「──残業を続けてしまった人間は、大きく二種類に分けられるという」
あの日、休恵たちが連れてこられたあの会議室。大きなテーブルの上座となる真ん中の席で、鋭い気配を放つその老人は──机に肘をつき、指を組みながら呟いた。
「無気力になり顔から覇気が消える人間。そして、頬がこけながらも目だけはギラつかせた──攻撃的になる人間」
この老人の顔は、そのどちらでもない。顔には深い皺が刻まれていながらも力強い何かで満ちており、目には確かな意志の光が輝いている。ともすれば凶暴な獣のようにも見えるそれだが、不思議なことに理知的な何かを感じさせるほど落ち着いたものだ。
鋭い迫力があるのに、雄大で落ち着いている。存在感そのものが大きくて、まるで偉大な霊峰を目の前にしているかのよう。肉体的には枯れ枝のような老人のそれであるために、余計にそのギャップが際立ってしまっているのだろう。
「──キミたちは、どちらかな」
その老人──勤堂総理大臣は、さして興味もなさそうに、ただ義務的に問いかけて見せた。
「──勤堂総理ィィィィ!!」
叫んだのは休恵だった。
「お前がァ! お前がぁああ!!」
あの日と同じように拘束具を付けられた休恵が、飛び出さんばかりに目を開いて勤堂総理に食って掛かろうとする。
「元気があってよろしい。……しかし、少々血の気が多すぎる」
無論、この会議室にいるのは勤堂総理大臣だけじゃない。ボディガードとして同席していた数人の残業警察があっという間に休恵を取り押さえ、床にその身体を叩きつける。どん、とあまり聞きたくない音が部屋に響くものの、しかしそれでも休恵の瞳に宿るその意志の炎は全くもって衰えることは無かった。
「離せ……ッ! 離せよ……ッ!」
「……お友達は随分と血気盛んなようだが。キミはどうなんだね、労河原くん?」
「……はは」
一方で。
同じように拘束具を取り付けられている労河原は、力なく愛想笑いを浮かべるだけだ。隣にスズキとヤマダが寄り添っているものの、休恵とは違って反抗や抵抗の意志はまるでないらしい。それどころか、無気力感を通り越してすっかり抜け殻のようになっている始末である。
「キミは覇気が無くなるタイプで、休恵くんが攻撃的になるタイプか。性格こそ異なるものの、これだけのことをする行動力を持つのだから……てっきりキミも、攻撃的になるものだと思っていたが」
少々予想が外れたな、と勤堂総理は机の上のグラスを手に取り、喉を湿らせた。
「そんな恰好ではまともに話はできないね──フルサワくん」
「はい」
休恵の後ろに控えていたフルサワが、休恵の体を引っ張り上げた。さすがに抵抗する成人男子をひとりで引っ張り上げるのはつらかったのか、ヤマダがその補助に回る。
「時間が惜しい。早速だが始めよう──二人とも、席に着きなさい」
休恵は無理矢理椅子に座らされ。
労河原はのろのろと言われたままに椅子に座り。
ちょっと遅れてフルサワと、スズキと、ヤマダも同じように席に着いて。
「残業のある社会──キミたちの理想のその先を実際に体験した、その答えを」
残業体験プログラム、最終日。
ボディーガードの残業警察が休恵たちを囲む中、粛々とそれの始まりは告げられた。
「──聞かせてもらおうか」
▲▽▲▽▲▽▲▽
「何が理想のその先だッ!! あんなのただの地獄じゃないかッ!!」
先に口を開いたのは──その迸る激情を隠すことも無く叫んだのは、休恵の方だった。
「ふざけやがって! よくもまあいけしゃあしゃあと残業体験だなんて言いやがったな!」
文字通りの激昂。はらわたがグツグツと煮えくり返り、今にも爆発しそうなその感情を、僅かに残った理性で抑え込んでいるだけに過ぎない。それは決して、誰かを説き伏せようと──ましてやわざわざ時間を割いてチャンスを与えようとした総理に対する態度とは思えないものだが、もはやそんなことなぞどうでもいいとばかりに休恵は吠えた。
「さて、何を言っているのかよくわからないな」
一方で、受け答える側の勤堂総理は非常に落ち着き払っていた。
「キミの望み通りの、残業が合法化された社会を疑似体験できただろう? いったい何が不満なんだね?」
「何が不満だ──だと!?」
全く動じていない勤堂総理の態度が。その一言一言が、休恵の神経を逆撫でした。
「全部だ! あそこにある全てだ! そもそもとして……あれが残業体験プログラム!? そんなわけあるか!」
「……」
「ただ残業を体験させるだけで、どうしてあんな大掛かりな施設を作る必要がある!? どうして生活そのものを施設内で行わせる必要がある!? 冷静になって考えれば……何もかもがおかしい! あんなものが残業のある理想の社会であってたまるか!」
へえ、と心の中だけでスズキは叫ぶ休恵のことを見直した。頭に血が上っているのは間違いないが、その上で状況の観察というのを冷静に行えている。労河原の方はすっかり腑抜けて無気力になっているというのに、あれだけの地獄を体験してなおそれだけのことができるのは──さすがは、フルサワが見込んだ男だと言うほかない。
もちろん、決してそれは言葉にも、態度にも出さない。どこまで行っても、休恵は残業禁止法を犯したただの犯罪者でしかないのだから。
「ふむ、そこには気づいたか」
意外なことに、勤堂総理はそれをあっさりと認めた。
「キミの言う通り、残業体験プログラムなんてものは本来は存在しない。いわばキミたちのためだけに用意した……まぁ、建前だね」
「なっ……!」
「本来の目的……そう、あの施設の本当の正体は」
休恵も、ぼんやりとやりとりを見守っていた労河原でさえも。
勤堂総理が発したその言葉に、驚愕を隠せなかった。
「──残業犯の収容所だ。教育施設か、あるいは矯正施設と表現しても良い。あそこにいたのプログラムの被験者じゃなくて……キミたちと同じ、残業犯罪を犯した犯罪者さ」
残業犯の収容所。勤堂総理はなんの悪びれも無くそう言ってのけた。
休恵たちにチャンスを与えると言っておきながら。残業のある社会を体験させると言っておきながら。希望を見せると言っておきながら──その実、犯罪者として然るべき場所に収監していただけだったのだ。
もちろん、今の休恵たちは名実ともに犯罪者だ。真実こそ伝えていなかったものの、その行為自体は何ら咎められるものじゃない。むしろ、それこそが本来あるべき姿だろう。
「目には目を。残業には残業を。残業とはどれだけ罪深いものなのか──刑罰として適用され得る行いであることを、身をもって体験させている。矯正施設としてはこれ以上のものは無いだろう」
ちなみにこれは、残業禁止法の罰則事項に謳われている【懲役またはそれに準ずる刑罰に処する】という条文の、『準ずる刑罰』に該当する行いである──と、勤堂総理大臣は補足説明を入れる。
「……ふざけ、やがってッ!!」
が、しかし。
休恵が激昂しているのは、そこじゃない。犯罪者が教育施設に入れられるのは理解できるし、何らかの苦痛を伴う罰則を受けるのも納得ができる。むしろそうあるべきだと心の底から宣言することができるし、逆の立場だったら間違いなくそうするだろう。休恵自身が犯罪者呼ばわりされているという観点では未だに納得できていないが、そういう意味では間違いなく、休恵と勤堂総理の考えは一致している。
問題なのは──そのやり口そのものだ。
「バカげている! いくらなんでもやりすぎだ! あれが教育!? あれが矯正!?」
「……」
「……」
勤堂総理は、黙ってそれを聞いている。
フルサワも、スズキも、ヤマダも──その近くにいる残業警察たちも、誰も言葉を発しなかった。
「違うだろッ!! あんなのはただの拷問だ! 人権を踏みにじったあってはならない行為だ! この時代、法治国家で……いや、そうでなくとも! あんな行いは決して許されるものじゃない!!」
毎日のように、夜遅くまで働かされて。行きも帰りも出荷される家畜よりもひどい状態で電車に乗って。お昼休みのほんのわずかな時間でさえも眠らなきゃやっていけず、道行く人の全てが死んだような表情をしている。
はっきり言って、普通じゃない。まともな精神状態でいられるはずがない。アレを異常だと思わない……普通だと思ってしまっている時点で彼らは全員精神に良くない影響をきたしている。そしてそれに気づいてすらいない。
これを拷問と言わずして、何と言うのか。耐え難き精神の凌辱と言わずして、何と言うのか。彼らは肉体が死んでいないだけで……目に見える肉体の損傷が無いだけで、精神はもはやボロ雑巾のような有様になっている。
ほんの二週間しか体験していない休恵でさえ、既にかなりボロボロの状態なのだ。その怒りを胸に宿しているからこそこうしてまともにやり取りができているが、その怒りが……この憎しみが支えに無ければ、きっと彼らと同じような生きた屍と化していたことだろう。
「なんとか言ってみろッ!! あの地獄のような拷問を正当化できるってんなら、なぁ! ぜひとも俺に聞かせて見ろよッ!!」
あれは決して、許される行いじゃない。休恵が問い詰めているのは、そういうことだ。
「休恵くん」
射殺せるほど鋭い休恵の眼光を真正面からとらえて、勤堂総理は良く通る声で言った。
「キミは先ほど、こんなのは残業のある理想の社会じゃないと言ったな。あの施設は人権侵害甚だしく……そして、私がキミたちの意志をへし折るために、嫌がらせをするためにあんな地獄を体験させたのだと、そう言ったな」
フルサワとヤマダは、耐えられないとばかりに視線を逸らしていた。
スズキは、何かとても愚かで哀れなものを前にしたかのように休恵を見ていた。
労河原は、ただぼんやりとその話を聞いていた。
「ああ、言ったとも! それがどうした!?」
休恵の啖呵。
勤堂総理は、淡々と答えた。
「そう思うのなら。他でもないキミ自身がそう思うのなら……私の努力は間違っていなかったということだ」
「……は?」
「私自身、そう思う。あんなのはただの地獄だ。拷問と言って良い。最高責任者としてあの運営を命じている身とはいえ……運営スタッフにも、残業犯にも申し訳ない気持ちでいっぱいだ。……おそらくきっと、私は死んだら地獄に行くだろうね」
残業体験プログラムは人権侵害の拷問だと詰った休恵の目の前で。
その責任者である勤堂総理大臣は──表情の一切を変えることく、全くその通りだと休恵の意見を認めたのだ。
──当然、休恵の頭は混乱するばかりであった。
「はぁ……? あんた、まさか本当に頭がおかしいのか……? 自分が何をやっているのか、本当に理解しているのか……?」
先ほどまで敵視していた相手だというのに、休恵は本気で勤堂総理大臣のことが心配になった。言動が支離滅裂でまるで一貫性が無く、それでいて本人はなぜか落ち着いているというか、「そういう」人特有のおかしな様子は見受けられない。
もしかして、もしかすると。いくら歴代最高の総理大臣とはいえ、やはり年には勝てなかったのでは……と、休恵は一人の人間として、目の前にいる老人のことを労わる気持ちさえ湧いてきてしまった。
だが、しかし。
相手は──休恵よりも何十年も生きて、そしてこの国を導いてきた傑物である。
「同じ言葉を、そっくり返そうか」
勤堂総理大臣は、深くため息をつきながら告げた。
「あれは、残業が当たり前にあった過去の時代を……残業禁止法が制定される前の時代を、そっくりそのまま再現しただけなんだよ」
「──え」
「拷問でも何でもない。意図的に何かを仕組んだわけでもない。厚生施設だなんて大層な名前だが、単純に、私らの時代のいつもの日常をそのまま体験してもらっただけさ」
休恵の中で、大事な何かが砕け散った。