。一緒に付いてきた事に対して怒っているのだろうが、誉としてはここまで心配してくれる彼女に嬉しさもあり、申し訳なさも感じていた。
「錦木、まだ怒ってる?」
「なに、言わなきゃ分かんない?」
「いや、分かるけど……それに、謝ったけど……ぶっちゃけ、今はそんなに悪い事したとは思ってない」
「なっ……」
千束は身を乗り出して上体を傾けて、此方を見上げる様に見つめる。彼女の声音は一瞬ではあるが本気の憤りを孕んでいるように誉もたきなも聞こえた。
それでも、誉にとっては関係が無かった。
「松下さんに頼まれたってのもあるしね。頼ってもらえるのは素直に嬉しいし」
「で、でも、巻き込まれるかもって普通思わないの?松下さん命狙われてるんだよ?」
「いやそんなの、錦木もたきなも同じでしょ」
「同じじゃない!私らはリコリスで、朔月くんは一般人!私らは戦えるけど朔月くんは違うでしょ!」
「や、そうだけど……敵が公共の面前で松下さんを狙うのは考えにくいし、錦木達だって周りに人がいる状態で拳銃は使いにくいでしょ、機密組織なんだし。なら、狙われた時の危険度も対応時に取れる行動も制限されるんだし、俺とあんま大差無いでしょ」
「それ、は……そうだけど……」
言い負かされてしおらしくなる千束。どうにも納得いかないらしく、俯いて唸っている。確かに千束とたきなと危険度は同じというだけで、安全の保障なんてどこにもない。ただの詭弁、屁理屈だった。
「……危なくなったらすぐに逃げるよ。ミズキさんやクルミみたいに、戦えなくても別の手伝いはできると思うし、サポート要員くらいに考えてよ」
「……でも怪我でもさせたら、朔月くんの夢の邪魔になっちゃう……」
────“夢”……?
脈絡無く放たれたその言葉に一瞬だけ固まる。
「……ゆ、夢?え、急になに、何の話……?」
「弁護士とかお医者さんとか、警察とか……色々と目指してるって……」
「え……あ、いや……てか何でそれ知って……」
突拍子もない彼女の発言に、ただただ誉は困惑する。
彼女に話した事は一度も無かったはず。思わず隣りに座るたきなへと視線を移すと、バツが悪そうに此方を見ていた。
どうやら、たきなが話した様だ。別に隠してるわけではないのでそれは一向に構わないのだが。なるほど、自分に怪我があって、その結果なりたいものを目指す事が困難になってしまったら、というのを千束は危惧しているわけか。
「……そういう事なら、尚更心配ないよ」
「え?」
「────もう、目指すの止めたから」
千束はまた、困惑した目で此方を見ていた。
彼女の発言からするに、たきなからは聞いていないのだろうか。それらを目指していたのは過去、あくまで昔の話で、今は何とも思っていないし、そこに辿り着く為の努力もしていない。
千束は初耳だと言わんばかりに驚いて、目を見開いていた。
「え……あ、諦めたって事?どうして?」
「うん。俺には無理だなって」
「そ、そんな事ないよ!朔月くん頭良いし、何にでもなれるよ!」
「っ……」
────“貴方は、何にでもなれる”
まるで、古傷を抉るように。深海になんとなく沈めて置いたその言葉が一気に浮上してくる。別に嫌な言葉でもなんでもないし、トラウマとかでもないけれど、何故か千束の言葉が自分の過去と重なった。
「……勉強が嫌になったの?」
「え?いや、知らない事を覚えるのは好きだったし」
「じゃあ、他になりたいものができたとか?」
「ううん、別に何も。将来の事は今考えてないよ」
「……なら、何でよ」
「何でって、別に……てか、珍しいね。そんなに聞いてくるの」
「だ、だって……」
実際、普段の彼女は他人の事をここまで詮索したり、突っ込んだ話をしてくる事は少ない。此方の都合を考えない破天荒振りが千束の味だけど、こう見えて彼女は気を遣う方で、彼女なりに一線を引いて接してくれているのは普段の生活から見て取れていたから。
だから、少なからず彼女の踏み込んだ質問には驚いてしまうし、同時に────少しだけ、困ってしまう。
「……そもそも昔の話だよそれ。今は、目の前の事を全力で楽しむ、そんだけ」
「え、で、でも……」
「“やりたい事最優先”、でしょ?俺も錦木と一緒だよ」
「っ……」
「あ、そろそろ到着するし、松下さん呼んでくる」
話は終わりだと態度で伝える様に、勢い良く立ち上がった。まだ開けてない缶ジュースを上着のポケットに仕舞い、そのまま二人に背を向けて船内へと歩き出す。
「……はぁ」
千束の表情を思い出して、小さく息を吐く。何故諦めたのかなんて聞くものだから、思わず逃げる様に切り上げてしまった。
────聞かれないから答えないだけ、と以前クルミに言ったのを思い出して、情けないと我に返る。ああ、そうだ白状しよう。千束に伝える事にビビっているのだと、認めざるを得ない。
自分が話せないのに、千束の人工心臓の事なんて、聞けるはずがなかった。自分は一体、何を恐れているんだろうか。
「松下さん、お待たせしました。そろそろ到着しますよ」
『……ああ、君か。ありがとう』
船内へと続く扉を開けてすぐに、車椅子の男性を見つけて駆け寄る。車椅子を此方に向けた松下の、そのゴーグルと視線が交わった様な気がした。変わらず人工呼吸器の音が耳に吸い付く様で、少し緊張してしまう。
彼の後ろに回って、車椅子の取っ手に両手を乗せると、前から松下の音声が響く。
『次はどちらに向かうんですか?』
「それはお楽しみですね。錦木のガイド、楽しみにして下さい」
『……そうですね。それが良い。ところで……君と千束はこの観光中まともに会話していない様ですが、喧嘩でもしてるんですか?』
「え……あー……いや……喧嘩とかでは……うーん、言語化が難しいな」
意外と見ているな、と思わず言葉に詰まった。
喧嘩、というかなんというか。千束が任務に同行した命知らずの自分に怒っていたのは事実だが、別に喧嘩というのとは少し違うような。
「……俺、錦木やたきなみたいに戦える訳じゃないんです。だから、松下さんのお願いに二つ返事で了承した俺をよく思ってなかったみたいで。今さっきもその話になって、結構心配させてるみたいです」
『……なるほど。君は千束に随分好かれているんですね』
「っ……そ、そんなんじゃないですよ。危ない仕事だから、巻き込まれに行った俺を怒ってるだけで」
笑って誤魔化すも、松下のその発言に少しだけ頬が熱くなった気がした。
ただ、あんなに怒って心配してくれるのだ、不謹慎ではあるが少し嬉しかった。千束に必要とされている気がして、大切に扱われている気がして、どうにもこそばゆかったけれど。
『では君は、千束の事をどう思ってるんですか?』
「どう、って……松下さん、恋バナなんてまだまだ若いじゃないですか」
『いえ、ただの年寄りの邪推ですよ。お店では仲睦まじく見えたものですから。気を悪くさせていたらすみません』
「全然。……錦木は、煩くて我儘で遅刻魔で人を振り回して、挙句人が買ってきたお菓子を勝手につまむような女王様みたいな奴で」
『酷い言われようですね』
「確かに」
松下の声音がほんの少しだけ笑っているように聞こえて、つられて誉も笑ってしまう。確かに今の部分だけ聞くと酷い言われようである。まあ、事実なのだが。
けれど、そこが良いと思ってしまうし、そこが彼女の味だと理解していて、それが良いのだと今は思っている。もっと振り回して欲しいとさえ。
「でも、誰かの為に何かをしてあげられる奴で……俺の憧れです」
『……憧れ、ですか』
「ええ、ヒーローみたいでしょ?そんな部分を、好ましくは思ってますね」
押していた車椅子を止める。松下に伝えながら、脳裏で彼女と出会った時からの記憶が思い起こされていく。
そう、初めて出会った時から今日に至るまで、錦木千束という少女の事をつぶさに見てきた。仕事には何度も遅刻してくる割に悪びれもせず大声で入ってくるのは普通に煩いと思うし、やりたい事最優先過ぎて、反対にやりたくない事をやらなかったりする部分は改善しろと言いたくなるし、他人の事を思えるくらいに自己中心的な部分は勘弁しろと思う時もあるけれど。
そんな彼女の、やりたい事をやり切った時の笑顔が好きで。
誰かの為に在ろうとする生き方や、誰かから必要とされているその姿を見て、誉は憧れずにいられないのだ。
だから、これは素直な気持ち。嘘偽りない自分の言葉だ。
『……そうですか。なんだか甘酸っぱいですねぇ』
「よしてくださいよ」
なんだか、凄く気恥ずかしい。
松下が聞き上手だからだろうか、あっさりと気持ちを吐露してしまう。流石に大人だ、余裕があるなぁとしみじみ思いながら微笑んでいると、とんでもない事を言ってきた。
『お付き合いは考えてるのですか?』
「………………え、ビックリした、なんですかその質問」
『千束と君はとても似ている。お似合いだと思いますよ』
「え、そんな話でしたっけ」
『妻と出会った時の事を思い出してしまって』
「やだ、急に俗っぽい……」
ノリが完全に同年代のそれである。千束も確かこういう話が好きだった様な、とふと思い出した。
松下、余命宣告されたとは思えない程に会話のフットワークが軽過ぎる件。ただ誉としては、ぶっちゃけこういった話には如何せん疎く、反応に困ってしまう。
────……いや、というよりもだ。
「……特にそういったのは考えた事なかったですね」
『それは勿体無い。誰かを好きになるのはとても良い事ですよ』
「それはそうなんでしょうけど……俺には難しいです」
『……それは、何故?』
何故、と聞かれれば答えに困ってしまう。理由はとても単純で、言葉にすればあっさりとしてしまうけれど。今日会ったばかりの松下に伝えるのはなんとなく憚られた。
クルミには知られており、DAの特性上ミカやミズキ辺りは知っているだろうが、千束とたきなには何一つ伝えられていないからだ。
「……松下さんなら、分かると思います」
『……私、なら?』
「はい。勝手にそう思ってるだけですけど」
けれど、今日限りの関係だからこそ伝えられる様な気がした。先程、千束やたきなに夢を諦めた理由を問われそうになったのを誤魔化し騙し隠しながら逃げて来た罪悪感もあって、その贖罪や懺悔という意味も含まれていたのかもしれない。
目の前の松下になら、伝えても良いような、共有しても良い様な、分かち合えるような────そんな気がしたから。
誉は、普段と変わらない笑みを松下に向けて告げた。
「俺も、病気で余命宣告を受けてるんです。実はそんなに長くないんですよ」
たきな「千束、大丈夫ですか?」
千束「あー、うん……大丈夫。……あはは、ちょっと踏み込み過ぎたかなぁ……嫌われてたらどうしよ」
たきな「……あれくらいの事で誉さん嫌いになったりしませんよ」
千束「……そうかな……そうだよね」
たきな「私も、気になってたんですよ。誉さんの事」
千束「え?」
たきな「普通の人の割には怪我の応急処置が上手かったり、学校に行ってなかったり、あの年齢で水族館や東京の観光にすら行った事がないなんて……異様です」
千束「異様、か……ふふっ、言うじゃんか」
たきな「千束は気にならないんです?」
千束「いや、そんな事はなかったけど……朔月くんは言わないし、隠してるのかもって思ったら聞けなかった」
たきな「……誉さんと同じ事言いますね」
千束 「朔月くんも?」
たきな 「今朝の心臓の話ですよ。誉さんも気になってるみたいでしたけど、千束が話さないから隠してたんじゃないかって」
千束 「……相変わらず優しいなぁ」
たきな 「本当なんです?」
千束 「あーうん、本当だよ?鼓動聞こえなくて最初ビックリした」
たきな 「触って良いですか?」
千束 「直球だなぁ!公共の面前でそんな事言うな!」
たきな 「……誉さんも、面と向かってちゃんと聞けば、答えてくれるかもですよ」
千束 「……そうだよね。知りたい事、沢山あるし。今日終わったら、色々聞いてみよっか、二人で!」
たきな 「っ……ええ、二人で、ですね」