入学:五年前の約束
それは、寒い冬の夜だった。
息が切れていた。慣れない革靴が雨上がりの湿った坂道に型を掘る度、靴底はずりずりと音を立て、踏み込もうとする力を奪っていく。
先ほどまで走っていた息を整えようと私は立ち止まり、振り返って続く足音が無いとわかるとまた、大欅の立ち姿を目指して足を進めた。
風一つない静かな草原に、私の荒い息と心音だけが響いている。
やがて登り切った先で、私ははぁはぁと息を整えた。
雨で塵の落ちた透き通る夜空には、普段顔を隠す星々までもが輝いている。
見上げる冬の蒼、周囲に灯りのない広い景色には、いくつもの輝く点が結ばれていた。
そこは、屋敷から少し離れた小高い丘。二人で見つけた秘密のまぼろば。
「やっぱり、ここにいたんだな」
探していた相手はやっぱりこの大樹の下に寝転がっていた。
黒っぽい前髪からはみ出る白く大きく目立つ流星。ゆるく内にカールした鹿毛のロングヘア。長毛のウマ耳に五角形に輝く翡翠の耳飾り。吊り上がった眉が厳めしい印象を持たせるが、アメジストのように透き通る瞳は丸い目元と合わさって可愛らしく、その内に空に写る星雲たちを閉じ込め、紫の小宇宙を形作っている。
ルナ、私と同じシンボリ家で、血縁的には私の叔母にあたる1つ上の幼馴染だ。
「シリウス?」
起き上がった上体が驚いたようにこちらを向く。
ここにいるのは聞かなくてもわかった。
何せ人生の半分は共にした存在。自分の半身、魂の片割れも同然だった。
私にはルナの全てが分かり、ルナも私の全てが分かる。
私たちは一つだった。二つの心を、二つの身体で分け合っていた。
だからこそ、私にはルナが離れていくこともわかってしまった。
「……ホントに、行くんだな」
ルナの隣に寝転がり、草原に大の字を描く。
今日、屋敷ではルナの送別会が開かれていた。大人達が着飾った、外面だけ綺麗な中身の無いパーティー。
朝になればアメリカ行きの飛行機が出る。だから、今夜は最後の思い出。
背中が汚れることなど気にしなかった。こんな小綺麗な服なんて、汚れているくらいが丁度いい。
「あぁ、それがトレセンへの一番の近道だからね」
赤紫の瞳に未来が反射して、キラキラと輝いていた。
その輝きを私は持ち合わせていなくて、それが羨ましくて、少し妬ましくて。
「お前は、それでいいのかよ。どうせお爺サマに言われたんだろ」
私は皮肉交じりの疑問を放り投げた。私の大好きなルナに、私の大嫌いな嘘をついてほしくなかったから。
「あぁ、お爺様には随分良くしてもらったからね、その恩返しがしたい」
ルナが深く息を吸い込み、何かを飲み込んで空に放つ。
「何より、私はもっと広い世界を見てみたいんだ。レースという、様々な想いがぶつかり合う未知の世界を」
そうか、お前がそこまで言うなんて、そこまで本気なんだな。
——お前なら何にだってなれたはずなのに、結局走る道を選ぶんだな。
言葉が返せない。くぐもった沈黙が、私たちの僅か数十センチの間を隔てる。
「……お前とは、ずっといっしょだと思ってた」
少しだけ、裏切られたと思ってしまった。
私の一番大切な存在が、私以外の一番を見つけたのが許せなかった。
「いっしょさ、たとえどれだけ離れていても」
優しい声だった。姉が妹をなだめるような言葉だった。
ルナの白い手が耳の間に触れて、私は思い出す。
一つ上のルナの背が先に伸びるのは当然のことなのに。
裏切られたわけじゃないのに、私が勝手に期待してただけなのに。
今はただルナが先に大人になってしまうのが怖かった。置いていかれてしまうのが怖かった。
本当は寂しいだけなんだ。いつもみたいに手を繋ぎたいだけなんだ。
「……ねぇシリウス、私には夢があるんだ。くだらない夢だけどね」
ふと、ルナが私の赤い瞳を覗いた。いつもの穏やかな笑みの裏で、少しだけ憂いた顔をしていた。
「なんだ、言ってみろよ?」
その中身を探るように、でも私の瞳から不安がルナの紫に吸い込まれないよう、恐る恐る聞き返す。
返事を待つ間の数秒が、とても長く感じられた。
「いつか君と並んで走って、並んで大人になって、並んで年を取りたい」
欅をざわめかせ吹いた風に、ルナの鹿毛の髪がふわりと舞った。
私より長いその艶めきは、何年経っても見飽きない程美しい。
「ふーん。なんか、ルナにしては平凡な夢だな」
ヘアオイルの香りが鼻をくすぐる度に寂しさが胸を締め付ける。
けれど、私はその美しさをずっと見ていたいと思った。
赤紫の瞳を覗く。右頬に地面の冷たさが伝わる。
「平凡でいいじゃないか。私たちは非凡な家に産まれたんだから」
ルナの腕が夜空に向かって伸び、開いた手が三日月を覆い隠した。まるで、昔の自分から目を背けるみたいに。
「……ねぇシリウス、私は強くなるよ」
「なんだよ急に?」
握った掌にルナは力を込める。その内から漏れるほんの少しの迷いが声を揺らしていた。
「ずっと考えてたんだ。私は多くを与えられてきた。血筋、教養、才能……恵まれた境遇にある自分に、何ができるのか。自分は何をするべきなのか……」
「だから、トレセンに行くのか」
「あぁ。私は強い。だから競争と勝負の世界に身を置けば、きっと今より輝けるはずなんだ。夜空に浮かぶ月みたいに、暗がりの中の道標になれるはずなんだ」
ルナはそれっきり、芝生を揺らす夜風だけが耳を鳴らす。
「……じゃあ、なんでそんな顔するんだよ」
「……それじゃ足りない、何か満たされない自分がいるんだ」
あぁ、お前はバ鹿だな、大バ鹿だ。
自分の可能性を縛ってることに気付かずに、他人から与えられたものを夢だと思い込んでる。
私は靴底で枯草を踏みつけ、掌を地べたに押し当てて腰を上げる。
そのまま立ち上がって伸びをすると、土埃の付いた背中を払って向き直り、ルナを見下ろした。
「なら、私がお前の太陽になってやる!」
「……シリウス?」
「月は自分じゃ輝けないだろ? だから、お前が皆を照らすなら、私はお前を照らしてやる!」
自分でも半ば何を言っているのか理解できなかった。ただ、それが自分の本心なんだろうという実感だけが確かだった。
男子みたいな声が頬骨を通じて耳に届く。自分の内から熱い何かが沸き上がって、頬に滴るのが確かに感じられた。
「私もトレセンに行く。そして必ずお前を見つける! その時は私と勝負しろ! お前を満足させてやれるのは、いつだって私だけなんだから」
感情の赴くまま、私は言葉を風に乗せる。月明かりみたいに優しい眼差しがこちらに向けられていた。
「シリウス……ありがとう、約束しよう」
「あぁ、約束だぞ」
夜空を背に私は頷く。地と空の境で、小指と小指が結ばれる。
ルナが弱さを見つける。そんな日が来るか、それはわからない。もしかしたらそんな日は来ないかもしれない。
それでも、その時の私はいつかの明日を、再会を信じるしかなかった。
「今日は三日月だな」
彼女の名を呟く。月明かりは丘にそびえる大樹をぼんやりと照らして影を作っていた。
「あぁ、冬の大三角も見える」
ルナも私を呟く。その視線の先、三角形の頂点でおおいぬ座のa(アルファ)シリウスは強く輝いていた。
今はもう戻れない、懐かしい幼い日の思い出。
* * * * *
一人で見る夕日は眩しかった。
耳を、頬を、身体の脇を吹き抜けていく風が寂しかった。
こんな時、またあの大欅の下で寝転がれたらと思わずにはいられなかった。
私が中央トレセン学園に入学してから2ヶ月。アイツと約束を交わしたあの冬の日から、早4年が経っていた。
最初のうちは国際電話や手紙で連絡を取り合っていたが、次第にそれも無くなっていった。
曰く、いつまでも離れずのままでは、レースに必要な対抗心や闘争心が育たないということらしい。
貴重な子供時代を道具としか考えてない、汚い大人のやりそうなこと。
入学の少し前には海外への留学も提案された。まぁ、熟考の末しっかりと拒否したが。
だって、今の私には他人に与えられる夢以上に守りたい約束があったからだ。
お前らにとって都合のいい子なんかじゃない、自分の夢は自分で見つけてみせる。
でも、奥底の心が通じ合っているのなら、きっとまたどこかで会えるはずだ。
そんな脆い夢を、200mの直線の先になびく明るい鹿毛を思い浮かべながら、私はゴールラインを踏み越えた。
「さぁ、誰かこのチャンスをものにする奴はいねぇのか!?」
その日は何度目かの選抜レースの日だった。
いつものように圧倒的な走りで一着をもぎ取った私は、取り巻きの生徒たちやマスコミ、スカウト目当てのトレーナー共に囲まれていた。
「流石シリウス様! やっぱり走りも一流ね!」
「シリウスシンボリさん! 今後の意気込みをお聞かせください!」
「是非私と一緒に頂点の走りを目指そう!」
そうやって
こんな時、隣にお前がいればなんて言うだろうか。
私の生まれ、シンボリ家というのは厳格な家だった。
所謂新興貴族というやつで、元々千葉の大地主だった家系が戦後の動乱に乗じて拡大していったらしい。
そんな成り立ち故か、
URAに金を流し、政治にまで口を出し、時には子供すら駒として利用する。
そんな奴の周りに集まったのは資産と権威に目が眩んだ汚い大人ばかりで。
気づけば私は家を嫌い、家を軽蔑し、家を憎んでいた。
私は人を信じるということをしなかった。
他人とは分かり合えないと諦めていた。
ずっと独りで生きていくものだと諦めていた。
——あの時、ルドルフに出会うまでは。
ルドルフは特別だった。厳格な家に産まれながら、何にも縛られない心を持っていた。
優しい奴だった。強い奴だった。面白い奴だった。
けれど、今はもうあのクシャクシャになった笑顔は遠い記憶の彼方で。
あの明るい鹿毛も今頃、どこかターフの上で走っているのだろうか。
「ったく、つまんねぇ奴らばっかだな……」
そんな醜悪な自己回想に浸りながら、練習コースに背を向ける。
その一瞬、観客席の奥の奥に、こちらには目もくれず一人トレーナーノートを開く影が目に留まった。
身長は170程度だが、若干の猫背に見えるので実際は平均より少し高めだろう。顔立ちは若干幼いが、それより目を引くのは空より青い瞳と雲より白い髪。瞳は瞳孔まで群青に染まる本物で、天使の輪ができている髪も恐らく地毛だろう。男にしては柔らかめのそれは、後頭部の中心から少し右に逸れたラインで大きく編みこまれ、肩下まで伸びている。
気づけば私は、その不思議な魅力を醸し出す背中に釘付けになっていた。
急に雑音と化した周囲を無視して呼び留める。
「おいアンタ、私の走りに興味はねぇのか?」
他のトレーナー共は残念そうに場を後にし、マスコミや取り巻きは息を飲んでその場を覗く。取り巻きたちの声だけが辺りに反響していた。
「えーと、何かな?」
首をかしげてこちらを見た彼の手から隙をついてトレーナーノートを取り上げる。
印刷剥げの無い真新しい表紙にも関わらず、そのノートは既にかなりのページが書き込まれていて。
「よく書けてるな……ゲートインから踏み込んだタイミングまで完璧、着順は目測か? よく8番のクビ差なんて分かったな」
競争心を焚きつけるような声でも、内心は感心していた。私は強い奴も好きだが、生真面目な奴も好きだ。
「あの、返してくれる? 今書いてたんだ」
釣り上げた右手を追いかける少し幼げな反応がかわいい。やっぱり、コイツはバカ正直なタイプだ。
「ハッ、そんな紙切れに書いたデータより、私の本物の走りに興味はねぇのか?」
相手より精神的優位に立ち、譲歩を投げかける。私の常套手段だ。
勝利を確信した、確実に乗ってくれると思った。けれど彼は一言。
「嬉しいお誘いだけど、今はいいかな」
とだけ返し、意識の逸れた右手からするりとノートを抜き去った。
「……なんでだ?」
突っぱねられた事実を飲み込むのにほんの数秒、しかしとても長い時間が流れる。
大人に会話で負けたことは初めてだった。この一見弱そうな男をそこまで縛りつける意志は一体何なんだ。
「君、踏み込むタイミングがバ郡に隙間が空くより早かった。見極める眼はいいけど、掛かり癖があるね」
立て続けに心臓を撃ち抜かれたような衝撃が全身を貫いた。
自覚していなかったわけではない。自分の悪い癖だとは気づいていたし、それでも手懐けられるよう努力はしてきたはずなのに、この男は軽々しくそれを超えてきやがった。
そんな私の動揺もどこ吹く風に、男は紙面にペンを走らせそさくさとを記録を連ねる。
「今日はこんな感じかな、明日はスタートを重点的に観察しよう」
やがて記録が終わったのか、男はペンを胸ポケットに仕舞う。
ハードカバーのノートを閉じる乾いた音が、すっかり静まり返った観客席に反響していた。
足早に去るその背中は、呆気にとられた周囲の空気は私という異物を排除するようで。
その日、寮の部屋に帰っても尚、あの立ち姿が頭から離れることはなかった。