残業ユートピア   作:ひょうたんふくろう

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──自己または他人に関する残業の証拠を隠滅し、偽造し、若しくは変造し、又は偽造若しくは変造の証拠を使用した者は、死刑若しくは無期若しくは五年以上の懲役またはそれに準ずる刑罰に処する。【悪性超過勤務の禁止および健康で人間的な最低限度の生活確保に関する法律(通称:残業禁止法)より抜粋】


16 『明日なんて、来なくていい』

 

「……雨、か」

 

 残業体験プログラム四日目は、しとしとと雨が降っていた。地下空間故に風までは再現できないし、そもそもこの広い空間に満遍なく雨を降らせることも難しいからか、通勤するのに難儀するほどのものではない。長い傘が一本あればそれで十分で、せいぜいが足元が少し濡れるかも、程度の物だろう。

 

「……いや、ヤバいな」

 

 それでも休恵は、直感で気づいた。

 

 否、生物的な本能として危機を察知したと言ったほうがいいかもしれない。

 

「雨ってことは……バスも電車も、混むな」

 

 休恵は想像する。

 

 いつも以上に混んでいる電車。濡れた傘から滴る雫が靴を濡らす……のは別にどうでもいい。

 

 あんなぎゅうぎゅう詰めの空間が、もっと蒸して酷いことになる。息苦しさも不快指数もこれまでとは比べ物にならないだろう。それはもう、想像しただけで胸がムカムカとしてくるほどひどいものだ。

 

「……朝飯、別にいいや。さっさと会社に行こう」

 

 まだ朝の準備中であろう労河原に電話をかける。雨が降っている旨を告げてみれば、労河原もまたすぐに同じことに思い当たってくれて、そして休恵と全く同じ結論を弾き出した。

 

「……人、いっぱいだな」

 

「……うん」

 

 ──いつもより三十分以上も早く家を出たというのに、すでにバスはぎゅうぎゅう詰めだ。みんながみんな死人のような暗い顔をしていて、そして車内に籠った生暖かい人の呼気が、むわりと休恵たちの頬を撫でた。

 

「……」

 

「……」

 

 ぐちゃぐちゃで滑りやすくなった床。ぴた、ぴたと冷たい何かが足に当たる感覚。

 

「……これから仕事か」

 

「……だな」

 

「……靴下、替えのやつもってくればよかったかな」

 

「……かもな」

 

 休恵たちはもう、車内で体を押し潰されることに何の疑問も抱かなくなってしまっていた。

 

 

▲▽▲▽▲▽▲▽

 

 

「はい、おつかれさま。今日の業務はこれで終了だ。……よく、頑張ったね」

 

 残業体験プログラム、四日目。終業は20:07。昨日よりは少し少ないものの、普段の休恵たちからしてみれば約四時間の残業であった。 

 

「……おつかれ」

 

「……うん、おつかれ」

 

 ──この日、初めて。休恵も労河原も昼食後のわずかな時間を使って──他の同僚たちと同じように、デスクに突っ伏して昼寝をした。

 

 

▲▽▲▽▲▽▲▽

 

 

 残業体験プログラム、五日目。

 

 雨こそ上がったものの、昨日に引き続きどんよりとした天気。窓から入ってくる光も多くなく、朝の目覚ましが鳴る時間であっても部屋の中は少々薄暗い。

 

「……もう、朝か」

 

 それでも社会人の習性として、休恵はベッドから起き上がり、うるさく鳴り響く目覚ましのスイッチを切った。

 

「……」

 

 ほとんど働かない頭のまま、顔を洗って。ふと鏡に映った人物を見た休恵は、あることに思い至った。

 

「……明日、休みだっけ」

 

 鏡の中にいる隈が濃くて少し頬がこけた男は、大して嬉しそうにすることもなく呟いた。

 

「ねっむ……」

 

 昨日の就寝時刻は、さて、何時だっただろうか。体が疲れていたのは間違いないが、それ以上に精神的な疲れが大きすぎて、リフレッシュのためにかなり遅くまで動画サイトを見ていたような気がする。早く寝ないと明日に障るとわかっていながら、それでもなぜか、どうしてもやめられなかったのだ。

 

 おかげで気分転換こそできたものの、やっぱり体の芯の疲れが取れ切っていない。

 

「……まだ、若いはずなんだけどな」

 

 朝の支度を整え、労河原と合流して。

 

「……ああ、そうか」

 

「……どうした、休恵?」

 

「いや……うん、なんでもない」

 

 ぎゅうぎゅう詰めの電車の中。思い返せば駅のホームでも。ここにいる人間たちに妙に見覚えがあるというか、親近感を持てると思ったら。

 

「……顔が、雰囲気が似てるんだ」

 

 朝の、鏡に映った男の顔と、道行く人たちのその表情がそっくりなのだ。みんなみんな、疲れ切った顔をしていて、暗くて、ともすれば鬱病なんじゃないかと思えるほどの陰鬱な雰囲気を放っているのだ。

 

「……なあ、労河原」

 

「なんだ、休恵?」

 

 ぎゅうぎゅうといつも通りに体を押しつぶされながら、休恵はぼんやりと労河原に問いかけた。

 

「……明日って休みらしいぞ。何か予定とかあるか?」

 

「……ゆっくり寝ていたい、かも」

 

「……俺もだ」

 

 そして休恵は目を瞑る。

 

 どうせもう、動こうと思っても動けないし、体の踏ん張りだって利かないのだ。

 

 だからこうして、人の波に身を任せて……全身から脱力しても、何の問題もない。下手に抵抗するんじゃなくて、あるがままを受け入れてしまうのが一番賢いやり方だ。

 

 ここしばらくの通勤で、休恵はその境地に至った。あるいは、この社会に生物として適応しつつあると言ったほうが正しいのかもしれない。

 

 だってこうすれば──少しだけ、眠ることができるのだから。こうしないと、寝られないのだから。

 

「…………」

 

 

『──水琴駅、水琴駅』

 

「…………あ」

 

『──発車します。閉まるドアにご注意ください』

 

 

 休恵の目の前。幸運にも椅子に座って寝ていたスーツ姿の男が、そのアナウンスを聞いてハッと目を開ける。既にもう扉は閉まっており、もうどうにもならないことは誰の目にも明らかであった。

 

「……」

 

「……」

 

「……」

 

 休恵も、ほかの乗客も、そして本人でさえも。

 

 見慣れたその光景を、いちいち気にする人間なんて誰一人としていなかった。

 

 

▲▽▲▽▲▽▲▽

 

 

「はい、おつかれさま。今日の業務はこれで終了だ。……よく頑張った、ね」

 

 残業体験プログラム、五日目。終業は21:03。昨日よりちょっぴり遅い、普段の休恵たちからしてみれば約五時間の残業。

 

「……なあ休恵、気付いた? スズキさんから、メッセージが届いてる」

 

「……誰だっけ、それ」

 

「ほら……最初の説明してくれた、女の人」

 

 言われてようやく思い出した休恵は、のろのろと緩慢な動きで端末を取り出した。

 

 

 ──ここ最近ずっと頑張っているようですね。

 

 ──懐も温かくなっていることでしょう。

 

 ──私も、一応は同僚の一人ということになるので……ここは一つ、無礼講として。

 

 ──みんなで飲み会に行きませんか!? ちょうど週末、花金ですし私いいお店知ってるんですよ!!

 

 ──あれ??? メッセージ見てないです???

 

 ──それとももしかして、お酒って苦手なタイプでした……?

 

 ──あっ、それとも……まさか、私のことキライだったり……!?

 

 ──悲しくなっちゃいますよぉ……! 初日のアレは素じゃないですよ???

 

 ──いちおーこれでも、キャラ付けとかして頑張ってるんですから!! 本来の私は年相応の乙女ですって!!

 

 ──あっ、いまこの女イタいこと言ったなって思ったでしょ??

 

 ──ほーら、休恵さーん、労河原さーん、見てください美味しそうなお酒でしょー?

 

 ──良助くーん、祐樹くーん、今なら美人のお酌付きですよー?

 

 ──はぁ……♪ お酒美味しい……♪

 

 ──いま二軒目でーす! お二人が来るのを待ってまーす!

 

 

「はは……マジに酔ってるのかな、スズキさん」

 

 ジョッキの写真、刺身の盛り合わせの写真、焼き鳥の写真。酔ってタガが外れたのだろうか、妙に高いテンションのメッセージと共に、そんな写真が何枚も何枚も送られてきている。

 

「……どうする? 今からでも……って、さすがにこの時間じゃ、今から向かっても終わっちゃったあとか」 

 

 最初のメッセージの送信時刻は──18:30過ぎ。まだまだ休恵たちが残業していた時間だ。

 

 二軒目に移った旨を告げるメッセージも20:00過ぎのもの。これもやっぱり、休恵たちが必死に残業していた時間だ。

 

「……ッ!!」

 

「……おい、休恵?」

 

 労河原がこっちを見ていなかったら。

 

 休恵はきっと──その、楽しそうに酒盛りをするスズキが映ったその端末を、力の限り地面に叩きつけていただろう。

 

「どうした……おい、落ち着けってば」

 

「……ああ、そうだな」

 

 乱暴に端末をカバンに戻して、そして休恵は絞り出すようにして呟いた。

 

「……帰りにコンビニに寄ろうぜ。たしか、度の強い酒も置いてあったはずだ」

 

「……そう、だな」

 

 

 ──家に帰った休恵たちは、酒の飲み方を知らなかったあの時のように無茶苦茶に酒を飲んで、そのまま倒れるように眠りに落ちた。

 

 

▲▽▲▽▲▽▲▽ 

 

 

 残業体験プログラム、六日目。

 

「……ん」

 

 二日酔いでガンガンと痛む頭をさすりながら、休恵はぼんやり考えた。

 

「……何もしたくねえ」

 

 六日目の今日は、この残業体験プログラムにおいても休日として宛がわれた日だ。だから、これから何をするのも休恵の自由である。

 

「……」

 

 遊ぶ金は十分にある。美味しいものを食べることだってできるし、映画かレジャーか……何か金を使う娯楽を楽しむことができる。いつも以上に羽を伸ばしても全くもって問題ないくらい、今の休恵の懐は温かい。

 

 そりゃそうだ。だって休恵は……望みに望んだ残業をしているのだから。時間だけあって金が無い「本来の」生活と比べて、今のこの休恵の状況は、まさしく休恵が思い描いた通りのものとなっている。

 

 なのに。

 

「……何もしたく、ない」

 

 時間はある。

 

 金もある。

 

 そのはずなのに──休恵は、ベッドの上で小さく縮こまった。幼い子供のように毛布に包まって、何も考えたくないとばかりに何もかもから自分を切り離した。

 

「……」

 

 三十分経っても、一時間経っても、休恵はベッドから起きる気配を見せない。

 

「……喉、乾いた」

 

 ようやく起きたのは──実に11:30過ぎ。普段の休恵だったらあり得ないくらいの寝坊で、そして休日として動き出すにはあまりにも遅い時間。

 

 はっきり言って、無駄に時間を浪費したと言われても言い訳できない状態である。

 

「……ま、いいや」

 

 どうせ休みだ。休みというのは何をしても良い日なのだ──と、休恵は開き直る。そして、スマホを片手にごろりとベッドに寝転がった。

 

「……あ」

 

 見慣れた動画サイト。おすすめ急上昇ランキングに出てきたのは、どこぞの配信者が投稿した釣りのハプニングシーン集だった。

 

 もうどこにも……休恵がバラまいた動画は見つからない。一時期はそれ一色だったというのに、今はもう、何処にもなかった。

 

「はは……俺の動画、もうすっかり忘れられてら……」

 

 ──結局休恵は、一歩たりとも部屋から出ずに一日を過ごした。

 

 

▲▽▲▽▲▽▲▽

 

 

 残業体験プログラム、七日目。

 

「……」

 

 休日であるのをいいことに、かなり遅くまで惰眠を貪って。早めの昼食がてら、買い物を済ませた休恵は。

 

「……」

 

 何もないベッドの上。何か生産的なことをするわけでもなく、ぼんやりとスマホを見つめて過ごして。

 

「……いやだ」

 

 時刻は21:53。既に夕餉も歯磨きも済ませて、後はもう寝るだけの時間。

 

「……明日なんて、来なくていい」

 

 寝なくちゃいけない……体は確かに眠気を覚えているというのに。

 

「いやだ……いやだ……」

 

 ──寝たら明日が来てしまうという現実に、一人で震えていた。  

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