ゆるめに書き綴る遺品回収屋の日常生活短編集、ハンターではない普通の少女が主人公なので狩猟シーンは皆無のおはなし   作:しゃくなげ

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本筋
少女と流れ星


 かなたに連なる山々が、色鮮やかに染まるころ。

 

 木々の合間を通り抜け、ひとりの少女が道をゆく。

 

 小柄で、愛らしい顔立ちの少女であった。団子のように頭上でまとめた髪が歩みに合わせ、あるいはそよ風を受けてふわりと揺れる。髪球のせいで見誤りそうになるが、背丈は小さく、ともすれば幼な子に見えなくもない。

 

 反面、少女の足取りはしっかりとしていて、迷いは見られない。目的地に向けて、ゆっくりと着実に進んでいるのが見て取れる歩みであった。

 

 山道をゆくのは、ひとりと一匹。少女が進むいくらか先には、さらに小柄なアイルーの姿がある。

 

 何度目かの、現在地の確認。地図を確かめると、前へ、前へ。やがて開けた視界に、少女の口元がほころんだ。

 

 山中の、渓流である。流れる水はどこまでも透明で、水中の岩肌も魚の姿も見て取れる。指をつければ、ジンと冷たい。

 

 苔むした土の香り、たわわに実った恵みのにおい。渓流の涼やかな音色に誘われて、多くの生命は川のほとりに腰を下ろす。

 

 少女もまた例外ではなく、目につく岩に腰をあずけて、ひたいの汗を拭いながら水筒を傾けていた。

 

 夜になれば肌寒さを感じるものの、それでもまだ、日中の暑さは尾を引くように身体をじわじわと苛んでいる。

 

 だからこそ、冷水に当てられた風は心地よく、旅人の休憩所として好まれるのが理解できる。見れば、人が腰を下ろしてすり減った岩たちがそこかしこに並んでいた。

 

 大きく息を吸い込む。荷物を背負っての山歩きに、肺が悲鳴をあげているように痛んだ。

 

 まだ、行程は半分も残っている。

 

 地図を確かめながら、少女は無言のままに形の良い眉を寄せた。万事が予定通りとはいかず、多少の遅れが気を逸らせる。

 

 だからこそ、休息なのだ。

 

 焦ってはならないと、自分自身に言い聞かせる。

 

 山は既に、ひとの領域ではない。

 

 鳥竜の群れが狩りをして、火竜がその獲物を奪い取る。はちみつを求める青熊獣だって、出会ってしまえば危険極まりない。

 

 そういう場所で、ひとは焦ってはならないのだ。まずなによりも、落ち着いて行動しなくてはならない。

 

「ご主人、ご主人」

 

「なに、どうしたの」

 

 くいくいと服の裾を引きながら、大荷物を背負ったアイルーが少女に呼びかける。長く形の良いまつ毛を何度か上下させ、少女もまたアイルーに問う。

 

「みてみて、でっかいカブトムシがいたニャ!」

 

 わきわきと六脚をうごめかせる虫の腹部が、少女の眼前に突き出される。悪意もなにもない、自慢げなアイルーの瞳を添えて。

 

 ひいと情けない声があがったのは、その一秒ほどあとのことであった。

 

 

 

 ことの発端は、今から四日ほど前だ。

 

 ドンドルマの街で小さな店を構える少女の元へ、依頼人が訪れた。言ってしまえばそれだけの、いつもと変わらない日常だった。

 

 涙ながらの訴えを聞き入れて、わずかな報酬を提示して、少女はこの地へ旅立った。

 

 かくして、少女は仕事仲間かつ小間使いのアイルーを伴って、荷台に揺られながらとある山奥の渓流へとたどり着いたのである。

 

 武器の類は、ない。

 

 山に慣れ親しんでいると言えども、少女はハンターではなく、ただの娘である。

 

 ハンターズ・ギルドに認められている狩人ではないのだから、竜を討つための武器を持つことはなかった。

 

 そもそもが、小柄な少女の身体では、鉄塊のような狩猟道具など扱えるはずもない。やぶを払うための小ぶりな鉈が精々だ。

 

 ゆえに、山での行動は慎重に。少女が己に課している、絶対の掟である。

 

 もしも破ればどうなるのかは、恐ろしくて試したこともない。

 

 干し肉をかじり、十分に咀嚼してから飲み込む。汗をかいているせいか、街ではあれほど塩辛かったのに、今はやや薄味にすら感じられる。

 

「さて、そろそろいこっか。変なにおいとかしたら、教えてね」

 

「ニャ!」

 

 元気な返事と共に駆け出した小さな背中を、目で追う。歩調を合わせて走ることは、とてもできそうにない。

 

「……これが、野生か」

 

 つぶやきは、小川のせせらぎに流れていく。

 

 アイルーの足取りはどんな険しい道でも軽やかで、疲れを見せることはない。ひとよりもずっと小さいのに、ずっと強くて、ずっと速い。

 

 ハンターたちは、そんなアイルーを置き去りにして走り続けられるのだそうだ。

 

「私は、ハンターなんてなれそうにないなあ」

 

 言って、少女はくすくすと笑った。

 

 街中で見るあの甲冑を着込んで走る自分の姿を想像したものの、一歩も動けそうにない。転ぶか、転ぶな、うん転ぶ。そんなことばかり考えてしまって、なんだかとても、面白かった。

 

 向こう側で手を振るアイルーにうなずきを返し、少女は再び足を動かし始める。少し湿った土を踏む感触を、足の裏に感じる。

 

 土のにおい、風のにおい、水のにおい、山のにおい。

 

 胸に取り込む自然の香りが、どこか懐かしくて愛おしい。指先で触れた樹木の幹は、薄緑色の苔を着込んでふわりとしている。

 

「……うん。こうして歩くだけで、十分だ」

 

 名前も知らない虫たちの声に背を押されながら、少女は山の深奥へと向かっていく。

 

 恐ろしいものと出会わないように、胸の内で願いながら。

 

 

 

 ハンターズ・ギルドの管理する狩猟場には、原則としてハンター以外の立ち入りが禁じられている。

 

 竜種の生息が確認されれば、それだけで危険地帯となり得るのだから当然だ。加えて言うならば、狩猟場に生息する動植物の総数は厳格な決まりの下でギルドによって管理されている。密猟者を防ぎ、生態系の崩壊を防ぐための措置である。

 

 そうした諸々の事情が重なっているために、狩猟場へと立ち入るためには正規の手続きが必要で、それがまた、とにかく面倒であった。

 

 首から下げた許可証を一度手に取って、紐の緩みやほつれがないことを確認する。この皮紙こそが、少女にとっての生命線なのだ。

 

「お邪魔します」

 

「おじゃましますニャ」

 

 境界線をまたぐ、最初の一歩。

 

 このとき、誰にともなく声をかけるのが、少女の中での決まりのひとつである。

 

 ハンターでないものが、ハンターの領域に入り込む。禁足地に踏み込むような行動に、自然と口にしたのが始まりだった。

 

「やっぱり、空気が変わるな……いくよ」

 

 できる限り、早く帰ろう。いつだって、その思いは変わらない。

 

 アイルーに呼びかけると、少女は気持ち早足に、開けた野原を横切る。視界の端では草食竜、アプトノスの親子が水を飲んでいる。

 

 食餌にされる彼らがおとなしい、ならばこの周囲はまだ安全だ。水浴びをしている鳥たちも、今はまだくつろいでいる。たぶんきっと、まだ安全だ。

 

 そうやって、危険の気配を探しながら、少女はそろりそろりと狩猟場をゆく。気配を殺しておっかなびっくり、誰の目にも止まらないように。

 

 戦う力は、ない。だから、見つかってしまえば、そこで全てが終わる。

 

「鉱石掘りが鉱石に、は、ならないか……」

 

 こういうのを、なんと言ったか。

 

 頭の片隅で思い出そうとしながら、少女は狩猟場北部の水辺を目指す。ハンターたちの使うキャンプを始点に、ゆっくりと北上していく。

 

 目的のものは、たぶん、きっと、そこにある。

 

 水分のせいだろう。空気が少しずつじめりとして、重たくなっていく。

 

 ただ、小川のほとりとは違って、さわやかではない。ねばりがあるというか、絡みつくような不快感がある。

 

 それは、たぶん。

 

「ご主人、ご主人、へんだニャ」

 

「なにか、いる?」

 

 ふと小声で呼びかけるアイルーに、少女は歩みを止めて視線を向ける。

 

 ふるふると首を揺らすアイルーの仕草に若干の愛らしさを覚えたものの、続いた言葉には表情を曇らせた。

 

「ちがうニャ、ニャにもいニャいニャ」

 

 聞いているだけで舌を噛みそうになる言い回しだが、長い付き合いだ、なにを言っているのかは把握できる。

 

 だからこそ、ぞくりと背筋が冷えた。

 

「いないの? なにも、いない?」

 

「ニャ」

 

「ランポスとか、ジャギィとか、そういう小さいのが、ひとつも?」

 

「ニャ!」

 

 こっくりとうなずき、アイルーは周囲のにおいを嗅ぐように鼻を鳴らす。やはりいないと言うように、それからもう一度、首を振った。

 

 考える。経験と、教えを礎に考える。

 

 ギルドの許可証を受けるために、少女は渓流の地を入念に下調べしている。

 

 今の季節はどんな生物がいるのか、危険な場所はどこなのか。そうした知識を持ち合わせていない相手に、そもそもギルドは許可証を発行することはない。

 

 だからこそ、少女は今の状況が恐ろしいと感じていた。

 

 鳥竜が獲物を襲撃するために、身を隠して隙をうかがっている。それ自体はよくあることで、だからこそ危険を察知できるアイルーを伴っているのだ。

 

 そのアイルーが、なにも感じないという。

 

 周囲に隠れているのではない。そもそも最初から、鳥竜はこの場にいないのだという。この季節、この時間帯、いないはずがないのに、だ。

 

 彼らが襲いかかるであろう線を越えないよう、瀬戸際を歩く予定でいたがそれも変わる。鳥竜たちが危険を察して逃げたのだとすれば、渓流には、もっと危ないものが近づいている可能性が高い。

 

「ちょっと、やばいかも。信号弾、出しておいて」

 

「ニャ!」

 

 そのとき、今はまだ遠くから。

 

 どこか、北西の方角から轟いたなにかの声に、少女の肩がびくりと跳ねた。

 

 

 

 少女は、ハンターにはならなかった。

 

 生命を奪うことへの抵抗だとか、そういった思想的な問題ではない。単純に、生物としての力が足りていなかったのだ。

 

 ハンターになれるもの、なれないもの。なれたとしても、成功するもの、しないもの。

 

 ひとびとの多くはハンターにさえなれず、ハンターの多くは成功しない。

 

 ハンターとして大成するには、努力によって超えることの叶わない壁が、持って生まれた強靭な肉体という才能が必要不可欠だったからだ。

 

 だから、最初から少女はハンターを目指したりはしなかった。

 

 自然を愛して山中で寝泊まりもできる、そのていどで十分だった。そうした中で、祖父から教わったことを活かした仕事が、今の少女を形作っている。

 

 少女の生業は、遺品の回収だ。

 

 自然環境の知識を武器として狩猟場へ立ち入り、道半ばで力尽きたハンターの遺品を探し当てる。

 

 日陰の仕事かもしれないが、誰かの心を癒せる大切な仕事であると、少女の祖父は言っていた。そんな祖父の意志を継いで、今も少女は生きている。

 

 今日もまた、いつもと同じ。遺品を見つけて、可能であれば回収して、依頼人へ届けるのだと思っていた。

 

 轟いた咆哮に、忘れていた呼吸を思い出す。専門の訓練を積んでいない少女は、本能的な恐怖を消し去ることができない。どくどくと早鐘のような鼓動に、目を閉じて深呼吸を繰り返す。

 

「ご主人、ご主人、どうするニャ?」

 

「今の咆哮は、もっと西からだったよね。においのするものを捨てて、迂回しよう」

 

 荷物の中から、食料品の袋を切り離す。臭気が漏れないように気をつけているものの、万一のことを考えれば背に腹は変えられない。

 

 可能な限り気配を殺して、前に進もう。袋を地中に埋めて隠すと、少女の囁きにアイルーもうなずき、ふたつの影は草むらへと踏み入った。

 

 進むにつれて感じるものは、異臭だ。北部の水辺には、泥のようなにおいが立ち込めている。

 

「変だね、普通なら、こんなに濁ってない」

 

 背の高い水生植物が生い茂る一帯は、清流が行き着く一端のはず。多少のよどみはあったとしても、これほど汚れることはないはずだった。

 

「水の中から、なにか出てきた? ロアルドロスとか、そういうやつかな。でも、あんな大声で吼えないよね」

 

 自問自答をするのは、情報の整理だと聞いた気がする。それほどまでに、少女の思考は猛烈な勢いで駆け巡っている。

 

 生還しなくてはならない。遺品の回収をするためにも、自分自身が必ず帰らなくてはいけないのだ。

 

 途中で倒れてしまったら、最後の希望を託してくれた依頼人を裏切ることになる。だから、たとえ失敗することがあったとしても、必ず生還しなくてはならない。

 

 そのための、生存のために必要な情報を確かめて、これから起こる不測の事態に備えるのだ。

 

「うん、おかしい。たぶん、私が知らないやつだ」

 

 結論を出して、少女はアイルーから救難要請用の信号弾を受け取った。天に向かって真っ直ぐに、腕を伸ばして引金を絞る。

 

 弾丸が勢いよく打ち出された少しあと、鮮やかな黄色の煙幕が雲ひとつない空へと広がっていく。

 

 傾き始めた太陽に照らされて、少女の頭上は赤く染まり始めていた。

 

 夜が訪れるまで、あと、どのくらいだろう。

 

 少女の経験は、警告を発し続けている。未知の竜がいる場所で、夜を迎えるのは避けたいと。

 

 ハンターにとっては取るに足らない鳥竜でさえも、戦う力を持たない少女には恐ろしい存在だ。ましてや竜ともなれば、どれほどのものかは語るまでもない。

 

 進むか、戻るか、あるいは待つか。

 

 竜の咆哮は、もう聞こえない。ひとつの場所に留まる性質があれば良いが、そうでなければ運悪く鉢合わせることもあろう。

 

「こういうの、苦手なんだよな……封鎖された道に当たること、多いし……」

 

「ニャ。ご主人、うんがわるいからニャあ……きめたのとぎゃくのみちにいったらどうなるニャ?」

 

「この間、風呂屋が閉まってたのがそれだよ……」

 

 にゃあと力無い鳴き声はアイルーのものだが、こんな局面にあって情けない記憶を思い出した少女もまたがっくりと肩を落とす。

 

「たぶん、だけど。この泥の引きずり方、寄り道をしながら歩いてる。……こいつは、渓流に慣れてない、はず」

 

「ニャ?」

 

 難しい顔で見上げてくるアイルーの頭を、少女はわしわしと撫でてやる。目を細めて首を振る仕草が、愛らしい。

 

「初めて来たところで、興味津々。色々見て周りたいけど、私は逃げ道を確保したいから……慎重なやつなら、ここから離れないと思う」

 

 せめて、もう一度。もう一度あの咆哮が轟けば、移動経路を推察することができるのに。

 

 足りない情報を想像で補いながら、少女は水辺からゆっくりと退く。遺品が水没していないことを願いながら、アイルーの名を呼んだ。

 

「でも、それは『慎重なやつなら』で、つまりは『私なら』だ。自分の生息域を出るようなやつで、この辺りの鳥竜が逃げ出したくらいに強いなら……もう少し、奥に進む」

 

 自然は、ときに思いもしない牙を剥く。

 

 今日のこの偶然だって、予想だにしない事態なのだ。普段は渓流に現れることのない竜が、我が物顔で吼えたのだ。

 

 で、あれば。定石通りに引き返しても、裏目に出るような気がした。

 

「探して、ここだ。種類はライトボウガン、クロスボウガンの改良品か、良くてクロスブリッツ。……あまり、使い込んではいなかったらしい」

 

「ニャ!」

 

 元気な鳴き声が、一度。アイルーは敬礼のように片手を持ち上げて、駆け出した。

 

 その背を見送ってから、少女もまた樹木のうろや草の根を探り始める。

 

 変哲のないハンターだったという。

 

 さしたる大物をしとめるでもなく、希少価値のある鉱石を納品したり、家畜を襲う鳥竜を狩って、少しずつ経験を積んでいたと。渓流に訪れたのも、ガーグァの卵を採取に来たのだそうだ。

 

 依頼未達の報告がハンターズ・ギルドから伝えられ、そこからもう何日も戻らない彼に、覚悟を決めたのだと依頼人は言っていた。

 

「せっかく手に入れたんだ、持って帰ってあげなきゃ」

 

 手袋に付着した泥水が冷たいし、不快なにおいは精神を摩耗させる。そういうときに少女が思い描くのは、依頼人の話を聞いて推察した、彼のひととなりだった。

 

 どんなハンターだったのだろう、きっと朗らかなひとだったのだろうな。新しい武器を、寝る前に何度も磨いていたのかな。射撃練習もしていたかもしれない。一緒に狩りに出るアイルーはいたのかな。

 

 しょせんは空想で、事実ではないけれど。顔も知らないハンターの姿形を思うだけで、萎れそうになる心が奮い立つのを、なにより少女自身が感じている。

 

 つまりは、少女は、優しい娘であったのだ。顔も知らない誰かのために、死地に踏み入る家業を継ぐほどには、優しい娘であった。

 

 祖父の言葉を、思い出す。

 

「日陰の仕事、だけどさ。誰かの心を癒せる大切な仕事なんだ、これはさ」

 

 泥水に汚れても、よどんだ空気にさらされても、苦手な虫をつかんでも。それでも投げ出せずにいられる理由を、細い指先が探り当てる。

 

 重くて硬い、誰かの思い出。このままでは朽ち果ててしまう、名も知らない誰かの痕跡。

 

 どうにか、こうにか。半ばから砕けたハンターの武器を持ち上げた少女の顔は、きらきらときらめいているように明るい。

 

「あった、あった……!」

 

 サビの浮き始めた金属の塊を、両手に抱き締める。ずっしりと重たくて、機械油のにおいがする。切れてしまった弦が、折れてしまった銃把が、見ていて胸の痛くなる光景だった。

 

 それでも、連れて帰ることができる。手早く背負っていた鞄の中から引っ張り出すのは、遺品入れだ。

 

 これ以上に壊れてしまわないよう、丸鳥の柔らかな羽根を緩衝材に、ケルビの毛皮を水避けに。包み込んで背負うまで、少女の動きに無駄はない。

 

「ご主人、ご主人!」

 

 泥に汚れたアイルーが、少女のもとへ駆け寄ってくる。ばたばたと振り回す両手には、なに持っていない。遺品は少女が見つけたのだから、当然ではあるのだけれど。

 

「お疲れさま。こっちにあったよ、大丈夫。あとはこのまま」

 

 街へ帰ろうと続くはずの言葉が、途絶える。

 

 代わりに轟いたのは、あの聞き慣れない咆哮だった。

 

 

 

 大きい。

 

 見たことのない竜を前にして、最初に少女が感じたのは、そんな簡単なことだった。

 

 黒光する甲殻の腹側には、規則正しく無数のヒレがびっしりと生えていて、遠目に見るとムカデのよう。鼻の付け根から伸びる器官は、長いヒゲのようにも見える。

 

 少女を見据える黄土色の瞳は、意思疎通が不可能であると直感させた。獲物か、肉か、少女をそういうものとしか認識していない。

 

 見れば、竜の足元の土はどろりと溶けて、泥のように変質している。重たくねばる足音が、ぐちゃりと一度、大きく響く。

 

 失敗したのだろうかと、少女は他人事のように思う。こいつが慎重なやつで、逃げ道を確認に来た。そこに運悪く出くわして、絶体絶命。だとしたら、アイルーには悪いことをした。自分の判断ミスだ。

 

「ご主人、にげるニャ、はしらニャいと!」

 

「いい、逃げて、君だけでも先に行って」

 

 ぐいぐいと、アイルーは服の裾を引く。

 

 少女も頭では理解しているのに、身体がちっとも動いてくれない。膝が笑っているように、がくがくと震えて力が入らない。絞り出した声なんて、掠れてしまって聞き取れやしなかった。

 

 祖父は、なんと言っていたか。こういうときには、護衛のハンターに任せて逃げるように、だった記憶はある。ハンターを雇えるほどの稼ぎがないときは、どうだったろう。

 

 ぐるぐるとめぐる思考は、一向にゴールにたどり着いてくれない。どうにかしなくてはならないのに、どうにもできないのがわかってしまう。

 

 低い竜のうなり声が、少女の小柄な身体に浴びせられる。咆哮ですらないのに、空気の震える圧力だけで腰が抜けてしまいそうだった。

 

「ご主人!」

 

 アイルーが、少女を呼ぶ。頭上を指差して、なにかを必死に伝えようとしている。つられて、少女もまた、眼前の死から視線を逸らして空を仰いだ。

 

 赤く染まった夕焼け空に、銀が一条、尾を引くように伸びる。

 

 鋭く、速く、まっすぐに。まるで、それは。墜ちるように駆け抜ける、ひとすじの流れ星に見えた。

 

 鈍い光と、影ひとつ。泥を散らして竜の前に、少女を隠す壁のように立ちはだかる。流れ星に見えたそれが、ひとのかたちをしていると気づくまで、たっぷりの時間を要した。

 

「行けよ、耳を塞いで走れ」

 

 赤い空に溶けるような、夕焼けの外套。研ぎ澄まされた刃を手に、流れ星は一瞥もくれずに少女に命じる。

 

 その声で、空気が変わった。竜もまた、眼前の流れ星を敵と認識したのだ。

 

 慌て、少女は言われた通りに耳を塞ぐ。おかげで、轟いた咆哮が鼓膜を破ることはなかった。

 

 鎌首のように尾をもたげ、竜は流れ星へと躍りかかる。少女が認識できたのは、そこまでだ。水辺を駆け抜ける足裏が、泥濘ではない硬い土の感触をとらえる。

 

 背後を振り返ると、必死についてくるアイルーと、向こう側に泥の津波。それから、銀の糸を空へと放ち、縦横無尽に飛び回る影。

 

 ハンターの戦いとは、こういうものなのか。思わず見惚れそうになるのを堪えて、少女は帰路へと向き直る。

 

「救援信号、届いたんだ。行こう、行かなきゃ、帰らなきゃ。届けるんだ、これを」

 

 背負った重みを、今になって感じられる。生きた心地がしなかったさっきまでとは打って変わって、自分のなすべきことをなそうという意志がある。

 

「走るよ、しっかりついてきて!」

 

「ニャ!」

 

 そうして駆け出して、一分か、そこら。

 

 平然と先を行くアイルーに向かって、少女が待ってと必死に呼びかけるのは、もう少しだけあとのことであった。

 

 

 

 大都市、ドンドルマ。

 

 いつの時代もひとの絶えない、ひとびとのるつぼ。

 

 建ち並ぶ多種多様の店舗の片隅に、少女の店が密やかに存在した。

 

 加工屋や鍛冶屋といった、花形の店ではない。酒場や万屋のような、大衆の味方でもない。日陰の店でしかなくて、稼ぎも、それほど良くはない。

 

 けれど。

 

「ありがとう、ございました。間違いありません、私の名前が彫ってありますもの」

 

 涙声で言って、妙齢の女性、今回の依頼人は頭を下げた。

 

 机の上には、渓流から回収できた軽弩の残骸が寝かせられている。物言わぬ鋼の塊は、役目を終えて眠りについたように動かない。

 

 夫、だったのだろう。

 

 フレームを撫でる依頼人の手つきは、いつくしむようで、物悲しい。涙のしずくをふたつこぼして、それから、依頼人はにこやかに笑った。

 

「空のお墓で、寂しかったのですけれど。これを、あのひとだと思って収めようと思います」

 

 何度かお礼を言って、報酬を支払い、依頼人は少女の店をあとにする。

 

 残されたのは、少女と、小間使いのアイルーだけだ。

 

「ご主人、ご主人」

 

「……うん、大丈夫。よかった、喜んでもらえて。聞いてたかな、やっと再会できたって言ってくれたよ」

 

 使い込まれた木製の机に、べたりと身体を預けて息を吐く。古びたニスの香りは、祖父の体臭によく似ていた。

 

「やっぱり、ご主人、ハンターをやとうべきだニャ」

 

「そうだね、今回のは、本気で肝が冷えた。でもさあ、やっぱり、護衛は高いんだよう……金はあるんやとか、間違っても言えねえー……」

 

 生命を助けてくれた流れ星とは、再会すら叶わなかった。

 

 救難信号は、そもそもが諸手続きを後回しにする人命救助のシステムであって、誰がいつ依頼を受けたのかといった記録を探すのが難しいらしい。

 

 自分の経験不足を突き付けられただけで、恩人にお礼のひとつも言えないままだ。それがなんとも歯痒くて、次は失態を犯さないようにと考えさせられる。

 

「はあー……おじいちゃん、どうやってお店を回してたんだろ」

 

 ぼやくようなつぶやきは、誰にあてたものでもない。

 

 祖父との力量差も感じるばかりで、頭を抱えたくなってくる。そんな少女に、アイルーは冷えた水を差し出した。

 

「そういうの、ぼくにはわからニャいけど、がんばるしかニャいニャ。またびらくばり、してくるニャ! がっぽりかせいで、ハンターをやとうニャ!」

 

 ふんすと鼻を鳴らして、小さなアイルーは胸を張る。そ 可愛らしいその仕草に、思わず少女も笑みをもらした。

 

「そうだね、頑張るしかないか。まずは、護衛を雇えるようになるまで、さ」

 

 そのとき。

 

 からんころんと、古びたドアベルの音が店内に響いた。慌てて乱れた前髪を整えながら、少女がアイルーの背中を叩く。

 

「お客さんだ、お迎えして!」

 

「ニャ!」

 

 駆け出すアイルーの背中を見送りながら、少女はゆっくりと息を吸い込む。

 

 誰かの心を癒せるこの仕事が、やたらと繁盛するような世の中であってほしくはない。けれど、依頼人がいるうちは、できる限りのことをしたい。

 

 まだ少しだけ、複雑な感情を抱いたまま。

 

 少女は、新たな依頼人と言葉を交わす。

 

 帰ることのない誰かの痕跡を、見つけ出して連れ帰る。日陰の仕事かもしれないけれど、少女は、この仕事を愛していた。

 

 沈痛な面持ちの依頼人と、祖父の机を挟んで向かい合う。

 

 歳若くても、経験が浅くても、自分の店を頼ってくれたひとを失望させないように。

 

 胸を張って堂々と、静かな、けれど力強い声で少女は名乗る。

 

「はじめまして、店主のリンです。お話を、聞かせていただけますか」

 

 そこから先は、また、別のおはなし──

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