初めから、救いなどないのだとしたら。
初めから、幸せなどないのだとしたら。
────それは、どこかの世界で辿るかもしれない、有り得たかもしれない、逃れられないかもしれない未来の“もしも”。
『っ……誉、さんが……好き、です』
『……ぇ』
────予感はあった。可能性も考えていた。
それでもそんなはずはないのだと決めつけて、切り捨てた考えだったからこそ、たった今目の前の彼女から発せられたその言葉を聞いて、ただただ驚いた。
『これ、クリスマスプレゼントです。受け取って貰えると、嬉しいです』
聖夜のイルミネーションに囲まれた、巨大なツリーの真下で。これ以上無いシチュエーションで、いつもとは違う服に身を包み、珍しく化粧までして全身を着飾る彼女の真っ直ぐな言葉と、両の手で差し出された小包に気圧されて、俺は身動きが取れなかった。
『……っ』
『……!』
驚きで動けずにいる中、バチリと彼女と視線が交わる。
『────……た、きな……』
俺はこれまで、彼女のこんな表情を見た事があっただろうか。
出会った時はまるで氷のようで、機械のようで、無機質で無表情だった彼女が、相棒の千束と出会い、日々を重ねて毎日を楽しく過ごすようになってからというもの、誉がどれほどその成長にどれほど歓喜し、表情をコロコロと変えるようになった彼女に、魅力を感じていた事か。
熟れた果実のように赤らめたその顔を、直視出来ずに視線を彼女が突き出したプレゼントへと落とす。指先、いや腕が寒さからか、はたまた緊張と恐怖からか震えていて、こちらの言葉を、俺の返事を、この恋慕の結末を今か今かと待ち構えていて。
『……ありがとう、たきな』
『……っ』
『嬉しいよ、凄く。勇気出してくれて、ありがとう』
異性に対する告白がどれだけ緊張するだろう事かは誉にも分かっていた。そこから感じ取れる彼女の覚悟、これからの関係が変わる事を恐れない勇気。
それが錦木と共に歩いた事による記録と記憶の結果なのかは分からないけれど、それでも彼女の在り方は大きく変わった。
それを嬉しいと思うし、愛しいとさえ。
『────でも、ごめん』
────だからこそ、震えながらも自分の想いをぶつけてくれた彼女に、嘘を吐かなければならない。
絶対に、彼女にだけは知られたくないと思った。成長し続ける彼女と対極にいる、どんどん衰えていく自分の姿はあまりにも釣り合いが取れてなくて。
『────……ぇ?』
頬を赤らめていたたきなの表情は、誉のその一言で消え去る。
それが痛々しくて見ていられないほどに。これ以上の事を、話したくないとすら思うほどに。
────それでも。
本当なら正直に、全てを伝えてしまいたかったけれど、そんな勇気なんてなくて。彼女の表情がこれまで過ごす中で一度も見た事が無いような、そんなものに変わっていってしまったから。
それがもう、これ以上見たくないと思ってしまうくらいで。
『……っ、ぁ…………そう、ですか…………』
その声は震えていて、か細く消え入りそうで。
申し訳なさそうにする俺の事を、見たくない、聞きたくないと俯いて。それでも伝え切らなければならないという意識が、義務にも似た使命感が突き動かしていて。
『……ごめん、たきな』
顔を上げ、目を見開いていて。
大粒の涙が溢れて、重力のままに零れ落ちていて。
僅かだが気合いを入れてきたのか慣れない化粧や装飾品、彼女を引き立てる、いつもの制服とも和服とも違う私服姿。錦木に見繕って貰ったのだろう。
それらの彼女の努力全てを、今この時この瞬間に破壊して踏み躙った。
────自分は、彼女に伝えられてない事がある。
『────……ほんとうに、ごめんねっ……』
────きっと、あの時のたきなの表情を、生涯忘れる事はない。
IF Story.2 『
●○●○
────二月十四日。
「あ、伊藤さん、北村さん」
「ん?」
「何?どうしたの?」
閉店後、いつものようにボドゲ大会もたけなわの最中、そろそろ時間が深夜帯に差し掛からんとする時間帯になり、各々が解散の支度を始める。
そんな中で誉は、常連の女性客である伊藤と北村が身支度する傍らまで赴くと、持参のエコバッグの中から赤いリボンでラッピングされた透明な包みを二人に差し出した。
「……何これ?」
「チョコクッキーです。バレンタインデーは大切な人達にチョコをあげる風習があるってミズキさんから聞いてたんで、俺からお二人に」
「いや普通は女の子から……て、えっ、朔月くんの手作り!?」
「はい、一応」
そう答えると二人は互いに顔を見合せて、誉の手元に収まっていた包みをそれぞれ受け取ってくれた。キラキラとした表情で眺めていて、何だかこそばゆい。
ココアパウダーと砕いたチョコが主体のの簡易的なクッキーではあるけれど、如何せん初めて作っただけにかなり時間がかかった。味に問題は無い……はず。
当の誉はつい最近まで知らなかったが、本日二月十四日はバレンタインデーと呼ばれており、大切な人にチョコレートを贈り物として渡す風習があるのだという。
誉にとっての大切な人───それは、この店に来てくれるお客さん達に他ならない。バレンタインを最近知ったばかりだったので念入りに準備できたとは言い難いけれど、材料揃えて昨日の内に沢山作っておいて正解だった。
……まあ、女性から男性へ贈り物をするというのが一般的だが、誉が知ってるはずもなく。
「ほい、クルミとミズキさんもどうぞ」
「おー、さんきゅ」
「……アンタ、クッキーの意味分かってる?」
「え…… ああ、確かオランダ語で『小さなお菓子』を意味する“クーク”という言葉が由来ですね。 なんでも、ケーキを焼く前に温度や味を確かめるために少しだけ生地を焼いていた事から生まれたお菓子って説があるそうです」
「違う、そうじゃない」
「何でそんな知識持ってんの……」
相変わらずなんかズレてる。恐らく二人もそういう事を聞きたかった訳じゃないのだが。伊藤と北村は顔を見合せて小さく溜め息を吐く。ミズキに代わり、続けて問いを重ねてきた。
「そうじゃなくて、クッキーを渡す意味」
「……なんかあるんですか?」
誉は思わず首を傾げる。え、なんかあるの?皆さんお察しだろうが、誉は案の定何も知らなかった。
咄嗟に見渡すと、常連のお客さん達もクルミやミズキ達と顔を見合わせ、困ったような笑みを浮かべたり、溜め息を吐いたりである。え、怖い怖い。作ってきたものにマナーやモラルがあったのだろうか。
「え……あの、クッキーだと駄目なんですか?」
「いや、駄目じゃないんだけど……」
「クッキーに『あなたとは友達で』って意味があるのよ」
歯切れの悪い北村に代わるようにミズキが答えてくれた。“あなたとは友達で”……?え、良いじゃん別に。何も間違った事してな……い……や、待て待て、もしかして、そういう事……?
誉は口元をわなわなと震わせる。
「……皆さんは、俺に友達だと思われるのは、嫌だって事ですか……?」
「違う、そうじゃない」
「なんで頭良いのにこんなに馬鹿なの……」
伊藤とミズキが再び溜め息を吐き出す。なになにどういうことなの、とカタカタ震えていると、ミズキはメガネの縁を持ち上げて位置を整えると、誉に向かって問いかけた。
「バレンタインとホワイトデーの贈り物には、渡すものによってそれぞれ意味があるのよ。だから、渡した時に相手に気持ちを伝えられるってわけ」
「……花言葉、みたいな事ですか?」
「そゆこと。キャンディーなら“あなたが好き”、マシュマロなら“あなたが嫌い”みたいなね」
「……それ結婚雑誌に載ってたとかじゃないですよね?」
「ちっがうわ!!」
折角アタシが丁寧に教えてあげてんのにぃ!と誉の作ったチョコクッキーをガシガシと齧り倒すミズキ。『ツマミにならねぇんだよぉ!!』と涙を流しながら日本酒を仰いでいた。泣くなよ。
哀れに思いながら眺めていると、隣りで北村がニヤけた表情でこちらを見上げていて。
「朔月くんも、今日結構な数チョコ貰ったでしょ〜」
「え?……ああ、まあ……所謂義理チョコとか友チョコとか」
意外と数多いんだよなぁ……食べ切れるかなぁ、誉がまたズレた事を考えてると、伊藤が片手をヒラヒラさせて呆れたように呟く。
「いやいや、本命だってきっとあったわよ」
「……キャンディーは貰ってないですけど?」
「ミズキちゃんが言ってたのは間違いって訳じゃないけど……どっちかっていうとホワイトデーのお返しで贈る時の方が浸透してるのよ。貰ったのだって、大抵チョコでしょ?」
確かに、クッキーとかじゃなくて純粋な普通のチョコレートが主だった。では、彼女達がどういう気持ちで自分にチョコを贈ってくれたのかを汲み取る事ができないという事か。気持ちを察するというのは、今の誉にとって凄く難しい事だった。
「奥が深いですねバレンタイン。……知らないこと、まだまだ多いなぁ」
「アンタ節分も知らなかったでしょーが」
「万聖節は知ってましたよ」
「ハロウィンをそんな固い言い方するのアンタだけよ」
相変わらず固い表現である。誉にかかればクリスマスはキリスト降誕祭、お正月は元旦、雛祭りは桃の節句である。固過ぎ。
……まあ、でも贈り物の意味を知らなかったとはいえ、期待を無駄に持たせてしまうより偶然にもそういった意味合いを含むクッキーを渡せたのは、返って良かったのかもしれない。
「あーーー!クッキーーーー!」
「あー、喧しいのが来た」
「っ……錦木」
振り返ると皿洗いから戻って来た千束が、大声で誉の手元の紙袋を指差して駆け寄って来た。ミズキの言い草に、誉は苦笑しながらその紙袋からクッキーの包みを取り出した。
「はい、錦木の分」
「いいの!?やったー!」
千束は嬉しそうにその包みを誉の手から受け取ると、瞳を輝かせながら見つめ始めて微笑んだ。
「えー何これ美味しそう!何処のお店?」
「お店?材料の話?小麦粉とか砂糖とかは近場のスーパーだけど……」
「……え?」
「え?」
素っ頓狂な顔の彼女と視線が交わる。千束は誉と自分の手元のクッキーの包みへと交互に視線を動かして、もしやと口を開いた。
「……手作り?」
「一応、ね」
「……マジか。朔月くん凝り性だと思ってたけど遂にここまで来たか……先生、これいつでも引退できるよ」
「そうだな」
「ヤベェ継がされる。ちょ、勝手に決めないで」
あれよあれよという間にリコリコ継承の流れ。慌てて手を振って拒否すると、千束はニヤついた表情で首を傾け、
「いーじゃん別にぃ〜、将来的にこの店を私と切り盛りするのも楽しそうじゃない?」
「……そりゃ、まあ、なに……楽しそう、だけど」
「でしょでしょ?ふひひっ」
「やめてその笑い方気持ち悪い」
「言ったなキサマァ」
「冗談、冗談だって」
誉は笑いながら、拳を振り上げる千束から逃げようと二、三歩後退した時だった。背中に軽く衝撃が走り、瞬間女性の甲高い声が聞こえた。
誰かとぶつかったと理解し、謝罪しようと慌てて振り返ると────
「あ……」
「……っ」
その先に居たのは────井ノ上たきな。
ここ一ヶ月、気不味さからまともに会話ができてなかった人物だった。目が合った途端、たきながバツの悪そうな顔になって視線を逸らし、誉の横を通り過ぎる。カウンターまで来ると、ミカや千束達を見渡して頭を下げた。
「……お先に失礼します。皆さんお疲れ様でした」
「ああ、お疲れ様」
ミカの言葉にペコリと頭を下げて返事すると、そのまま店の入口へと背を向けて歩いていく。北村がその背に向かって慌てて声をかけた。
「えー、もう行っちゃうの?たきなちゃん」
「……すみません、予定があるので」
それだけ言うと、また一瞬だけ視線が誉と交わった。その瞬間から逃げるように視線を外され、その扉に手を掛けて出て行ってしまった。
最近、お客さん相手にも自分の感情を出せるようになったたきなにしては、明らかに素っ気無い態度。今日の、いや連日の職務内容を見れば、流石に常連なら分かる彼女の異変と、その原因。
暫く静寂が続いた後、眉を寄せた伊藤が誉に尋ねた。
「……アンタ達まだ喧嘩してんの?」
「……喧嘩じゃ、ないです」
「箱入りで常識知らずの朔月くんが悪いって聞いてるけど」
「だ、誰がそんな本当の事を……?」
箱入りで常識知らずは余計だが後半は間違ってなかった。伊藤のその言葉に誉はもしや、と振り返る。予想していた千束────だけでなくミズキやミカ、はてはクルミまでもが一斉に視線を逸らした。
……つまり、全員に自分の所為だと思われている。その事実に、誉は余計に落ち込んだ。その様子を、卓に座って見上げる伊藤と北村。
「……なーんか、今回は長いわよね」
「原因は何なの?」
「え……ああ、いえ、色々あって、そんな大したことじゃないですよ」
「……恋愛絡みとみた」
怖ぇよ伊藤さん。
何で分かんの。
▼
────そうして、全員が帰宅し店じまいが粗方片付いた時のことだった。
「……ねぇ、ちょっと」
「っ……はい、何でしょう錦木さん」
ピシャリと、冷たい声で呼び止められて。思わず背筋が伸び、直立したまま固まる誉。振り返れば、案の定不機嫌顔────いや、弱冠ではあるが間違い無く怒っている、そんな表情の錦木千束が立っていた。
今の誉は和服に袖を通し終えたばかり────つまるところ更衣室であり、入口にも『着替え中』の立札を立てていた訳で。
「……あの、此処更衣室なんだけど」
「もう着替え終わってんだから別に良いじゃん」
「逆の立場ならキレ散らかしてる癖に……」
やはりと言うべきか、千束は此方に用事があったらしい。しかも、彼女の表情から察するに決して良い話ではない事は明白。
「君の所為で私の相棒の元気が無いんですけどぉ〜……一体いつになったら仲直りしてくれんのさ」
「っ……や、別に喧嘩してる訳じゃ……」
案の定、予想していた内容。
彼女の相棒である井ノ上たきなの様子がおかしいと、恐らくその原因であろう誉に直談判しに来た、といったところだろう。誉も心当たりがないと言い逃れできるはずもなく、それを表情にまんまと出しながら目線を今更ながらに逸らした。
「もうそれずっとゆってるけど、たきなが仕事に集中できてないの相当だから」
「……俺の所為って決まった訳じゃ……」
「ね、それ本気で言ってる?」
────ふと、冷たく聞こえたその声に思わず視線を戻せば、そこには真剣な表情で此方を見つめる千束がいた。両腕を組みながら、誉を行かせまいと入口に寄りかかって。
「……俺、もう帰るから」
「たきなのこと、振ったの?」
「……っ」
────その問いに誉は息を飲んだ。唇を噛み締め瞳を逸らす。脳裏に蘇るのは聖夜の出来事で、自分が想いと贈り物を拒絶した時のたきなの表情だった。
靄がかかる事もなく、鮮明に呼び起こされる記憶。思い出したくないと意識すればする程に、彼女の悲哀に満ちたその姿が焼き付いて消えてくれない。
「……朔月くんは、たきなのこと嫌い?」
「そんなことっ……ない、けど……」
食い気味に否定し、思わず俯いた顔が上がる。瞬間、真っ直ぐに此方を見据える千束の瞳に飲まれて我に返った。ロッカーの戸に手を触れて、苦しげに下を向く。
「俺は、ずっと一緒には居られないから」
「……病気のこと、まだたきなに話してないの?」
「……言ってない。ただ、“ごめん”ってそれだけ」
後天性の心疾患。過度な運動どころか、最近はただ歩くだけでも負担を感じ始めていて。余命宣告された月日はとっくに過ぎているけれど、誤差でもある。体感的には、あと一、二ヶ月保つかどうか。
別れが必然なのにたきなの想いに応えるなんて事を、するべきなのかどうかが分からなくて。
理由もなく、ただ“ごめん”と、それだけだった。
彼女は何故、とその理由を求めているかもしれないのに、それだけ伝えて彼女から逃げ帰ってしまった。
「言わなくて、良いの?」
「……言えないよ、今更」
千束も、ミカもミズキもクルミも、誉の病気の事は知っていた。けれどたきなだけにはまだ話せてなかったのだ。いつかバレると知っていたのに、弱いところを見せたくなくて、必死に隠して誤魔化して。
それでも、最初は決して隠してた訳じゃなかった。後から配属になったたきなには、中々に伝える機会が無かったと言うだけ。後回しにしてしまえば、それだけ伝えることが躊躇われていった。
「此処に来るまでのたきなってさ……いつも仕事優先みたいな感じで、機械みたいに冷たい印象だった。それが、この店のみんなと触れ合って、漸く楽しそうに過ごしてくれるようになったんだ。それを……」
「……朔月くん」
これは、言い訳だろうか。
病気だから、不治の病だから、最後まで一緒に居ることはできないから。そんな理由を並べ立てて、想いを拒絶するのは、残酷なことなのだろうか。
自分がそれを伝えたらまた曇らせてしまうんじゃないかと考えるのは、烏滸がましいだろうか。自意識が過ぎるだろうか。それなら寧ろ、伝えてしまえば楽になるだろうか。
既に、たきなとの関係はクリスマスのあの日に決まってしまったというのに。
「……あー、良いなぁ、たきなは」
「え……え?な、何が?」
「べっつにぃ〜?」
千束は口を尖らせてあさっての方向に向くと、そのまま更衣室から離れていく……と、思いきや振り向いて、平たい正方形の木箱を突き出してきた。
「ん」
「ん……ん、うん?」
「ハッピーバレンタイン。一応、私からも」
「え……あ、ああ、うん……ありがとう……」
瞳を逸らす彼女の頬は、心做しか赤みがかっていた。おずおずと受け取ると、その木箱からはずしりと重みを感じる。開けてもいいかと瞳で訴えれば、彼女はコクリと小さく頷いた。
その木箱の蓋に手を触れ、ゆっくりと開ける────その瞬間、ミズキや伊藤に聞いた贈り物の種類による意味合いの話を思い出していた。キャンディーなら好きで、マシュマロなら嫌いで。先程気になって色々調べたのだが、マフィンやマカロン、ガトーショコラなどにも意味が付随するらしい。
それを踏まえると、今から開けるこの蓋の中身には自分に対する千束の気持ちが内包されている可能性があった。そう考えると、急にドキドキしてきた。
彼女は何を作ったのだろうか。彼女のことだ、奇を衒った変わり種を作っているかもしれないし、意外と乙女なこともあるからちゃんと意味を理解してチョコを作っているかも……いや、もしキャンディとか入ってたらどうする。どうしたらいいどう答えたらいい何を考えたら────
「……ん?」
恐る恐る開けた木箱には、一面“黒”が敷き詰められていた。しかし、チョコと呼ぶには淡い気もするし、柔らかい気もする……え、何だこれ。
「千束さん特製チョコレートおはぎだよ!お試しあれ〜!」
「……おはぎ?」
────まさかのおはぎ。しかもチョコレート入りと来た。
おはぎって何そのチョイス。どういう意味が込められてんだこれには。やはり千束は奇を衒ってきた。予想通り過ぎて笑えてくる。
「……はは、ありがとう錦木。味わって食べるよ」
「うんっ、後で感想聞かせろよぉ〜?」
「はいよ」
「よろしい。……ああ、それと朔月くん」
今度こそ更衣室を出ようと背を向けた彼女が、再び此方に目線を寄越す。交わる瞳が揺れる中、彼女は瞳を細めて口元に弧を描いてみせた。
「たきなは強い娘だよ。なんたって、この千束さんの相棒なんだから」
▼
「…………」
「こんばんは、誉さん」
高層マンションが立ち並ぶその一角、そこに今住んでる部屋があるのだが……その入口に見た事ある制服の少女が立っていた。
「……何故居るのたきな」
「誉さんを待ってました」
「何故住所が割れてるの」
この住所はリコリコでバイトする上でミカに形式的に渡した履歴書でしか教えた事がない。個人情報をミカが簡単に開示するとは思えない。彼女が此処にいる理由が分からず絶句するしかない。
「クルミから聞きました」
「あんのロリハッカー……って」
許せねぇよあのネズミ。あ、リスか。違う、そんなんはどうでも良い。どうしてたきなが此処に……とそこまで考えて気付く。まだ春と呼ぶには寒過ぎる気温の中、制服に身を包んだだけの彼女を見て思わず自身の上着を脱いでたきなに羽織った。
「寒いでしょその格好……防寒くらいしなよ」
「っ……ありがとう、ございます……」
心做しか鼻の頭が赤い。律儀にこちらの帰りを待っていたのか。そう思うと、特に約束をしていた訳でもないのに申し訳ない気持ちになってくる。
「……あー、えと、俺に用、なんだよね。良かったら、あがる?」
「……お邪魔、します」
小さく、コクリと頷くたきなを尻目に、誉はマンション入口の自動ドアを通過する。エントランスにあるセキュリティを解除し、エレベーターへと向かう。その間、後ろで無言でついてくるたきなを見やれば、珍しいものを見るかの如く辺りをキョロキョロ見渡していた。
「……めっちゃ豪華ですね」
「そ、そう?あんまし気にしたことない……」
初めて見るものの感動からか、語彙力が幼くなるたきな。そのままエレベーターで最上階のボタンを押すと、エレベーターはゆっくりと上っていく。
「誉さんって何かの御曹司とかですか?」
「何かの御曹司って何……親が借りてた部屋をそのまま使ってるってだけだよ。お金なら働かなくても良いくらいあるって話だから」
「……誉さんって嫌な人だったんですね」
「何でよ」
あっても使わないんだしこういうところで消費しとかないと、と言い訳染みたことを呟きながら、視線は彼女が持っていた大きな買い物袋へと落ちていく。
「……買い物帰り?」
「……ええ、まあ。夕飯はお済みですか?」
「一応、リコリコで簡単に済ませちゃったけど……ダメだったかな」
「そうですか……いえ、問題ありません」
下を向くたきな。それ以上は何もなかった。
それでも、クリスマス以降初めてのたきなからのアクションに、誉はただただ困惑していた。な、何だ、夕飯をご馳走してくれる予定だったのだろうか?分からない、何だこれ。
戸惑いながらも最上階へ辿り着き、緊張が走る中玄関を開ける。先にたきなを通させると、リビングに辿り着いた彼女から発せられた一言がこちら。
「……凄っ」
「うわ、語彙力」
たきなが目を見開いて辺りを見渡している。高層マンションの最上階で窓の外が街の光で絶景ときた。部屋はファミリーで過ごす事を想定した広さであり、一人で暮らすなど確かに贅沢が過ぎるかもしれない。
「……一人で住むには広過ぎませんか」
「まあ……でも、引っ越すのも面倒だったし……」
そっか……俺、嫌な奴だったのか……と何気にたきなの言葉にショックを受けていると、たきながクルリと振り返り、何かに意気込んだように鼻を鳴らした。
「では、あの……キッチンをお借りしても良いですか?」
「え……ああ、うん、別に良いけど……えと、用件っていうのは」
「それは……作ってから伝えます」
「あ、はい……」
そう一言告げるとたきなが横を通り過ぎ、そのままキッチンへと赴いた。その背を追い、袋から材料を取り出そうとするたきなと目が合う。
「……あの、手伝おうか?」
「いえ、誉さんは寛いでてください」
「わ、分かった……ああ、そうだ食器とか器具とかの場所教えとくね」
そうして一通り器具の場所を教えると、たきなは『座っててください』と俺の背を押してリビングへと追いやった。何だか除け者にされたみたいな孤独を感じながらもすぐ傍のソファーに腰掛けてたきなを見やった。
物凄く真剣な表情で材料と向き合っていて、その形相が完全に仕事のそれである。既にオフの時間であるにも関わらず失敗は許されないと言わんばかりの面持ちで、何故かこっちまで緊張感を覚えて思わず苦笑した。
────“……朔月くんは、たきなのこと嫌い?”
「……そんなわけあるかよ」
誉はそんなたきなの姿を見ながら、先程千束に言われたことについて考えていた。自分がたきなの事をどう思っているかについてだ。
ここだけの話、もしこちらの自意識過剰とかじゃないなら、告白される前からたきなは自分に対して憎からず思ってくれているというか、何なら好意的に見てくれているんじゃないかと思っていた。
男性経験どころか人間関係にも疎いだろう部分は見て取れるが、普段の距離の近さや歯に衣着せぬ直接的な物言いのお陰で寧ろ『もしかして俺の事……』と思ってしまう時があったのだ。
以前みんなで観光に行った際にはぐれてしまった彼女の手を引いた際も抵抗は無かったし、色々あって入院する機会があった際はほぼ毎日お見舞いに来てくれていた。
それから既に数か月経っているが、その間にもひょっとしてと思う場面がなかったわけじゃない。
だから、きっとたきなはそれに近い感情を結構前から自分に対して持ってくれていると思う……多分。多分ね?違ったら恥ずかしいから断言しないけど。
……それに対して、誉はどうか。
こう言ってはなんだが、誉はこれまでに女性とお付き合いしたことがない。それこそ千束やたきな達と友達付き合いの中で出かけたことぐらいは数度あるが、恋人関係に発展した事はない。
つまるところ……本当に情けないのだが、女性に対して彼はそこまで免疫がある訳ではないのだ。
それを踏まえて、ちょっと考えて欲しい。
そんな誉に対して、たきなは懐いてくれている。普段は表情の変化に乏しい彼女だけど、自分が話かけると微笑んでくれて、お見舞いに来た時は普段よりも明るく挨拶してくれる。暇潰しと称したこちらの話に付き合ってくれて、最近は自分が淹れる閉店後の珈琲を楽しみにしてくれて。
再度言うが、誉は女性に免疫がない。そんな彼に、たきなは明らかに好意的な態度を分かりやすく行動で示してくれているのだ。
────もうハッキリ言おう、好きにならない訳がないんですよ(逆ギレ)。
余命という問題だけが誉を思い留まらせている点であり、もし彼が至って健康的な状態で今と同じ状況下に置かれていれば既に告白し直してフラれてるまである。フラれちゃうのかよ。
それほど、誉はいつの間にかたきなに惹かれていた。
「……」
クリスマスに告白された時だって、感情が思わず口から溢れてしまいそうだった。愛おしくて、理性を破壊してでも想いを伝えたいと感じた。
それでも、幾ばくかの時間しか残されてない自分が彼女にそれを伝えても、いずれ自分が居なくなってしまうのであれば、それはぬか喜びと変わらない。
病気のことを、もうすぐ死ぬのだと彼女に伝えることが怖かった。それを告げた瞬間、奇異の目で見られてしまうことが嫌だった。それを伝えた途端、たきなにどんな顔をさせるのか、自分がどんな風に見られ、思われるのか。
それを考えるだけで、何故かとても恐ろしく感じた。
────……いや、これは言い訳だ。
「……ん」
ふと、顔を上げる。キッチンの方から仄かに甘い香りが漂ってきて意識が切り替わる。これはもしや……チョコレートだろうか。
そうして意識してしまうのは、今日がバレンタインデーであるという事実。思えば自分は、たきなにクッキーを渡してないし、彼女からも何も受け取っていない。自惚れじゃないのだとしたら、もしかしたらたきなは現在進行形で自分にチョコレートを作ってくれているのでは……。
「お待たせしました」
「……っ」
ま、まずい、途端に緊張してきた。たきなの一言で身体が強張る。思い出されるのは、ミズキ達から聞いた贈り物に備わる意味合いのことだった。
確かキャンディーなら“貴方が好き”、マシュマロなら“嫌い”、確かクッキーは“友達で”だったよな……彼女からは既に言葉として想いを聞いてはいるけれど、それを拒絶し煮え切らない態度を取りまくっていた自分にはほとほと愛想が尽きて────
「……あの、どうぞ」
そうして目の前に置かれたそれは、予想していた全てのものに該当しなかった。グラスに近い容器には、チョコレートソースだけでなく固形のチョコに生クリームやアイス、バナナといったフルーツまで添えられていた。
「バレンタインなので、特製チョコレートパフェを作りました」
「────……」
……ぱ、パフェ……?チョコレートの?
これは…………何だ、どういう意味だ。奇を衒ってるのかこれは。千束と一緒かこれは。
贈り物の意味を測りかねて困惑していると、たきなは慌てたように言葉を重ねる。
「っ、あ、あの時とは見た目も変えたのでっ……良かったら、食べてみてください」
「あの時って……ああ」
そう言われてふと思い出す。リコリコが以前経営破綻寸前に陥った際にたきなが考案した新メニューが目の前のもの同様チョコレートパフェだった。人気ではあったのだが見た目に問題があり、それに気付けなかったたきなが大恥をかくという盛大な面白案件があったのだった。
「……えと、じゃあ、いただきます」
おずおずと、デザート用のスプーンでチョコレートソースのかかった生クリームとアイスを一緒に掬い取り、口に含む。ヒヤリと冷たいバニラの甘さと生クリーム、そしてチョコの甘さが合わさって、普段リコリコで味わう和風テイストの甘味とはまた違う感覚を味合わせてくれる。
「……美味っ」
「っ……ホントですか?」
「ホントホント……一口食べる?」
「えっ……あ、いや……」
たきなが何やら慌てているが、それに気付かず誉はそのままスプーンでパフェを掬い、テーブル横で正座するたきなの口元へとそれを伸ばした。
「ほい、あーん」
「ぇ……えぇ……あ、あーん……」
「……っ、ぁ」
差し出したスプーンをたきなが口に含んだ瞬間に気付く誉。あ、これは俗に言う恋人がやるやつでは……というか、関節キ……や、よそう、これ以上は互いに恥ずかしい。
たきなは口元を片手で覆い、気恥しそうに呟いた。
「……美味しいです」
「っ……ま、前から思ってたけど、たきなって料理上手だよね」
「……こんなの、料理とは呼べませんよ」
「まかないで出してたゼリー飲料とかと比べたらちゃんと料理だと思うけど」
「わ、忘れてください」
「食事のこと摂取って言ってたもんなぁ」
懐かしいと微笑むと、つられてたきなの表情も柔らかいものになった気がした。
「……渡せて良かったです。事前に連絡したら、避けられるかもしれないと思って……」
「……ぁ」
────ただ、愛おしかった。
彼女への積み重なった想いを自覚する。この一ヶ月間、避けに避けた罪悪感が、ひとしおに押し寄せてくる。
「……そう、だよね。俺、ここ最近態度悪かった」
「……それは、私もです」
「……ごめん」
「いえ、あの……もう、謝られるのは……」
「え、あ、ごめん……ああ違っ、ごめん……あ」
彼女には、先月に何度も傷付ける“ごめん”を繰り返し続けた。彼女の悲痛に歪んだ顔を置き去りにして、逃げるように帰って。そんな自分が、また同じ謝罪を繰り返し、たきなに追い討ちを掛けている。
違う、そんな事を伝えたかったんじゃない。
「俺……たきなに、その……伝えたい事があって」
「……私もです。だから来ました」
思わず、顔を見やる。たきなは既に、何かを覚悟したような表情を作っていて。けれどそれを伝えるのは緊張するのか、一、二度深く深呼吸すると、意を決して様に此方を見上げて口を開く。
もう既に自分が何を言おうが手遅れ────それが怖くて、誉は思わずその手を突き出した。
「色々考えたんですけど、私────」
「あっ、や!待って!やっぱり、先に俺から言わせて」
「えっ……ああ、はい……」
彼女の言葉を聞くよりも先に、彼女に誠意として言わなければならない秘密があって。そして何よりも、伝えなければならない事が、誉にはあって。
どんな反応をするだろうか。怖くて、口元が震える。小さく深呼吸して、瞳を彼女に向けて。
「……俺、心臓の病気でさ。もう、長くないんだ」
「────……」
それは、初めてたきなに告げた秘密だった。
彼女にだけ隠していた、自分の残り時間。
後天性の心疾患を患い、常に死と隣り合わせの毎日で、最近はその日々を重ねるだけでも苦しくなりつつある。
きっともう、永くない。その予感だけが身体に刻み込まれていく日々。
それを聞いたたきなは何も言わずに、此方を見つめていて。
「あと一、二ヶ月生きてられるかどうかで……最近、歩くだけでもしんどくなってきててさ……松葉杖とか、車椅子が必要になると思う」
「……」
「っ……どうせ治らないし、分かってた事だった……それでいいと思って、生きてきた」
たきなはまだ黙ったままで。何も言ってくれないのが逆に苦しくて、誤魔化すように笑って捲し立てていく。自虐にも似た何かで自分だけが笑っていた。
けれど、徐々にその表情は苦しげに、悲しげに移り変わり、顔は俯いていく。
「けど最近、みんなと……たきなと一緒に居て、さ。段々死ぬのが怖くなってきたんだ。そんな情けない自分が、堪らなく嫌だった」
今まで、残りの時間を懸命に生きるだなんて、やりたい事最優先だなんて、千束みたいに高らかに宣言してた癖に。リコリコの空気が、箱庭であった病院での生活とあまりに違い過ぎて。
もう少し、あともう少しだけ長く。命よ保ってくれと、日々を重ねる度に祈り続ける毎日で。
それがなんとも情けなくて、泣きたくなるくらいに悔しくて、そんな自分が嫌いになりそうで。
「あの日たきなが想いを伝えてくれたのに……俺はずっと、自分のことばかりだった。死が近い俺が気持ちを伝えても、重荷にしかならないって決め付けてた」
「……」
────もうすぐ、死ぬ。
その事実だけが、酷く胸に突き刺さり、抜けずに残ってからの月日は早かった。自分と他の人達との時間の進み方や生への温度差、空気の違い、居心地の違い、死生観や明日に向けての考え方までもが、突き放されてしまうかの如く違っていて。
自分もそうなりたいと、みんなみたいになりたいと、そう願い出したのはどれくらいの時だったか。
“生き抜こう”から、“生き続けたい”に変わってしまったのは、いつだったろうか。
“悔いなく死にたい”から、“死にたくない”に変わってしまったのは、誰の所為だろうか。
どれだけ願っても、きっと自分はたきなの目の前から居なくなってしまうのに────そう思うと、彼女の気持ちに応える事ができなかった。
同じ想いを抱いているのに、伝えてしまえば楽になるのに。ずっと一緒には居られないし、別れは必然なのだからと拒絶した。
病気だからとか余命だからとか、そんな言い訳ばかりで、たきなの気持ちに対しては何も応えてなかった。
けれど、そんなのは建前で。本当は、自分が傷付きたくなかっただけで。
「……拒絶されたたきながどう思うかなんて事も、まったく頭に無かったんだ」
誉は、たきなに向かって深く、深く頭を下げた。
「ごめんなさい」
「────……」
初めて、人を好きになった。
だから、どう行動するのが正解なのかはいつも手探りで。嫌われたらどうしよう、失望されてしまったらどうしよう、そんな自分勝手な事ばかり考えて。
「病気を知られるのが怖いって気持ちも、あったと思う」
「……知ってました」
彼女が、そう呟く。
その一言を理解するのに、数秒ほどかかって、やがて顔を上げた。
「……えっ」
「知ってました。とっくに」
「…………い、つ」
「三ヶ月程前に、店長とクルミが話してるのを聞いてしまって……確信があった訳じゃなかったんですけど……最近の誉さん、体調の優れない日が多かったので、総合的に考えてそうかなって」
……誉は目を瞑り、頭を抱える。隠してると思っていた事実が、既に知られたものだった。あんなに必死になって隠していたのに、滑稽過ぎる。
何やってんだよミカさん……と頭の中で呟き、思わず溜め息を吐いて……ふと、彼女の言葉を思い返した。
────
……知ってて、想いを伝えてきてくれたというのか。自分は、伝えることさえ恐怖したというのに。
「……私にとっては今更で……大した
思わずたきなを見れば、彼女はただ悲しげに眉を寄せて、此方を寂しそうに見つめていて。
「だから、拒絶された時は……凄く、すごく、ショックでした」
「……」
────あの日の彼女の涙の理由を、ずっと探してた。
たきなは、単に拒絶された事に対してショックを受けていた訳じゃなかった。誉が自分自身の気持ちを理由とせず、自身の病気を言い訳にして、たきな自身に向き合おうとしてなかった事に傷付いたのだ。
彼女の気持ちに何一つ答えを出していなかった。まるで、ただ病気を断り文句に利用しただけのように思えた。
「ショックで、恥ずかしくて、情けなくて……いっそリコリコも辞めて、京都に戻ろうかと」
「……えっ」
「千束にあれだけお膳立てされての告白で失敗してるので、気不味いですし……」
恋愛に疎いたきなのことだ、きっと勝手が分からなかったのだろう。千束やミズキに相談する可能性があるのは明白だった。浮いた話の好きな彼女らは、たきなの背中を押し、こうして気持ちを伝える為の手助けもしてくれたのだろう。
それ故に申し訳なくて、情けなくて、恥ずかしくて。そんな想いは、彼女の気持ちを蔑ろにした誉自身の心にも来るものだった。
「たきな……その……」
残り時間が少ないからと伝えても意味無いとか考えておきながら、たきなが帰るとなれば手のひらを返しそうになる。慌てて口を開けば、引き留めようと虫の良い言葉を並べそうになる。
そうして再び口を噤む誉を見て、たきなは小さく微笑んだ。
「……それでも、気持ちを伝えたことは一度も後悔しませんでした」
「────……っ」
「だからこれからも、誉さんのことで後悔はしたくない。……そう考えたら、返って楽になりました」
たきなは顔を上げ、困ったように笑った。
「やりたい事最優先で行動したい。だから、この選択でまた失敗してもいいやって」
「────……たきな」
自分もかつては、後悔しないようにと思っていたはずなのに。いつからこんなに臆病になったのだろうか。
たきなは真っ直ぐにこちらを見据える。彼女と、視線が交わる。そこには悲しみも苦しみもない。ただ真っ直ぐに、此方を見据えていて。決意が固まった、そんな表情。
「────好きです、誉さん」
「────……」
病気や余命を言い訳にして、彼女の気持ちと真摯に向き合ってなかった。いつだって自分のことばかりだった。そんな自分に、たきなは何度でも告げるのだという。
この気持ちが届くよう、自分の言葉が刺さるよう、病気なんか関係無く、ただ純粋な気持ちだけを受け止めて貰える日が来るように。
そんな、献身的にさえ思える彼女の決意と行為に、誉は。
「……っ、たきな」
「……はい」
その名を呼ぶと、たきなは小さく頷いた。心做しか震えている。また拒絶されることを恐れている。それでも視線は逸らさない。今度こそ逃げない。
「……俺、あの時自分の病気を言い訳にして、たきなの気持ちに対しては何も答えを伝えてなかった」
「……」
「ごめん、本当に」
誉は何かに突き動かされるようにソファーの傍らに置いたバックの中から、皆に配ったものと同じクッキーと、そして────たきなのリコリコでのイメージカラーである青を貴重としたリボンで纏められた包みを取り出した。
「これ……バレンタインのチョコレート。女性が男性に渡すって風習知らなくてさ、たきなにもと思って作ったんだけど……受け取ってもらえる?」
「っ……勿論です、ありがとうございます」
差し出したチョコレートクッキーを、たきなは愛おしそうに両手で抱える。
「良かったです」
「え……」
「お店でみんなに配ってましたよね。実は羨ましくて……貰えないんじゃないかって、不安でした」
心臓が、一際高鳴る。次が本番だと言わんばかりに震えるその腕を律して、青いリボンの小包をたきなへと向ける。
「────あと、これを君に」
たきながまじまじと見下ろすそれをもう少し彼女の眼前へと突き出すと、彼女はおずおずとそれを受け取った。
「……これ、は?」
「少し遅れたけど、クリスマスプレゼント。あの日、渡せなかったやつ」
たきなは目を見開いてそれを見直した。それは、クリスマスの夜にたきなの告白から逃げてしまった事で渡しそびれていたクリスマスプレゼントだった。たきなから貰うばかりで何も返せていなかった事実が、今になって自分に罪悪感という形で押し寄せてくる。
「……あ、開け、ても……?」
「勿論」
「…………っ、これ」
その長方形の箱に収められていたのは、金色のチェーンに青い小さな花弁が彩られたネックレス。
たきなには装飾品など生活の役に立たないものは要らないかもしれない、実用性に長けた物の方が嬉しいかもしれないと邪推したけれど、それでもこれと共に気持ちを伝えたいと思った。
誉が一番好きな花────勿忘草のネックレスだった。
花言葉は、言うまでもない。
「君からすれば無意味な装飾品かもしれないけれど、その可憐な面立ちに映えると思って、俺が選んだ品だ」
「誉さん……」
「君が持つ勇気と優しさは、止まってた俺の時間と心をいつだって奮い立たせてくれる」
自分もそう在りたいと思った。そう生きたいと願った。いつだって、彼女が教えてくれた。言葉を選ばず直接的に伝えてくれるからこそ、彼女の言葉に突き動かされてきた。
たきなが教えてくれたように、自分も後悔しない選択をしたい。
「君に感謝と敬意を───好きだよ、たきな」
「────……」
ずっと前から、形になっていた感情の名前。
これが正しい選択なのかは分からないけれど、選択に後悔が無いのであれば、それはきっと正解なのだも思うから。
彼女がくれた全てに、応えられる自分で在りたいから。
たきなは、何も言わず目を見開いていた。
その両手で、両腕で、二つのプレゼントを大事そうに、愛おしそうに抱え込んで、目を瞑って俯いた。
「……これ」
「え……」
「着けて、くれますか?私に」
掲げられた勿忘草のペンダント。誉は何も言わず、行動で応える。その箱から取り出して、チェーンを外す。たきなの首に両腕を回して、後ろで繋げた。
「……うん、似合ってる」
「……ありがとう、ございます」
たきなの首筋から両腕を離した────瞬間、その両手をたきなに掴まれた。突然の事に身動きが取れず固まっていると、彼女はその両手を自身の手で包み込み、嬉しそうに目を細めた。
「っ……たきな」
────伝えても良いのだろうか。この切なる望みを言葉にして、彼女の重荷にならないだろうか。想いを伝えるのが、果たして正解だったのだろうか。いつ死ぬか分からないのに、彼女にこんな顔をさせて良かったのだろうか。
あらゆる葛藤を置き去りにして、命の砂時計は、魂の灯火は、刻一刻と時を刻んで淡い光と化していく。
……それでも。
「……最後まで、俺の隣りにいてくれる?」
「────……」
たきなは誉のその言葉を、真っ直ぐに受け止めた。こちらを見上げる彼女は、漸く願いを言葉にした誉を見て、仕方なさそうにふわりと笑って。
「────……はい」
制限付きの約束。
有限の幸福と時間。
彼女の言葉を噛み締めて喜ぶには、色んなものが足りなくて。まだ、伝えるべきだったのかどうかが脳内でせめぎ合う。
「……やっと」
「……え」
そんな中で、ポツリと小さく囁かれた彼女の透き通る声。それを耳にして顔を上げると、彼女は笑顔を浮かべていた。
それはまるで、千束にジャンケンで勝利した時のような笑みで。
「────……やっと、私のところに来ましたね」
────心臓が、止まるかと思った。
今の彼女の表情を、残りの人生で自分はこれから何度見れるか知れない。それほどまでに貴重で、宝石のような、そんな笑顔。
人を簡単に沼に沈めてしまいそうな、目眩がする程の妖艶さ。
「……そんなに時間、残ってないと思うけどな」
「だったら、その時間を濃いものにしていきませんか?」
「……俺で本当に後悔しない?」
「しません」
即答だった。しかも心做しか声音に怒気を孕んでいるように見えた。もしかしたら失言で地雷を踏み抜いてしまったかもしれない。
「一時の気の迷いだと思ってますか?」
「い、いや、別にそんな風には思ってないけど……」
「なら……なら、証明、しましょうか。実はその……千束に言われて……
「し、証明?準備……?」
一体何の話……とたきなの顔を覗くと、そこには果実の如く顔を赤らめて、無理して言葉を絞り出そうとする彼女の姿があった。
「私、今日は見せてもいい、下着……なので……っ」
「……………………………………………………はっ!?」
────とんでもないことを言ってきた。
その言葉を鼓膜に届かせるのに数秒、脳が理解するのに数秒、顔を真っ赤に染め上げるのに数秒かかった。彼女、自分が何を言ってるのか分かっているのか。
「「……っ!」」
バチリと目が合う。彼女はこちらを見上げ、続く言葉を待っているようで。いや待て、俺に何を言えというんだ彼女は。
「────…………ぇ、ぁ、ゃ、ちょ……それ、はなんというか……ぇ、早くない……?」
「ぃ……い、言ったじゃないですか。残りの時間が少ないからこそ、濃い時間を過ごしたいと」
「意味とレベルが違う!そんな急に、ちょ、たきなさん何で立ち上がったの、ちょ、ちょいちょいちょいちょい!」
真っ赤な顔のまま、そして何より誉の両手を掴んだまま立ち上がり、半歩でこちらとの距離をほぼゼロにする。互いの吐息がかかる距離、彼女の艶のある長髪が、頬に垂れかかる程の距離に、誉は瞳が揺らいだ。
拙い、そしてヤバい。たきな完全にムキになってる。
「や、ちょ、待って待って!それこそ一時の気の迷いだって!てか俺そんな体力無い!色んな意味で心臓止まる!」
「大丈夫です。ミズキさんから色々教わったんです。私が動くので、誉さんは寝ててください」
「顔赤っ!リンゴかよ!絶対に今無理する事じゃないだろこれ!しかもよりによってミズキさんからは尚更駄目だよ絶対偏ってる……ちょ、力強っ!」
あの行き遅れに何を吹き込まれて来たのか、拙い、まさかのたきなに喰われる襲われる。離れようとも両の手首を掴む彼女の力が強過ぎる。この華奢な細腕で何故これほどの力が。
「……っ、ぁ」
そのまま後ろのソファに寄りかかり、彼女が誉の両の腿に馬乗りになる。普段の彼女から考えられない艶かしい表情と、甘い吐息。心臓が、煩い。
「た、たきな?一旦落ち着いて。冷静になろう、たきなにはこれから先いくらでも機会があるんだから────」
「嫌です」
「え」
誉の言葉を遮った彼女の顔を、改めて視認する。
そこには形振り構わず暴走していた人間とは思えない、気恥しさに頬を染めて、
……これ、ムキになってる訳じゃ────
「漸く私のものになったんです。もう待てません」
●○●○
────“俺で本当に後悔しない?”
舐めてもらっては困る。
この人の代わりなんていない。
そうでなければ、ここまで焦がれるものか。
────“たきなにはこれから先いくらでも機会があるんだから”
「……馬鹿ですね」
ほかの恋なんて、いらない。
この人生に、一生に一度の恋でいい。
この想いを傾ける相手は、生涯でたった一人でいい。
たきな 「……という夢でした」
千束 (おっも……!)
ミズキ (重っ……)
クルミ (想いが重いな……)