ずっと昔。シンボリの屋敷には1周2000mほどの練習コースがあった。
本邸から裏林を突っ切って、林を少し進んだ場所に建つ芝の円周。
そこに行けば、いつだって子供の声が聞こえた。
ある時は、走り終わったタイムに一喜一憂する声。
ある時は、友達と遊び回って無邪気なはしゃぐ声。
歩き始めから芝に慣れさせる、シンボリ式英才教育の賜物。
走ることを義務付けられた私達にとって、そこは第2の教室だった。
「よかった、誰もいない」
「旗でも立てるかい? 新大陸到達だ」
そんな学び場の一角に、今日は私とルナが二人だけ。
一昨日熱を出してお休みしたルナのために、ルナさんが開けておいてくれたのだ。
いつもは大人達が仕切っているこの庭も、今だけは私たちがルール。
「シリウス、負けた方はおやつのクッキー3枚献上だ」
「アップルパイだったら?」
「……全部だ!」
屈伸のついでに2、3度軽くジャンプして、石灰のスタートラインに並ぶ。
私がルナさんに迎えられる前は、ルナも他の奴と走っていたらしい。
でも私が来てから、ルナは私としか走らなくなった。
私に友達がいないからか、ルナが強すぎて周りが嫌がったか、理由は分からない。
私が誘うこともあったし、ルナが誘うこともあった。
そうして気づけば、走る時はいつも二人きりで。
5年前のあの夜まで、二人は間違いなく互いに替えの効かない存在になっていた。
「位置について、よ~い……」
今日は右回り。私は内側、ルナは外側につく。
右脚を指先まで地面に食い込ませ、腰を低く構えた。
「ドンッ!!」
風を感じるほどの勢いで腕が振り下ろされると、4つの耳、4つの脚、2本の尻尾が駆け出す。
脚を回す度、ぐんぐんとスピードが上がる。林の青い匂いが鼻を突き抜けていく。
一瞬右を見る。ルナはニヤリと口元を歪め、不敵な笑みを浮かべていた。
私はぐんと前に出て、ルナが踏み込めないよう背中を壁にしてぴったり前につける。
後ろから聞こえる足音が小さくなる。追い抜くタイミングに迷っているみたいだ。
そのまま最初の小競り合いが終わると、お次はコーナーが迫る。
ルナが追い抜きにかかる時はいつも外からだ。私はわざと外に膨らむように進路を決め、スピードを落とさずに曲がっていく。
こうもいやらしい位置取りをされては、しばらくルナは手出しできないはずだ。そう思っていた。
ドスン。と、突然何かが勢いよく落ちたような重い音が響いた。
コーナーの内側から、ルナが私を睨みつける。
内側の更に内側を走っているのに、ルナの体は滑るようにどんどんスピードを上げていく。
こうなるともうお手上げだ。思いっきり内を攻めるルナと外を走る私じゃ、残りの距離に差がありすぎる。
蹄鉄を地面に押し付け、視界に映る赤い鹿毛を追いかけるが、追いつくことはできない。
最後の直線もそのままの勢いで、赤い鹿毛はゴールラインを越えた。
「よっ、とっ、とっ、と!」
ドッ、ドッ、ドッ、と、湿気た地面に蹄鉄が跡をつけ、私達は止まった。
息を整え、心臓の音が静かになると、林の中でさえずる野鳥の声が聞こえる。
あの<ツピツピツピツピ……>って鳴いてるのは、たぶんシジュウカラ。
で、向こうの空を飛んでく黒い翼はハシボソガラス。鳴き声が濁ってる。
汗ばんだ頬がしっとりして、湿った風は思ったより冷たい。
「二人とも、お疲れ様」
本邸に続く道の方から、ざくざくと土を踏み鳴らす都が聞こえた。
左腕に畳んだひざ掛けを下げて、日傘を差したルナさんがやってくる。
「母さん!」「ルナさん!」
タッセルを肘置きにひっかけて、ルナさんは2人掛けのベンチの真ん中に座る。
私たちは飛び上がって、両脇にぐいぐいと体を押し込む。
そうしてぎゅうぎゅうになった膝の上に灰色のチェック柄を広げて、上でバスケットを開く。
中身は水筒と紅茶のクッキー9枚、それから剝き実のオレンジ。
縦に詰まったクッキーを取ろうとすると、ルナの手が事前の約束通り3枚を鷲掴みで盗っていった。
ルナはクッキーを一気に摘まむと、大きく開けた口に指ごと突っ込む。まるで雛鳥の給餌だ。
一瞬で私の取り分は0。ルナさんがお情けで1枚分けてくれて、私は1枚を半分に割ってちびちびかじった。
「楽しんだみたいね。どっちが勝ったの?」
「ルナ! ルナ速かったんだぞ! 内側からぐいー! って凄い速さで追い抜いていってさぁ——」
「でもシリウスもすごかったんだ! また新しい走り方で攻めてきて——」
「そう……」
膝に手を下ろし、ルナさんの瞳が心配げに私を見る。
「シリウス、悔しくないの?」
「何が?」
「だって、前の競争もその前も、いつもルドルフが勝ってる。シリウスは負け続けで嫌じゃないのかい?」
「うーん……わかんないな。走るは嫌いじゃないし、ルナといるのは楽しいし、私は満足かな」
紙コップの縁を噛みながら、私は平然と答える。
私もルナも好きでやってるだけなのに、何をそんなに気にしているんだろう。
そうやって私たちが物思いに耽っている間にも、ルナは無言でバスケットの中を空にしていく。
私が手をはたいて静止させると、物音に気づいたルナさんはハッと我に返り、バスケットの蓋を閉じた。
「じゃあふたりとも、ひと段落したらうちに帰ってきなさい。夕飯のホワイトソース作り、手伝ってもらうわよ?」
「は~い!」「はーい」
たぶん、この頃からずっと、私がルナ抱く感情は憧れから変わってしまっていたんだと思う。
あの時、ルナさんは私を見て何を思っていたのだろのか。
その答えは、今はもう草原に還りつつあるあの円周に、置いてきてしまったのかもしれない。
* * * * *
〝ダンッ〟と、コースに一瞬の地響きが鳴った。蹄鉄が芝を抉る。
先を往くのはエアグルーヴ、先行策の基本を守った堅実な脚運びだ。
対して私は追込戦法。それも、ここ1ヶ月で形にした独学だ。
つま先の力が上手く伝わらない。走る前に靴ひもを締めるのを忘れたかな。
——まぁ、ここでくたばるような私じゃないんだが。
ぴったりとラチを横につけ、後方僅かな視界から姿を消す。
一瞬軸がぶれた。風音しか聞こえない状況に戸惑っている。
しかし、間もなく迫るは第3コーナー。
私に気を取られ、判断が遅れた。脚幅が乱れる。
速度が落ち、外ラチ側に体幹が傾いた。
しめた。減速中の再加速には大きな隙が生まれる。
私は音を立てぬよう敢えて脚は踏み込まず、上体を倒して重心を一気に前に出す。
捕らえた。残り200m、その勢いでスピードを上げ、汗の走る背中に迫る。
「エアグルーヴゥゥゥ————ッ!!」
残り50m、右後方から颯爽と流星が迸る。
ボブカットの後ろ髪から覗く、ツーブロックに刈ったうなじに噛みつくほどに咆哮する。
ゴールラインを踏み越えた。足を止めた先には、誰の蹄鉄の跡も残っていなかった。
<ツピツピツピツピ……>とシジュウカラが鳴いていた。
雲の群れは晩夏の青空を泳ぎ、まばらな影が蜻蛉の翅を追いかける。
校舎の向こうに聞こえる、ストレッチや走り込みに励む学生たちの掛け声を除けば、ゆったりと時間が流れる昼下がりだった。
「カルピスでよかったか?」
「お、サンキュ」
ベンチの端にコトリと立てかけられたアルミ缶を手に取る。
汗でベタついた掌で汗をかいた白銀の曲線を掴むと、縁がワイヤーフレームのように光り輝いた。
「しかし久しぶりだな、お前とこうして併走するのは」
「あぁ、お前にトレーナーがついてからは初めてだったな」
カコン。と、プルタブを捻る音が重なって、青白い冷気が喉の奥を流れる。
2週間ほど前のことだ。
午後のトレーニング時間、いつものように教官のクラスに集合すると、前の週はいたはずのエアグルーヴの姿が消えていた。
珍しく休みかと教官に尋ねたところ、専属トレーナーが就いたらしい。
名前は確か……<秋名ツカサ>とか言ったか。
「それにしても珍しいじゃないか。お前から併走に誘ってくるなんて」
「いや、なんて言うか、やっぱ気の知れたヤツがいないと締まらないなぁ……って」
「お前もトレーナーをつければいいじゃないか。教官はあくまで基礎を見るだけだが、トレーナーは個人の適性を見る。お前の追込なら、専属の方が合ってると思うが」
「……まぁ、そういうのはいいじゃねぇか」
何気ない一言が痛いところを突き、少し言葉に窮する。
平静を装ってはいたが、頭の片隅では昨日の出来事がまだ抜けきっていなかった。
『〝
昨日、アイツのトレーナーに言われた一言。
私を突き放すような、現実を突きつけるような、酷く冷淡な文言。
それを出まかせだと切り捨てられないのは、自分の弱さだろうか。
「なぁエアグルーヴ、お前って何のために走ってるんだ?」
「どうしたいきなり、お前らしくない」
「いや、昨日ルドルフに誘われてトレーナーと契約に行ったんだけどさ、断られちまって……契約する気はないって突っぱねられた」
「見る目がないな。お前のような逸材をみすみす逃すなんて」
「随分庇ってくれるんだな」
「あの走りを間近で感じれば、誰だって同じことを言う」
脈絡の無い問いにも関わらず、思わぬ励ましを貰ったことに安堵する。
だが、漠然とした不安の種は拭えぬまま、私はまだ高い陽を仰いで大きくため息を吐いた。
「それで、そのトレーナーに言われたんだよ。私には信念が無いってさ」
「成程、言えてるな」
即答だった。
「否定してくれよ」
即答だった。
嘘や建前は嫌いだが、ド直球に言われるのもそれはそれで傷つく。
抗議の意味も込めてわざとらしく肩を落とすと、エアグルーヴは息を吸った。
「そうだな……私がここを目指したきっかけは、お母様だった」
「お前の母さんって、オークスウマ娘だっけか?」
「あぁ、初等部に入る前からずっと、家にいる時はお母様のレースを見ていた。ビデオテープが擦り切れるまで、何度も、何度も。途中でチャンネルを変えると泣き叫んでリモコンを放り投げたらしい」
「それで、そん時の勝負服に憧れた。とかか?」
「違う、私が憧れたのは体操服だ。当時のオークスはOP戦、お母様は体操服での出走だった」
「残り200m、5人並んだ大接戦。土煙と芝に塗れながら勝利をもぎ獲ったお母様は……美しかった。私もあんな存在になりたいと思った」
エアグルーヴはいつの間にか腕を組み、陶酔するような微笑で感嘆を漏らした。
思い出にしては若干湿っぽすぎる気もするが、この歳まで親に尊敬の念を向けられるのは羨ましくもある。
その誇らしげになびく鹿毛に、私は林の中を駆けるアイツの姿を重ねた。
「憧れ、か……」
もこもこの耳と艶やかな赤鹿毛、まつ毛の短い見開いた目。
綻んだ笑顔と少し焼けた肌、丸っこい指先と短い爪。
かっこよくて、かわいくて、私より愛嬌がある。
だけど、一度走り出せば誰より獰猛で、手が付けられない暴君。
才気煥発なだけじゃない。私だけが知っている、アイツの本当の姿。
きっともう誰に見せることもない、私だけの宝物。
「ほんと、敵わねぇわ……」
空を仰ぎ、頬を緩めながら感嘆の声を漏らす。
思い出にしては若干鮮明すぎる気もするが、ルナも記憶力良かったしなと納得して缶の残りを煽る。
その時だった。
「お前、そうやっていつまでもルドルフ先輩と闘わないつもりか?」
「ぶっ!?」
思わず吹き出しそうになり、慌てて飲み込んでむせ返る。
こっちが咳き込む間も、薄灰色の瞳は怪訝に私を見つめていた。
「前から薄っすらと感じていた。お前はどこか、勝ちへの執着を諦めている気がする」
「いや、別にそんなこと……」
「なら何故私に勝ったことに喜ばない。勝つことが嬉しくないのか?」
「それは——」
「お前、ルドルフ先輩に勝つ気がないんだろ」
核心を突かれたような衝撃に、言葉に詰まる。
無意識の奥に隠していた弱点を探り当てられた、肝を潰す感覚。
「勝てないから味方でいようとする。直接ぶつかって、自分が弱いことを証明したくないから、勝つことを諦める」
自分以上に自分を理解しているような口ぶりに、昨日の言い訳が湧き上がっていく。
だが、返す言葉は1句たりとも出てこない。
「だが、それは本当に先輩のためになるのか? お前が幼馴染にしてあげたいと思っていることは、そんなにちっぽけなことなのか?」
最後の一撃を受け、当惑は逆上に変わる。
コンプレックスと罪悪感を悪戯に刺激され、奥歯をぎりぎりと噛み締めながら立ち上がる。
「あぁわかったよ!! 正直になりゃいいんだろ正直に!!」
返事も聞かず顔も見ず、練習コースを飛び出す。
向かうはルドルフ、猪突猛進の精神で特攻していく。
——アイツのことだから、きっとまだトレーニングしているはずだ。
どこにいるかは知らないが、門限までは時間があった。
練習コース、プールサイド、ジム、体育館、空き教室——
学園の隅々まで走り回り、人に聞き込み、されど手掛かりは掴めない。
探し始めて30分、もう校内を2周ほどしただろうか。
加減速を繰り返した脚に熱を感じながら、一息つこうとカフェテリアに入る。
コップに水だけ注ぎ、空き席を探して奥まで進む。
するとそこには、4人掛けのテーブルにびっしりと教科書を広げ席を占有する、もこもこの耳と艶やかな赤鹿毛があった。
私はたまらず前に飛び出し、肩を叩いて向かいに腰を落とす。
「ルドルフ、私と併せてくれ!」
* * * * *
「芝2400m、ダービーと同じだ。準備はいいか?」
夕陽も街並みの奥に沈みかかり、赤紫の空に白い月が見え隠れする練習コース。
ルドルフは腕をストレッチしながらスタートラインに立つ。
風が私たちの長い髪を揺らす。腰を落として構えると、眼前には屋敷より大きなコースが広がる。
「本当にいいのかい? 経験の差を考えれば私が君に……」
「いいや本気だ。本気で来てくれ、ルドルフ」
いつものように浮つかない、覚悟を決めた声音に、ルドルフも眼差しで答える。
「……分かった。では位置について……!」
あの時と同じ右回り。私は外側、ルドルフは内側につく。
右脚を指先まで地面に食い込ませ、腰を低く構えた。
「スタートッ!!」
表か裏か、宙を舞ったコインが芝に落ちる。
僅かな着弾音を振動で感じ取り、4本の脚は一斉に駆け出す。
今まで追込を仕上げていたが、相手はあのルドルフだ。
一度後手に回ればどんな妨害をされるか分かったもんじゃない。
故に、今回は先行策で行く。最初の10秒が勝負だ。
私は外枠、コーナーが来る前に前に出なければ、円周差で距離を離される。
加速と同時に右に重心を右にずらし、横幅を詰める。その時だった。
「はッ!!」
軽く喉を締めたかと思うと、ルドルフは爆発的な勢いで私を追い抜く。
驚くより先に膝の高さまで土埃が舞い、瞬きの間に影も音も過ぎ去っていく。
これが1年の差。いや、13年の差。
素質、努力。何もかもが規格外だ。ライオンなんかの比じゃない。
これがデビュー前のウマ娘か? こんな化け物、挑む方が間違ってる。
そもそも私は、一度だってルナに勝てたことは無かった。
もともと博打勝負だったんだ。諦めてしまえばいい。
悔しさを滲ませることも、無力感を覚えることもない。
でも私は、それでも私は、それでも——
「それでも……負けたくねぇんだよおぉぉ————ッ!!」
叫ぶ。叫ぶ。喉奥が擦り切れる。
ありったけの力を、体重を込めて、芝を蹴り上げる。
土埃が舞い、関節が軋み、蹄鉄がヒビ入る破滅的な加速。
スタミナも残っていない。戦法なんかありゃしない。
フォームも、息も、ストラウドも、何もかも滅茶苦茶だ。
唯一そこにあるのは、ただ負けたくないという執念。
残り100mを切った。靡くルドルフの赤髪の隙間から、汗が滴るうなじが見える。
アイツも神じゃない、消耗しているんだ。
藁よりか細い、僅かな、存在すらしないかもしれない希望に縋りつくように、
前へ、前へ、前へ、前へ————
ルドルフとの併せは終わった。
果たし合いに間違うほどの激闘。時間を置き去りにするレース
力という力を使い果たし、芝になだれ込む。
地平線に紫の混じる橙の空には、夕焼けに照らされ燃える雲がゆっくりと流れていた。
「シリウス、ありがとう。こんなに全力を出したのは久々だ」
気づけばコースの周りには、制服体操服様々のギャラリーがたむろしていた。
だが、ルドルフは手を振ることも無く、気にする様子もない。
初めて、本気で勝負を挑んだ。
初めて、真正面からぶつかって……真正面から叩きのめされた。
もやもやしていた心が晴れて、晴れた先に広がっていたのは——
手の届かないくらい遠い、眩しい空だった。
「クソッ……負けた、負けた、負けたぁ——ッ!!」
「シリウス……?」
「やっぱダメだ、全ッ然ダメだ! まだ追いつけねぇ、影すら踏めてねぇ!!」
拳を何度も芝生に叩きつけ、胸と大声を張り上げる。
地面が震え、背筋がこわばる。酸素を活動する肺から息を捻り出して、喉が痛む。
土に汚れた腕を掃って、ベンチにかけていたタオルを首に叩きつける。
清々しい
「……ルナ、ありがとな」
「え? うん、どういたしまし、て……?」
戸惑い
「なんであのトレーナーがお前を選んだのか、分かった気がする」
ルドルフは不思議そうに見つめていた。
そのアホ面にタオルを投げつけ、私はターフに背を向ける。
「ちょっと行ってくるわ」
「どこにだい?」
「お前のトレーナーんとこ!!」
疲れも忘れ、土に汚れたジャージも気にせず、私は踵を返して職員棟の方へ駆け出す。
「ちょっと、待ってくれシリウス! 待てったら!」
戸惑い混じる静止の声は、もう誰の耳にも届かなかった。
* * * * *
夕焼け小焼けで陽が暮れて、校舎の時計も鐘が鳴る。
私は着の身着のままジャージの上着を腰に縛り、職員棟の階段を駆け上がっていた。
目指す先は2階の突き当たり、窓の向こうに灯りが見えた私は、勢いのままトレーナー室の扉を開け放つ。
「トレーナー! おいトレーナー!!」
「おかえりルドルフ、遅かったね……って、君かぁ」
開口一番、トレーナーは面倒くさそうにファイルを閉じて、わざとらしくため息を吐く。
私は負けじと奥に詰め寄り、机に両手をついて牽制する。
ドンと響いた衝撃に若干肩を震わせ、白髪の男はようやく私の眼を見た。
「ルドルフと一緒だって聞いたけど」
「アイツは置いてきた! 用があるのはお前だトレーナー!!」
「……何度も言うけど、僕は別に君と契約するつもりは——」
「違う! やっと分かったんだ、私の走る理由が!!」
ファイルに伸びかけていた手が止まった。面を上げるが、私は構えて微動だにしない。
見開いた青い目が、どんどん期待を孕んだ目付きに変わっていく。
「……聞かせてもらおうか?」
止まった手はファイルを引き出しに仕舞うと、頬杖をつき、観覧の姿勢を取った。
緊張でうるさい鼓動に私らしくないと感じながらも、私は乾いた口を開く。
「私はずっと、ルドルフから逃げてきた。誰よりアイツの強さを知ってるから、勝つことから逃げてきた。勝ちたいって自分の気持ちから目を逸らし続けてきた」
汗で滑る掌を腿で拭き、強張った背筋を伸ばす。
「だけど、今日気づいたんだ。やっぱり負けたくない。自分の憧れにも、これまでしてきた努力にも、嘘を吐きたくない。だから——」
一度意を決してしまえば、不思議と想いは言葉として繋がっていく。
そうして息を大きく吸い込んだ。その時だった。
「シリウス……一体どうしたって言うんだ」
はぁはぁと息を切らしながら、ルドルフが部屋になだれ込む。
制服に着替えてこそいるが、長い髪は湿って崩れたままだ。相当急いだのだろう。
「だから、お前に勝つッ!!」
「……えっ?」
「私の目標はただひとつ! 〝打倒シンボリルドルフ〟だァ——ッ!!」
「……へ!?」
運を味方に腕を振り上げ、扉にもたれかかるルドルフを指した。
突然の豆鉄砲を食らい、状況が呑み込めないルドルフは目を点滅させる。
そりゃそうだ。突然訳も分からず併走させられたと思ったらトレーナーに突撃されて、追いかけたら宣戦布告だ。傍から見れば奇行とかいうレベルじゃないだろう。
だが今の私は、反応を待たずして達成感と充足感に満ちていた。
「……フフッ」
「なんだよ!?」
静まり返ったトレーナー室。静黙を破ったのはクスクスと漏れる笑い声。
即座にツッコむが失笑は止まらず、トレーナーは机に突っ伏して声を殺す。
「いやぁなんか、君も割と面白い子だなぁってブッ……」
「〝割と〟って何だよ〝割と〟って!?」
「そうだぞトレーナー君。シリウスは面白いんだ。特にレタスで催眠術がかかると信じているところが——」
「昔の話引っ張り出すなよ!!」
「へぇ、君ってピーターラビット読むんだ」
「分かるな!!」
状況を理解したルドルフも何故か加わり、隠す気の無くなった笑いが部屋を支配する。
最早主導権の奪取は不可能だと諦め、私は部屋を立ち去ろうと背を向ける。
すると、不意に騒ぎは止み、神妙な面持ちのトレーナーが往く手を遮った。
「こりゃ僕の負けだ。それじゃ、書いて貰わないとね」
「書くって、何をだよ?」
「書類だよ、契・約・書・類。えぇとどこやったっけ……」
〝契約書類〟その単語が脳に到達した瞬間、あらゆる感覚機能が機能を停止する。
想定外の好機に、今度はこちらが豆鉄砲を食らったように硬直する。
その間にトレーナーはおもむろに席を立ち、雪崩を起こしかけの本棚をがさごそといじる。
私はルドルフに促されるまま椅子につき、茫然と机の上を見つめた。
「それじゃ改めて、僕は柚木崎、柚木崎オガミ。今日から君の専属トレーナーだよ、よろしく」
「私はシリウス、シリウスシンボリだ。私を満足させる働きをしろよ? トレーナー」
トレーナーが向かいの席に座り、改めて挨拶を交わす。
判が押された契約書が手渡され、私は同意欄にサインを記した。
記入済みの用紙を眺めると、トレーナーが就いたという実感と歓喜がようやく湧いてくる。
「やれやれ、一時はどうなるかと思ったが、丸く収まったようで良かった」
「あぁ、これからまたよろしくな。ルドルフ」
「フッ、まるで二人きりのバ房だなシリウス。これから君との琴瑟相和、大衾長枕の毎日が待ち遠しいよ……」
「うっわ気持ち悪ッ」
もたれかかってきた腕を反射的に払い除ける。
ルドルフは一瞬驚いた顔を見せたが、すぐに凛々しい表情に戻ると私とトレーナーの手首を掴んで引き寄せ、テーブルの中央で自分の手と重ね合わせる。
「私も、君たちのレンズとしてガルバンゾー! オーッ!!」
ルドルフは私たちを纏め上げるように、右の拳を突き上げ勝ち鬨を上げる。
私は空気を察して腕を持ち上げるが、トレーナーは鼻高らかに人差し指を立てて一言。
「今のはレンズとレンズ豆の別名ガルバンゾーに「頑張るぞ」をかけたギャグだね」
「解説しないでくれトレーナー君!!」
再び白い髪を仰ぐ。クスクスと屈託のない笑顔を浮かべる野郎は、赤面したルドルフにファイルで叩かれていた。
——こんな姿だけ見せてくれりゃ、素直に感謝できるのにな。
本音を言え態度のギャップとか部屋のセンスとか不満は尽きないが、今はまたルドルフと走れる事実が嬉しかった。
契約書を両手で抱きかかえる。転ばないように注意しながら、1階の窓口まで階段を駆け下りる。
——そう、後に私はこの出会いに感謝し、深く後悔することになる。