「古沢、さん……!? なんで、いったいどうして……!?」
「──さて、早速だけれど仕事の話をしようか」
にこりと笑ったまま──されど、休恵の問いかけを完全に無視して。今まで通りの、親近感に溢れる人懐っこい笑みを浮かべたフルサワは、滔々と語りだした。
「今日からはここが君たちの職場だ。朝の09:00が始業開始時刻となる。お昼休みは12:00からの一時間で……ちょっと特別なのは終業時間のほうだね。残業体験プログラムの意義として、その時間はこちらの方で指定させてもら──」
「ま、待ってくださいよ古沢さんッ!」
休恵は叫んだ。人の話を遮ってまで……それも、古沢の話を遮って叫ぶだなんて今までに一度だってしたことがないことだ。いいや、例え相手が古沢でなかったとしても、こんなふうに説明してくれる相手のことを遮るだなんて失礼な行いだろう。
しかしそれでも、休恵は叫ばずにはいられなかった。目の前のことが信じられなくて、何が何だかわからなくなって、自分でも気づかないままそうしてしまったのだ。
「な、なんであなたがここにいるんですか! わけわかんないですって!」
「……ちょっと静かにしようか、
穏やかな表情を崩さないまま、落ち着かせようと声をかけただけ。傍から見ていた──何も知らない労河原からは、そういう風にしか見えなかったけれども。しかし事実として……本当の古沢を知っている休恵からしてみれば、フルサワが放ったその一言はあまりにも信じ難いものであった。
「質問にはあとで……答えられる範囲で答えよう。だから今は、話を聞いてほしいかな」
いつもと同じ顔だ。そりゃそうだ。だって同じ人間なのだから。
なのに休恵には、目の前にいるその人が、あの古沢であるとはとても信じられなかった。
「ええと……そうだ、終業時間だったね。それについてはこっちで指定させてもらうよ。好きな時に好きなだけ働けるのが残業ってわけじゃないからね。個人としての案件の進捗状況、会社としての案件の対応状況、そしてこのプログラムの意義などなど……諸々の観点より、そのときに最も適した残業時間をこちらから業務指示という形で通告する」
「なるほど……残業はあくまで業務の延長なんだから、別段おかしな話じゃないか……」
「その通り。もっと言えば……キミたちに任される”業務”は、あくまでシミュレーションのための簡単な事務作業だ。本来であれば残業をしてまで片付けるようなことじゃない。だからこういう形にしないとリアルさに欠ける、という意味もある」
この施設だって慈善活動で運営されているわけじゃない。残業体験プログラムで行う業務も、誰にでもこなせる量だけは多い事務作業を業務委託の形で請け負っているだけだ。だから、代わりはいくらでも効くし切羽詰まった納期やノルマも無いけれど、しかしおろそかにして良いものでもないのだとフルサワは語る。
「とはいえ、基本は昨日の研修で教わったこと以上のものはない。それとこの建物にはキミたち以外にも残業体験プログラムの被験者がいる。別に彼らと話すなというわけじゃないけれど、仕事にしろプログラムの内容にしろ、何かあったらまずは僕に相談するようにしてほしい。というか、そのために僕がいるわけだ」
「わかりました……おい、休恵? お前、ちゃんと話聞いてたか?」
「……聞いていなかったとしても、休恵くんなら問題ないだろう。そのことは他でもない僕が一番知っているよ」
困ったようにも、寂しそうにも見える……そんな、不思議な表情でフルサワは笑いかけた。
「僕からの説明は以上だ。……気になることがあれば、遠慮なく聞いてほしい」
休恵は、腹の底から絞り出すようにして言葉を紡いだ。
「……なん、で」
「……」
「なんで……あなたがここにいるんですか、古沢さん」
「なんで、か……そうだなあ」
フルサワのその言葉は、休恵にとってはあまりにも衝撃的なものだった。
「キミたちが残業テロリストだって通報したのが僕で──そして、休恵くんを捕らえたのも僕だからかな」
「えっ……」
「は……?」
「もっと言えば、キミたちにこのプログラムを受けるように嘆願したのも僕だね。なら、言い出した僕が一番近くでキミたちを見届けるのが筋ってものだろう?」
「い、いやいや……そうじゃなくて、古沢さん、さっきなんて言いました……? なんか、俺達を残業警察に通報したとか……」
「うん、したよ? 休恵くんは知っているだろう? 僕が残業関係のいろんな資格を持っていることを。……資格持ちはね、残業を取り締まるために活動する義務があるけれど、その活動のためならば様々な特権も認められているんだ。例えばこっそり発信機や盗聴器をしかけたり、端末のデータをハッキングしたりとか……ね?」
「……だから、居場所がわかった? だから計画の内容もバレていた?」
「信じたくはなかったけど、ね」
休恵は、古沢を信じていた。
本当の上司よりも頼れる人で、心の底から信頼できる人だった。この人と一緒に働きたいと思っていたし、この人と一緒ならどんな困難な仕事もできると思っていた。この人になら、全てを信じてついて行くことも厭わないとすら思っていた。
古沢は、残業という犯罪を犯そうとした休恵を止めてくれた。本気で休恵のことを怒ってくれて、そして諭してくれた。一度きっちり叱った後は何事もなかったように水に流して……そればかりか、休恵の不満を解決すべく裏でこっそり動いてくれてさえいた。
そんな古沢が。
休恵のことを、残業警察に追放した張本人だったのだ。
「……信じてたのに。あなたのことを、信じてたのに!」
「それは俺のセリフだよ、
悪いのは休恵のほう。裏切ったのも休恵のほう。古沢はただ犯罪者を取り締まったというだけで、国民として模範的な行いをしている。その上さらに、ただ豚箱にブチ込まれるのを待つばかりだった残業テロリストに、こうしてチャンスを与えるべく嘆願してすらいるのだ。
どこまで行っても正しいのは古沢の方で、間違っているのは休恵の方。それは、この場にいる誰もが理解してしまっていた。
「さて。質問タイムはこんなものでいいだろう。二人とも言いたいことはいろいろあるだろうけど……ここでは僕が上司だ。そして、二人ならこの残業体験プログラムの本当の意味に気づけると、僕は信じているよ」
にこりと笑ったフルサワは、はっきりと宣言した。
「それじゃあ──仕事の時間だ。今日も一日、頑張っていこうか」
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「ほーん……あの人、休恵の上司だったのか……」
「役職持ちじゃないけど、事実上のな」
それから、休恵たちは本格的に業務を開始することになった。宛がわれたデスクで研修通りの事務作業を行いつつ、適宜メール対応をするという簡単な内容のそれだ。特に頭を働かせなくてもこなせるものだから、こうして隣同士で会話する余裕だって存在する。
「……ま、元気出せよ。そりゃあ、知ってる人がチクった犯人ってのは堪えるだろうけどさ。なんかどうも、俺にはあの人が悪い人とは思えないんだよな」
「……そういうお前は元気があり過ぎじゃないか? お前にとっては、あの人はマジで無関係の他人だろ?」
「おいおい、無関係じゃないさ。親友が一番に信頼していた先輩だろ? それにさっきの話だと、俺達がこのプログラムに参加できたのはあの人のおかげらしいじゃないか。それってつまり……俺達のことを気にかけてくれている、良い人ってことじゃないか」
「……」
そうかもしれない。言われてみればその通りかもしれない。
カタカタとパソコンのキーボードを打つ傍らで、休恵の頭の中にぐるぐるとそんな考えが巡っていく。なんだかんだで古沢のことを信じている自分がいる一方で、残業テロリストとして自分たちを通報したことが許せなくもある。それでいて、今なお自分たちのために骨を折ってくれた古沢のことをどう考えて良いのか、休恵自身にもなにがなんだかわかっていないのだ。
「それよりさあ、ちょっと気になってるんだけど……」
キーボードを打つ手を一瞬止めて。労河原は、辺りをきょろきょろと見渡した。
「どうした?」
「いや……なんかさ。この職場、あんまり活気が無いなって」
言われて、休恵も気づいた。
「……確かに、なんか妙だな」
課長の席に座っているのはフルサワだ。本当に仕事をしているのか、それとも休恵たちの監督をすることそのものが仕事なのか、実態はわからないが、まぁいつもと違う様子はほとんどない。少なくとも、何かおかしなことをしているといった感じはしない。
それ以外には、休恵たちと同じように事務作業に勤しむ人たちがいる。問題なのは、この”同僚”たちだ。
「……静かすぎる? いや、その割には」
顔に覇気がない。生気が無いと言っても良い。ぼんやりとした虚ろな瞳でパソコンの画面を見つめており、なんだか動作も少し緩慢なように思える。
だけれども、かかってきた電話には普通に対応しているし、動きそのものはしっかりしている。事務的なレベルとはいえお互いで普通にやりとりしているし、コミュニケーション能力に難があるわけでもない。
ただ単純に……そこに人としての意志が感じられない。動いて業務をこなしているだけで、それ以外が無い。人の肉のガワを被ったロボットだと言われても、休恵はきっと信じたことだろう。
そして、ここには「それ以外」の人種もいる。
「……怖っ」
その人たちは、食い入るようにパソコンを見つめていた。ギラギラとした血走った瞳のまま、瞬きすらしていなかった。ふしゅー、ふしゅーと口の端から荒い呼吸音が漏れていて、そして机の上には特徴的なパッケージのエナジードリンクの缶が置かれている。
時折ブツブツと小さく口の中で何事かを呟いているのが、余計にその奇妙さを強調している。そして、明らかに近づいたらヤバいタイプの人種なのに、誰かに話しかけられた瞬間に普通の顔に──普通のように見える顔に変わるというのが、休恵には逆に恐ろしいもののように思えてならなかった。
「ゾンビみたいに覇気のない奴に、変質者みたいにヤバそうなやつ……ね。賑やかなのに妙に静かで、静かなのに妙に賑やか……人が働いているときのあの喧騒が、ここにはないのか」
「……もしかして、あの人たちもプログラム被験者なのかな?」
「かもな」
ここにはスタッフ以外の人たち──休恵たちと同じようなプログラム被験者がいるとフルサワは言っていた。どういう理由で残業体験をしているのかは想像するしかないが、いずれにせよ何か大きな事情があるということだけは間違いないのだろう。
「……ふむ?」
よくよく観察してみると、一件普通の職場であるように見えて普通じゃないことが見て取れる。上手く言葉にすることはできないが、スタッフの人間たちとそれ以外の人間たちの動きがまるで違うのだ。同じようにデスクで作業しているように見えても、視線の動かし方やちょっとした画面の操作のやり方が、明らかに異なっているのである。
「なるほど……ね」
もっと失礼な、大変無礼な言い方をするならば。
どこかヤバそうなやつがプログラム被験者で、まともそうなやつがスタッフだ。少なくとも、休恵にはそういう風に捉えることができた。
「ちょっと話を聞いてみたいところだな。どうしてここにいるのか、いつからここにいるのか……スタッフが誰で、どんなことをしているのか。そういうの、諸々全部把握しておきたい」
「うーん……気持ちはわかるけど、出来るのか? いくら簡単な仕事とはいえ、そんな風に喋る余裕なんてないだろ。こうして隣同士で作業しながらの雑談がせいぜいじゃ……」
「──いいや、労河原。ここは残業が許された社会だぜ? その考えは残業の無い社会で生まれてしまった悪習だ。この真の理想的な社会ではそんな心配なんてしなくっていいんだよ」
「うん? それっていったい──」
どういう意味だ、と労河原が口に出すよりも前に。
キンコンカンコン、と軽快な音楽が響き渡った。
「これ、は……!?」
「ちょうど12:00、昼休みの時間だ。タイムシフト制が無いから、みんなで一斉に昼飯を食う時間になるんだよ」
「そっか……! 始業時間が同じなら、そりゃ休憩時間も同じになるよな……!」
「ああ。でもって……ここは一つ、同僚らしく互いに飯を一緒に食って親交を温めるってのはどうだ?」
ここには社員食堂もある。ちょっと外に出れば会社員御用達の食事処だってある。外の世界に比べて種類は少ないかもしれないが、しかし食事に困るということだけはないはずだ。
幸いにして、ここでのお金の余裕はかなりある。ここはひとつ、昼飯を奢って
「……ん?」
「あれ……」
声をかけようとした──プログラム体験者の大半が、その場で栄養バーを齧り始めたことで潰えてしまった。
いや、そればかりか。
「電気、消えたな」
ぱちり、ぱちりと明かりが落とされていく。元々が地下空間だからか、外から入ってくる光の量もそう多くはない。とりあえず物の配置くらいはわかるけれど、十全に見渡すにはだいぶ難儀する程度の……パソコンのモニターのそれしか明かりが無いという、なんとも陰気で暗い雰囲気が満ちていく。
「──昼休みだからね。仕事をするわけじゃないし、節電を兼ねて電気を落とすことになっているんだよ」
呆然とする二人を見かねたのか、フルサワが苦笑しながら説明した。
「そんな、節電って……たった一時間節電してどうなるんです? それにみんな、こんな暗い中で昼飯なんて……」
「うーん、そうは言ってもね。ただご飯を食べるだけならパソコンのモニターの光で十分だろう? これは昔はどの企業でもやっていた因習だって言うし、みんなが一斉にやれば案外馬鹿に出来ないものだと思う。そもそも……」
フルサワは、なるべくそっちの方を見ないようにしながら続けた。
「──だいたいみんな、簡単に済ませている」
少し離れた列にいる人も、向こうの方の席にいる人も。みんながみんな、もそもそと味気ない栄養バーを死んだような顔をして齧っている。目が血走っている人間は、休み時間だというのに目を画面に釘付けにしたまま、ほぼ義務的に栄養バーを口に詰め込んでいる。
一応、簡単な弁当……おにぎりやサンドイッチ、あるいは簡素なカップ麺を食している者もいたが、全体から見ればごく少数であり、そしてランチタイムという働く上での唯一の癒しの時間の姿として、それは異様であるように休恵たちの目には映った。
「な、なあ……あんたさ」
それでも。
休恵は無理だろうなとは思いつつも、一番近くでぼんやりと栄養バーを齧っているそのスーツ姿の男に声をかけた。
「よかったら、俺達と一緒に昼飯食べにいかないか? その……俺が奢るから、さ」
「……」
のろのろと面倒くさそうに休恵を見上げたその男は、どこか虚ろで焦点の合ってないその瞳のまま、静かに告げた。
「……ごめん。昼飯、すでにあるから。また今度誘ってくれ」
「……そ、そっか」
にべもなく誘いを断られた休恵は、そのまますごすごと引き下がることになる。これ以上関わらないでほしいと……その男のどこかから発せられるそれを、感じ取ってしまったからだ。よくよく周囲を見てみれば、この場にいる大半の人間が同じように、一人にしてほしいと雰囲気で、態度でそれを表している。
「……ま、そういうわけだ。別に自席で済ませなくっちゃいけないってわけじゃないから。キミたち二人は好きにして大丈夫。ああ、一応……13:00には仕事を始められるようにね」
「……ええ」
そうして二人は、昼食を取りに外に出た。外の定食屋はいたって普通のそれで、取り立てて変わったところも珍しい所もない。安い、早い、美味い……の三拍子が揃った、オフィス街ならどこにでもある普通の定食屋だった。
「……外の飯屋が不味いってわけじゃないよな?」
「うん……値段も普通というか、結構財布に優しい感じだよ……な? なんでみんな、あんな味気ない奴で済ませようとしてるんだろ?」
「しっかり働くには、しっかり腹ごしらえをしなくっちゃいけないのに……まさか、外に飯屋があるって知らないわけじゃないだろうし、時間だって十分に余裕がある。わざわざ席で済ませる理由なんてないはずだ」
普通じゃなかったのは。
あるいは、休恵たちがわかっていなかったのは。
「──え」
「な……おい!?」
12:43。昼休み終了まであと約十五分。おしゃべりに興じながらも、余裕をもってデスクに戻ってきた休恵たちが見たのは。
「ど……どうしたんだよあんたら!?」
「な、なにがあったんだ!?」
──デスクに残っていた人間たちが、皆一様に……死んだように机に突っ伏す姿であった。