忘れたくても忘れられない。余計なことばかり覚えてるものだよ。
「着いたぞ」
「へぇ、此処が……」
「普通の建物に見えますね」
都心の高層ビルが立ち並ぶ中で、柵に囲まれて聳え立つホテルのような建築物。目的地に到着した途端に俺の左右に座っていた錦木とたきなが車を降りる。
だがすぐにドアを閉めずに、それぞれが少しばかり顔を覗き込んで此方を見ていた。え、何?俺?降りないよ?そういう話だったよね?
「それでは誉さん」
「行ってきまーす♪」
たきなと錦木が二人して俺にそう声をかけてきた。どうやらただの挨拶だったらしい。小さく微笑む彼女達がなんとなく微笑ましくて、俺も視線を交互に目配せながら見送る。
「ああ、行ってらっしゃい。気を付けてね」
「はいはーいっ」
「千束の面倒は私が」
「たきなは私のお母さんかっ」
ほぼ同時にドアを閉めると、二人は肩を並べてその建物の入口へと向かっていった。その背が段々と小さくなって扉の先へと消えていくのを見届け、俺はすぐに助手席に座っているであろうクルミのタブレットを覗き込むべくその身を助手席へと乗り出し────ってあれ、クルミがいない……まさかついてった?
「おい、そっち詰めろ」
「え……?あ、ちょっ……」
なんとも身の程知らずのリスなんだ、とディスりそうになった瞬間に俺の座る後部座席の左ドア、その開閉音を耳にする。
思わず顔を向けると、助手席にいたはずのクルミが入り込んできて、タブレットPCに視線を落としながら俺の隣りに座ってきて……えっ、ちょ、は。
「え、何で後ろ来たの」
「こっちの方が広いからな」
「いやそんな変わんない……」
「さて始めるぞ、ここからはボクの仕事だ」
見てろ、と俺を一瞬だけ見て小さく笑うクルミ。バーに入る為のパスコードは既に入手しているらしく、事前に錦木とたきなには伝えてあるとの事。
そこからバーに入ってすぐの監視カメラも、室内のカメラも既に掌握済みときてる。クルミの役割はミカさんと楠木さんの座る場所まで二人をバレることなく誘導することだった。
「二人が店に入ってきた」
「お、ナーイス♪」
クルミの報告に、運転席のミズキさんが振り返ってサムズアップしてくる。此処にリコリコの良心は存在しない。完全に治外法権。助けてミカさん。
店の入口の監視カメラから、ドレスアップしている錦木とたきなの二人が並んで入って来るのを目指する。カウンターを挟んで向こう側には、お客様を出迎えるべく男性の受付スタッフが既に控えていた。
『ようこそいらっしゃいました。恐れ入りますが、お名前をお聞かせいただけますか?』
名前……そうか、確かクルミが二人分の会員証を偽造してるはず。まさか錦木とたきなの本名で登録してるはずないだろうけど……。
その直後、自信満々に色っぽく話す錦木と、いつも通りのたきなの声が聞こえた。
『────
『────
その偽名を耳にした途端、俺とクルミは吹き出した。
Episode.32 『
▼
「っ……くっ……え、な、何……わ、わさびと、のり?」
「か、かばや、き……ぷっ、くく……!!」
誉はクルミのタブレットを見ながら、その偽名のセンスを聞いて笑いを堪えられる訳もなく腹を抱えながら身を捩る。
な、何だよ蒲焼に山葵と海苔て……合わせたらちょっと薬味の美味そうな蒲焼定食の出来上がりじゃないか……ダメだ、笑い過ぎて涙出る。
何がツボってその偽名を堂々と伝える二人のスタンスがもう面白い。千束の『山葵のりこ(ドヤア)』とたきなの『蒲焼太郎(キリッ)』の言い方が最高にツボ。
一頻り笑っていると、運転席のミズキがクルミの頭を『アホ!』と叩き、クルミの顔がタブレットに埋まった。
「そんな偽名があるかぁ!」
「平気だって」
未だ笑いを抑え切れずにいたクルミが、そのタブレットをミズキさんに見せる。眉を寄せていたミズキさんだったが、監視カメラに映っていた男性の受付がデータを参照し終えて告げた一言に目を丸くする。
『────確認致しました。蒲焼太郎様、山葵のりこ様、ご案内します』
「マジか!」
これには誉も驚いた。この名前信じたのか受付の人。こんな生まれて三秒で付けたみたいな名前を。絶対に蒲焼と山葵と海苔を食べながら適当に考えた名前だろ。
隣りを見ればクルミが駄菓子を口に含みながら得意気に此方を見ていて……てかそれ、食べてるの『わさびのり』じゃね?ってなる誉。
「データしか信じない人はドンドン阿呆になるなぁ。お前らも気をつけろー?」
「……ねえそれ食べてるの『わさびのり』?」
それは確かにそうかもしれない。
だってこの名前を聞いた受付のスタッフは内心どう思ってるんだろうとか考えてしまう。普通に考えて蒲焼と山葵と海苔て。嘘だろと思うでしょ。すんなりとは通せないよね流石に。俺あの受付の人だったら黙ってられる自信ない。なんだったら聞き返しちゃうかもしれない『え、山葵と海苔ですか?』って。
『……あ、店長来ましたよ』
『わぁ……先生、なんかメッチャ決めてんだけど』
その声を耳にして、誉は我に返る。既に二人はカウンター席から離れた席に並んで座っており、視線はそのカウンター席へと向けられている。
クルミがカメラの視点をカウンターの後ろに切り替えると、そこには黒シャツに白いジャケットを身に着けたミカが席に腰掛けるところだった。その佇まい、服装と雰囲気から見て、どう考えてもプライベートだった。
「ほら、やっぱ逢引きだ逢引き。楠木が来る前に撤退した方が良い」
「だって楠木は……」
『女性だし……って、来たぁ!』
インカムを通してタブレットから聞こえる、千束の最初の言葉に疑問を抱く前に、カメラに釘付けになる。ミカさんの背後から人影が現れ、ゆっくりと天井のライトに照らされてその姿を露わにする。
そのシルエットからすぐに楠木───女性である可能性が排除され、やや細身の体格にミカとは正反対の黒のジャケットに既視感を抱く。やがて頭部までをも鮮明にカメラが映し出した時、誉の瞳は僅かに揺れ動いた。
「────……吉松、さん」
ミカの約束の相手は、誉がかつて一度だけ顔を見合せたことのある人物であり、ミカの旧来からの知り合いだという吉松シンジだった。
仕事の関係で世界中を飛び回っているらしく、その為に長期間店にも来れない状況なのだと千束から又聞きしていただけに此処で現れるとは思っておらず、誉はシンプルに驚いた。
『え……ヨシさん!?』
千束もたきなも驚いている様子。しかしその瞬間、ミズキがハンドルを支えに項垂れて深く溜め息を吐き出したので、何事かとクルミと二人で顔を見合せていると、
「だぁ〜……逢引きだなこりゃ」
「「え」」
『私としたことが……』
『え……え?』
誉とクルミ、インカム越しでたきなも困惑した声を漏らす。何故そんな反応なんだと問いかけようとして、ふと自分なりに考えた。
相手が楠木でなかったにも関わらず、千束とミズキから出てきた言葉は『逢引き』……つまり相手が楠木ではなかっただけで、誉の予想通りミカのプライベート……えっと?
男と男の会合に、何故逢引きという言葉を……え?あ、まさか、そういうこと?
「……え、
「待て待て、ミカは
クルミが隣りで呆れたようにボヤくのも、耳に入らない。え!?ミカさん、え!?……と、誉の脳内は絶賛混乱の嵐である。
具体的にはミカ×ヨシなのかヨシ×ミカなのかの緊急事態だった。最近常連の腐女子を名乗る文学女子中学生に教えてもらった知識を総動員してこの脳の混乱を収めるべく情報収集に走り出す。
「え、待って!どっちが攻めでどっちが受けですか!?」
「知るかそんなもん!オッサンに自分で聞けっ!」
聞けるかそんなもん。でも知らない世界に興味津々。新しい世界を教えてくれるリコリコのお客さんに感謝。
確かにミカは今日の昼に話した時『昔の知り合いに会う』と言っていた。それだけで楠木と、誉は判断してしまったが……そうか、吉松も確かに該当する。あとサイレント・ジンとか。
ただこの事実を知ってしまうと、サイレント・ジンともそういう仲だったのかなぁとか考えてしまう。ヤバい、何かテンション上がってきたかもしれない。体熱っ。
『……行こう、邪魔しちゃ悪い』
『ぇ……は、はい……?』
『愛の形は様々なんだよたきな』
千束がこの場を立ち去ることを決め、たきなはまだよく分かってないみたいで首を傾げつつもその背を追う。千束のそれっぽい発言を聞いても、きっと変わらず眉を寄せているだろう。
クルミのタブレットにはミカと吉松さんの乾杯の背後で、およそリコリスとは思えない格好で情けなくも移動する二人の姿。思わず苦笑しながら眺めていると。
「……錦木?」
ふと、隠れて移動していたはずの千束の上体が起き上がった。その視線はカウンター席に座る二人───吉松の方に比重が傾いている気がする。たきなが早く進むよう催促しても固まって動かず、それどころか表情を綻ばせて二人の元へ行こうとしている様に見えて、
「千束が動かない。たきな、どうした?」
「何やってんのよアイツ……!」
クルミとミズキがそれぞれ慌てた様に捲し立てる中、誉は立ち去ろうてしていたはずの千束が急に止まった原因であろう前の二人へと視線を戻す。
二人は互いにそれぞれが持つグラスに視線を落としながらも、口元がタブレット越しでも分かるくらいには開閉していた。
「……前の二人、何か喋ってる」
「ホントだ。誉、聞き取れないか?」
「無理でしょ、錦木達のインカムから拾える音にも限度あるし」
「なんだよ、
「ええと……『できてしまったかもしれない……私のお腹にミカとの子どもが』」
「もういい、壊滅的だ」
「最初から無理ゲーなんだよなぁ」
急な無茶振りは凄く困る。その手のことは勉強したことがないので、誉には“読唇”も“読心”も“
『とにかく行くぞ』とクルミが告げると同時に誉も反対のドアから外に出る。『あのバカ……!』とミズキがそれぞれ車を降りて、千束の元へと向かう流れに。
しかし建物の入口まで来ると、クルミが振り返り一言。
「誉は待機な」
「え」
「時間無かったからボクとミズキの会員証しか発行してない」
そう言って、入口まで来たのに閉め出された様な気分になりながらの留守番となった。仕方無い、終わるまで待つか、と都会の景色を眺めながら入口付近の壁に寄り掛かる。この一時間としない内に物凄い情報の波が押し寄せて、脳が熱暴走しそうだったので、正直待機を言い渡されて助かったかもしれない。
何はともあれミカの相手は楠木ではなかった。千束がDAに戻されるかもしれないという話は杞憂に終わったのだ、それだけ分かれば取り敢えずは安心である。
(……でも)
懸念はある。千束の話によれば、覗き見たミカのスマホに映ったメッセージには『千束の今後についての話』とあったらしいのだ。相手が楠木でないのなら、その話を吉松から切り出されることに違和感がある。
話を聞く感じだと吉松はDAとは無関係、来店の頻度も少なく、千束を気にかける理由がよく分からない。恐らくミカ達の逢瀬を邪魔しないように努めていたはずの千束は、ミカと吉松の会話を聞いたことでそれを失念してしまったのだ。その会話の内容が何かは分からないが、千束がカメラからでも分かる程に嬉しそうな笑みを浮かべて、吉松の方へと向かってしまう程の何か────
「……あ、誉さん」
「……っ、あ、あれ、たきな?」
かなり近い距離からの呼び掛けに肩が跳ねる。慌てて振り返ると、たきなが一人で戻ってきていた。誉は思わず安堵の息を吐き出すと、彼女の辺りを見やりながら眉を寄せた。
「……クルミとミズキさんと会わなかった?」
「え?いえ……」
「入れ違いになったかな……それで、錦木は?」
「店長と……ヨシさんと、話があると」
「……何か、あった?」
ヨシさん、と言い慣れてないのかぎこちなくそう告げるたきな。その表情は何とも読み取りにくいものだった。ただ何処か憂いを孕んだその瞳に、思わず誉は口を開いてしまった。
たきなは途端に表情を強ばらせ、しどろもどろに目線を動かしながら、小さく呟いた。
「……千束の探していた人が、ヨシさんだったんです」
「────……ぇ」
その言葉の意味を理解するのに、どれだけの時間がかかったか知れない。
視界が霞み、瞳が揺れて、口元が震える。今まで靄がかかっていた思考が鮮明になる。これまで錦木の事や松下の事、吉松とミカの関係性などの推測をしていた脳のピースが、次第に埋まっていくような。
底冷えするような背筋の冷たさと、点と点が線になっていく様な感覚に陥った。
千束が探していた人が、吉松。
自分を助けてくれた、人工心臓を授けてくれた恩人が、吉松。
千束を支援していたアラン機関の人間が、吉松。
……つまるところ松下の背後にいたのが、吉松。
千束に人殺しをさせようとしたのが……吉松。
「────……はは」
────“貴方は何にでもなれる”
そう言ってた癖に、その在り方を強制しようとした母を思い出して笑ってしまった。吉松が千束に拘る理由に似たものを感じてしまい、辻褄が合っていく感覚だけが鳥肌という形で現れた。
二か月前の松下の護衛での出来事を、言葉を嫌でも想起する。“殺せ”と、“それが使命だ”と、“アラン機関が何の為にその心臓を授けたのか”と、まるで世界に隷属させる為の楔を穿つように並べた呪いの数々。
“アランチルドレンとしての意味を考えろ”と、そう言い募った松下を背後で操っていた人間が誰だったかなんて、これまで色々推測を立ててきた誉にとっては意図も容易くその真相に辿り着いてしまう。
(なんだよ、それ……)
全て、誉の予想通りだった。松下の裏で声を当てて語りかけていたのは吉松だった。彼は千束にDAのリコリスとして人を害し、殺める為の力を才能として見出したのだ。それを世界に届ける、平たく言えば世界に知らしめる為に、錦木千束はその人工心臓を与えられた。
つまりそう生きよと、アラン機関に定められた。世界から使命を与えられるとは、そういうことだ。
けれど千束は人を傷付け、殺すことを決して良しとしない。たきなからの又聞きや推測もあるけれど、彼女はきっと自らに命を与えてくれたその恩人の“救世主”たるその行動にこそ倣うべきものがあると考えている。
自らに与えられた時間は、きっと誰かを救う為にあるのだと。自分が、そうされたように。それが恩人に報いることであり、憧れた生き方と在り方。
そしてその与えられた時間を使って誰かの時間を奪うことだけは、決してあってはいけないのだと。松下の言葉を拒否してまで誉の怪我の手当をしてくれた時に、それをひしひしと感じた。
つまり、千束の思想と吉松の思想は完全にズレてしまっている。致命的なまでにすれ違ってしまっている。これでは、千束の想いが報われることなど、吉松に届くことなど、決してない。
「……やるせないよなぁ」
「誉さん?」
「ううん、何でもないよ」
千束が可哀想だと、素直にそう思った。これは同情だろうか。それとも
「……ヨシさんが、千束の心臓を作ってくれたんですよね」
「そう、だね。アラン機関のお陰で、錦木は生きてる」
たきなの言葉に対しての返答を、自分に言い聞かせるかのように呟いた。
アラン機関がしている行為は見返りを求めるものであり、決して慈善団体などではないけれど。使命という見返りの為の支援には命を救う行為も含まれているというのなら、その活動自体を悪だと切り捨てるのはお門違いではあるのかもしれない。
テレビやネットで報道されている内容はアラン機関の内情の一部でしかないし、噂の域を出ないものも存在するが、支援で救われた人間もいるので間違っているものではない。千束が吉松に向ける感謝の気持ちは、きっと正当のものだ。
「……なら」
────小さく、か細い声が漏れる。
目の前で、下を向いて何かに縋るように語るたきなが映る。
「才能があるなら、支援をしてくれるってことですよね」
「たき、な?」
「千束みたいに……助けてくれるってことですよね」
「……何、言って」
その言葉の意味を追求しようとした瞬間だった。入口前の通りにクラシックな見た目の
それは、千束と話をしていたはずのミカの約束の相手、吉松シンジご当人だった。
「……吉松、さん」
「ん……ああ、君か」
振り返って此方を見る吉松と、誉との視線が交わる。その瞳に誉は母とよく似たものを感じていた。
何の感情も浮かんでいない様な、無味乾燥な目つきだった。本当に、あの天真爛漫を絵に書いた様な千束と話した後の表情なのかと疑いたくなる程に冷たく見えた。
どうして、と言ってやりたかった。千束の想いを、言葉を、ちゃんとその瞳で見て、その耳で聞いて、その心で受け取ってあげたのかと、そう聞いてやりたかった。
────アラン機関の人間は、みんなそうなのか?
「……あのっ」
隣りで上擦った声でたきなが吉松を呼ぶ。吉松は誉ら視線をたきなに向け、誉もそれに弾かれたように意識が覚醒し、誉は慌てて彼女を見やった。
「先程は、お邪魔してしまって……でも千束、喜んでました」
「……」
たきなの言葉を聞いて、吉松は小さく微笑む───微笑んだ様な、そんな気がする。それは嬉しくて笑ったようにも見えて、くだらないと嘲笑するようにも見えた。
「またお店でお待ちしています。千束はずっと貴方を────」
「君なら分かるはずだ」
たきなの言葉を遮って、吉松はそう告げた。その瞳には使命感や執念にも似た感情を宿しているように見える。
「────千束の居場所は此処ではないと」
「……ぇ」
その為には全てを犠牲にすることを厭わないような、そんな瞳。自分も、他人も、そして世界でさえも。
恐らくたきなには、吉松が何を言わんとしているかが伝わらなかったかもしれない。だが誉には。誉にだけは。
「君には期待しているよ、たきなちゃん」
吉松はそう言って、車のドアを開いた。運転席には女性の姿がちらりと見えて、左目で此方を監視するようにして見据えている。
誉としてはアラン機関について、千束と話しただろうことについて何か言及したかったが、それは千束とミカに可能であれば聞けばいいと、この場では何も言わないことにした。
「待ってくださいっ……!」
「っ……ぇ」
しかし、たきなが二度目の静止をかけ、車に乗り込もうとする吉松を再び呼び止めた。いつもと様子が違うたきなを、誉は困惑しながら見下ろす。
吉松はそれを煩わしく思うような表情もせず、ただ無表情のままたきなの言葉を待っている。
「アラン機関は……才能がある人なら、誰でも支援してくれるんですか?」
「たきな……?」
何かに追われるように、焦ったように、必死さが滲み出るように、たきなはそう吉松に問いかけた。その質問の意図も意味も分からずに、誉は何も言うことができずに固まる。
吉松でさえ何も言わず、彼女のその先の言葉を待ち受け、その瞳でただ見据えて。
「たきなちゃんも、何か自分に誇れるものがあるのかな?」
「……私じゃ、ありません」
「────……っ」
たきなの視線が、一瞬だけ此方に向く。刹那ではあったが、確かに目が合った。何故このタイミングで自分を見たのだと、そう疑問を形にした瞬間、それはまさかという予想と共に泡となって消えていく。
彼女は再び吉松を見る。彼はたきなの視線の先につられて誉とたきなを交互に見やり、その先の言葉に仮説を立てたかの如く目を見開いた。
やめて。
待って。
待ってくれ、たきな。
その先の言葉は、決して言ってはいけない。
「千束のような心臓を、誉さんに作ってくれることはできますか?」
「────たきなっ!!」
「……っ!!」
ピシャリと、彼女の想いを否定するように、そう叫んだ。その怒声にも似た声に自身の願いを遮られたたきなの両肩が震えるのを見た。ゆっくりと視線を彼女へと持っていく。
彼に怒鳴られたことないたきなは、誉が彼女に出会ってから一度として見たこともない表情をしていた。誉のその拒絶に驚いたような、今にも泣き出しそうな、そんな少女の顔だった。
自分の為にとやってくれたことだと分かっている。それでも、今の発言で恐らく吉松は、誉自身の才能……は分からなくとも、心臓に疾患があることを知ってしまった。決して目の前のアラン機関の人間に、それを伝えて欲しくはなかったのだ。
たきなが俯く中、誉は吉松へと視線を戻し、小さく頭を下げた。
「……すみません吉松さん、急に大きな声出して。何でもないんです、忘れて下さい」
まだ自分の中で、アラン機関に助力を乞う選択肢は存在しない。彼らが命を救うことをも支援としている部分には素直に尊敬している。これは嘘じゃない。
ただ誉は、自身の余命を痛感したからこそ、残り少ない人生だからこそ自由に楽しもうと思った。そして毎日が自由で楽しいからこそ、人生は尊いのだとこの数ヶ月、リコリコで過ごして再認識したのだ。
世界に隷属してまで生き残るだなんて、それは自分の意志で生きていると言えるだろうか。死なないよりは良いかもしれないが、そこに至るまでを突き詰めて考えたことはない。だから、今ここで答えを出すわけにはいかなかった。
「……君は」
ふと、それまで黙って此方を見つめていた吉松が口を開いた。誉は弾かれたように頭を上げると、彼は変わらず無味乾燥の瞳で聞いてきた。
「……君は、
────心臓の音が、鼓膜にまで届いた気がした。
それまで既視感としてしか、記憶でしか想起しなかった母親の姿と、目の前の吉松が重なって見えた。彼のジャケットの胸元に着けられた梟の瞳と自分の目が合い、そこから逃れられない過去に吸い込まれていくような感覚。
(……ああ、そう。そういうこと、か)
以前リコリコで会ったのが、吉松とのファーストコンタクトのはずだった。その時はまだ自己紹介さえできてなかった。それなのに、彼は店での滞在中にずっと此方を見つめていた。それはただ、自分が旧友であるミカの珈琲の教え子だったからなのだと思っていた。
とんだ狸だ。吉松は初めから、自分のことを────。
「……母親です。戸籍上は」
「戸籍上?ははっ、顔が瓜二つだ」
「……ほまれ、さん……?」
「たきな、黙ってて」
たきなの言動の少しでも許せない程に余裕が無い。俺の素性を隣りの女の子に露程にも知られたくない。だが相手には最早誤魔化しも利かないらしい。吉松は確信を持って話している。逃げ道を塞がれていくような感覚。
それまでまともに表情を変えなかった吉松が、初めて心の底から笑ったような、そんな気がした。
そして一頻り笑うと、その微笑みのまま此方に目線を寄越して訊ねる。
「はは、彼女に子どもがいたとは……まあ、秘密主義だったからね。初めて君を見た時は彼女の生き写しかと思ったよ」
「多分話すのがめんどかったか、話した気になってるか、知られてると思ってたかのどれかですよ。あの人案外ズボラなんで」
「実の母親に随分だね」
「……
「いいや、友人というほどの仲ではなかったよ。ただ彼女は実に多くの才能を世界に届けてくれた」
「お陰で息子を蔑ろにされてちゃ世話無いですけどね」
「はは、間違いない」
死の淵を彷徨っている息子がいても、現地点で病院と職場の距離の近い方を優先するような人だった。そんな母親でも嫌いになれなくて、未練がましく形見の勿忘草の栞まで大事にして。本当に情けない。
「……君は、随分と千束に気に入られているようだね」
「錦木が一人ひとり大切に思ってくれる娘ってだけですよ」
「朔月君は、千束の恋人なのかい?」
「まさか、友人ですよ。どうしてそう思ったんですか?」
吉松と誉はほんの数回しか顔を合わせていない。彼の目の前で千束と絡んだ回数も少ない。そう勘違いするには些か判断が早いのではなかろうかと、そう考えた矢先、変わらず品定めするような瞳を向けて、口元に弧を描いた。
「────その後、
「っ……ええ勿論。なんならこの場で歌って踊って戦えます」
「それは才能だね」
「違います」
やはり食わせものだ。此方の身体の傷の心配など、松下のカメラを通して見ないと出てこない言葉だ。彼には、かつての暗殺者との交戦で此方が傷を負っていた事も、松下の言葉を遮ってまで千束が誉を優先した場面も目撃している。
私は知っているのだと、そう暗に伝えてきているのだ。
「君はどうかな。傍で千束を見てきたなら、あの娘には然るべき居場所があるとは思わないかい?」
「……それは、貴方が決めることではありません」
それを聞いて、誉は小さく溜め息を吐いた。今の言葉で、バーで千束とどんな内容の会話をしたのか、彼女の感謝をちゃんと受け取ってあげたのか、それが理解できてしまった。
千束の『ヨシさん』に対する深い想いと淡い願いは、案の定叶うことはなかったのだと。
「……そちらこそ、上で錦木と話してきて、何も感じなかったんですか」
「……」
「店で彼女と話して、東京を一緒に観光して、彼女の人となりを見て……何も思わなかったんですか」
千束はきっと、嬉しかったはずだ。長年探してきて、もう二度と会えないかもしれないと半ば諦念を抱いていたはずの日々を重ねてきて、時間を与えてくれた恩人に漸く出会えたことを。
自らの中の最も純粋で、淡くも透明で、美しい記憶を共に彼と向き合ったはずた。長年積み重ねてきた想いをあの場で吐き出したはずだ。千束は恐らく、誉でも見たことのないような無垢な笑顔を見せてくれたに違いない。お店でも、松下としての吉松との観光でも、バーの時でも、彼女の在り方は変わらない。
「錦木の任務での信条は“命大事に”だそうです」
「……」
「人の命を奪うのは、気分が良くないからだそうです。たきなから聞いたんですけど」
そう言って誉は笑う。いつだって元気で自由な、陽だまりのような彼女の顔を思い出して。
千束の今後の選択肢も、人生での生き方、在り方、過ごし方も。それら全て、誰にも強制することはできないし、許されない。けど、その人となりを見てきたからこそ、その人の能力しか見ていない団体よりも彼女を備に見てきたからこそ、それは違うのだと断言できる。
「彼女にDAは……“殺し”は向いてないですよ」
「……」
錦木千束に、に“殺しの才能”などない。そもそも向いていない。向いていないものを才能と呼ぶなど、アラン機関は勘違いをしている。まして、人殺しを肯定するような才能など、あってはならない。
能力だけを見てその人一人ひとりの生き方や理念、思想を見て感じないから、上澄みを掠め取っただけの結論になるのだ。
誉は知っている。彼女の生き方を。尊厳を。思想を。自由さを。そして、殺しではなく、彼女の本当の────
「彼女には、別の“才能”がある」
「……それは、一体何だと言うのかな?」
────彼女の、才能を。
自分は、それに憧れ、救われてきたのだから。
「吉松さん、お客さんで溢れてるリコリコを見たことないでしょ。開店前か閉店直後の、お客さんがいない時間帯にしか来ないから」
「……」
「今度は、ちゃんとお客さんとして営業中に来てみて下さい。そして錦木千束をその目で見て、肌で感じて下さい。きっと分かりますよ」
────錦木千束という存在の根底にあるものが。
そう告げると、吉松は何も言わずに車へと乗り込みドアを閉めた。同時に、そこから逃げ出すかのように一瞬で速度を上げて目の前を通過し、出口へと消えていく。
「……年上の人相手に、偉そうだったかな」
自分の言葉に、少しは何かを感じ取ってくれているか。響いてくれているかと聞かれたら、多分NOだろう。
彼らの言う“才能”には見境がない。法律や倫理とは無関係だ。殺人の才能だろうが戦争の才能だろうが、アラン機関にとっては神聖なギフト、神の贈り物であり、手段を選ばず支援が行う狂信者の類だ。一般人の倫理観など、路傍の石ころくらいの認識かもしれない。
……けどそれよりも今は。
誉は、先程から沈黙を続けているであろう少女へと振り返り、案の定下を向いて前髪で瞳が隠れたたきなに、恐る恐る近付いた。
「あー……ごめん、たきな。急に怒鳴ったりして。けど……」
「……なんで」
「え?」
小さく、だが確かにそう聞こえた。震えるように、どうにか絞り出した声で、何故、どうしてと口を震わせて。
「どうして、言わせてくれなかったんですか……」
「……たきなが言う必要ない」
「何か……何か、変わったかもしれないのに……っ」
「……」
たきなが吉松に何を言おうとしていたのが、察せないはずがない。恐らく吉松に、誉の人工心臓の制作を懇願しようとしたのだ。才能があれば千束と同様の支援を受け、誉を延命させてくれるのだと、そう思ってしまったのだ。
たきなは誉の余命のことを人一倍考えて、悩んで、抱え込ませてしまっていた。死が近付いているというのに何か打開策を考えもしなかったことでたきなを不安にさせていた、そのツケが回った結果だった。
「……アランに頼るつもりはないよ。どんな組織かも分からないのに命を預けたりできないし、錦木のことも気になるしね」
「それは……でもっ……誉さんも、千束みたいに……!」
生き長らえることができたかもしれない、と。たきなの言いたいことも、その想いも受け取っている。それでも、誉はすぐにその気持ちに応える準備も覚悟もできてなくて。
「……前に話したと思うけど、アランチルドレンは支援と引き換えに機関から“使命”を与えられる。助けたんだからその才能を活かす道を進むべきだ、こう在るべきだと強制される。やりたいことができなくなるんだ」
「け、けど千束はっ、使命なんて……」
「果たしてるように見えないよね。だから、ミカさんはずっと黙ってたんだと思う。錦木の使命はきっと、錦木が望むものじゃないんだよ」
だから、千束は自由に生きていけてる。吉松が店に訪ねてきていたのも、恐らく千束の状況を確認する為で、千束が見たというミカのスマホに送られてきた吉松からの『千束の今後について』とは、吉松が松下としての素行調査をした結果、千束がアランの望む使命を全うしていなかったことに対しての説明を求めたに過ぎない。
だから、例外はない。千束はミカに守られていただけで、アランチルドレンとなれば最後、世界に隷属するのが終末だった。
「やりたいことができないなんて、生きてる意味無いよ。病院にいるのと何も変わらない」
「……けど……っ」
頭では理解していて、誉の言葉が正しいだろうことも理解していて。それでも、何を言われても、心の奥底では納得いかないと、たきなは拳を握り締めていた。ふるふると肩が震えて、必死に感情を押し殺そうとしているように思えて。
見ていられなかった。なんてことないんだと、誉はすぐに笑顔を作ってたきなに近付いた。
「……あーもう、そんなに深刻になんないでよ。たきなは気にしないでいいんだから」
「っ……いいわけないでしょっ!!」
静寂に、たきなの悲痛な叫びが一際響く。
これまでで聞いたこともない程の大声と、劈くような、悲鳴に近い叫びに。誉は思わず目を丸くする。
「……たきな」
後ろで束ねていた髪は、今や普段と同じように戻されていても、彼女の感情に呼応するようにぐしゃぐしゃで、荒い呼吸の中でたきなの嗚咽に近い声だけが耳に届いた。
「誉さん、時間が無いんですよ……?今の医療じゃ、治らないんでしょ……?」
「……」
「助かる方法があるなら……それに懸けるべきです」
たきながアラン機関をどう思っているのかは分からない。相棒である千束を救ってくれた恩人だと思っているかもしれない。それは間違ってはいない。
けれど、誉には。誉にとっては。
「私……千束と、誉さんと……一緒にお店続けたいです」
「……っ」
「これからも、ずっと……っ」
それ以上、言葉を続けることは難しそうだった。肩も口元を震え、今にも泣き出しそうで。誉が死んでしまった未来を想像してしまったのかもしれない。
彼女の気持ちは、とても嬉しいものだった。それほどまでに想って貰えてるなんて、と驚く気持ちもある。こんなに感情を露わにするたきなを、初めて見た気がしたから。
「……ありがとう。俺の為に、そこまで考えてくれて」
「……誉、さん」
ふわりと、誉は笑う。リコリコに来た当初よりも明らかに表情が豊かになり、千束達の影響で色んな感情を知って、成長して。そんな姿を見られて心の底から嬉しく思う。
そして、たきなの気持ちを汲んであげることができない自分を、不甲斐なくも思う。
「……ごめん、負担にさせて」
「……っ、ぇ」
「俺……こんなんで、ごめんね」
「ぁ……ち、違っ……違います……なんで、そんな……謝らないで、ください……違うんです……っ」
たきなは、まるで自分の失言に気付いたかのような慌て振りで誉の腕を掴んだ。私が悪かったと、許してくれと、そう懇願しているように思えた。
誉も、自分のそれが何に対する謝罪なのかよく分からなかった。たきなの顔を見て、たきなの言葉を聞いて、思わず出てしまった言葉。漏れ出てしまった気持ち。
彼女の気持ちを無碍にしたことなのか、自分が病気であることに対してなのか。長くは生きられない、彼女のその願いを叶えてあげられないことへの謝罪なのかは定かではないけれど。
────多分、全部だった。
「……ごめんね」
「違う……違うの……っ」
君の言葉を、想いを、踏み躙るような真似をして、ごめん。
君の気持ちを汲んであげられなくて、ごめん。
長生きできなくて、弱い身体でごめん。
病気になって、ごめんなさい。
「……本当に、ごめんね……っ」
────それでも、彼女にあんな顔をさせてでも言わなければならなかったのだと、今も信じている。
誉 「……」
たきな 「……」
クルミ 「お、おい……なんか、空気が……」
ミズキ 「なんでちょっと目ェ離した隙にこんな空気になってんのよ……!」
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