拝啓、母さんへ
立秋を迎え、朝夕には吹く風に秋の気配が感じられるものの、まだまだ暑い日が続く毎日ですが、母さんたちはお変わりないでしょうか。
こちらは変わらず万事順調、心満意足。シリウスと過ごす時間は変わらず愉快適悦の連続で、何だか初等部の頃を思い出します。
嬉しいことに、あの子は昔私とした約束を覚えてくれていたんです。
先月のことです。誰とも併走できないと私が嘆いた時、あの子は私と併走できる子を探し回ってくれました。
いつも他の子と関わろうとしなかったあの子が、誰に言われるまでもなく友達を作ろうとしたんです。
その背中は随分と恰好よく、私と1歳しか変わらないのに大きな成長を感じずにはいられませんでした。
そして、私にはこちらで最初の友人ができました。
エアグルーヴさんという、英明果敢を絵に描いたような素敵な友人です。
シリウスには大きな借りができてしまいました。この借りはいずれ、レースで返すとします。
彼女がくれた友情に恥じぬよう、私も海内無双のウマ娘として彼女を迎え撃たなければと身が引き締まる思いです。
——こんなことを書いたら、母さんは「直接言いなさい」なんて仰られると思いますが。
友人もでき、遊びに行くことも増え、私は段々とトレセンでの日々が楽しいと思うようになりました。
ですが時々、アメリカでの日々が無性に恋しくなることもあります。
最初のうちは上手く馴染めなかったあの4年間も、ふとした時に思い出して寂しさを感じてしまうのです。
ですが今は、あの経験を大切な思い出として胸に仕舞って、トレーナーさんとの勇猛果敢のトレーニングに昇華します。
クリスエスさんには随分お世話になりましたから、また改めてお礼がしたいものです。
最後に、新学期がひと段落したら、一旦屋敷に帰省しても宜しいでしょうか。
ポーラーにも挨拶を済ませたいですし、父さんの墓参りにも伺いたいので。
お爺様にも伝言を頼みます。それでは、お体に気を付けて。
敬具
1994年8月29日 シンボリルドルフ
追伸
屋敷に戻ったら、久々に母さんの作ったアップルパイが食べたいな。
* * * * *
「シリウス、そういえばなんだが」
「どうした?」
「まだトレーナーは決まらないのかい?」
新学期の始まったある昼の教室。午前の座学を終え鞄の中を整理していた私は、上の階の教室から降りてきたルドルフに呼び止められた。
季節は9月。蒸し暑った空気も徐々に涼しくなり、私が入学してからもうすぐ半年が経とうとしていた。
「あぁ、目下教官クラスで集団指導中だ。といっても指導は週1、あとは自主練程度だが」
「だが、いつまでも教官の世話にはなれないだろう。レースへの出走は専属トレーナー契約が絶対条件だし、なにより体が鈍る」
「そうしたいんだけどな、なかなか私に合う奴がいねぇ。もっと骨太なトレーナーがいればいいんだが……」
廊下を並んで歩きながら、そんな不満を宙に浮かべる。
脳裏に浮かんでいたのは選抜レースで出会った白髪のトレーナーだった。
鋭い観察眼、集中力、分析力。あれだけの能力を持っているなら、あの時私じゃなくてもピンときたウマ娘を思うがままにできたはずだ。
それなのにアイツは観客席を去った。誰も選ばずに。
「まぁ、ピンときた奴は一人いたが……」
私の予想を超えていったあの白い髪、その足取りは今も掴めていない。
カフェテリアに向かい渡り廊下を歩く。午後からのトレーニングのため、校舎のあちこちでは始業準備に取りかかっているトレーナーがせわしなく駆けまわっていた。
一方のカフェテリアも、夏休み中の増設で生徒が分散したとはいえかなりの混雑具合で、昼食のプレートを受け取る頃には、空いているのは日当たりのいい……悪く言えば残暑の直射日光で焼かれたカウンターテーブルしか残されていなかった。
まぁ座れないよりマシかと日向を避けてお盆を置くと、左隣に座ったルドルフが突如思いついたように人差し指を立てた。
「なら、私のトレーナーを君に紹介しよう」
「……はぁ!?」
コップの水面が地響きを起こし、素っ頓狂な叫び声をあげた。
それはあまりに安易で、唐突で、突拍子もないアイデアだったからだ。
「お前のトレーナーって……いたのかよ!?」
「あぁ、アメリカで見つけたんだ。純日本人だけど」
ルドルフがさも当然のようにそう答えるので、私は呆気に取られて彼女のペースに足を取られてしまう。
中庭に面したカウンター席は周囲に人も多く、私はなるべく気配を消すよう背中を縮める。
一方のルドルフは人目も気にせず、マグカップのマドラーを指で回しながら自慢を続けた。
「私のトレーナー君は腕が立つトレーナーでね。指導、レース計画、マッサージ、怪我の応急処置。あらゆる面において私の期待に応えてくれる。まさに八面六臂の活躍だよ。特に目がいい」
「目……?」
「そう、目。彼の眼は天性の才能だ。彼に診てもらうためなら、シンボリもメジロもいくらでも金を積むだろう。あの青い瞳にはそれだけの価値がある」
あの目の肥えたルドルフにそこまで言わせる、件の人物とは一体。
まだ見ぬ逸材に対する期待と同時に、ちょっとした緊張が私の腹を満たす。
「……いや、やっぱいいや。トレーナーは自分で探す」
「おや、どうしてだい? 悪い話じゃないと思うが……」
「お前がそこまで褒めちぎるの、なんかすっげぇハードル上がんだよ!」
ルドルフがあまりに純粋に私をキョトンと見つめるので、冷水を喉に流し込んで羞恥を紛らわすのに精一杯になってしまう。
優しくされるのは嫌いじゃないが、こうも手厚くされるといつまでも子供扱いされるような悔しさもあった。
「シリウス、別に君の反応を楽しんでいる訳じゃないさ。ただお礼がしたくてね」
「お礼?」
「そう、エアグルーヴの件さ。あれ以来彼女とはよく小説の貸し借りをしていてね。今度は感想の交換日記もするんだ」
「……良かったな」
「……あぁ、こんなに深く趣味を共有するなんて初めてだった。だからシリウスも、新しい関係を築けば世界が広がると思う」
キラキラと瞳を輝かせるルドルフはどこか観音菩薩のように慈悲深いが、どこか腹立たしい。
アレか、彼女ができたら急に生活が充実しましたアピールを始めて周りに距離取られる奴ってこういう感じなのか?
だが、言ってることは至極真っ当だし納得もしているので、ここはひとつ話に乗ることとした。
「午後から時間を取ってある。来るかい?」
「あぁ、行ってやるよ」
マドラーから指を離し、鞄を小脇に抱えてカフェテリアを後にする。
人がまばらになったフロア内には、午後のトレーニング開始を告げるチャイムが響いていた。
「ここが、お前のトレーナー室?」
午後2時、カフェテリアを後にした私たちは職員棟の2階にあるトレーナー室の前まで来ていた。
周囲に人はおらず、一見すると平和な昼下がり。しかし扉を隔てた各々のトレーナー室では、今まさに幾つもの戦法が練られていることだろう。静かな廊下には、静かな闘志が燃えていた。
「そう、器具や資料の保管以外にも、簡単な休憩室としても使っている」
しかし当のルドルフはというと、腕時計を確認することもなく部屋に前で大きく伸びをしている。余裕綽々といった様子だ。
「鍵は……開いてないな。合鍵を使うか」
ルドルフがポケットを探って数秒後、ドアノブが回されトレーナー室の扉が開く。
古い造りの棟にも関わらず、室内は思いの外綺麗に整えられていた。
ヘリンボーンの床には簡単なカーペットが敷かれ、カーテンは厚手の絹地。テーブルは折り畳みではなくしっかりとしたニス塗りの木造り。パイプ椅子にはお手製のカバーが掛けられ。壁際には屋敷から持ってきたであろうアールデコ調のソファが鎮座していた。
「簡単な休憩室というか……もはや自室だな」
「紅茶もあるぞ、母さんに送ってもらっているんだ」
私が部屋の全景を眺めている間に、ルドルフはずかずかと視界に入りこんでデスク脇のシェルフを漁る。
「飲むかい?」
陶器のポットと茶葉の袋を両手に引っさげて、白い流星は笑った。
「少し待っていてくれ、トレーナー君ならもうすぐ来ると思う」
数分経っただろうか、二つのカップから湯気が昇る。ソファに腰かけながらルドルフの背を見ると、向かいの壁沿いの棚には運動学に解剖学、精神医学から指導要領まで、古今東西あらゆる学術書が並んでいた。
その資料の質の高さからでも、このトレーナー室の主の学の深さがうかがい知れる。
紅茶はよくルナさんと飲んだ味がした。きっと5年間、ルナはこの香りに家族を感じていたんだろうな。
そう感慨深く、カップを口に運んだ——その時。
「マズいマズい遅刻だ遅刻!」
ドタドタと足音が聞こえて、忙しくガチャガチャとドアノブが回された。しかし開かない。どうやら間違えて鍵を閉めたらしい。
「あぁちょっと待って開かない待って!」
手元が滑っているのだろうか。裏の鍵穴からガキンゴキンと異音が鳴っている。
なんだコイツ。それが最初の感想だった。
どんな奴かと期待してみれば、遅刻はするは鍵は間違えるはおまけに口調までノリが軽い。こんなデクの棒がルドルフの言う逸材なのか? 夏炉冬扇の間違いじゃないのか?
私は一瞬のうちに、どんな悪態をついてやろうか思考を巡らせた。蝶番が音を立てるまでは。
「ごめんルドルフ! バス止まったから走ってきた!」
入ってきた男を見た瞬間、思考が止まる。
「あっ!」「あっ」
身長は170程度だが、若干の猫背に見えるので実際は平均より少し高めだろう。顔立ちは若干幼いが、それより目を引くのは空より青い瞳と雲より白い髪。瞳は瞳孔まで群青に染まる本物で、天使の輪ができている髪も恐らく地毛だろう。男にしては柔らかめのそれは、後頭部の中心から少し右に逸れたラインで大きく編みこまれ、肩下まで伸びている。
「お前は!」「君は」
そう、その姿は正にあの日選抜レースで見た————
「あの時のいけ好かないトレーナー!」
「あの時ノートひったくったウマ娘!」
三度、ハスキー声と子供っぽい声がハモった。
目を見開き、指を差し合う2人。
「えっ何? 君たち知り合い?」
その偶然に遭遇し、紅茶を吹きこぼして呆気に取られる鹿毛ひとつ。
こっちもだよ、ルドルフ。
* * * * *
「ハッ、まさかお前がルドルフの担当だったとはな……」
「こっちも、まさか君がルドルフの幼馴染だったなんてね……」
窓の外からトレーニングに励む生徒たちの声が届く、午後2時。
テーブルの上に広げられた書類。私は腕と脚を組みながら、
「……改めて、僕は柚木崎オガミ。ルドルフから聞いてると思うけど、ルドルフとはアメリカからの付き合い」
「シリウスシンボリだ。ルドルフから話は聞いてると思うが、一応アイツの姪だ」
テーブルに3つ置かれたカップに、淹れたての紅茶のおかわりが注がれていく。
柚木崎と名乗ったその男は、あからさまに顔をしかめ目線を合わせずにいた。
何と言うか、顔に「不機嫌です」と油性マーカーで書かれている。
険悪な空気に挟まれ、ルドルフは双方の証言を参考に状況を把握しようと耳をピンと立てていた。
「えーとつまり、君たちは私が知らぬ間に選抜レースで出会っていたんだね?」
「出会っていたっていうか、気づかなかったっていうか……でもこれで合点がいく」
「ていうかそもそも、担当就いてるトレーナーがなんで選抜来てるんだよ」
カップの上でフレッシュの蓋を開けながら、ルドルフに懐疑の視線を寄越す。
毛深い耳がピクリと反応し、カップがテーブルに戻されると白い流星が揺れた。
「あぁ、トレーナー君が
「まぁ、中々ルドルフと合わせられる子が見つからないままここまで来たんだけどね……」
「それについては申し訳ない……でもシリウスがいてくれてよかった。現状、私に全力で併せられるのはシリウスだけだからね」
二人は慣れた具合で会話のキャッチボールを投げ合っていた。
その光景がルドルフを盗られたようで腹立たしくて、私は視界から二人を遠ざける。が
「それでどうだい? トレーナー君と契約してくれないかな? シリウスが加わるなら心強い」
無理やり迫った目線と共に、キャッチボールが私に投げ渡された。
私が誘いを断らないと信じて疑わない笑顔が、ぽかぽかと私を照らしにかかる。
しかし、その間も白髪の頭は付箋だらけのノートを捲り、青い瞳を右に左に流していた。
まるで、私なんかいないモノとして扱うように。
だから、私は手渡された契約書類を右手で払いのけ、ふんぞり返ってそっぽを向いた。
「生憎お断りだな。こいつとは
「僕だって、やる気のない子の面倒見る気も余裕もないよ」
「やる気がない? シリウスはいい子だよ」
「確かに、ルドルフの練習相手として見れば。ね」
吐いた悪態に向かいの男が同調したことが苛立ちを加速させる。
ルドルフがフォローを挟もうとするが、男の態度は変わらずだった。
「練習相手だと……? 私じゃお眼鏡に適わないか!?」
拳を握り締め、怒りで震える声で青い目を睨みつける。
その反発を待っていたかのように、白髪の男はじっとりと冷たい目を向けた。
「そう。少なくとも、僕がついたところで君が強いウマ娘になるとは思えない」
瞬間、机に平手を叩きつけ、ガタンと音を立ててカップが跳ねた。
視界が赤く染まり、激情が血となり脳を循環していくのが嫌でも分かった。
「私に何が足りないって言うんだ!!」
叫びにも似た声音がトレーナー室に響く。
立会人は一触即発にたじろぎ耳を塞ぎ、永遠にも思える数秒の沈黙が場を包んだ。
ぎりぎりと擦り合わせた歯の隙間から、荒い息が漏れては消える。
その静かな憤慨を聞いてか聞かずか、男はゆっくりと口を開いた。
「〝信念〟だよ」
「信念……?」
その一言を聞き取った瞬間、机に突き立てていた爪から力が蒸発した。
溜めていた息で湿っていたはずの口内が乾いていく。
不服の声すら出せずにいると、ノートを離したトレーナーの右手の指が机をトンと叩いた。
「君、本気で〝走ろう〟って思ったことある? この群雄割拠のトレセンの中で、本気で
間髪入れずの追撃。胸の内をメスで切り開かれたような痛みが私を襲う。
くぐもった口は歯ぎしりの音すら発さなかった。
「その様子だと、考えたことも無いみたいだね。君、今までずっとルドルフの背中しか見てこなかったでしょ」
「そんなこと……!」
「あるよ。戦法自体は先行と追込で違うけど、ストラウドの取り方がクリソツ。君が真似ようとしなきゃここまで似ないし、今まで他に参考にしてこなかったでしょ」
やった絞り出したプロテストは事実であっさりと一蹴される。
そのままの手さばきで、彼はあの日私が取り上げたノートを眼前に差し出した。
「何が書いてあったか、忘れたわけじゃないよね?」
ズキズキと鈍痛が響く両手でノートを手に取る。
破れそうな付箋を捲り、あの日覗き見た選抜レースのページを開いた。
ゲートインから各ウマ娘が踏み込んだタイミング、目測の着順、8番のクビ差——
それだけじゃない。隙間にはあの時には無かった風速や芝の状態のデータが赤ペンで追記されていた。それを踏まえた考察のメモがテープで端に留められ、ノートを分厚く膨らませている。
正確性、知識量、分量——彼の分析はどこを取っても完璧と言って違いないものだった。
「僕はね、ルドルフの眼なんだ。ルドルフはまだまだ伸びる。才能だけじゃない、あの子には才能を伸ばすために全てを吸収する野心がある。だから僕はルドルフの眼になって、あの子が知らない走りを見せ続ける覚悟でいるんだ」
迫るような声音には、今までの口説には無かった確かな情熱が込められていた。
それが紛れもなく、嘘偽りのない本心から来る言葉であることを、何よりも彼の訴えるような眼差しが証明していた。
「〝走る〟それはウマ娘の本能だ。でも何故走るのか、何のために走るのか、それは人によって違う。夢のため、楽しむため、賞金のため……それぞれに走る理由があるからこそ、全力で競ってぶつかり合えるんだ」
ずっと逸らし続けていた彼の目線が、今度は真剣に、無防備な私を真っ直ぐに捉える。
その透き通るような紺碧の瞳には、確かに焔が燃えていた。
「シリウスシンボリ、君が走る理由は何? 君をターフに突き動かすもの、誰が何を言おうと絶対に曲げられないものを、君は持ってる?」
優しい声だった。厳しい声だった。パイプ椅子の硬さだけが背中を伝っていた。
最早抵抗する気など起きなかった。ただ俯いたまま、彼が放った問いかけが、自問自答として包み込むように耳の内を反響していた。
「それが分かるまで、僕は君のスカウトは受けないよ」
再び、冷徹な声色が耳を劈く。それっきり、青い瞳の視線は再び書類の束に戻っていった。
ルドルフは申し訳なさそうに耳を垂れながら、何も言わずに冷めきったカップを下げる。
言い知れぬ敗北感を背に、私はトレーナー室を後にした。