都合が悪いから黙ってたんだよ。でも、それは嘘とは違うんでしょ?
「っ……はぁ、はぁ……、はぁ……!」
目の前で意識を失い、無力化された暗殺者を前にして、達成感を抱くよりも先に、息苦しさに襲われた。鼓動が早く、そして弱くなっていくのが服の上からでも分かるようで、此方も意識を手放しそうになる。
暗殺者を流血一つさせずに無力化する事ができたのは、流石に優秀過ぎるのではないだろうかと、自惚れで苦痛を誤魔化して笑ってみせるも、その余韻は長くは続かない。
実は傷の痛みよりも、心臓の不具合から発生する息苦しさの方が誉を苦しめていた。
(────本格的に、ヤバい……)
死ぬのが怖い、なんて感情はとっくに耐性が付いてしまっていたけれど、死に一番近付くこの胸の苦しみだけは何度体験しても慣れる事が無さそうだった。
心臓が破裂するのではないかと錯覚する程の激痛に襲われ、どれだけ深く呼吸を繰り返しても身体全体に酸素が供給されていかない。
少しでも気を抜けば、意識が途切れる。そうなってしまったら、もう二度と目覚めないのではないかと思うと、それだけは勘弁と、己を律する事ができる。
(……まだ、錦木に会えてない……)
何の為に頑張ったんだ、と己に言い聞かせる。たきなを守る為、そして何より錦木千束に近付く為の無茶だった。
決して彼女が喜ぶはずがないと分かってはいたけれど、それでも彼女の相棒であるたきなを助ける事ができたのは、唯一褒められるべき所業ではないだろうかと、小さく笑った。
「っ……誉さん!」
「……ああ、たきな……」
階段を使って上がって来たのか、たきなは此方に向かって駆け出していた。左腿の流血は先程見たよりも大分マシになっていたが、彼女が足を引き摺りながらも此処へ向かってくる姿には、膨れ上がる罪悪感が拭い切れない。
自分の立ち回りがもう少し上手ければ、彼女にこんな顔をさせる事も無かったかもしれない。
「……ゴメン、あんなに格好付けたのに……流石に秒は無理だった……」
「そんな事、どうでもいいですよ……!」
たきなが来て気が緩んだのか、フラリとその身体が倒れそうになるのをたきなはギリギリで抱き留めてくれた。近くの物陰に運んでくれて、鉄骨を背に持たれるようにして腰を下ろす。
彼女に支えられる事で余計な力を使わなくて済んだおかげか、段々とその息が整い始める。心臓が活動を正常に再開し始めていくのが感覚的に分かる。
けれど、未だ呼吸困難になりつつあるのを、心臓の痛みに悲鳴を上げそうになるのを、どうにか胸を抑える事で堪えている。それはただの痩せ我慢でしかなくて、最早、目の前のたきなに隠す事はできないでいた。
「大丈夫ですか……っ、どこか怪我を……!」
「や……全部、掠り傷、だよ……これは……ただの、スタミナ切れ……運動不足だよ……なさけ、ない……」
息が続かずに途切れ途切れになる会話。
彼女を見やれば、その表情はどこからどう見ても怒りや心配といった表情に見て取れた。
「……そんな嘘、吐かないで下さい……」
「……ごめん……」
……たきなに、そんな悲痛に歪んだような、苦しそうな表情をさせるとは思わなくて、思わず謝罪の言葉が零れる。何かに耐えるように俯く彼女の姿を見て、誉は何処か諦観染みた感情を抱き始めた。
────ああ、そうか。
もう、隠し続ける事は、できないんだ。
(……くそ)
彼女には学校に行ってなかった事も、水族館や旅行が初めてだった事も知られている。十七歳にもなってそれらに経験が無いというのは異様だ。その理由だって、現在進行形で目の前で苦しんでいる誉自身の姿を見れば、その結論に辿り着くのはきっと時間の問題だった。
────彼女達に知られるのは、なんだか複雑だな。
誉の視界横で、たきなは鞄を漁り始めたかと思うと、包帯やら消毒液やらを取り出して此方に近付き、誉の怪我の状態を見始めてすぐに息を呑んでいた。
「酷い傷……っ、どうしてこんな無茶を……!」
「え……や、だって、錦木も居ないし……たきな、怪我してて……動けなかっただろうし……」
「っ……ですけど……」
たきなも、あの時自分が動けなかっただけにどうにもならなかった事は理解していただろう。それでも、自分に拳銃を預けたままだったのは後悔しているのかもしれない。あの時の彼女の瞳が、そう告げていた。
危険だと、そう教えてくれたにも関わらずそれを無碍にしたのは他ならぬ誉だった。
「俺……後悔は、してないよ……」
「え……」
「後で……錦木に、怒られようと……俺は……自分が、正しいと思った事を……したつもり……」
ボタンの掛け違い、みたいなものだと思った。
もし自分が“リコリコ”に来なければ。彼女達と関わらない世界線だったのなら、別に自分がこの場に居なくても、きっと錦木が解決してくれたのかもしれない。
けれど、今回の件で目の前のたきなに大きな外傷が少なく、無事であれたのは、自分が行動できたからかもしれないと、そう思うと。
「……たきなが無事で、ホントに良かった……」
「────……っ」
自分が此処で生きていた意味も、少しはあったのかな、と。そう思う事ができるから。彼女が目の前で無事でいるのだと分かるだけで、これまでの自分の行動に誇りを持つ事ができた。
自身の病気による苦しさと天秤にかけてもなお、たきなの無事をもう一度見る事ができて良かったと、心の底から思えた。
「────たきなっ!!朔月くんっ!!」
「……っ、千束……!」
「……ぁ」
その声の主を、誉は知っている。
この声をもう一度聞きたくて、その姿をもう一度この目に焼き付けたくて、頑張ったと言っても過言じゃない程に。狂おしい程に、その姿を求めていた。
彼女────錦木千束は此方を探して辺りを見渡し後すぐにたきなと、そして何より誉のその瀕死に近い姿を目の当たりにして、その表情を焦燥と困惑、そして恐怖に近い感情を綯い交ぜにした表情へと変貌させた。
「……さかつき、くん……っ、朔月くんっ!!」
夥しい程の傷と流血を目にした彼女は、物凄い速度で此方へと駆け寄って来た。背負っていた鞄を走りながら胸元へと持っていき、此方に来て膝を付いたかと思うと、たきな同様に手当に必要な道具を取り出し始めた。
「錦木……遅かったね……松下、さんは……?」
「ミズキに任せてきた……それより、この傷……!」
千束が誉の至るところに刻まれた傷を見逃す訳がなかった。声と肩が震えているのが、まだ朧気な視界の中でもよく分かる。そんなに心配する事じゃないよ、と伝えなければと口元が動く。
「ああ……掠り傷だよ。舐めときゃ治る……や、足は無理かな……俺身体固くてさ……多分届かないなぁ……」
「何馬鹿な事言ってんの!……ああ、どうしよう包帯足らないかも……たきな、持ってる……?」
「あります!急ぎましょう、ともかく止血を……!」
「朔月くん、パーカー脱がすから、痛かったら言って!」
そう千束に言われるが……確かに正直痛みで身体が動かない。腕も足も掠り傷とはいえ負傷しており、左肩に至っては弾が貫通している。ハッキリ言って無理だった。
「……っ!」
「ゴメン、もう少しだから……!」
誉が小さく頷くのを確認し、千束が誉の両肩に手を添え、そのままゆっくりと黒のパーカーを脱がし始める。痛みを堪えるように歯を食いしばっていると、顕になった白のTシャツが血で赤く染み渡っており、ドラマや小説の表現など可愛く見える程に、その何倍も生々しかった。
「……肩が一番酷い……!たきなっ……!」
「分かってます……!」
千束の指示よりも先に動くたきな。誉の左側に移動し、ゆっくりとシャツの袖を捲り上げる。痛みが少ないよう、ゆっくりと献身的なたきなの動きと、その懸命な表情に思わず目を細める。
「っ……あれ……」
「?…………ぁ」
その間、千束はたきなの後ろ、更にその向こうの手摺りに持たれるように倒れている暗殺者────ジンの姿を見て、困惑でその瞳を揺らしているのを見て、誉は思い出した。
千束は此処に来てすぐ、此方の姿を確認する前にたきなと、そして誉の名前も迷いなく呼んでいた。だが東京駅で別行動になった誉の所在を千束が知る術はなかったはずだ。にも関わらず誉の名を呼んだという事は、誉が此処に居る事を来る前から知っていたという事。
恐らくたきなが千束に連絡をしたのだろう。なら、目の前であの暗殺者が倒れている理由も、恐らくたきなの連絡から察しているかもしれない。
千束は、震えるような小さな声で、ポツリと呟いた。
「……朔月くんがやったの……?」
「え……あ、や、違うよ?全然違う、俺じゃない……この人貧血で勝手に倒れただけだって……ねぇたきな?」
「何故私の前ですぐバレる嘘を……」
たきなは助け舟を出す気すら無いようで、呆れながらもせかせか包帯を巻いてくれている。思わずたきなへと顔を向けたは良いが、その視線を再び千束の方へとは、中々に戻しにくかった。
特に言い訳を考えていた訳じゃない。千束がこの手の事に自分を関わらせないようにしていたのを知っているから、彼女からの説教は甘んじて受ける所存である。
────ただこの男、千束に理不尽な事を言われた場合に限っては、彼女の信条である『“やりたい事最優先”をした結果です』で返そうと考えている屁理屈野郎である。
烈火の如く怒り狂うだろうと。
────そう、思っていたのに。
「……ごめん、朔月くん」
「────え」
突然の謝罪。小さな、弱々しいその言葉に耳にして思わず言葉に詰まった。想像と全く違う彼女の反応や態度、言動を前に、誉は思わず視線が千束へと向かってしまった。
そこには悲しげな、今にも潰れてしまいそうな程に情けない笑みを浮かべた千束がへたり込んでいて、ゆっくりと顔を伏せて俯いた。
「……私が、もっと早く来てたら……こんなに痛い思いさせずに済んだかもしれないよね……」
「っ……錦木……?」
「ごめん……本当に、ごめんね……っ」
「────……違う。錦木の所為じゃない」
彼女のその姿に戸惑い、思わず瞳が揺れ、唇が震えた。
────……どうして、そんな風に思うんだよ。どうしてアンタが責任を感じるんだよ。
違うんだよ。君にそんな顔を、そんな表情をさせたかった訳じゃない。そんな顔を見たくて、俺は頑張って来た訳じゃないんだ。
「千束、今は……」
「……うん、分かってる」
たきなに言われ、千束は小さく息を吐くと、目に見えて目立つ傷に消毒液を浴びせ、包帯を巻く。普段ガサツな彼女からは考えられない丁寧な動作に、思わず意外そうな表情を作る。
「……言いたい事、聞きたい事、色々あるけど……とにかく無事で良かった……」
「…………錦木」
懸命に、真剣な顔で。普段の笑顔も、ふざけた表情の一つもない。どこか影が差し込んでいて、それが自分の所為なのかと思うと、どうにも心が痛かった。
「……ね、あの人、殺してないよね……?」
「え……ああ、うん……“命大事に”だろ?」
「誉さんはそれ言えないですからね」
ジンは見たところ目立った外傷が見られない。にも関わらず、勝者である誉が全身擦り傷だらけというのはいただけない。これではどちらが勝ったのか分からない。
だが誰一人死ぬ事無く乗り切れたのは良かったと、そう安堵の息を吐こうとした時だった。
『────殺すんだ!』
ふと、離れた距離から機械音声の声が響いた。
誉とたきなはそちらに顔を向け、錦木も振り返る。そこには、たった一人でここまでやって来たのか、松下が此方に向かって車椅子を動かしてきていた。
よく見たら後方には疲弊し座り込んでいるミズキの姿もある。それよりもだ、今彼は何て言った────?
『そいつは私の家族の命を奪った男だ。殺してくれ!』
「……え」
「殺し、た……って」
誉とたきなは初耳であるその情報に目を丸くする。千束は何も言わずに近付いてくる松下を見て悲しげに目を細めた。
千束のその反応から察するに、彼女は知っていた……いや、聞いていたのだろう。最後まで松下と一緒だったのは彼女だったのだから。だが、千束からの説明が特になくとも、誉とたきなは今の一言で理解してしまう。松下の“本当”の依頼内容を。
『本来なら、あの時私の手でやるべきだった。家族を殺された二十年前に……!』
以前、松下の家族を殺したのも、目の前で項垂れ意識を失っている黒髪長髪の暗殺者だという。そこにどれだけの信憑性があるかは分からないけれど、彼を殺し、家族の仇を討つのが松下の目的だったのだ。
なるほど、日本に来たのは暗殺に特化したリコリス、及びDAに助力を乞う事が目的だったのだとすると確かに辻褄が合う。
アメリカでのボディガードでは自分の身は守れど反撃はできないと踏んで、リコリスの中でも最強と名高い錦木千束に暗殺者を手にかけさせようと────
『君の手で殺してくれ。君は“アラン・チルドレン”のはずだ!』
「松下さん……」
────アラン・チルドレン。
その言葉を聞いて、誉の視線は目の前の千束に向けられる。この中でアランのチャームを首にぶら下げているのは一人だけ、目の前の少女だけだ。
まさかこの男。千束に人殺しをさせる気か。そう思った瞬間、誉は思わず体を動かそうとして、途端にその身に激痛が走った。
「────、ぐぁ……!」
「っ……朔月くん、大丈夫……!?」
全身に激痛。アドレナリンが効果を切らし、次第に痛みが再燃していく。涙が出るくらいにズキズキと痛み、まともに喋る事も叶わず、堪えるように歯を食いしばるだけ。
それでも尚、家族を失った悲しみとか憎しみを孕む怒号が、苛立ちを含む機械音声が、場の静寂を壊す様に荒れている。そんな松下の勝手な言い分に、どうにか反論しようと誉がその口を開きかけた、その時だった。
『何の為に命を貰ったんだ!その意味を良く考えるんだ!早くその男を────』
「ごめん松下さん、後にして」
────ピシャリと。その一言で空気が固まった。
一瞬、誰が言い放った言葉なのか分からなかった。松下も、ミズキも、たきなも。誉でさえ、今の声音とその言葉が千束から出たものなのだと理解するのに数秒かかった。
「……千束」
「────……っ」
たきなが名を呼び、誉は思わず千束を見る。けれど、彼女のその表情は今も変わらない。此方を心配し、労るような表情で、懸命に包帯を巻いてくれている。そこにはただ優しさしかなくて。
誉の傷と包帯のズレがないか、凄く献身的に見てくれる。その動きを止める事無く、千束は小さく、慈愛を持った笑みで口を開いた。
「……松下さん。私はね、人の命は奪いたくないんだ」
『……は?』
何を言ってるのか分からないと、そんな呆けた声を漏らす松下。千束は包帯を巻き終えた誉の腕に手を添えて、そのまま下に下がっていき、やがてその指先に自身の指を絡める。
「私はリコリスだけど……誰かを助ける仕事がしたい。これをくれた人みたいに。だから、あの人の命を奪うよりも、朔月くんを優先したい」
「……錦、木……」
アランのチャームを持ち上げながら、松下にそう告げる。
彼女の表情は、柔らかな笑みを浮かべてもなお、どこか悲しみと憂いを感じて、誉が純粋に受け止められるようなものではなかった。
その表情の意味を、見い出せないでいた。
『何を言っ……千束、それではアラン機関は君をっ……その命をっ……!』
松下のその言葉を遮るように、遠くからサイレンの音が。このサイレンはパトカーのものだ。恐らく此処でのやり取りを目撃した第三者からの通報が入ったのだろう。
ミズキは音源の方向へと振り返って、焦った様な顔で呼び掛けた。
「うわヤバ……面倒な事になる前に逃げちゃお、ほらほら!」
「誉さん、立てますか?」
「ああ、うん……ありがとたきな」
たきなに支えられる形で立ち上がる。まだ痛むし、消毒された傷の数々が滲みに滲みるが、それでも幾分かマシになった気がした。
千束は振り返り、松下に向かっていく。
「あの、取り敢えず場所を変えて一度落ち着……あ、あれ松下さん?」
「────?」
呼びかける千束の反応がどこかおかしい。たきなと顔を見合わせ千束の方へと歩いていくと、そこには物言わぬ松下が項垂れていた。
ゴーグルの電源は切れ、車椅子に装着されていたモニター画面も真っ暗になっている。千束の呼び掛けに反応する事はなく、これではまるで────死んでいるみたいだ。
千束が何度話し掛けても、揺すっても、彼が何かを告げる事はない。
そして、誉も。
「────」
「っ、誉さん……?誉さんっ……!?」
突如、誉の身体から力が抜けていく。一気に彼の全体重がかかった事でたきなが声を上げる。松下に付きっきりだった千束も、たきなのその声で思わず振り返り、項垂れる誉に向かって慌てて駆け出した。
「……朔月くん?……朔月くんっ!?朔月くんっ!!」
その声が、次第に遠くなっていく。
思考が上手く纏まらない。千束のその声だけが、薄れる意識の中で最後まで響いていた。
●○●○
「…………うわぁ」
目が覚めて、開口一番がそれだった。意識がまだしっかり覚醒してなくても、自分が横になっている事、着ているものの感触、この空間ならではの独特の空気の匂い、白で統一された部屋。
そして何より────
(……俺が世界で一番嫌いな天井……!)
目を開けて真っ先に視界に入ったそれを間違いはしない。何年、何十年と過ごしてきた“箱庭”を間違うわけがないのだ。
ここは────病院だ。そしてこの部屋はお誂え向きのお一人様専用の病室。懐かしさを覚えるよりも前に戻ってきてしまった事実を痛感して、逆に居心地が悪くて震えてきた。
「っ!朔月くんっ……!目ぇ覚めた!?大丈夫!?」
「……錦木。おはよ」
ベッドのすぐ右隣りで、千束が身を乗り出して此方を見ていた。今にも泣き出しそうなその顔を見て、らしくないと小さく笑う。
「良かったです。本当に……」
「たきな……心配かけてごめん」
千束の隣りにはたきなが腰掛けており、誉の覚醒を見て胸を撫で下ろしていた。更にベッドの向かいには、なんとミカとミズキが立っており、ベッドの左隣りにはクルミまで。
「体は大丈夫か?」
「……まあ、さっきよりは……って、どのくらい時間経ってる?……うわ、外真っ暗じゃん。面会時間過ぎてるんじゃ……?」
「病院に無理を言って引き伸ばして貰ったのさ」
軽く微笑むミカをぼうっと見上げる。そうなのか、となんとなく納得しかけたが、不意に自分の身体を見下ろすと、薄い病院服の裾から先や足には、見るも惨たらしい生傷の数々に、巻かれた包帯がなお痛々しい。
ふと違和感が脳裏に過ぎり、思わず近くにいた千束へと視線を向けた。
「は……え、な、なんて言い訳したの俺のこの怪我。ドンパチやったって言えないでしょ」
「……大丈夫、行きつけの病院だから。
「……入院する程の怪我じゃないんだけど……」
「駄目。今日一日だけで良いから、とにかく安静にして」
千束の威圧感が凄まじい。必死というか、何と言うか。言葉にできないそれを肌で感じて、それ以上不満を漏らす事無く落ち着いた。取り敢えず、今日一日は入院を甘んじて受けるとして……まだ、気になっている事があった。
「……そういえば、あの暗殺者と、松下さんは?どうなったんですか?」
「「「「「────……」」」」」
その質問と共に、誉以外の全員が顔を見合わせる。本来、DA及びリコリスの仕事に一般人を関わらせる事は無い。存在自体が機密情報だからだ。だが今回、彼らは不覚にも誉を事件に巻き込ませてしまった。
任を受けて護衛と警戒はしていたが、来日して早々に暗殺者が来る可能性の低さに傲っていた部分もあったかもしれない。
彼らの中では既に、無関係ではいられない誉に説明をする事で話がついていた。ミカは、小さく息を吐いた後に口を開いた。
「ジン……あの男は、私の以前の仕事仲間でね。話を聞いた後、そのまま別れたよ」
「ああ……そうなんですね。俺の事、なんか言ってました?」
「私の部下だと勘違いされてしまったよ。“良い腕だ”と。私としては、素直に喜べないな」
「……すみません……で、松下さんは?」
そう聞くとミカは押し黙り、チラリと隣りのミズキに目配せをする。ミズキはそれを伝えるのが自分の仕事だと理解すると、調べがついた内容をそのまま説明した。
「……さっき、クリーナーから連絡があってね。指紋から身元も割れてる。先々週に病棟から消えた、
「……え?」
その言葉に思わず耳を疑った。千束とたきなに視線をやれば、彼女達は既に聞いていたのであろう、何も言わず納得がいかないような表情で俯いていた。
それは誉も一緒だ、先程まで松下と共に居たからこそ、彼と話を色々としたからこそ、信じられないという思いも大きかった。
「……なら、あの会話は?俺達とのやり取りは……?」
「ネット経由で第三者がお前らと話してたんだよ。ゴーグルのカメラに、車椅子はリモート操作で、音声はスピーカーだよ」
淡々と話すクルミのその話を聞いて感じたのは、背筋が凍る程の恐怖だった。
その手の込み具合には戦慄せざるを得ない。つまるところ、松下という人間は存在しない事になる。あのボディガードもグルで、
「……あの、松下さん二十年前に家族を殺されたって言ってましたけど、その辺の調べは付いてるんですか?」
「……その頃、ジンは私と共に仕事をしていた」
つまり、暗殺者には恨みを持たれる道理が無い。あの話もでっち上げで、架空の話という事になる。
それに暗殺の依頼を齢十代の女性で構成された機密機関であるDAの、それも干されたといっても過言では無い島流し状態らしいリコリコ支部に依頼するのも狙いが過ぎている。
此処を選んだ目的があるという事。狙いで有力なのは、長年DAに身を置いているミカか、戦闘能力の高い最強リコリスである錦木千束。
これまでの話から考察し、消去法で物事を考えるのならば。
────彼は千束に殺しをさせる事が目的だったって事になる。
松下自身も“アラン・チルドレン”の存在を理解していたし、やたらと“使命”を引き合いに出していた。千束の使命を“殺し”に直結させる事が目的なのだとすると、多少無理はあるが辻褄は合う気がした。
もしかしたら、千束に人工心臓を与えた人間かもしれない。なら、千束のいう“会いたい人”というのは────
(……けど、それを千束に言うのか……?)
できるわけがない。確証も無いのに、伝えるのは憚られた。自分はあくまで一般人で、本来ならこの世界の錦木達とは関わりあってはいけない存在だった。
彼女はただ、救ってくれた人に会ってお礼を言いたいだけなのに。此方から不安にさせるような事を告げるのは、違う気がする。
なら、この話はもう終わりだ。誉は小さく息を吐いた。
「……色々教えてくれて、ありがとうございます。もう大丈夫です」
────そして、今もなお不安気な視線を変えない周りの視線を見て、誉は聞きたくない事を聞く覚悟を決めた。
ああ、もう質問するだけの楽な時間は終わってしまったんだと、半ば諦観を抱きながら。
「あの……俺の倒れた原因って、もう聞いてます?」
「……過度な運動による心機能障害だそうだ」
────心機能障害。聞くと何とも分かりやすい単語だ。倒れた原因を言語化するのに、これほど簡単なものもないと卑屈に笑う。
千束とたきなは不安そうな表情を変えない。千束は、誉から決して視線を逸らそうとはしない。ミカの発言に彼女は改めて驚いたりはしていない。どうやら担当医から既に倒れた原因を、自分が気を失ってる間に聞いたのだろうと理解した。
「……どういう事なの」
「……ミカさんから、聞いたんじゃないの?」
「直接聞けって、先生が」
ミカさんへと視線を向ける。彼は何も言わず、ただ此方を見ていた。ミズキも、クルミも────たきなも。
誉は観念したように、苦しみを誤魔化すように、小さく笑みを浮かべながらポツリと呟いた。
「後天性の心疾患でさ……もう長時間の運動ができないんだ。気が付けば病院暮らしでさ……まともに出歩けるようになったのもつい最近のことだったんだよね」
「……ぇ」
「っ……なん、で……」
たきなと、そして千束はやはり知らなかった様だった。話さないでいてくれたのは、ミカやミズキなりの気遣いだったのかもしれない。クルミも個人的に調べていたのを知っていたが、今の今まで黙っていてくれた。
つまりこれこそが、誉が学校に行けず、水族館にも行けず、地元である東京の観光に行けなかった最大の理由。生まれて今日までの十七年間の内の大半を、誉は病院という名の“箱庭”で過ごしてきた。
「い、今は退院してるんですか?通院とか……」
「退院は……まあ、してるかな一応。通院はしてない」
「なんでっ……!!」
隣りに座るたきなが驚きで肩を震わせる程の怒声。声の主である千束の瞳が鋭くなる。睨み付けているとも思える程に。口元を引き絞り、怒りや苛立ちを堪えるようなその表情を見ても、誉は特に動じる事はなくて。
「病院嫌いだし……行っても
「……意味が、無い……?」
「うん、治んないからね」
「治らないって……じゃあ……」
その言葉の意味を、たきなは図りかねて思わず反芻する。いや、本当は理解しているけど、理解したくないような、そんな表情に見えた。
そしてそれは、千束も同様だった。けれど、彼女が人工心臓であるという特殊過ぎる境遇だからだろうか、恐らく誉の現状を一番理解しているのは恐らく千束だった。
誉からすれば彼女が人工心臓を移植された経緯は不明だけれど、単純に考えれば病気か任務中の致命傷が原因だ。
────そして、彼女の反応とこれから来るであろう質問を考えれば、恐らく前者。
────……なら。なら、もう言ってしまおう。
どうせ聞かれてしまうのなら、此方から誠意を持って伝えてしまおう。
「……ゴメンな、錦木。たきなも」
「ぇ……」
「……どうして、誉さんが謝るんですか……?」
二人の困惑した顔が此方に向けられる。誉のその雰囲気から、ミカやミズキは息を呑み、クルミはパソコンから目を外し此方を見つめる。
「……え、先生?……ミズキ?」
「……」
「……え、ちょ、何……?」
ミカとミズキ、クルミは知っていて、二人はまだ知らない。
それは彼らに出会う前に宣告された、無慈悲な現実。
「……半年」
「え……」
「半年、って……?」
千束とたきなは突拍子も脈絡もなく告げられたその単語に戸惑い、何の話だと顔を顰める。
今ので察してくれたらなと苦笑しつつ、誉は普段と変わらない柔らかな笑みで伝えた。
「────俺の、余命さ」
▼
空気が、凍り付いた。
世界中の時間が、停止したとさえ思えた。
「……ぇ」
千束とたきな、どちらが零した声か分からない。
彼が何を言っているのか理解できない。およそ現実とは思えない程の衝撃を前に、二人はただ固まっていた。
それほどまでに、誉の一言は────
「……な、何言って……そんな嘘、笑えない……」
千束はまるで不意打ちに遭ったような驚愕の色が表情から見えるも、受け入れがたい現実のあまり口角が上がっていた。
たきなも顔を真っ青にして此方を見ていて、誉が口にしたその残り期間を反芻した。
「────半、年……?」
「うん。長くても一年くらいだってさ」
「……っ、そん、な……!」
────
生々しく突き付けられたその残り時間に、病室の空気が凍り付く。一年にも満たない残りの時間、その現実味を帯びた一言に、誰もが言葉を発せられない。
ミカもミズキもクルミも、何も言わない。恐らく知っていて、そして。
────千束とたきなだけが、知らされていなかった。
ミカやクルミの視線を気にしないように、見ないように振る舞いながら、誉は『驚かしてごめん』と、千束とたきなに笑いかける。
千束の顔は、困惑と絶望でもう限界を迎えているように見えた。小さく、震える声音は変わらないまま、再度誉に向かって問いを投げかけた。
「……なんで、黙ってたの……?」
「え……」
「心臓の事。言わなかったじゃん……っ」
「……錦木だって言わなかったろ。俺も聞かなかった」
────それを、アンタが言うのか。
怒っているように見えた彼女に、そう正直に言ってやりたかったけれど。彼女の人工心臓の件を掘り下げなかったのは、あの時は此方も彼女に伝えてない事があったからだった。
「っ……命の危険もあるって……それが分かってて、戦ったの……?」
「え……うん、まあ……」
「身体に負担がかかって、疾患の所為で死ぬかもしれなかったのに、あんな事ができたんだっ……!?」
「……俺はあの時、生きる為に戦ったつもりだったんだけど」
千束に当たるわけじゃないが、あの場で自分が動かなければたきなだけでなく自分も殺されていたかもしれない。殺されて死ぬよりは、自分の残りの寿命を最後まで使い切りたい。その為に、誉はあの時戦ったつもりだった。
「……怖く、ないんですか?」
「え?……あー……そう、ね……平気になった」
たきなのその質問は至極真っ当なものだった。残り半年で自分が死ぬと言われても、あまり現実味がないというか、実感が湧かないのだ。だから、楽観的に物事を考えているのかもしれないけれど。
「……最初は怖かったけど、自分でどうにもならない事を考え続けても仕方無いって、今は思ってる」
「……」
「その日その日を精一杯、後悔無いように生きる。月並みだけど、俺は今凄く楽しいよ?錦木とたきなと、クルミとミカさん、ミズキさんの六人でリコリコで働くの」
病院から飛び出した先には、誉の知る事の無かった世界が無限に広がっていたのだから。テレビや物語、ネットで調べた知識以上に、その身に刻んだ経験や記憶の全てが、今日まで生きていて良かったと思わせてくれた。
その出会いを生み出し、増やし、知らない世界を教えてくれたのはいつだって、目の前のリコリス────錦木千束。
「……だから、錦木。最後まで俺を、リコリコに置いてくれないかな」
「っ、そんな、の……」
千束に言われる前に、誉がそう口にする。
この店に誉を招き入れた彼女の事だ、責任を感じてしまう事は目に見えていた。今日みたいな事が起きた時、誉をこれ以上危険に晒さないよう、距離を置こうとするかもしれないと。
けれど、もう誉の残り人生に置いて、リコリコが傍らにない時間など考えられなくなっていた。
「ミカさん、明日からもよろしくお願いします」
「……分かった」
「先生っ!!」
「店長、どうして……!」
ミカのその答えに千束は立ち上がり、たきなは声を上げる。二人は反対なのか、ミカを睨み付ける程に眼光を鋭くさせていた。
彼は何も言わず目を瞑ったが、その隣りでミズキが深く息を吐き出した。
「あのねぇ……そもそも彼を追い出す事ができないの」
「え……な、なんで……」
「今回の件、アンタらが一般人を巻き込んだ事は、多分上に知られる事になる。お偉いさんが朔月くんをどうするのか分からない以上、おいそれと追い出すわけにはいかないでしょ」
「っ……そ、れは……なら、報告しなければ……ううん、したとしても私とたきなで対処したって言えば……」
「────“ラジアータ”」
「……ぁ」
ポツリと、クルミから告げられた言葉。
誉は知らず首を傾げていたが、他のメンバーにはその存在の大きさが分かるようだった。
“ラジアータ”────DAにおいてリコリスの作戦をモニターする際に機密性を担っているAI。 すべてのインフラの優先権を持ち、作戦の全般をサポートする程の高性能。作戦に必要な通信能力、監視カメラ映像、データ収集などは容易く熟す。その気になれば、日本全ての情報を収集する事だってわけがない。
「嘘の報告をしても時間稼ぎにしかならない。整合性が低ければ本部もラジアータも、その違和感を見逃さない。朔月くんの存在がDAに見付かるのは時間の問題だ。距離を置くのは逆に危険過ぎる」
ミカのその言葉がトドメになったのか、千束は何も反論できずに力無く腰を下ろした。たきなも、呆然と口を開けて俯く。
誉はもう、常連だった時のような平凡な生活を送る事は叶わない。残り少ない寿命を、リコリコと相乗りしなければならない、その選択肢しか彼には与えられていない。
八方塞がりだ。千束とたきなには、もう打つ手はなかった。特に千束の表情には、絶望に近いものを宿していた。そこから感じるのは、深い悲哀と後悔の念。
全ては、あの日。彼に出会ってしまったから。彼を好きになって、彼と一緒にいたくて、彼とお店で働きたいと願ってしまったから。
全て、全て自分のせいで。
「────
「……ぁ」
────その名を呼ぶ。
ゆっくりと、千束は思わずその顔を上げた。
頬に、肩に、腕に、足に。その身全てに傷を刻みながらも、リコリコに誘ってくれた千束に感謝すれど、恨む事など誉には一つも無くて。
「……ごめんね」
「────……なんで」
ポツリと、そう呟かれた問い。
誉は瞳を細めて、どうにか気持ちを抑えながら告げた。
「……俺、“将来の夢”の事は、もう考えられない」
「────っ、ぁ」
千束は、誉の夢を凄く褒めてくれていたけれど。目指すべきだと言ってくれたけど。
たきなは、夢が多過ぎると窘めてくれたけど。現実を見て一つに絞れと教えてくれたけど。
その夢のどれか一つでも、今の自分には難しいから。
「けど精一杯生きるから。君みたいにやりたい事最優先で。だから……此処に居たい。
▼
「……はぁ、はぁ……!」
────どうやって、何を言って、誉の病室を飛び出したか分からない。
ミカやミズキ、クルミとたきな。みんなを置いてそのまま廊下を走り抜いて、そのまま病院の駐車場に停めてあるミズキの赤い車の前まで辿り着き、そうして漸くその足を止める事ができた。
「……はぁ……はぁ……」
どれだけ走っても、心臓の鼓動はない。
人工心臓は、悲鳴を上げたりしてくれない。
自分が間に合わなかったせいで戦う事になった彼の身体の痛みも、その心臓の痛みさえ、もう自分は分かってあげる事ができない。
────“いえ、丸ごと機械なんです!”
機械によって生かされている。強い、機械でできた心の臓によって生き永らえている。凄いだろ、と。
誉にはまるで、自慢しているみたいに聞こえていただろうか。彼がそんな風に思う人でない事を、千束はとっくに知っていた。
───“ほら、もっと力入れないとー。女の子みたいに
───“何処も行った事ないの?家ってこの辺だよね?”
───“観光気分で付いてきて良いもんじゃないのよ、本当は”
───“でも怪我でもさせたら、朔月くんの夢の邪魔になっちゃう……”
───“朔月くん頭良いし、何にでもなれるよ!”
自分は、彼に何度失言しただろうか。
彼の身体的特徴も、色んな場所に無知である事も、色んな経験に疎い事も、それ故の“こうしたい”という願望や欲も、全てはその境遇故の弊害だった。
おいそれと軽々しく、触れてはいけない場所だった。
────半年。
それが、彼の
自分よりも少なくて、自分よりも先にいなくなってしまうその事実を受け止めきれなくて。
言いたい事、聞きたい事の半分も伝える事ができなかった。
「……ははっ、なっさけなぁ……」
既に夜、天は星空が覆い、薄暗がりの中街灯だけが千束を照らす。
その中で暗くて何も見えなかったはずの千束の視界から、雨粒にも似た水滴が地面に落ちた事に気が付いた。
「……あ、あれ……」
ふと、顔を上げてその頬に触れる。
ヤケになって、強く、強く頬を拭う。とめどなく滴り落ち、流れているのは自身の瞳から溢れ出たものだった。
今、自分は泣いているのだろうか。泣くのなんて、酷く久しぶり気がした。何が悲しくて、何が哀しくて、何が切っ掛けだったのか、今の千束には分からなくて。
「……どうして……止まんない……っ」
拭っても、拭っても、とめどなく。
今まで経験した事もない感情が、千束の胸に押し寄せて。
「……なんでよ……なんで……なんでぇ……」
────初めて流すその涙の止め方を、千束はまだ知らなかった。
たきな 「……あ、あの、誉さん」
誉 「たきな?……ミカさん達、先行っちゃったけど」
たきな 「っ、その……言わなきゃいけない事があったので」
誉 「……え、何?怖い怖い、何?」
たきな 「……あの時、助けてくれてありがとうございました」
誉 「え…………あ、はい…………」
たきな 「……」
誉 「……」
たきな 「…………」
誉 「…………え?」
たきな 「っ……で、では、またお店でっ……!」
誉 「あ、うん。また……」
誉 「……」
誉 「…………別に二人にならなくても言えたよな?」