「はは…………ありえ、ない……」
うわ言のようにつぶやく休恵。
勤堂総理は、そんな休恵を無視して続けた。
「拷問に見える? あれが? いいや、こんなのいつもの馴染みの光景さ。働いている人間の大半が”こう”だよ」
「そんな、わけ……」
「どうだ、普段の君たちに比べてずいぶんと稼げて嬉しいだろう? たくさん働けて嬉しいだろう? やりがいもあって働き甲斐があるだろう?」
「ちが、ちがう……」
「ほら、喜べよ。存分に喜びたまえよ」
休恵は今まで、残業禁止法を撤廃するために活動してきた。働きたいのにそれを規制する法律をなんとかして打ち破り、好きなだけ働いて、好きなだけ稼いで、そして自由で豊かな生活を誰もが送れる──そんな、みんなが幸せになれる
「そん、な……嘘だ……」
「──本当に残念だが、事実だよ」
なのに。
だというのに。
その結果が。みんなの幸せのためのその行動がもたらすものが。
「あん、な……地獄、だって……?」
理想郷とはかけ離れたあんな悍ましい地獄だなんて、いったいどうして信じられるというのだろうか。
「最初に私は、残業とは危険思想だと言ったが……その理由がわかってもらえたかな? 私がどうして残業禁止法を制定するに至ったか、理解できただろう? 事実として、キミたちはこの二週間の間に……あの疑似社会での異様な光景を体験して、いろいろ思うところがあったんじゃないか?」
思う所があった……そんなレベルの話じゃない。あの疑似社会は、ありとあらゆるところが異常だった。むしろ、異常じゃないところを探すのが難しいくらいで、なによりも──人間の尊厳と、精神を抹殺しに来ている。
「今の社会と比べて不便な所やおかしいところがいくらでもあっただろう? キミたちが感じたそれらすべてが、私たちが作り上げた残業禁止法のその存在意義を証明していると言える。残業禁止法があるからこそ、あのおかしな光景を防ぐことができているんだ」
「嘘だ……嘘だ……」
「なるほど確かに、残業をすることで金を稼ぐことはできるだろう。だが、金はあっても時間はない。余暇を楽しむどころか、休日でさえベッドの上から動けない……稼いだ意味なんてない」
「……っ!」
「朝が来るのに恐怖しただろう? いっそこのまま目覚めなければいい、ずっと寝ていたいと思っただろう?」
「いや……ちがっ……!」
「通帳の金額は増えても、心が動かされることもない。いや、そもそも気付くこともない……そんなの気にする余裕もなかったはずだ」
「う、うあああ……!」
とうとう耐え切れなくなって、労河原がうめき声をあげた。まるで赤ん坊のように頭を押さえ、聞きたくないとばかりに耳を塞いでいる。
それでも勤堂総理は、全く気にせず話をつづけた。
「二十四時間働いているのは、地球上では人間だけ。そんなの生物としておかしい、だからこそ残業を許された社会の方が本来のあるべき姿だ──と、休恵くん、キミは確かにあの時言ったね?」
「ちが……俺は、そういうつもりじゃ……」
「言ったよ。間違いなく言ったんだよ。どんなつもりだったかなんて関係ない。キミはあの時、確かに残業を肯定し、それが生命のあるべき姿だと──そう言ったんだ」
それは決して、覆すことの無い事実。どんなに望んでも、戻すことのできない過去。
休恵は、あの時確かに。
あの地獄こそが生物としてあるべき姿だと、確かにそう言ったのだ。
「──私から言わせてもらえればね。残業なんてしている生き物は……残業を
「そんな……そんなこと、ない……。俺が理想としている残業は、もっと……」
「キミたちが現行体制に歯向かおうと思えたのは……反逆の意志を抱けたのは何のおかげだ?」
「……え」
「あの残業のある地獄で同じことが思えたのか? 今よりももっと辛く苦しいあの環境で……
「それ、は……」
「しなかったんじゃない、できなかったんだろう? そんな余裕すらなかったんだろう?」
「……う」
「残業禁止法が無ければ、そんな意志を抱くことさえできない暗黒世界となるんだ。残業禁止法があったからこそ、キミたちは人間らしく意見を持ち、行動する力を保証されていたんだ。もっと言い換えれば──」
勤堂総理は、止まらない。
「キミたちが残業テロリストとして現れることができたという、事実そのものが。私が正しいという証拠なんだよ」
勤堂総理は、ずっと事実だけを述べている。捏造も虚飾も一切ない。休恵たちが残業でボロボロになっているのは誰が見ても明らかで、今まで休恵たちが活動してこれたのも、残業が禁止されていたからだ。
「残業禁止法が──【悪性超過勤務の禁止および
そう、勤堂総理は正論を述べている。屁理屈でも何でもない、まさしく正しい論理だ。そしていつだって──本当の意味での正論というものは、”悪人”にとってはこれ以上になく刺さるものであり、反論の余地なんてまるでないのである。
「……わかってくれたかな、
いつのまにか休恵の傍らに来ていた古沢が、優しく休恵の背中をさすっていた。
「残業なんて存在を許したら、どれだけ人が傷つくのかわかっただろう? 休恵ちゃんがあの時望んだ言葉のその先が……今の、ボロボロの休恵ちゃんだよ」
「古沢、さん……」
古沢の目には、光るものが浮いている。堪えようと思っても堪え切れなくなって、それは静かに古沢の頬に流れて行った。
「休恵ちゃん、気付いていたかわからないけどさ。どんどん元気が無くなっていく……やつれていく休恵ちゃんを見て、俺も辛かったよ。何度、無理やりにでもあそこから連れ出そうと思ったか……もう止めてくれと言いそうになったかわからない」
「……」
「でもな、それは……俺が残業という存在に忌避感を抱いていたからで、そうでない人間にとっては、何でもないことなんだ」
「それって……どういう……」
古沢は、悲しそうに笑った。
「あの時──そう、閉まっているスーパーに怒った休恵ちゃんに、労河原くんは言ったよね。残業は強要するものじゃない、あくまで権利の一つだって」
「は、い……」
「──でも、残業を認める人間は違う。そんな人間は……あの時の休恵ちゃんは、残業という悪魔の所業を、人を傷つけることをなんとも思わない人間になっていたんだよ。人に残業をさせても、それを悪いことだと思わない人間になっていたんだ」
「──!」
「そんな人間が増えれば。そんな人間が認められてしまったら。そうしたら……この社会は間違いなく崩壊する。もう、考えるまでもない。……休恵ちゃんは実際に、体験しただろう?」
残業が認められた社会。それは、残業を強要するのが認められた社会ということでもある。残業は犯罪でも何でもないのだから、業務命令という形であれば原則的に断ることはできない。それこそ、上司からの指示という──法律と比較すればはるかにカジュアルな形態で、誰にでも強要できてしまうのだ。
残業という危険思想が、極悪非道の暴力的で悪辣的な鬼畜の所業が。
経済活動の一環という建前で、人間の社会でまかり通ってしまうのだ。
「残業を認める人間は自身を滅ぼし、他者も滅ぼし──そしてやがては社会をも滅ぼす。俺があの時怒った理由……わかってくれたかな」
あそこにいた残業体験プログラムの被験者……否、残業犯はみんな暗い顔をしていた。暗くて陰鬱で、まるで生きる気力を感じなかった。死んだような顔をして毎日あんなぎゅうぎゅうの電車に乗り、それを疑問に思うことも無く、ただ働くためだけに呼吸して栄養を補給していた。
少なくとも、休恵の常識と照らし合わせてならば。アレは決して、生きているという状態とは言えない。
「……古沢さんは、知っていたんですか? 残業を認めたその先にある、あの地獄のことを」
「いや……残業のある世界なんて、俺も話にしか聞いていなかった。この残業監督官としての資格を取った時に……研修として、ビデオで一回だけ見せられただけ。もう何十年も前の話だ」
「……」
「……でも、その時でさえ。ビデオの途中で気分が悪くなって途中退出する人が続出した。かくいう俺もその一人でね。最後まであのビデオを見られたのは一割もいなかったはずだ。……だから俺も、本当の地獄までは知らなかった。正直、こうして最後までやり通せた自分に驚いている」
「休恵さん──あの時の私の言葉、わかりましたか? ……真っ当な人間であれば、残業をさせるのだって辛いことなんですよ。それが見知った相手というのなら、なおさら。それでも古沢さんは、自分やったことだからって……せめて、少しでもあなたのことをわかってあげたいからって」
途中から割り込んできたスズキ。さらに補足を入れるようにしてヤマダが続けた。
「それだけ精神的なストレスが大きいということだよ。ちなみにこの期間中、協力者はみんな……もちろん、私もスズキも専門のカウンセラーによるメンタルケアを受けている。そうでもなければ、正気を保てないと言ったほうがいいかな?」
「…………」
まともな感性を持っていれば、人を傷つけるのには精神的な負荷がかかる。その大きさは尋常なものではない。拷問というものは、拷問する側の方も負担が大きく、真っ当な精神では成し遂げられないものだ。もし、それが普通に出来てしまったとしたら……そいつはもう、とっくに狂っているということになる。
「時に、労河原くん」
「……はい」
ここで、勤堂総理大臣は労河原の方へと顔を向けた。
今までずっと喋っていた休恵とは違い、すっかり腑抜けてぼんやりとしていた労河原だ。いったいどうしてこのタイミングで自分の方へ話が降られたのかと、総理の考えを掴みあぐねている。
「──実は私も、貧しい家庭の生まれでね」
総理の考え。あるいは、どうしてわざわざ労河原に声をかけたのか。
もっと突っ込んだ言い方をすれば……あえてわざわざ、残業体験というチャンスを与えることとなったきっかけの一つは。
「私の父親は、残業に殺されたんだ。キミの父親と同じように……
「え──?」
奇しくも、勤堂総理と労河原に共通点があるからに他ならなかった。
「貧しい家だった。流行りのおもちゃを買ってもらったことも無いし、外食をしたこともない。衣服は二回り大きいものを買って、何度も継ぎはぎして破れるまで使い回した。ろくにおかずのない地味で簡素なお弁当が惨めだった。授業参観に割烹着でやってくる母が恥ずかしかった。……余所行きの服も無く、ろくな化粧道具も無かったんだ」
「……」
「……それでも。それでも私は、家族と過ごすあの時間が好きだった。家族で他愛もない話をして、みんなで夕餉を取るあの空間が好きだった。貧しくて惨めだったかもしれないけれど……確かに、幸せだった」
どこか遠くの方を見つめて──何かを懐かしむように、勤堂総理は呟いた。
「たったそれだけでよかったのに……残業が、その幸せを奪った。過労死というやつだった」
「かろ、うし……?」
「なんですか、それって……」
「──働きすぎて死ぬってことさ。言葉通り、死因の一つだよ」
過労死。それは、残業がある地獄のさらにその先にあるもの。働いて働いて働きすぎて、肉体も精神もボロボロになって、残業という悪意そのものに食い物にされた人間が、とうとうその命を散らすというあってはならない最悪の悲劇だ。
「生きるために働く」というその大原則。それを逸脱した、「働くために生きる」という生物・自然としての決定的な矛盾。自然界の法則からねじ曲がったこと無理やりすれば、その先に待ち受けるのは当然”死”である。
「そん、な……働きすぎて死ぬなんて、そんなことが……」
「私たちの世代は皆それを知っているが……働きすぎて死ぬという感覚は、やはりキミらにはわからないか。だがまぁ、感覚としてはわからずとも、理屈としてはもう想像できるだろう?」
「……っ!」
休恵も労河原も、想像できてしまった。だって休恵たちは、他でもない勤堂総理によってそれを体験させられたのだから。
「当時は残業は合法だった。だから父は、いつも侘しい思いをしていた私に一度くらいは本当に欲しいものを買ってあげようとして……そして、無茶な残業を重ねた。帰りは日に日に遅くなり、それでなおその疲れを家族に見せないように明るく振舞って……ある日突然、倒れた」
「……」
「気付いた時は、もう取り返しのつかない状態になっていた。……父は最期に言っていたよ。何も買ってやれなくてごめんな、俺の稼ぎがもっとよかったら……と」
「……」
「私が本当に欲しかったのは、そんなものではなかったというのに。そればかりか、結局父は命を懸けてもその目的を達成することはできなかった。……残されたのは、悲しみだけだった」
勤堂総理のグラスの中は、いつの間にか空になっている。思いのほか勢いよく持ち上がってしまったそのグラスを見て、スズキが追加のお茶をそれに注いだ。
「……私はただ、父と過ごしたかっただけだ。帰ってきた父と、夕陽の差す公園でキャッチボールをしたかっただけだ。そんなありふれたささやかな幸せでさえ、残業に奪われた。残業なんてしなくても私は満たされたのに、残業はそれすら許さなかった」
あの日の勤堂総理は、残業そのものを憎んだ。そして残業での過労死を無くすべく──こんな悲劇を二度と起こさないようにするべく、必死になって勉強した。そして残業を撲滅するには根本から駆逐しなくてはならないと結論付け、法として規制するために国の中枢に関わるようになった。
そう、勤堂総理は、残業を撲滅するために総理大臣になったのである。
「労河原くん。あの時の……キミへの回答は今でも変わらない。キミの父親の気持ちは尊ぶべきものだが、残業を犯したキミの父親は、紛れもない大罪人だ」
あの時と全く同じ言葉。
だけど今の労河原には、その意味合いは全く違って聞こえた。
「逮捕の方がまだマシだ。命あっての物種で、生きてさえいれば何度でもやり直せるし、気付くことができる。……親を思う子の気持ちも、子を思う親の気持ちも今の私ならわかる。キミの父親が真に行うべきは残業ではなく、もっと身近な幸せに目を向けることであり……それこそが、キミたち家族のためになると、キミも感じているんじゃないか?」
「……っ!」
「つつましくとも、家族みんなで暮らせればいいじゃないか。例え辛く苦しい生活だろうと、人間らしく生きられるのであればそれでいいじゃないか。それでもし、誰かを恨みたいというのなら……その時こそ、父親を恨めばいい」
「……父を、恨む?」
「ああ、そうだ。……キミならまだ、父親を
「……それ、は」
「私は長い時間をかけて、今の恵まれた環境を──理不尽で悪逆な、最悪の事態だけは回避できる環境を作った。贅沢さえ言わなければ、みんなごく普通に生活できる環境だ。そんななかで貧困にあえぐのは……単純に、後先考えず好きに生きた結果だろう? 酷いことを言うようだが、そんな状況になってしまった自分の選択が悪い」
「……総理。あなた、言うことキツいですね」
「当然だ。まぁ、私情が大いに含まれているのは認めるがね。それでも私は私と同じ目に合う人間を見たくないし……可能であれば、キミの父親の横面を叩き倒したいと思ってさえいる。──もっと家族のことを考えろ、とな」
「……それができる俺は、まだ幸せなのか」
「……少なくとも、まだ踏みとどまれる。引き返せる位置にいる」
残業の残酷さを知ってほしかったから。休恵ならその悍ましさがわかってくれると信じたから、荒療治とはいえ古沢は休恵に残業体験をしてもらうよう総理にお願いした。
自身の親と全く同じ理由だったから。そして、自分とは違ってまだ引き返せるから、総理は労河原にも残業体験をしてもらうことにした。
結局のところ、休恵と労河原が残業体験をすることになったのは……その身をもって、残業という存在そのものをわかってもらうためだった。細かい意図や理由はたくさんあれども、残業が存在する社会は地獄で、今の社会こそそんな地獄を排除した平和な社会であると認識させるために、この二週間があったのだ。
「……さて、少々長くなったが。これで私の……私たちの気持ちはキミたち二人に伝わったと、そう信じているよ」
結論から言えば、それは間違いないのだろう。休恵も労河原も、あの地獄のような残業体験プログラムはもう二度と体験したくないと思っているし、過労死というその忌まわしき存在を、永久にこの世から葬り去るべきだと心から断言することもできる。
ただし。
「……待ってください、総理」
「……まだ、何かあるのかね?」
良くも悪くも──いや、この場合は悪いという意味合いが強いが、ともかく休恵は古沢が認めるほどにあきらめが悪く、ここぞという時の行動力があった。
「やっぱり、あなたの話にはおかしいところがある……あなたの話には、決定的な矛盾がある……」
「……」
「あなたのその身の上には、同情する……過労死が悪だということもその通りだ……だけど」
休恵は、はっきりと断言した。
「──だけど、残業そのものまでが悪であるとは、俺は思わない。俺の意見は、変わらない」
「な……何言ってるんだよ休恵!? お前、今まで何を──!?」
「そ、そうだよ休恵ちゃん! 休恵ちゃん、あれだけひどい目にあったのにどうして──!?」
「……構わん、二人とも」
古沢と労河原は休恵の突飛な発言に慌てふためいている。
ボディーガードの残業警察は、とうとう休恵がイカれたのかと警戒心を露わにしている。
ヤマダは休恵の発言にあんぐりと口を開けていて。
スズキは休恵のことを心底軽蔑したように見つめている。
そして、勤堂総理は。
「──いいよ、聞かせてもらおうか。こうなれば、とことん付き合ってあげるとしよう」
──どうしようもないゴミ屑を見たかのような瞳で、休恵を見下していた。