──すべての国民は、法律が定める規定の業務時間を超えての労働をしてはならない。【悪性超過勤務の禁止および健康で人間的な最低限度の生活確保に関する法律(通称:残業禁止法)より抜粋】
▲▽▲▽▲▽▲▽
「頑張ってるなァ、休恵ちゃんよう」
夕焼けに照らされたうらびれたビルの一室。ブラインダーから少しだけ漏れた赤い光を遮るように、その男は
「すみません、わざわざ……おいくらでしたか?」
財布を取り出そうとした休恵の手を視線だけで制して、彼──古沢は愉快そうに語った。
「いいっていいって。俺みたいなおっさんになると、頑張ってる若人を見ると応援したくなっちゃうのよ。それに俺、こう見えて休恵ちゃんよりもたくさん稼いでいるからね」
古沢の言葉に嘘はない。そもそもとして、古沢は自身が言う通りおっさん──否、もうすぐ定年を迎えるほどの年齢のベテランだ。気さくで人当たりが良く、そのうえこうしてちょくちょく若手のことを気にするところがあるため、とりわけ若手からの信頼は非常に厚いものがある。
役職こそないものの──本人曰く、偉くなれるだけの器が無かったらしい──休恵からしてみれば、ただ年を取っているだけで偉そうにしている直属の上司よりも、古沢の方が人として信頼出来て、そして尊敬できる先輩であった。
「初めて見るコーヒーですね、これ」
「そうそう。この年になると新しいものへの挑戦ってのに億劫になってねえ……」
「毒見役ですか?」
「味見役と言ってくれ」
美味しかったら次からそれにする──なんて言いながら、古沢は愛飲しているいつもの缶コーヒーのプルタブをひねる。休恵はこの会社に入社してから三年ほど経つが、古沢が別の飲み物を飲んでいるのを今までに一度たりとも見たことは無い。つまり、そういうことなのだろう。
「休恵ちゃん、仕事の進捗はどうよ?」
「……まぁ、ぼちぼちですよ」
古沢に倣って、休恵もその缶コーヒーのプルタブをひねる。思っていた以上に濃くて深い香りに内心で少し驚いたものの、味の方は思ったほどでもない。苦みの中に妙に気になる酸味が合って、それがどうにも気にかかる。眠気覚ましにはちょうど良さそうだが、逆に言えばそれ以外であえてわざわざ飲もうとは思えないものであった。
「不満そうな顔しているねえ。……そんなにヤバい案件は無かったと思うんだけど」
あのクソ野郎、また俺のいないところで若手に変な仕事振りやがったのか──と古沢が眉間に皺を寄せる。ちなみに、古沢が罵倒した「クソ野郎」とは休恵の上司で、そして古沢の同期でもあった。
「……逆ですよ、逆」
「逆?」
「──簡単すぎるんです」
はっきり言って、休恵は今の現状に不満を抱いていた。任される仕事は非常に簡単なもので、やりがいややりごたえというものはまるで感じない。入社当初こそ右も左もわからずにあたふたすることが多かったものの、三年も経てばすっかり慣れ、自分一人で仕事を進めることにも何ら問題が無くなってくる。
今日だってそうだ。特に急いだわけでも何でもないのに、十五時を過ぎるころにはあらかた業務が終了し、明日の予定をぼんやり考えたり、もう何十回と見た資料を読み返したりと──要は、非生産的な活動をするばかりで終わってしまっている。
「七割の力でやっていても、定時前には余裕をもって終わらせられるレベルの質と量。イレギュラーが入ったとしても、基本的には個人の力でどうにかなるし、みんなでかかればまず問題ない」
「そりゃなあ。全体のキャパシティを考えて仕事は割り振られているし、人手も十分にあるからなあ」
「そうかもしれませんが……」
「もしかして、休恵ちゃんは俺がやってるようなヤバめの案件をやりたいの? ……やめとけやめとけ、気苦労ばかりで全然楽しくないから」
「ですが……!」
「──真面目な話、今の休恵ちゃんの等級じゃまだ任せられない。もう数年頑張って、それからようやく俺達クラスの補佐として任されて……きっちり教育されてからじゃないと。早くてもあと十年ってところだろうな」
「……」
「その向上心は、俺には無いものだね。正直眩しくて羨ましい……けど、若いうちは仕事よりもっと大事なことがあるだろう? 仕事なんて後でいくらでもできるんだ、若いうちにしかできないことをやっておかないと損だぜ?」
わかっている。古沢の言っていることの方が正しいなんてことは、休恵にだってわかっている。休恵が時間内に業務を終わらせられているのは適切な業務管理のおかげだし、そして今の休恵に古沢が処理しているレベルの業務を行う実力はない。若いうちにしかできないこと──例えば結婚相手を見つけることが大事だってのも当然、頭の中では理解できている。
でも、だからこそ。
だからこそ、若いうちにもっと難しいことに挑戦したい。困難なことに体当たりでぶつかっていって、自分のスキルアップをしていきたい。そのための時間が、それにふさわしい仕事がほしい。
「……難しい案件ができないっていうのは、わかりました」
「休恵ちゃんのそういう素直な所、俺好きだよ」
「でも」
「ん?」
もう一つの、切実な問題。
何かやりたいことをするためには、いつだってこれが付きまとってきて──そして、休恵には絶望的に足りないもの。
「せめて……せめて、業務の量を増やしてほしい。時間があっても金が無いんです。だからもっと仕事を──残業を」
次の瞬間。
茜色に染まったオフィスの一角に、大きな音が響いた。
「──今なんて言った?」
「──ひっ」
顔から表情が抜け落ちた──どこまでも冷たい眼をした古沢が、その大きな拳で休恵の机を叩いたのだ。片手に持っていたコーヒーの缶はベコリと潰れていて、漏れたそれが古沢の手にかかっている。
「滅多なことを言うんじゃない。冗談でも言って良いことと悪いことって、あるだろう?」
「……は、い」
古沢は優しい先輩だった。例え仕事でミスをしても、決して怒鳴ったり詰ったりしなかった。しょうがないさ、次で取り返せばいいんだ──って笑って背中を叩いてくれて、自分には関係ないのに一緒に謝りに行ってくれて。時には知らないところでミスの尻拭いまでしてくれて。
だからこそ古沢は若手に慕われているというのに──そんな古沢が、本気になって怒っている。
「休恵」
「は、い」
「──残業禁止法。研修で習ったはずだろう? この国の全ての人間は、法律に定める規定の業務時間を超えての労働はしてはならない。これを犯すのは……
「……」
「残業なんてしたら、残業警察にしょっぴかれて豚箱行きだ。どんなに軽くても五年以上の懲役、下手をすれば死刑……それがどういう意味なのかは、言わなくてもわかるよな?」
あの温厚な古沢が、心の底から怒っている。決して声は荒げていないが、普段のそれからは想像できないほどの気迫をもって、休恵に語り掛けている。
背中越しでさえもわかるその迫力に、フロア全体がざわめいている。少し離れたところにいる人間たちが遠巻きにこちらを見てひそひそと──あの古沢を怒らせるだなんて、休恵はいったい何をやらかしたのだと呟きあっているのが見て取れた。
「は、い……すみません、失言でした」
「……信じるぞ、その言葉」
そして古沢は、殊更に明るく──フロア全体に通るように、大袈裟に声を上げた。
「す、すまん! コーヒー落としちまった! 悪い、休恵ちゃん!」
「え……」
「いちち……キャッチしようとしたけど、もう体が追い付かないねえ。手ぇぶつけただけ損しちゃったよ」
ぶらぶらと手を振る古沢を見て、なんだ、そういうことだったのか──と、フロアの空気が緩んでいく。中にはそれでも訝しそうな目でこちらを見てくる者もいたが、しかし古沢のその行動に思い当たるところというか、何か意図があるということ自体はわかったのだろう。気を付けてくださいよ、だなんて明るく声をかけて、そして各々が業務に戻っていく。
「……なんか、すみません」
「なんのことかわからないなあ? この年になるとどうにも忘れっぽくって」
古沢の表情は、もういつもと同じそれに戻っていた。文字通り、さっきの話はこれでおしまいということなのだろう。
──16:30をお知らせします。馬定時まで、残り三十分です。仕事を整理し、鳥定時職員への引継準備を行ってください。定時後の引継時間は最大で三十分間です。残業禁止法を遵守し、速やかに帰宅するようにしましょう。
社内全体放送で流れてきた、聞きなれたアナウンス。はきはきした通りの良い綺麗な声がオフィスに響き渡って、どことなく和やかな空気になる。
入社以来、何度も何度も聞いたアナウンスだ。三時間おきに流れる──休恵が聞くのは一日二回だけだ──から、今ではもう気にすることも無くなっていたというのに、今日に限って言えばなぜだかそれが休恵の耳に印象的に残った。
「おっ、もうこんな時間か……ウマちゃん定時だ、お疲れさん」
「はい。古沢さんも、お疲れさまでした」
「……明日休みだし、この後一緒に飲みに行くか? 休恵ちゃん、ちょっと疲れているみたいだし……もちろん、俺の奢りで」
休恵も古沢も勤務区分は同じ馬定時だから、飲みに行くのは問題ない。直属の上司となら御免被りたいが、古沢であればむしろ一緒に飲み歩きたいというのが、休恵の嘘偽りのない本音だ。
ただし、今日は。
「すみません……実は、先約があるんです。羊定時の友人で、ようやく都合がつけられて」
「あらら。俺なんかよりそっちの方が大事じゃん。また今度にしようか」
そうして古沢は、自席へと戻って仕事の片付けを始めだす。きっとアナウンス通り、定時を守って退社するつもりなのだろう。
今までだってやってきたこと。そしてこれからもやっていくこと。もっと言えば──この社会で働くすべての人間は、そうやって定時を厳守している。
なぜなら──定時を厳守することは、残業禁止法で定められているのだから。
「残業禁止法……残業警察、か」
机の上にわずかに垂れたコーヒーを拭き取って、そして休恵は日報を書き始めた。