死んだ方がマシなんて言葉、綺麗事だよ。死が尊いとか、死が怖くないなんて、経験した事が無い人が語っても何も響かないんだから。
────たきなが経理を担当してから約数週間。
ほんの僅かな期間であるにも関わらず、リコリコの経営はある程度の持ち直しを見せていた。誉自身、経営を勉強し始めたのは最近なのだが……つい先日たきなが管理していたPCで、ここ数週間の収支や経費を軽く流し見するだけでも先月との違いが明らかだった。
「……たきなって凄いよなぁ」
店に向かう道中、そう一言呟く。収支が回復してるのが目に見えて理解できるというのは相当だ。経営の改善という意味でいうならば大成功という他ない。ないのだが……成果があまりにも劇的過ぎる。
普通慢性的な赤字をものの数週間の内に改善して回復までさせるなんてほぼ不可能だ。ましてこれを主体で行っているのは、優秀とはいえ齢十六、七歳の少女。
故にこれは、それまでの赤字が如何に
(何やってんだミカさん、ミズキさん……)
たきなが経理担当として経営に携わるようになってからの初動は物凄く早かった。
というのも経営が悪化している要因足るものは既に並べられており、その根本にあるのが錦木千束の仕事における姿勢であることは明らかになっていた。
その最たる例であり最大の病巣ともなるのがこの店の裏稼業───即ち、荒事関連の依頼だ。故にたきなはまず、そこの改善に着手した。
(ここ最近の任務での出費が少ないってミカさん言ってたけど……てか、非殺傷弾ってあんな高かったんだな……)
実際に金額を聞いた時は珈琲何倍分か計算してしまい目を丸くした事だ。
誉は千束の戦闘を直に見たことがない為その辺に無知なのだが、千束は歴代でも最強と謳われるリコリスであり、単体戦力で一組織を無力化できる実力を有している。
中でも至近距離で銃弾を躱せてしまう彼女は、その能力で敵の懐に飛び込んでのゼロ距離乱射が基本戦術となっている。なまじ命中率の高いとは言えない非殺傷弾であるが故の強引な突破方法であり、重ねて言うが非殺傷弾の乱射は金の無駄遣い。その上命中精度の悪さによって現場が損壊する度に呼んでいるクリーナーへの依頼料は馬鹿にならないときてる。
たきなは千束と任務を共にする際は、現場での千束の使用弾数を一発単位で管理し、可能な限りグラップルガンを使用しての安上がりな拘束・鎮圧を推奨したりと、この赤字収支の改善目標に対してかなり真剣に取り組んでいた。
聞くところによるとたきなは、非殺傷弾を許容数撃ち損じると敵ではなく千束をグラップルガンで拘束するのだという。レベルが違う。
その他少しでも経費削減、節約節制を心掛けるようになったたきなは、冷蔵庫の開けっ放しや不要な部屋の電気の付けっ放しを無くすべく注意喚起をするようになった。
加えて、店の経費で購入された必要量より多い食材を晩酌のアテにする不正システムをまかり通していたミズキの方にも遂にテコ入れが入り、先日、二十八歳とは思えない女性のギャン泣きを、誉は生まれて初めて目の当たりにして、なんだったらドン引いていた。
以前集客が多い時にクルミが店に食器出しを頼んだ事があったのだが、慣れない仕事だからかその時皿を割りそうになったのをたきなが空中で鮮やかに回収したのは記憶に新しい。
必要経費が増えるのはなんとしても避けたいたきなは、ここ数日で数人分の動きを見せていてあまりにも頼もしかった。
(リコリスって絵は必修じゃないのに経営学とか履修できるの?)
大学かな?選択科目で単位とかあるのかな。
犯人取り逃した際の人相書きのクオリティ上げるよりも支部ごとのフロント企業の経営回復に重きを置くのは楠木さん違うと思うんです……とは無関係なので言えない誉。
苦笑しつつ店の前に辿り着き────その足を止めた。
「……っ」
すると、入口周りにゴミや埃が見当たらない事に気が付く。明らかに今日掃除がされたのではないかと思える程に綺麗に清掃されていた。開店前の入口の掃き掃除は当番制で────今日は誉が当番の日であった。
手抜きや妥協を感じない仕上がり。ここまで真面目な仕事振りをする人間を、誉はリコリコにおいて一人しか思い付かなかった。
(やっぱ気の所為……じゃ、ないんだよな)
ここ最近、誉が買い出し当番の日に限って既にたきなが必要なものを出勤ついでと称して買い揃えていたり、集客が多い中で誉がフロアを担当していた際には休憩から早めに上がってヘルプにそれとなく入ってくることが多かった。
お店が混んで来れば一人では体力が保たない時もあり、誉はこれまでも何度か多めに休憩を貰っていた。誉にとって、身体的疲労はそのまま命の危機に直結するからだ。
────だからこそたきなの無言の介入の理由も……なんとなく察しはついていて。それに対して誉は、どんな反応したら良いのか分からなかった。
「……」
助けは要らないと、たきなに告げた拒絶の意思。それを受けた彼女は決してその話をぶり返す事も言葉にする事も無かったけれど、それでもなお垣間見える誉に対する献身的な行動の数々。
こちらに不要と言われて、嫌がられるかもと怖かったはずなのに、陰ながら手助けをしてくれる彼女の気持ちに、どう応えるのが正解なのだろうか。
「……ああ、くそ」
────……けど、それでも……たきなにあんな顔をさせてまでその気持ちを否定したかった訳じゃないんだよ。
誉はたきなに目線を逸らされたり、話しかけようにも避けられるこの状況にそろそろ心が折れそうだった。
病院は箱庭で関わり合える人が少なく、誰かと一緒に居るのがこれほど楽しい事なのかと思ったのは、外に出て───リコリコに来て初めてだったから。
────“ 私……千束と、誉さんと……一緒にお店続けたいです”
たきなのあの言葉を聞いて、あの表情を見てしまった事で、憧れていた錦木千束の生き方を目指す自分自身の意思が、振り子の如く揺れていた。
「おはよう、朔月くん」
「っ……あ、あれ、ミカさん……おはようございます」
杖をつく音と足音で顔を上げ、声をかけられ視線が傾く。大きなビニール袋を片手に現れたのは、目の前にあるリコリコの店長ミカだった。ぼうっとしていた意識が一気に引き戻された気がして、途端に我に返った。
「珍しいですね、正面からいらっしゃるの……それ追加の買い出しですか?連絡してくれたら来る途中で俺が行ったのに」
「なに、たまには私も運動しないとな……身体が鈍って仕方無い」
そう言って、店の前のベンチに腰掛ける。隣りには買った食材で膨れ上がった白いビニール袋。杖を手摺に立て掛けて背に凭れて息を吐く。
店の外でリラックスした姿勢を見せる彼が珍しくて、思わず見つめてしまう。自ずと目線が交錯し、バツが悪くなった誉が慌てて口を開いた。
「あ……袋、裏に持って行けば良いですか?」
「ああ、ありがとう」
そうしてベンチへ足を運び、ミカの隣りに置かれたビニール袋の手提げ部分に指をかける。持ち上げんとしたその瞬間、隣りから声を掛けられた。
「……辛くないかい?」
「これくらい全然……女の子みたいと定評のある細身の腕を鍛えるのに丁度良い……あれ、てか思ったより軽い────」
「
「え……っ、あ……」
誉はビニール袋から顔を上げ、またミカの方を向いた。真っ直ぐな瞳はそのままこちらを見据えていて、心の奥底まで見透かされてしまっているような、そんな気がした。
ミカが気にしてくれている事はきっと、誉自身の身体の事だった。言葉に詰まりながらも、誉は言葉を紡ぎ出す。
「……身体の方はまだ、何ともないです」
「そうか、それは良かった。……それで、たきなとはどうしたんだ?」
「……っ」
────やはりバレている。本題はそっちか。
まあ、こうも雰囲気悪くしてれば流石に悟られてしまうか。
「……すみません、店内の空気を悪くして……気を遣わせてますよね」
「いや、それはそこまでじゃないが……喧嘩したのかな」
優しく問い掛けてくるその声音に怒気は感じない。身内を心配するような慈愛に満ちたその表情と声音に、自然と安堵を覚えて口が軽くなる。
「え、や、あの、喧嘩と言いますか……なんて言ったら近いかな……音楽性の違いみたいな」
「バンドの解散理由かな?」
「や、すみません言語化が難しくて……でも喧嘩じゃありません、俺が意地っ張りで頑固で強情なだけで」
「全部同じ意味だな」
心配させまいと思い付いた言葉のはずなのに、並べる度に状況が混乱する不思議。何を伝えたいのか、どういう了見なのか、まるで説明できていない。紡ぐ度に言葉の糸が絡まって、解けなくなって。
そうしている内に、抽象的にではあるが誤魔化す事もできずに言葉が溢れ始めた。
「……譲れない部分で言い合いになって、俺が一方的に彼女を拒絶したんです。だから喧嘩にすらなってない……たきなは何も悪くないんです。彼女の善意を受け取れなかった、俺の……」
「……君は優しいな」
「え……ぁ、いや……そんなんじゃないです。自分の事ばかりですよ」
「自分の非を認めるのはそんなに簡単な事じゃないさ。他人を思いやれるからこその、君の美徳だと私は思うよ」
仲違いの背景を話しただけで褒められるとは思わなくて、どう反応したら良いのか分からない。戸惑いがちに俯くと、ミカはふっと軽く笑って告げた。
「君の在り方を千束とミズキに見習って欲しいもんだ」
「俺は結構好きですけどね、ミスの責任を
「不名誉が過ぎるな……」
最早リコリコの十八番というかお家芸というか。基本的には千束とたきなとミズキとクルミの内の二人が言い合いしてる事が多くて、名物にすらされそうなレベルである。
ミカは困ったように笑って暫く、申し訳なさそうに眉を寄せて呟き始めた。
「その……まあ、なんだ……たきなも気難しいところはあるが、ここに来た頃に比べたら大分丸くなった方さ」
「丸く……そう、ですかね……見ただけじゃ全然分からな……あ、でもここのスイーツ美味しいですもんね」
「いや、体型の話じゃないんだがな」
「でもたきなってその辺の栄養管理とか鍛錬とかは怠ってないと思いますよ、俺なんて食べても全然太らなくて」
「そういう事じゃないんだがな」
丸くなるどころか筋張ったり骨張ったりしてふんじゃないかと不安になる……なんて、ミカが此方の冗談を真に受ける姿を見て小さく笑うと、誉はどこか遠くの空を見上げて呟いた。
「確かにたきなはこの店に来てから変わったのかもしれませんけど……もしかしたら、あれが本来の彼女なのかもしれないですよ」
「千束と居ると、自分が出てしまうからな」
「彼女の魅力ですね」
本部に戻る為の功績を追い求めていたあの頃は、確かに冷たい印象を感じてしまっていたけれど、たきながこの店に異動になった理由である独断専行も、仲間のリコリスを守る為のものだった。
彼女の人間性は、最初からそうだったのかもしれない。それを、錦木千束によって引き出されただけで。だから、あれがたきな本来の優しさであり、思いやりであり……そう理解してしまうと、笑っていたその頬が引き攣ってしまう。
「……俺も、そうなんですよ」
「ん?」
「錦木が眩しく思えて、憧れて、あんな風に生きたいと思うから自分に正直で在りたくて……だからつい、他を蔑ろにしてしまうんだ」
自分らしく在りたいと思うからこそ、たきなの気持ちをその道の妨げに感じてしまうのだ。なら……彼女を想うなら、自分は。
「ミカさん、俺は……アランに頼ってでも、生きるべきだと思いますか?」
それをミカに聞くのは、きっと人選ミスだった。それでも誉は、彼以上に頼れる大人を知らなかった。残り時間が残されていないからこそ、どうするのが正解なのかを、縋りたくなるこの気持ちを抑え切れずに。
「……それに私が答えるのはとても難しいな。何せ、私はかつてそこに縋っておきながら、その対価を払わずにここまで来てしまったからね」
「……錦木の事ですか」
「……ああ、そうだとも。長い事あの娘とずっと一緒に居るというのに、秘密にしている事が沢山ある」
「けど……錦木を守ってくれたんですよね」
「そんな綺麗な話じゃない。伝える勇気がなかっただけさ」
────“伝える勇気がなかった”。
その一言にどれだけの葛藤が込められていたかが理解できた。誉の推測でしかないが、今日に至るまでにミカには幾度と無く選択の場が訪れていたはずだ。
あのバーでの会合の時点で分かってはいたが、ミカは吉松がアラン機関の人間である事は以前から知っていた。恐らくは心疾患によって死期が近かった千束に人工心臓を与えるべく機関に接触を試みた際に知り合ったのだ。
千束の“才能”に魅入られた吉松は、ミカの依頼通り彼女に人工心臓を託し、“殺しの才能”として世界に届ける事を約束させた。
しかし命を救われた千束は、皮肉にも自分を助けてくれた吉松のように他者を助ける存在になりたいと、ミカが届けるべき才能とは真逆の生き方に憧れてしまったのだろう。それを彼は止める事ができなかった。
故に吉松は松下という傀儡を用意して彼女の経過を観察し、果ては『千束の今後について』と意味深なメールでミカを呼び付け、あのバーでミカに接触したのだ。
────話が違う、と。
「ヨシさ……吉松さんは、錦木に随分固執するんですね。支援者の接触は
「別にあの娘が特別という訳じゃないさ。“才能を世界に届ける”……シンジの掲げる理想にそぐわない生き方をしてれば、誰でもそうなった可能性が……どうした?」
「や、こういう事、話してくれるんだなと思いまして……」
あまり込み入った事情は語りたがらない人だと勝手に思っていただけに、少しばかり意外だった。無関係の人は絶対に関わらせず、自分の中にしまい込むような、良くも悪くも責任感の強い人だったから。
ミカ自身もそれを聞いて我に返ったのか、困ったように微笑んだ。
「ああ……君が自分の事を話してくれたから、公平じゃないと思ったのかもしれないな」
「え……あ、はは……いや、まあ……俺は別に隠してるとかじゃないですよ。聞かれてない事は答えられないってスタンスをとってるだけなんで」
知らなきゃ聞かれもしない。だから教えない。それは嘘を吐くのとは同義では無い。そう自分を誤魔化し続けてきた。千束やたきなに余命を言わなかったのも、特に寿命を聞かれなかったからと屁理屈を捏ねて隠してきた。
けどそれは、知られたくないからこその裏返しだったのかもしれない。そしてそのツケが今、たきなに回ってきているだけの話。
「ははは、確かに隠してる事にはならないな」
「っ……まあ……そこに少しでも罪悪感があるのなら、嘘と一緒かもしれないですけどね」
────後ろめたい思いを抱えての隠し事は、きっと嘘と変わりはしないのだと、そう突き付けられた気がした。
「……すまないな、朔月くん」
「え……な、何がですか?」
「ここのところ、君とたきながギクシャクしているのは分かっていた。年長者として、何か相談に乗れたらと思っていたんだが……寧ろ私が話を聞いてもらう立場になってしまったな」
「え……いや、ホントに聞くだけでしたし」
相槌打ってただけとも言える。気になってた事に対して質問くらいはしたけれど、何か為になる事を言った訳でもない。それでもミカは、言葉に感謝を乗せてくる。
「聞いてもらっただけでも、少し肩の荷が降りたのさ。私がした事を君が“千束を守った”と思ってくれていた事、嬉しかったよ」
「……なら、良かったです」
「……案外、誰かに話したかっただけなのかもしれない」
「……俺も、そうかもしれないです」
顔を見合せて、再び困ったように笑った。
誉も、彼に気持ちを吐き出しただけで幾分か楽になったのは事実だった。
●〇●〇
「千束……お願いですからもう少し耐えてください。流石にこの人数は私には無理です」
「ごめん、たきな、朔月くん……私、もう限界かもっ、あとは二人に任せ────だぁっ!?」
「千束ーっ!?」
千束の音を上げる様な声に視線を向ければ、年少程の男児に背中に乗られて耐え切れず床に伏す彼女が居た。うつ伏せに倒れる彼女の元へ、他の園児達もワラワラと群がってくる。
振り返って彼女の名を呼んだたきなも、周りに集まる園児達によって身動きの取れない状態だった。
────ここは千束が仕事の行き帰りによく通る保育園。現在、リコリコ閉店の危機である赤字回復の為、資金源として裏稼業以外の仕事に着手していた。
だというのに、当初やる気だった千束が一番最初に根を上げ始めた。
「二人ともー!何なの今日!?忙し過ぎでしょ!」
「しょうがないじゃないですか!!保育士さんが休みで人手が足りないんですよ!!」
「てか錦木が二つ返事で引き受けたんでしょうよ……」
「こんなに大変だとは思わなかったんだよ!」
「ったく……ん?」
園児にいいようにされている千束とたきな同様に、誉の周りにも園児達が集まってくる。
それは良い。それは良いのだが……何だろうか。何故かやたらと男女比に偏りがあるような……?
「ねーねーおにいちゃん、いますきなおんなのことかいるー?」
「え?」
「おっきくなったら、あたしがおよめさんになってあげてもいーよ?」
「わたしもー!」
「うちもー!」
「み、みんなおマセさんだねぇ、……それまで俺生きてっかな……」
めちゃくちゃ女の子に懐かれていた。告白されたのが人生初なだけに子どもとはいえドギマギする。それも三人、知らぬ間に一夫多妻になりつつあってビビる。ふと顔を上げると、千束が物凄い顔でこちらを見つめている。というか睨みつけて……え、怖い。
「……何、顔怖いけど。鏡貸すから見てみ?」
「……ロリコン」
「おい、今聞き捨てならない台詞が聞こえたぞ!」
「へーんだっ!そんな小さい子に鼻の下伸ばしちゃってさぁ!」
「この年齢差の子ども相手に何を……逆の立場だったら本気にするの?」
「え、な、そ、そりゃあ、大きくなっても気持ちが変わらなかったら、ちょっと考える……かも、や、でも……私、す、好きな人が────」
「おいおい、リコリコ看板娘チョロインかよ」
「何だとキサマァ!!」
噛み付かん勢いで立ち上がろうとする千束を、わいわいと彼女を押し潰す園児達。身動き取れずに顔を顰める千束に嘲笑にも似た表情を向けてやれば、顔を赤くして暴れ出す彼女に、一同が笑いに伏した。
「うぅっ……」
「「「ん?」」」
「おぎゃああああああぁぁぁあぁぁぁぁぁぁ!!」
「「「!?」」」
するとその喧騒に驚いたのか、傍に敷かれた子ども用布団で寝かせていた赤ちゃんが泣き出してしまい、誉と千束とたきなは途端に青い顔をした。
「ほ、ほらっ、千束が騒ぐから……」
「えっ……え〜っ!?私の所為?うぅ〜、朔月くんがチョロインとか言うからぁ!」
「錦木が食ってかかってきたんでしょ。ほら早く泣き止ませないと」
「わ、分かってるよぅ……お〜ごめんね〜ビックリしたね〜、もう大丈夫だよ〜もっかいねんねしようね〜」
誉に促され、納得いかない表情のまま取り敢えず赤ちゃんを胸に抱く千束。宥めながら腕をゆりかごの要領で左右に揺らす。……正直、見てて焦れったくなるほど覚束無い。
「……ぎこちないね」
「う、うっさいな!……おっ?泣き止んだかな?」
「……おぎゃああああああぁぁぁあぁぁ!!」
「うわっ、ダメだったかー!?たきなー!チェンジ!!」
「へっ?」
突如千束に差し出された赤ちゃんを慌てて抱えるたきな。ぎこちなさは千束と良い勝負だが、たどたどしくも丁寧に腕でゆりかごを作る彼女の動きに、次第と赤ちゃんはその瞼をゆっくりと閉じ始めた。
「おおっ……」
「おー!気持ち良さそうに眠っちゃって〜、うりうり〜!」
「起きちゃうのでやめてください!」
コイツぅ〜と頬を優しく突く千束を窘め、自身の抱く赤ちゃんの安心し切った柔らかな寝顔を見て頬を緩めるたきな。それを見た誉と千束は顔を見合わせ、可笑しそうに笑った。
「でも
「……
「うぇっ!?」
確かに、今の言い方だとまるで初めから自分では赤ちゃんを泣き止ませる事はできないと諦めていたかのように聞こえる。
────しかし、そうたきなに振られた途端、まるで失言したとばかりに肩を震わせる千束。それを無かった事にしたいのか慌てて捲し立て始めた。
「ほっ……ほら〜、たきなってお母さんっぽいとこあるじゃん?たきなママ的な〜?」
「誰がママですか!?ミズキさんじゃあるまいし、そんなわけないでしょう!?」
「ごめんごめんっ、冗談だって!?てかミズキはまず相手が居ないでしょ……」
「ミズキさんに恨みでもあるの?」
やめたれよ二人して。あの人まだ結婚適齢期ではあるんだから、27歳なんだ、し……って、あの人俺と十歳も離れてるのか……世間ではアラサーとも言うし、ミズキさんと同年代で子どもがいる人も沢山……この話は止めよう、と誉は考える程に悲しくなる気持ちをどうにか払拭した。
「じゃあ……何なんですか?理由があるなら教えてください」
「……俺も知りたいな、教えてよ錦木ママ」
「ママ言うなっ……あー……たきなに理由があるというか……私に無いというか……」
「……?どういう事ですか?」
「あるなしクイズやってる?」
「そうじゃなくて!」
珍しく歯切れの悪い物言いと表情に眉を寄せる誉とたきな。すると千束はバツが悪そうに頬を掻き、渋々ながら語り始めた。
「……二人とも、知ってる?赤ちゃんってね────お母さんの
「あ……」
たきなの視線が、自ずと千束の胸元へと向けられる。そこには、決して鼓動を刻む事の無い、人工の心臓が秘められている。決して小さな子を安心させる事のできない、冷たいものと、千束はそう言いたいのだろうか。
「だから私じゃなくてたきながその子を抱っこしててあげてよ。その方がその子も安心できると思うし……まあ、ちょっと羨ましいけどね」
「……千束」
「あっ、安心して!他の子は私と朔月くんが見とくから!ね!」
「や、俺疲れたから此処に居る」
「ちょっと!……ひひっ、私みんなと遊んで来るね!」
誉のマイペースな物言いに楽しそうに突っ込みを入れる彼女。そのまま流れに乗って立ち上がり、『行くぞ野郎共ー!』と情操教育によろしくない掛け声と共に園児達との追いかけっこが始まった。
部屋中を駆けずり回る彼らに紛れる錦木は、背丈も年齢差も違うのに彼らとまるで変わらないように見えて、途端に笑みが零れる。
「たきな、その子任せても平気?」
「っ……え、あ、はい……」
いきなり話し掛けた事で驚いたのか、はっきりとしない返事に苦笑する。あれからずっと気不味くて殆ど会話ができてなかっただけに、こうして二人きりになるのも久しぶりかもしれない。
相も変わらず目線を逸らすたきなに苦笑する中、ふと彼女の抱く子の顔を見て、誉は千束が告げた一言を思い出していた。
「けどそっか……
「────……っ」
「俺が代わってたら、どうなってたかな」
ふと、そんな事を気にしてしまう。単なる好奇心なのか、ちょっとした未練なのかは分からないけれど。
自分があの子を抱いていたら、自分の心臓の鼓動はちゃんと聞こえただろうか。あの子に自分はまだ生きているのだと、そう思って貰えただろうか。
羨ましいと言っていた千束も、もしかしたらその辺を気にしていたのかもしれない。
「……誉さんなら、この子も安心して眠れたと思いますよ」
「────……」
────顔を上げる。
赤子を抱いたまま、真面目な表情でこちらを見据えながら告げる彼女。気遣いや遠慮ではない、ただの本音。だからこそ鼓膜と脳と、何より胸に響いて。
「……そうかな」
「そうですよ。心音なんて安心して眠れる要因になり得るだけですよ。この子が泣いたのは、単に千束が下手だったからです」
「唐突な相棒へのディス」
彼女の背の向こうで特大のクシャミをかます千束を見て苦笑する。再び視線をたきなに戻すと、彼女は赤子を大切そうに抱いたまま俯いていた。
その表情は伺えないけれど、告げる声音だけはほんの少し震えていた。
「……誉さんは、こうして生きてるんですから。滅多な事言わないでください」
「……ありがとね、たきな」
「……っ、はい……」
久しぶりに交わしたまともな会話。
その場でそれ以上続く事は無かったけれど。今日までの蟠りが少しだけ消えたような、そんな気がした。
▼
そうして依頼が終わり、三人はリコリコに戻って来ていた。店も営業時間を終えており、座敷には誉と千束とたきなしか居ない。各々座布団に腰を下ろし、千束と誉は腕を支えに天井を仰いでいた。
「ひぇぇ〜……めちゃくちゃ疲れたよ〜、子ども体力あり過ぎぃー……」
「千束でも疲れる事あるんですね」
「やりたい事しかしてないのに疲れるの?」
「なにおうっ!?失礼じゃないのかキミ達ィ!?ってか、いつの間に仲直りしてるし!」
「べ、別に喧嘩してた訳じゃないですよ……ね?」
「え?あ、ああうん、ちょっとした音楽性の違いがあって」
「バンドの解散理由か!」
たきなは子ども達に弄ばれた不出来な三つ編みをたどたどしく触りながら誉と顔を見合せ、照れ臭そうに頷き合う。千束はそんな二人を交互に見やった後、少しだけ嬉しそうに『ったくぅ……』と呟きながら、大袈裟に肩を回して溜め息を吐いた。
「まあでも、このところ任務に依頼に立て続けだったから疲れ取れてないんだよねぇ……眠りが浅いっていうか……あーっ」
「浴槽浸かった時のおじさんみたいな声出すじゃん」
「乙女におじさん言うなっ……あ、でもお風呂は入りたいなぁ……でも……あ〜……少し仮眠して帰るか〜」
それを聞いた瞬間、たきなはふとある事を思い付く。千束の方へと向き直り、彼女の名を呼んで両の手を広げて見せた。
「なら千束。はいっ、どうぞ」
「え……」
「お……?」
千束を迎える準備を整えた体勢のままでいると、千束は唖然とし、誉が目の色を変えて此方を見ていた。我に返った千束が、すぐさま顔を赤くして問い出す。
「急に何!?」
「……?心音聴くと安心して眠れるって言ってたじゃないですか」
そう。千束が安心して眠れるようにとたきなが考えた案。自分の胸で寝ていいですよの構えだった。
千束は保育園で自分が言った事を思い出したのか、途端に目を見開く。
「赤ちゃんの話だよ!」
「千束も似たようなものじゃないですか?」
「失敬な!」
「ですが“羨ましい”って……」
「いやっ、羨ましいってそっちじゃなくて!」
中々首を縦に振らない千束。誉の手前遠慮しているのか恥ずかしがっているのか。相棒の状態が悪いと任務に支障を来す可能性があるのはいただけない。
それに、羨ましいと呟いた時の千束のあの顔が脳裏に焼き付いて、中々消えてくれないのだ。だから。
「……私の心音で良ければいくらでも聴いて良いですよ」
「……………………そこまで言うなら」
かなり長考した末に千束が頬をほんのり赤くしながら下した結論は、お言葉に甘える事であった。たきなが俯せになると、千束はおずおずと自身の頭をたきなの胸元に乗せる。
その鼓動を感じ取ったのかは分からないが、千束は少しだけ驚いたように目を見開いた後、安心したような柔らかな笑みを浮かべていた。
「てぇてぇなぁ……」
「っ、ちょ、朔月くんあんま見ないで!」
▼
「錦木すぐ寝たな」
「相当疲れてたみたいですね。やりたい事しかしてないのに」
「まったくだな」
仰向けになっているたきなの横で、誉が腰掛ける。千束はたきなの心音が大変お気に召したのか深い寝息を立てていて、それを見て残りの二人は小さく微笑んだ。
「あ、良かったらこれ、毛布。このまま掛けちゃうね」
「あ、すみません、誉さん」
「体勢辛くない?他に何か欲しいものあったら持ってくるけど」
「……………………」
欲しいもの。そう聞かれて、たきなは毛布から視線を外した。見上げる形で誉に目を向ける。慈愛にも似た優しい笑み。普段から見ているはずなのに、見慣れている表情のはずなのに。
────あの日からずっと、気が付けば見失ってしまうのではと予感させる程の寂しさと儚さを感じて、それが消えてなくなってくれない。
「……っ」
「……たき、な?」
────朔月誉。相棒の想い人。
そして私の。井ノ上たきなの────
「……手を」
「ん?」
「手を……握って貰っても良いですか?」
「………………え、た、て、手?手って……手?」
「他に何があるんですか」
英語か何かに聞こえましたか。そう告げると誉は固まって、暫く眉を寄せていたが、意を決したような表情で、恐る恐ると自身の左手をたきなの右手へと降ろしていく。
「……」
「……」
「…………」
「焦れったい、早くしてください」
「あ、ちょ」
スローモーションかと思うくらいの速度に痺れを切らし、此方から誉の手を捕まえにかかった。掴んだその手、その指先は熱が通い切っておらず、千束のものと比べたら酷く冷たいような気がした。
機械に生かされている千束よりも、自分と同じ心臓を持っているはずの誉の方が冷たいなんて、なんという皮肉だろうか。目の前の彼は、こんなにも顔を赤くしてくれているというのに。
「何照れてるんですか」
「い、いや、だって────……」
そう言って次の言葉を告げようとする彼の動きが止まった。何故かこちらを見て、目を丸くして固まっている。口を開けたまま、こちらを見下ろしている気がする。
────けれど、何故か自分の視界が霞んでいて、その顔がよく見えない。
「ふふ、そんなに顔赤くなったの、初めて見ました。わ、たしが……そう、させてると思うと……わるく、ないですね」
「……たきな」
不思議だ。気になっている人と手を繋げて、胸の鼓動が高まると思っていたのに。もっと恥ずかしくなって、顔が赤くなって、いつもみたいに早口で言葉を捲し立てて誤魔化す自分が出てくると思ったのに、何故か肝心の言葉が出てこない。
口から零れる度に、自身の声音が震えて聞こえる。上手く喋れていないような、そんな気がする。
ふと触れた彼の手首。脈が、正確に読み取れない。心臓の鼓動がこの人の命をしっかりと刻んでくれているのかどうなのかが、たきなには分からない。
誉の心臓は、いつ止まるかも分からない程に微弱で、小さくて、心許なくて、頼りなくて。
「……誉さん」
「……ん、何?」
砂時計の音がする。その残り時間を秒読みしている気がする。
頬が濡れる。涙が伝う。
この人はいつか居なくなる。別れの時が、すぐ近くに。
どうしてこんな気持ちになるのだろうか。
どうして、こんな気持ちになるようになってしまったのだろうか。
前までは戻る事しか考えて居なかったのに。すぐにでもこの場所から出たかったはずなのに。
常に自分を前で引っ張って新しい世界を見せてくれる友達が居て。
自分の隣りで思いを分かち合い、困った時には助けてくれる好きな人がいる。
涙が止まらない。とめどなく流れ落ちていく。
────誰が何と言おうとも。
きっと私はもう、此処でなくては。
それを望む度に感じる、誉や千束との差を。幾度と無く遠く感じるその距離を、思い知りながらしがみついている。
この奇跡みたいな場所に。
「っ……っ……このまま……握ってても、良いですか……?」
「……こんなすぐ折れそうな細指で良ければ、いくらでも」
唐突に泣き出したたきなに困惑したものの、憚る人目など無いのだと思い直した誉は、直ぐにたきなと繋ぐ指を絡ませ、握る手を強くした。
小さく泣き噦りながら、たきなも誉の指に絡めた自身の手の指に力を込める。冷え切っていたはずのその指には、次第に熱が灯っていく。
その温もりは、確かな願いをたきなに抱かせた。
ずっと、この人に生きていて欲しい。そして、この人と一緒に生きて居たい。
────そんな、ありふれた願いを。
誉 「ちなみに "ロリコン"は12〜15歳の女児への嗜好の事であって、7〜12歳は"アリコン"、5~7歳"ハイコン"、0~5歳は"ベビコン"って言い方が変わってくるらしいよ。あの時の錦木の悪口は適してないね」
千束 「ベビコンかハイコンって言ってたら良かったのかよ」
たきな 「そもそも何でそんな事知ってるんですか」
クルミ 「いつ調べる機会があったんだよそれ」