たとえ、君が世界の悪意に埋もれていても。
「千束、大丈夫ですか?」
「あー、うん……大丈夫」
誉が松下を迎えに船内へと消えてすぐに、千束は盛大に息を吐き出した。そこから盛れる呼吸音の中には、微弱ながら後悔や落胆による悲哀が込められている気がして、思わずたきなは声をかける。
千束は大丈夫だと言いながらも、無理して笑っているように見えて、尚更心が痛かった。
「……あはは、ちょっと踏み込み過ぎたかなぁ……嫌われてたらどうしよ」
「……あれくらいの事で、誉さんは人を嫌いになったりしませんよ」
「んー……だと良いけど」
千束は誤魔化す様に手元の缶ジュースを一気に飲み干す。それ一応炭酸飲料なのだが……と細い目で見つめながらも、変わらず儚げに微笑む千束を見て、たきなも思っていた事をポツリと呟いた。
「……千束。誉さんの過去とか、身の上の話を聞こうとするのって初めてじゃないですか?」
「……そう、かな?」
「はい。……私も気になってたんですよ。誉さんの事」
「え?」
千束がチラリとたきなを見やる。
たきなも同様に千束へと視線を送り、手元の缶ジュースを持つ指先に力を込めながら、抱き続けてきた疑問を吐露する。
「普通の人の割には怪我の応急処置が上手かったり、学校に行ってなかったり、あの年齢で水族館や東京の観光にすら行った事がないなんて……はっきり言って異様です」
「異様、か……ふふっ、言うじゃんか」
「千束は気にならないんです?」
当然の質問。千束が誉を好意的に見ている事を、たきなは既に知っている。そんな相手なら、色々知りたいと思うのではないかと、なんとなく思っていた。
案の定千束は『あー……』と図星と言わんばかりの分かりやすい反応を見せるも、すぐに俯いて小さく笑った。
「いや、そんな事ないよ?すっごい気になる。……でも朔月くんは言わないし、隠してるのかもって思ったら……なんか、聞けなかった」
「……誉さんと同じ事言いますね」
「へ?どゆこと?」
同じ事、の意味を掴みかねていると、たきなが優しく瞳を細めながら軽く微笑んで、観光を始めた時に誉が呟いていた事を伝える。
「今朝の、千束の心臓の話ですよ。誉さんも気になってるみたいでしたけど、千束が話さないから隠してたんじゃないかって」
「あー、そうなんだ……相変わらず優しいなぁ、ったくもぅ……」
頬を赤らめて、それをたきなに見られたくなかったのか慌てて目を逸らし下を向く千束。微かに緩んだ口元が、嬉しさなのか気恥ずかしさなのかは分からないけれど、恋慕の感情が隠し切れずに漏れて現れたものなのだと、流石のたきなも理解していた。
なんとなく胸にチクリと刺すような何かを感じながら、たきなは朝から気になっていたものの咀嚼にかかる。
「それで……今朝の話、本当の話なんですか」
「ああ、胸の事?本当だよ?鼓動無くてビックリしたけど、凄いのよぉ〜これ!」
千束はなんて事無い風に話しながら、自身の胸元を指先で突く。恐らくその奥で、現代の技術とは思えない様な高度なテクノロジーを結晶たる人工心臓が、千束の命を支えてくれている。
なんとなく鼓動が無いというのが気になって、たきなは思わず左腕を千束の胸元へと伸ばす。すると、それに気付いた千束が頬を赤らめて胸元を両手で隠した。
「っ、うぇ、ちょいちょいちょいちょいちょぉい!」
「確かめようと思って……」
「良いけど、公衆の面前で乳を触るな!」
そりゃそうだ。当然の意見だった。
たきなも思わず辺りを見渡すと、水上バスは人で賑わっており、ああそういえば任務中であったと軽く仕事を忘れかけていた事に気付いた。反省である。
たきなはふと、千束を見つめた。視線に気付いた千束は変わらず優しげに笑みを浮かべて此方を見る。
「……」
「……ん?なぁに、そんな見て」
彼女の話を、聞いてみて思った。
人工心臓の件を軽く話す彼女を見て、そんなに重い話ではなかったのかもしれないと、たきなはそう思った。聞けば教えてくれるという事は、取り立てて隠す様な事では無かったという事。
もしかしたら誉も、此方が身構えて聞けずにいただけで、面と向かって聞けば教えてくれたのかもしれない。
「……いえ。誉さんに話してあげたら、誉さんも話してくれるんじゃないですか?別に隠してるわけじゃないんでしょ?」
「え……あー……うん……」
途端に歯切れ悪く困った様に笑う彼女の横顔を、たきなは訝しげに見つめる。手元の缶を指先でへこませながら、千束はポツリポツリと秘めていたものを零し始めた。
「……隠してるとかじゃないけど、朔月くんにだけはなんとなく言いづらかったかな。そういうのもあって、朔月くんの事、知りたいけど聞けずにいた」
「……千束」
千束は自分が話さないのに、誉の話を聞こうとするのを自分勝手に感じたのかもしれない。
彼女のこんな不安気な想いの吐露を、たきなは聞いた事がなかった。いつだってたきなにとって千束は、自分の常識を壊し、知らない世界を見せてくれる存在で、“やりたい事最優先”の彼女には、凡そたきなや他の人が抱える様な悩みには無縁の様な印象があったからだ。
ただ、朔月誉という存在の前では、千束もただの女の子で。DA最強のリコリスの肩書きなんて、まるでないみたいで。
「私、さ。最初は誰かの為に一生懸命になれる、頑張れる朔月くんを好きになった。だから、“夢”の話をたきなに聞いた時……なんか、凄く嬉しかった……」
「……人を、助ける仕事」
医者に弁護士に警察に科学者、と彼は言っていたけれど。それはあくまで例えの一部に過ぎなくて、探せば誰かを助ける仕事なんて幾らでもある。人の役に立つという意味でいえば、この世に人の役に立たない仕事なんてないのかもしれないけれど、誉の言っていた職業は“人を助ける”という意味に置いてとても分かりやすかった。
誰かの為に頑張る誉が、誰かの為になる将来を夢見ていた事が、彼を好きになった千束にはとても嬉しい事だったのだろう。自身の抱いた憧れが、まやかしではなかったのだと、間違いではなかったんだと知る事ができたから。
「でもあんなにあっさり『止めた』なんて言うから、ちょっとムキになったのかも。あー、らしくないっ」
「確かにらしくないですね」
「……?」
たきなは上体を傾けながら、元気の無い千束の顔を覗き込みつつ、挑戦的な笑みで瞳を細めて言ってやる。彼女のモットー、信条、座右の銘を改めて。
「“したい事、最優先”……なんでしょ?」
「……んもぅなんだよぉ、たきなそれ気に入ったの〜?」
「私もお店に滞在してる間は、そうしてみようと思っただけです。だから、それを教えてくれた千束にそれを曲げられたら困ります」
たきなは立ち上がり、水上バスから見える眺めを一瞥する。つられて千束もたきなの視線を追いかけてその景色へと顔を向けると、間も無く目的地に到着するであろう事がその光景から見て取れた。
そろそろ移動の準備をしなければならない。千束はふと、たきなへと視線を戻す。たきなも千束を見ていて、その瞳を細めた。
「私も、聞いてみたいと思ってたんです。誉さんや、千束の昔の話。仕事が終わったら、色々話しませんか」
「……良いね。じゃあ、たきなの話も聞かせてね〜?」
「流れで誉さんも話してくれるかもしれないですね」
「おっしゃー!二人で問い詰めてやろー!」
「っ……ええ、二人で、ですね」
────“二人で”
それを耳にした途端、たきなの心臓が高鳴り、言葉にできない高揚感が芽生えた気がした。
『相棒』だと何度も千束に呼ばれていたはずなのに、何故か今日のが一番嬉しかった。
●○●○
観光案内も後半へと突入し、しおりに書かれた目的地を目指す千束、たきな、誉、松下をモニタリングしていたクルミだったが、それを遠くから追尾する黒い影を捕捉し、ミカと顔を見合わせた。
真夏にも関わらず全身黒の装束で覆われ、その上から黒コートを羽織り、頭はフルフェイスを被ってバイクで走行している。
任務で使用しているドローンのカメラには高性能のセンサーと、画像解析プログラムを積んである。飛行しながらでもカメラの映像から被写体の隠れている部分でさえ仮想モデルで構築し、クルミの本体PCへと情報を送付される。
受け取った情報をクルミは訝しげに眺めつつ、小さく溜め息を吐いた。
「さっきからついて来てる奴───ジン。暗殺者。その静かな仕事振りから“サイレント・ジン”とか呼ばれてる、ベテランの殺し屋だとさ」
「サイレント……!」
「知り合いか?」
何度も言うが、先日の千束の言う通り、日本に来てすぐに暗殺の手が伸びるとは考えにくかった。ただでさえ余命宣告をされているのだ、急がずとも寿命は短いというのに、まるで予定調和の如く暗殺者は現れた。それも、ミカが知っている人間だという。
「千束、たきな、聞こえるか?暗殺者だ。それもミカが知ってる奴。共有するからそのまま聞いてくれ」
『『……!』』
インカム越しでも千束とたきなの息を呑むのが分かる。
クルミは多少のキナ臭さを感じながらも、“サイレント・ジン”の情報を伝えるミカの言葉を耳にしながらディスプレイを見つめていた。
「十五年前まで、警備会社で共に裏の仕事を担当していた。私がリコリスの訓練教官にスカウトされる前だ」
「どんな奴?」
「────本物だ。“サイレント”……確かに声を聞いた事が無いな」
本物、その一言だけで空気が張り詰める。
音もない静かな殺害こそ、暗殺の本懐と言えるからだ。それが異名になるほどの相手が、松下を暗殺しに来たのだと各自が理解した。
『三十メートル先に確認。こっちは顔がバレてない。発信機付けに行くよ』
四人を送り届けた後、別行動だったミズキから連絡が入る。ドローンを飛ばしつつ、遠くからジンを車で追跡していた彼女だが、声音がいつもより冷たく、冷静に物事を進めんとするプロの雰囲気を醸し出す。
クルミが操作するドローンの位置からではジンの姿を目視できず、そのままミズキへと同様の内容を訊ねる。
「……上から確認できない。ミズキの方からは?」
『柱の横で止まった……あ』
その瞬間、ミズキの使用していたドローンのモニタがクルミの画面へと共有される。その瞬間、カメラが捉えていたのは此方に────つまりドローンのカメラに向かって銃を突き付けるジンの姿だった。
それを理解した途端に銃は放たれ、カメラの視界がブラックアウトする。
『クソ!バレてる!』
「……マジか」
「ジンはマズイな……」
ミズキは停車していた車のアクセルを踏み抜く。ドローンが無ければ追跡は不可能。予備のドローンを保管してある駐車場へと即座に移動を始める。
暗殺者の位置の確認が取れなければ、プロ相手に対応は難しい。クルミは作戦の変更を千束達に伝える。
「────二人とも、予定変更。避難させて此方から一人打って出るべきだ。予備のドローンとミズキでジンを見付け次第、攻撃に出る方向で行くぞ」
『そっちが美術館出たら車回すよ!』
『……分かった。気を付けて』
クルミとミズキの指示を、二つ返事で了承する千束の声は、真剣そのもの。クルミは予備のドローンの準備に向かうミズキへと再び通信を飛ばす。保管場所はミズキのいた場所からそれほど離れていない。何かあった際すぐ対応できるようにと車の停車位置とは近付けてある。
だが、ジンが松下を狙っている事を考えると時間との勝負だ。モタついている間に完全にジンを見失い松下を暗殺されればそれまでだ。ドローンの催促をミズキに伝える。
「ミズキ急げ、ドローンが無きゃ何もできないぞー」
『はぁ、はぁ……アンタも、現場に来てサポートしなさいよ────うぐっ!?』
突如、通信の向こうでミズキの声が途切れる。鈍い音が響き、ノイズが走った。その異様な音声にクルミは眉を顰めて口を開く。
「どうした?」
『────、────!』
「ミズキ、答えろ!」
聞こえない。通信不良か?こんな時に……。
いや、先程まで感度良好だったはず。突然ここまで音声を拾えないのは違和感だ、と思ったその瞬間だった。
甲高いひび割れ音が鼓膜を刺激し、ミズキとの通信が完全に途絶えた。間違いない、ジンがミズキに接触したのだ。
「っ……予備のドローンは……!?」
「……電源が入ってない────くそっ」
クルミはその場から飛び降り、手元のドローンに電源を入れる。慣れない運動で足が覚束無いが、無理矢理足を行使してそのまま店の客間へと駆け出し、窓からドローンを放り投げた。
ドローンはそのままプログラミングされた方角へと浮上していく。それを見届けたクルミは踵を返して再びモニタへと走り出す。
「チャンネルを変えて二人に連絡だ!」
「分かってる!」
まったく、此方は電脳戦専門だというのに、まさか短距離とはいえ走る事になるとは……とクルミは再びキーボードに指を乗せた。
●〇●〇
『……ミズキと連絡が途絶えた。ジンが仕掛けてくるぞ』
「っ……」
ミカからの報告で、千束とたきなは気を引き締める。ミズキが無事だと思いたいが、最悪のケースであったとしても今は感傷に浸っている場合ではない。任務はまだ続いており、脅威は健在。ならば千束とたきなにはリコリスとして、何より松下の安全を預かる者としてやるべきことが残っている。
「……錦木、どうかした?」
「っ……ううん、何でもない」
誉を巻き込む訳にはいかない。千束は冷静に息を吐き出す。
クルミから言い渡された様に、松下を避難させて此方から一人迎撃に向かわせなければならない。ミズキが車を持って来れない以上、松下を放って置く訳にはいかない。経験的な意味でも自分が出るべきか否か、千束が思案していた時だった。
「────私に任せて下さい」
「ちょ、たきな!」
思考を巡らせている内に、考えを纏めたのかたきなが飛び出す。言うや否や、千束の制止をすり抜けて駆け出して行った。市街地戦を想定してか、サプレッサーまで用意している。
たきなも言葉にしないだけで、ミズキがやられたことに思う事があったのか、顔付きを変えながら、クルミの指示に従いながら走り出して行く。
松下も気になったのだろう、疑問が飛ぶのは当然だった。
『どうしました?』
「っ、えっと……あ、トイレに行ってくるみたいです〜!」
千束は上擦った声で笑って誤魔化すが、彼女は嘘が苦手である。それでも必死に暗殺者の来訪を悟らせないように出来の悪い嘘を伝えるも、此方を見つめる誉の視線は言わずがもがなである。既に勘づかれており、誉は小さな声で千束に耳打ちする。
「……まさか、暗殺者来てるの?」
「……うん。でも大丈夫、心配しないで」
そういって誉を安心させつつ、小さく息を吐いた。
目の前の彼だけは、決して巻き込まない。巻き込めない。最早松下だけではない、彼も守って一緒に帰るのが千束の中では任務成功の最低条件だ。
だがミズキも心配だ。彼女の専門は情報処理。身体能力等は平凡、ジンと接敵したのなら結果は目に見えている。適材適所というように、ミズキと千束達では戦う土壌がそもそも違う。
たきなが単身でジンを追ったとはいえ、状況の危険度は差程変わらない。相手は凄腕の暗殺者だ。何度も殺しを成功させている実績持ちで、ミカからの情報もあるし、年月を重ねただけの経験値が備わっている。強敵に変わりは無いのだ。
本当なら千束も加勢に行きたいが、松下がいる為それは叶わない。ミズキに松下を預け、二人でジンを仕留めるプランは既に崩壊している。誉に松下を任せるのは論外だ。
今からでも松下を誉に任せて、千束とたきな二人でジンを追い込むプランにシフトしても、成功率は高いかもしれない。
だが千束が先たきなを追いかけている間にたきなが敗れ、ジンの居場所を千束が見失えば誉と松下が孤立するのは必定。松下には誰か一人リコリスが付くべきなのだ。
先ずは依頼者を安全な場所に避難させるのが先だ。
今の自分には、たきなとミズキの無事を祈る事、そして誉と松下を守り抜く事しかできないのだから。
▼
────そんな千束を他所に、たきなは一人、携帯を片手に美術館の通路を小走りで移動していた。インカムから伝わるクルミの情報を元に、自身の行動を決定していく。
携帯に映る人物こそが“サイレント・ジン”。黒髪長髪のやせ細った男で、黒い装束と合わせて死神を彷彿とさせた。それを見て気が引き締まる。
いや、リコリコに来てからは地域の人達に寄り添うボランティア的な仕事が多かっただけにこういった仕事は久しぶりで、少々気持ちがはやっていたのかもしれない。
漸く巡ってきた、DAに戻るチャンス。腕が鈍くならないように毎日の研鑽を怠る事はしなかった。
千束のように過ごしてるとは決めていても、それは昇進や本部異動の機会を見過ごす事と同義では無い。成果を上げて、DA本部に返り咲くのを諦めたわけではないのだ。
『屋内の監視カメラの映像を顔認証にかける。野外は予備のドローンを向かわせたから、十分後には解析を始められる』
「ミズキさんは!」
『五百メートル離れた場所で連絡が途絶えたままだ。美術館の入口はデパートの通路側だから、館内のカメラで確認する。たきなは出口側に向かって目視で見張ってくれ』
「分かりました!」
クルミの指示に従い、美術館の出口通路へと向かうたきな。カバンを抱えながら壁に背を付けて音を立てずに待機していると、インカムから再びクルミの驚く様な声。
『ちょっと待て……ミズキがジンに発信機を付けてた!死んでもこっちに情報を残した!』
「……」
酷い言い草だと、たきなは顔を顰めた。ミカが『死んだと決まってはいないだろ』と突っ込んでくれているが、まったくもってその通りである。
クルミが楽しそうなのがまたなんとも不謹慎な……と思っていると、クルミから次の報告が飛んでくる。
『もう美術館に来てる』
「っ……外ですか、中ですか」
早過ぎる。流石はプロ。侮っていた訳では無いが、“サイレント・ジン”の異名通り、此方が混乱している間に静かに仕事を一つ一つこなしていくその冷徹さに、冷や汗が止まらない。
恐らく近いだろうと決め付け、銃をカバンから取り出してクルミの指示を待────────────────
『────後ろだ、たきな』
「────っ!?」
────瞬間、たきなが咄嗟に頭を下げたのと同時に銃声が響いた。
先程まで自分の頭があった位置が銃弾で粉砕し、砂色の煙が舞う。たきなはローリングしながら銃を構え、背後にいた存在向けて躊躇無く引き金を引いた。
間断無く三発連射、機械のような精密さだと定評のあるその射撃によって、三発全てがジンの右腕に被弾し、その全てが弾かれ火花を散らす。
「……っ!」
ジンは舌打ちしつつ銃をこちらに向けながら、たきなと自身の間にある通路へと逃げ込む。たきなの四発目は惜しくも壁を貫き、対象を視界から外してしまう。先の三発で決められていれば────それができなかった要因は既に理解していた。
「コートが防弾です!」
『了解、そのまま千束達から引き離せ。……今、扉を出て右に走って行った』
「はい!」
装填数を確認しつつ、クルミに従って駆け出す。
標的を見失わないように、返り討ちに遭わないように、集中力を研ぎ澄ませていく。万が一距離が離れてもミズキが残してくれた発信機を元にクルミが居場所を教えてくれる。大丈夫、まだ戦えると言い聞かせながら。
「……っ!」
────再び銃声、床が裂け、礫が飛び散る。
追う者を牽制する一撃に、思わず足が止まるも、構うものかと己を奮い立たせて尚走る。
ジンは屋外へとその身を乗り出した様で、発信機を頼りにたきなも追い掛ける。外へ繋がる扉を勢い良く開いて、パルクールの様に建物を移動する。階段を数段飛ばしで下りて行き、銃を両手に走る。
同時に、再びクルミからの通信が入った。
『たきな、朗報だ。ミズキが生きてた。今依頼者を迎えに東京駅に向かってるから、それまで持ち堪えてくれ』
「っ……分かりました!」
────ミズキが生きてる。素直に安心した。
しかしこれでミズキが松下の護衛に付いてくれれば、千束と合わせて二対一。ジンを追い詰める事ができる。それまで、自分はジンを千束達から引き離すように立ち回りつつ、かつ千束と合流しやすい場所へと誘導できれば。
『ジンの動きが止まった。十五メートル先の室外機の裏に居るぞ』
「……!」
その報告と同時に足を緩め、音を立てないよう別の室外機から覗き込む。真夏に全身黒装備という特徴的な身なりの為、室外機の先ではみ出る黒いコートがよく見える。
様子見か、休憩か、立ち止まっている理由は何でもいい。千束や誉の方へジンが向かう前に、ここで決着を付ける。
たきなは銃を持って、静かに回り込む。クルミにジンの動向を監視してもらいながら、移動してない事を確認し、奴の背後にまで位置取り、気取られる前に角から飛び出して、その拳銃を突き付けた。
「なっ……!?」
そこには、ジンの羽織っていたコートだけが取り残されていた。思わず拳銃を下ろす。慌てて近付いて見れば、コートの襟首に光る小さな粒が。恐らくミズキが付けた発信機だろう。
────まずい、発信機を気取られ、脱ぎ捨てられたのだ。ダミーとしての役割を十二分に果たされ、たきなは完全にジンを見失った。
「クルミ!見失いました!コートだけです!」
『……分かった。千束達は東京駅の近くだ。アイツにも情報は伝えとく。たきなも急いでくれ』
「くっ……!」
悔しげに歯軋りしながらも、たきなはその身を翻して駆け出す。目の前だと思っていたのに、逃げられた。ジンが標的である松下の位置を既に知っているなら、千束や誉の居る東京駅へと向かうのが必定。クルミの指示は的確だった。
それに松下は車椅子で、誉は一般人だ。ミズキが二人を迎えに行く前に狙われでもすれば、千束が二人を守り切るのには限界がある。単独行動が完全に裏目に出てしまった。
(急げ────!)
ミズキがジンにやられてしまったかもしれないと、そんな報告を聞いただけでも鳥肌が立つほどに恐怖したのだ、千束と誉の訃報を聞いたりなどすれば、どうなってしまうのか────そう考えるだけで心臓が煩い。そんな事させるものかと脳裏が警報が鳴り響く。
失う事に、これ程までに恐怖している。千束と誉の顔ばかりがチラつく。自分が今こうして走っているのは、任務を成功させて少しでも成果にして、DAの本部に戻りたいからだったはずなのに。
どうして、どうしてこんなにも焦っている。ジンが松下に────千束と誉に近付いているかもしれない事実に恐怖している。
(────ぁ)
たきなは視線を
東京駅の屋根の上。改修工事途中で鉄骨などの骨組みで出来上がった足場の先、巨大な時計の真上で、長髪を風に揺らしながらサプレッサー付きの拳銃を下に向けているジンの姿を視認する。
その拳銃の先には────千束と、彼女に向き合う車椅子の依頼者、松下の姿。
────ドクン、と心臓が脈打つ。
目を見開き、足を懸命に動かしながら、両腕を上げて拳銃を構えて。咄嗟に、叫ぶように、その名を呼ぶ。
「千束、逃げて────!」
「────っ!?」
放つ、ただ一撃を。
それはジンの拳銃をピンポイントで直撃し、同時に放ったジンの弾丸の軌道を僅かに逸らす。松下の頭蓋を貫くはずだったその弾は、車椅子の取っ手に直撃し、弾かれ火花を散らす。
たきなは思い切り床を踏み抜き、その体勢を崩す程の勢いでジンの腰付近にその身を直撃させる。そして上体をよろめかせ、床を踏み外したジンと共に、東京駅の屋根から落下していく。
「たきなああああぁぁぁぁああ!!」
「……!」
千束の叫び声が遠くなっていく。それでも、彼女を守る事ができた事の安堵の方が大きかった。何枚もの床板を重力によって貫きながら、下へ下へとジンと共に落ちていき────重ねられた工事現場用土嚢袋の山をクッションに、その身一つで激突した。
「痛ぅ……っ!?」
痛みで身体が動かせないなどと言ってる場合では無い。咄嗟にその身を起こして駆け出す。
瞬間、パシュッと空気の抜けるような、サプレッサー付きの発砲音が数発聞こえた。ジンも近くに落下しているのは当然、自身の仕事の邪魔をしたたきなへと標的を変更し、落下時の体勢のままノータイムでたきなの背へと銃弾を放つ。
(っ……拳銃が……!)
たきなはコンテナに紛れる様に駆け出し、坂を下ってその身を隠す。両手を振って思い切り駆け出す中で、拳銃を落とした事にはすぐに気が付いた。先程落下した時に一緒に落としたであろう事は理解していた。
咄嗟の事とはいえ、流石に今のは向こう見ずが過ぎたかもしれない。
「くっ……!」
再びサプレッサーによる小さな銃声と、銃弾が鉄筋を跳ねる音が反響し、休む暇無く駆け出した。接敵し、交戦し、そうして現在に至るまでで、たきなは次第にジンに追い詰められている事を実感していた。
自身の力に自惚れていた訳では無いが、やはり経験の差だけ対応力が段違いに変わってくる。無論、それぞれの能力毎に見ればたきなの方が優れている点もあるだろうが、総合的な強さは異名を持つだけあってジンに軍配が上がる。
歴戦の殺し屋、重ねた年齢の分だけ積み上げてきた技術が備わっているのに対し、たきなはセカンドリコリスとはいえ、十六歳の少女なのだ。乗り越えてきた修羅場の数から見ても、分が悪いと言わざるを得なかった。
反撃の糸口を探そうにも、位置取りの関係で逃げる事しかできない。そのうえ拳銃が手元に無い。これでは千束が来るまでの時間稼ぎにもならない。
とにかく時間を稼がなければ。ジンの位置取りに合わせて此方も動かなければならない。このまま突っ込んでくるのか、
そこまで思考を巡らせた時────たきなの背筋に冷たいものが走った。
「────っ!?」
咄嗟に姿勢を低くし、地面を蹴り飛ばす。
コンテナや鉄骨をすり抜けるように駆け、そこから急いで距離を取る。地面や鉄骨、コンテナへと銃弾が弾かれる音がして、火花が頬を掠める。
予感がある、すぐ背後でジンが銃を構えているのを肌で感じ取る。しかし振り返る時間さえ惜しい。そのワンテンポの遅れが命取りだとたきなは知っている。奴の死角に入るまでこの足を止め、る────な、
(しまった────)
また、銃声を耳にする。ジンは、再びトリガーを引いた。
連射されたその弾丸は、たきなの脇や地面をすり抜けたかと思いきや、その一つが左足の腿を掠め抉った。
「……ぐっ!」
たきなは痛みで足が縺れ、身体を地面に打ち付けた。
掠っただけでも動けなくなるほどの痛みに、その表情が苦痛に歪む。
転んだと同時に足も捻ったのか、痛みですぐに起き上がれない。その間も、敵からの銃弾の雨は止まず、たきなの息の根を止めに来る。たきなは慌てて上体を起こし、動かない足を庇いながらどうにかコンテナへとその身を隠す。
(────いたい)
痛い、どうしようもない程に。
すぐに動かなくてはならないのに、足が動かない。この場で迎撃する為の攻撃手段も先程落としてしまった。チェックメイトが、死神が足音を立てて近づいてくるような幻覚が視界を襲う。
こまめに場所を変更しながら千束が来るまでの時間を稼ぎ、千束が来たタイミングで落とした銃を回収して二人で攻めるというのがたきなのプランだったが、そんな追いかけっこにジンは付き合う気は無かったようだ。
此方が拳銃を使わず逃げに徹していることから、予備の拳銃が無い事も理解しているのだろう。最後の方は、ジンは隠れもせずに此方を追いかけてきていた。
まずい、このままでは死ぬ。
それだけじゃない、千束がジンを見失えば松下が狙われる事は必定。近くにいるであろうミズキや誉でさえ命の危機だ。それだけは、それだけは絶対に阻止しなければならない。
しかし、そんな考えも潰されるかの如く、鉄骨を踏み抜き床を駆け抜く音がする。
「────っ、ぁ」
ジンは、改修工事によって組み立てられた鉄骨によって敷き詰められた床を利用して上を取り、物陰に隠れたたきなを視認して、銃口を向けていた。
足を貫かれて動けずに隠れていた事も予測済みだったのだろう、ここに来るまでの行動に迷いの一つも見られなかった。
たきなはそれを見上げながらも、反撃の術が無い為にそれを眺める事しかできなかった。隠れようにも、もう間に合わない。外して貰える様な距離じゃない。
その銃口が、たきなの頭蓋を見据える。
その引き金が、死のカウントダウンを始める。
弾が放たれるその銃口が死神の眼のようで、それに魅入られてたきなは固まり、瞳が揺れる。
ああ、これは、ダメだ。
あと数秒で、自分は死────
「たきな────!」
「────ぇ」
その声と同時に、ジンの銃声が響いた。
たきなとジンの前に躍り出る黒い影が、たきなに覆い被さるように現れて、そのままたきなを抱えて飛ぶ。
たきなはその影に抱かれたまま二人して転がり、ジンの銃弾の死角になる場所まで移動する。
土煙が舞い、ジンからも、そして此方からも互いを視認できないようになって漸く、たきなは自分を抱える存在を見上げる事ができた。
いや、本当は見上げるまでもなかった。
何度も自分を励まし、色んなことを教えてくれて、迷子の自分を見付けてくれる、安心する人の声。
「……平気?」
「……ほ、まれ、さん……」
────朔月誉。
相棒の……錦木千束の、好きな人。
そして、
「ど、どうして此処に……」
「え?あ、いや、外国人に道聞かれて案内してて、戻ったら錦木も松下さんも居なくなっててさ……探してたら道に迷った」
「に、逃げて下さい!此処は危険で────」
「分かって、る!」
たきなを抱いたまま、振り向きざまに誉は右腕を伸ばす。その手には────先程たきなが落とした拳銃が握られていた。そしてその先には、土煙の中現れたジンの姿。
けれど誉は冷静に、当たり前に、何の躊躇も無くその引き金を引き絞った。
「────チェック」
「────っ!」
ジンと同時に放たれたそれは、互いの部位を掠める。
誉の弾はジンの腹部へと着弾する。が、ジンのそれら全ては防弾の様で、ジンは反撃できる武器があると知るとその身を翻して物陰へと移動する。
そしてジンの弾は誉の頬を掠め、誉の頬からは決して浅くない傷と、夥しい程の血液が流れていた。
「……何あれ、あれ防弾の服なの?凄いなただの布地にしか見えないのに……」
「ほ、誉さん!血が……」
「え?……ああ、ホントだ。それよりたきな、これ実弾?撃った事無いな……この前のは非殺傷弾だったし、銃も違うし……できるかな」
「……何、言って……」
何だ、これは。どうなっている。
頬を焼かれるような痛みがあるはずだ。実際、たきなも現在自分の足に同様の痛みを持っている。拳銃を持って立ち回るのは難しい。
けれど、誉は素人で、こんな痛みに慣れてるはずもない。痛いはずなのに、どうしてそんなに冷静でいられる────?
「弾道を補正」
突如、誉が唄うように告げる。
「反動を修正」
機械のように冷静に、解析するように。
「風速を計算」
装填数を確認し、再び銃へと弾を戻す。
「標的を再確認」
ジンのいる方向へと視線を傾ける。
「距離約三十メートル」
自分の立ち位置と標的までの距離。
「射程を推定」
S&W M&P9、シルバースライドモデルを見つめる。
「行動を予測」
瞳を閉じて。
「高低差を計算」
誉とジンの距離と高さを予測。
「握力対比を調整」
グリップを握り締め。
「姿勢は自然体。首はそのまま銃を目線まで持ち上げる」
ゆっくりと立ち上がる。
「フロントサイトとリアサイトの高さを合わせ」
銃を持ち上げ、ジンの隠れた方向へとそれを向ける。
「後に目の焦点をフロントサイトに合わせる」
瞳を細め、銃の先を鉄骨を見据える。
「────不殺を心に」
瞬間、もう一発が放たれた。
同時に、鉄骨に隠れていたであろうジンが顔を出し、手に持っていた拳銃が撃ち抜かれ跳ね上がった。後方へ飛ばされた拳銃は音を立てて滑っていき、ジンは驚きで固まるもすぐに我に返って、踵を返してそれを取りに向かっていった。
「……うん、まあ、いけるかな」
「誉、さん……貴方は……」
今の……今の神がかった射撃。たきなはただ見つめるだけで何も言えなくなってしまっていた。
今のはつまり、ジンが出てくるタイミングに合わせて、銃を構え撃ち放ったという事。プロの動きを予測して、更に正確な位置に射撃をしたという事────
「これ、借りるぞ。井ノ上たきな」
呆然とするたきなへと、誉は振り返る。
誉は小さな、本当に小さな笑みを向けて、たきなの頭を撫でた。
「────秒で終わらす。下がってろ」
「……はい」
Episode.18 『
誉 (……秒は無理かな。やっぱ分で計算してもらおう)
たきな (……さっきのって、俗に言うお姫様抱っこってやつじゃ……)