グリーン・ドルフィン・ストリート刑務所
誰も認知することができない一室。それはまさしく、存在そのものが「念」となってこびりつき、屋敷幽霊となって刑務所の一角に存在している。そしてその部屋には2人の人物……少年と男の姿があった。
男の身体からは至るところから血が吹き出て、肩を上下に揺らしながら呼吸を行おうとしていたが、少年が発生させている能力を思い出し、それを思いとどまるとフッとその呼吸を止めようとする。しかしながら、身体に負ったダメージは留まることを知らず、その出血量は瞬く間にめざましい量となってしまう。やがて男は脚に力さえ込めることができずに力なく床に倒れ込んだ。
「こんなことを……!やめろ……!エンポリオ!私が死んだら………私はここで死ぬわけにはいかない……!」
それは見るに堪えない、命乞いだった。男は既に反撃することはおろか、動くことさえできない。できることといえば芋虫のように床で蠢きながら、目のまえの少年の決意が少しでも揺らぐように言葉をまき散らすことだけだった。この状況を俯瞰してみれば、男の状態を憐憫に感じる者もきっといるだろう。しかしながら、この男がしでかしてきた醜悪な行為を振り返れば、この報いも物足りないと感じる者もきっといるだろう。それほどこの男がエゴイズムを元に行った行為の代償は、あまりにも大きなものだった。
そして少年も…エンポリオと呼ばれたこの少年も、この男からどんな言葉をかけられようとも既に拳を絶対振りぬくことを決意していた。自身の傍に控えているスタンド…先程まで自身の大切な友人のものだったそのスタンドに目を向ける。その姿と彼の姿を重ねれば、自然とその決意もより強固なものへと変わっていった。
「……わからないのか?お前は「運命」に負けたんだ。「正義の道」を歩むことこそ「運命なんだ!」
エンポリオはそう告げると、自身にディスクが差し込まれたことによって発現したスタンド・ウェザーリポートの拳を繰り出し倒れている男の頬へそれを押し込んでいく。まるで卵の殻が割れたような音を立ててその顔に拳がめり込み、男の口や鼻、目から血がさらに噴き出していく。男はつぶれた悲鳴を上げながら、聖職者としては甚だしい罵詈雑言をエンポリオに浴びせた。
「やめろおおおおおお!知った風な口をきいてんじゃあないぞおおお!!!」
男が懸命にそう喚くのを無視して、ウェザー・リポートの力強い拳がその因果を、そして大きな犠牲を払い続けたその戦いに終止符を打つために、次々と男の身体を貫いていく。男の身体は既にウェザーの能力によって脆くなっており、その身体が攻撃の度にまるで水にぬれたトイレットペーパーのように破れていった。
「このちっぽけな小僧があああああああああああ!!!」
男の断末魔が室内に響き渡る。それでもエンポリオは、拳を決して止めなかった。全てを終わらせるために。そしてこれから一歩、踏み出すために。
……やがて時が急速に加速し、全てを飲み込んでいく。それは男のちっぽけな野望も、そして少年の心に宿る確かな黄金の意思さえも飲み込むと、新たな世界を創造していくのだった。
日本から飛行機でおよそ10時間。かくも離れた土地で迎える朝というものは、聊か観光気分が抜けないものだ。しわ一つない、フリルのついた理事長服に身を包みながら彼女は窓の外から聞こえる騒々しい生活音に苦笑を浮かべながら、テーブルの上に置かれている帽子を手持ち無沙汰に指でいじっていた。
コンコン。
「理事長、お時間です」
扉が開き。緑色の制服を身に着けた自身の秘書、駿川たづなが朗らかな笑みを浮かべてそう言葉を発すると、彼女は帽子を被り、その胸元には扇子を差して扉を方へと歩みを進めた。
人は皆、運命という大きな、人智を超えた代物に翻弄され続ける旅人のようなものだ。その行動や選択の一つ一つは、意図せずとも巨大な運命のような何かに紐づけられているものだと信じている。そしてこの選択は…果たしてどのような運命によって導かれたものなのだろうか?
私はそれを知りたい。だからこそ、私は素性も知らぬその男の提案を。アメリカから遥々渡ってきたその開拓者の魂に突き動かされ、この提案に乗ったのだ。
彼女は記者会見が執り行われる部屋まで歩みを進めていく。やがて背後から突然声が投げかけられた。
「ミス・秋川」
流暢な日本語で呼び止められ、思わず足を止める。そこには今まさに心の中で思い浮かべていた男…およそその容姿は体躯と覇気によって幾分か若々しく見えるものの、顔に刻まれた皺はその男が決して若くないことを物語っている。男は分厚い丸眼鏡の奥から猛禽類のように鋭い目を光らせ、こちらを向いていた。
「うむ…これから記者会見だ。ミスター・スティール。いよいよ私たちの新たな試み。そしてウマ娘たちのためのレースが始まる」
ミスター・スティールと呼ばれたその男は老人とは思えぬほどスムーズな所作でこちらに歩み寄ると、丁寧に頭を下げた。
「このレースにとって、ウマ娘は正に要と言って差し支えない存在。そんなウマ娘たちの才能の宝庫とも言えるトレセン学園の理事長である貴方に協力をいただくことができなければ、このレースを開催すること自体、諦めるつもりでした。」
この男の腹の中を、読むことなどできない。わざわざ大枚をはたいてこのようなレースを開催することには、もしかしたら何か意図があるのかもしれない。このレースは、日米合同開催となっている。主催者はトレセン学園理事長である私と、この男。しかしこのレースのバックにはもっと大きな存在が絡んでいると噂に聞いたこともある。
…だが、それがどうしたというのだろうか。
もっとウマ娘の存在を、そして「スティール・ボール・ラン」なるレースの存在を大々的に広げるためには、それぐらいのリスクは犯してしかるべきというものだ。責任は全て私が取ればいい。やがて二人は記者会見が行われる部屋の前にたどり着くと、その歩みを止める。理事長は「決断」と書かれた扇子を大きく広げると、たづなに扉を開くように指示を出した。
「やってきました!「スティール・ボール・ラン」主催者、ミスター・スティーブン・スティール氏と日本ウマ娘トレーニングセンター学園理事長、秋川やよい氏です!」
視界を絶え間なく覆うフラッシュの中、二人が並んで席に着くと向かって右側に座った男…スティーブン・スティールが徐に口を開いた。
「私たちが開催する本レース…「スティール・ボール・ラン」はこのサンディエゴのビーチをスタートとして、ゴールをニューヨークとする人類、そしてウマ娘史上初の北米横断レースッ!総距離はおよそ全長6000㎞!優勝者には賞金60億円が支給されます!」
端的な、極めてシンプルなその説明。しかしその6000㎞という、そして60億円という途方もない数字は、その会見を目撃した者を動揺させ、またその魅力に心奪われている。その告知自体は以前からマスコミ各社を巻き込んで大々的に行われていた。しかしそのレースが間近に迫り、主催者の口から改めてその告知を行われたとなると、その興奮を最高潮のものへと引き上げるには十分な起爆剤と化していた。
「参加者はデビューしているウマ娘であれば、その国籍や年齢を問わず参加することが認められているッ!参加料は一人12000ドル!日本円でおよそ160万円の予定だったが……」
「その費用については私が全額負担をすることでスティール氏と合意した!これに参加するのはあくまで学生だ!その費用を捻出することは不可能に近いだろう!少しでも可能性のあるウマ娘に多く参加してもらうため、このような判断になった!」
やがて報道陣から続々と手があがり、質問が投げかけられていく。その質問が投げかけられるたびに、スティールと理事長がその都度質問に答えていった。
「レース中の選手たちの食事管理や体調管理はどうなるのでしょうか?」
「それについては心配ない!出資社の一つであるSPW財団の医療部門の協力がレース中は24時間体制でついている!もしもレース中に不測の事態があっても即座に対応できる準備はできている!」
「ウマ娘たちは一人で走るのですか?それを監督する立場の人間はいないのですか?」
「それについては問題ない。ウマ娘たちにはそれぞれ「トレーナー」という役職の人間が付いている。彼らは2人1組のチームとなってこのレースに登録してもらっていて、レース中はどんなことがあってもウマ娘たちから離れず、傍で支えなくてはならないというルールがある!それを証明するために設定したルールもある!」
スティールがそう言うと、理事長がすくっと立ち上がり「説明」と書かれた扇子を手にもって彼の言葉を引き継いだ。
「それは即ち彼らは「一蓮托生」ッ!トレーナーである彼らがウマ娘を監督できる状態でなくなったしまった時点で、そのチームは即ち失格になるということだ!それを忘れないように!ウマ娘とトレーナーにはレース中は器具を装着してもらう!その器具同士が50メートルを離れたその時点でも!失格となるからそのつもりで!」
その言葉に、報道陣の間にはざわざわと動揺が広がっていく。北米横断という途方もないレースに参加するとなれば、そのレース中は選手であるウマ娘はもちろんのこと、その道中で彼女たちを支え続けるトレーナーにも危険が付き纏うことになる。つまり主催者たちの発言は、道中ではトレーナー自身もその身の安全に配慮しながらウマ娘たちをサポートし続けなければならないという制限が付いてしまうことを意味していた。
「……それで今回のレースの優勝候補は、どのようなウマ娘とトレーナーなのでしょうか?」
「良い質問だ!まずは……」
その熱狂を加速的に巻き上げながら記者会見は続いていく。そして窓の外には、既にレースに参加するために大勢のウマ娘とトレーナーたちがサンディエゴのビーチに押し寄せていた。
「このステーキ串ッ!一本2ドルだよ~~‼安いよ安いよぉ~~!」
「さぁ!レースのポイント1では誰が1着になるか!一口1ドルからだッ!張った張った!!」
人々がビーチに一堂に会し、その一帯はまるでお祭り騒ぎのように出店が立ち並び、その人々の往来は留まることを知らない。人々はそのレースを間近で観戦できることを、そしてそのレースに参加して賞金を手にするという大きな、途方もない希望を抱きながらその場所に集っていた。
やがてその往来の視線は、とある一点へと注がれる。とあるものは「可哀想」だという同情の念を。そしてあるものは「こんなところに何の用だ」と言わんばかりに迷惑そうな表情を浮かべて。
キー。キー。
大して舗装もされていない道の上を、軋むような金属音を上げながら、一人の青年が車いすを押しながら進んでいく。その者の瞳の中には、一見すると失意で塗りたくられているように見えた。その男を良く知らない往来の人々も、きっと彼の目を見ればそう答えただろう。しかしその失意の水面に隠れて底から顔を覗かせているのは、確かな意思と希望だった。
その車いすに乗る男は、のちにそのレースをこう振り返る。
このレースは、物語だった。僕と………そして彼女にとって。これは僕たちにとってこの物語は歩き出す物語だ。肉体が…という意味ではなく青春から大人という意味で…
別サイトにてフォロワー300人突破したため、その記念で書いた第一弾になります。
黄金の風が終われば連載始まるので、今しばらくお待ちを!