「──諸君も知っての通り、先日、古くから付き合いのある取引先で重大な残業法違反事例が発生した。これを受けて弊社でも、残業法遵守の徹底および違反防止策を進めていくとともに、改めて残業に対する意識教育を行っていく」
決して大きいとは言えない社員食堂。普段だったら昼食を取る時くらいしか訪れることの無いそこに、このシフト──馬定時勤務の全員が集合していた。
一部の机と椅子が除けられ、壁際に大きなプロジェクター投影用のスクリーンが掲げられている。光量が少なくうすぼんやりとしか映っていないそれではあるが、投影された内容はその儚い光とは対照的に、どこまでも強烈で生々しいものであった。
「重大事例に繋がり得るインシデント、ヒヤリハット案件……自社、他社問わず実際の過去例も学んで、残業防止を進めていこうと思っている。残業は明確な犯罪であり、”知らなかった”で済まされることじゃない。残業はさせない、しない、見過ごさないの【さしみ】を常に意識するように」
この場にいる全員が、真剣な──ともすれば、不安そうにも見える表情でスクリーンを見つめ、そして上役の話に耳を傾けている。きっと朝からずっと起動し続けていたのだろう、プロジェクターに接続された安物のパソコンは、先ほどからずっと溜まった熱を排出しようと奇妙な唸り声をあげていた。
「今回の残業法違反事例については、言い方は悪いかもしれないがごく典型的なありきたりなパターンだったと言える。ではどうして、そんなあからさまな残業がまかり通っていたのか。原因、過程、対策をそれぞれ分析すると次のように──」
たった一人。全員が真剣に話を聞いている中で、休恵だけはその光景をどこか他人事のように見つめていた。
残業。それは罪だ。犯罪だからこそ法で明確に規制され、そしてそれを取り締まる残業警察が存在する。
残業。それはかつて休恵が望んでしまったものだ。時間ばかりあっても金が無くてはしょうがないから、この余った力でもう少しだけ働きたいと……そんな、単純な気持ちから望んでしまったものだ。
残業。それはほんの一分でも規定労働時間よりも多く働くことだ。ほんの少し時間をオーバーするだけで、さっきまでは合法だった……むしろ成果を求めるべく取り組んでいたことが、人の命を理不尽に奪うことと同等の罪となるのだ。
残業。その結果が。
「──このように、残業警察によって残業の証拠は確実に確保される。正当な理由の元、武器の使用が認められている。……酷い有様だと思うか? 理不尽だと思うか?」
スクリーン。残業警察による突入の痕。机も椅子もひっくり返され、そこら中に資料が散乱し、扉は蹴破られている。観葉植物の鉢は倒されて土が飛散し、まるで強盗が押し入ったかのような様相だ。
「──それが認められるほど、残業というのは人道に反したあってはならない行いだということだ」
銃撃の痕。階段にぽつぽつと続く、赤黒いなにかの染み。あえてモザイク処理をしていないそれが、これが夢や漫画のお話ではない……現実に起きた出来事であるということを突き付けてくる。
「……休恵ちゃん、今日はもう早退しな。勤怠処理とかは俺がなんとかしておくからさ」
「……は、い」
残業。人殺しに等しい大犯罪をした、その人は。
他でもない、休恵の親友の家族なのだ。
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「……悪いな、変な時間に呼び出しちまって」
「いや……寝付けなかったところだから、ちょうどいい」
深夜01:00。あと一時間ほどで牛定時が始まるそんな頃合い。目を瞑るといろいろなことが頭を巡ってどうにも寝付くことができなかった休恵は、枕もとで鳴り響いたスマホ──労河原からの連絡を受け、こうしてこの……労河原の会社近くの公園にやってきたのである。
「どうする、どこか適当な飯屋にでも入るか?」
「いや……ここにさせてくれない、かな」
「……おう」
公園のベンチに、二人は腰掛けた。目の前には、乗る人のいないブランコが揺れている。
「今日、さ」
「おう」
「……電車が、すっげえ混んでいたんだ。座れないどころか、揺れると肩と肩が触れ合っちゃうんじゃないかってくらいに」
「そういえば……ここに来るときもめちゃくちゃ混んでたな。立ってる人が一両に五人もいた」
「ははっ……やっぱりか。ここ、そんなに混む路線じゃないのに。……なんでそんなに混んでるか、知ってるか?」
「……」
労河原は、吐き捨てるように言った。
「──そいつらみんな、親父の会社を見に来たんだよ」
先日の残業法違反事件。優良認定企業による残業法違反とあって、テレビ、新聞、ネット──ありとあらゆるメディアで大きく取り上げられていた。いわゆるBtoB企業であったため、知名度そのものは低かったはずなのに、今やだれもがその企業の名前を知っている。地元民ともなれば、どこかで聞いたことがあるぞ、もしかしてあそこでは……というそんな興味本位であったとしても、簡単に足を運ぶことができた。
もちろん、大々的に現場近くまでやってきているのは大半がマスコミだ。取材陣をビルの入り口前に展開して、そこに出入りする社員から少しでも何か情報を聞き出せないかと飢えた獣のように……それこそ、人の迷惑も考えずにマイクを突きつけようと目を血走らせている。それに比べれば、ただ漫然とスマホで写真を撮ろうとするだけの一般人はまだしもまともなのかもしれない。
「舐めやがって。何が「こちらには取材する正当な権利がある、答えないのは報道の自由の侵害だ」だよ。てめえの傲慢な目的ばかりが頭にあって、そのためなら俺たちの権利をいくら犯しても良いと思ってやがる」
「……家にも、押しかけられたのか」
「ああ。正直俺は──あの連中を、同じ人間だとは思えなくなったね」
「……」
「親父はしょうがない。それだけのことをやらかしたんだから。奴らの行動の是非はともかく、理由はある。だけど……弟たちは違うだろ? 何もしてない、まだ二十歳にもなってないあいつらが……! どうしてあんな風に詰め寄られて、
名前は公表されている。そして、人の噂とはあっという間に広がるものだ。気づけばいつのまにか労河原の父親が残業犯罪を犯したことは周知の事実となっていて、あれからずっと、マスコミや怪しい連中に家の周りを嗅ぎまわれたりしているらしい。
「おまけに学校の方でも……な。そりゃ、建前上は気を使ってくれるが、本音としては面倒くさいことを持ち込みやがってって思ってるだろうよ。他の生徒や、親御さんたちからも──」
「もういい、わかっ……」
「いいや、わかってねえんだ!」
公園に響き渡る怒声。寝こけていたのであろうカラスが飛び立ち、その羽ばたきの音が夜の闇に消えていく。
「……悪い」
「いや……しょうがないさ」
休恵はもう、労河原になんて声をかければいいのかわからなかった。誰がどう言い繕っても労河原の父親が残業犯罪を犯したのは間違いなく、そして労河原やその弟たち自身は違法行為をしたわけでもなんでもない。文句を言うのだとしたらマスコミたちなのかもしれないが、そんなことをここで論じたところでどうにかなるわけでもない。
「親父さ……まだはっきりしたことはわからないけど、懲役五年以上だって話だ」
「五年……」
「それが最低ライン。残業違反には罰金刑は無い。一応過去例では情状酌量により執行猶予が与えられたケースもある、けど……」
すらすらと、労河原の口から残業禁止法に関する説明が流れ出てくる。休恵の知る限り、労河原はこの手の暗記にはめっぽう弱く、ましてや法律に関する知識なんてせいぜいが一般人レベルのはずだ。きっと、寝る暇も惜しんで調べ上げたのだろう。
「今回はたぶん、情状酌量はつかない。はっきりしているだけで、残業、残業隠滅、残業幇助を親父はやらかしている。ま、この辺はだいたいセットで付くらしいけど」
「……」
「すげえよな。定時間内で業務終了しているように見せかけて、実はこっそり仕事をやっていたんだ。八時間分の仕事を六時間でこなしているように見せかけてたんだから、評価も鰻登り。ばれないように何度も手口を変えて、目立たずやりすぎないように……実に、十八か月」
「そんなに……」
「長期にわたって計画的に行われた、実に悪質な残業だ。酌量の余地なんてあるわけがない」
唯一幸いだったのは、公文書偽造には手を出していなかったことだという。そちらについては勤務区分が異なる共犯者が勝手にやっただけのことであり、その事実も、労河原の父親は逮捕されてから知ったらしいとのことであった。
「見ろよ、休恵」
「これ、は……」
労河原が懐から取り出したのは、一枚の封筒。すでに開封済みで、その中には……支払明細書が入っている。
「──残業代の、支給金額?」
「そう。親父の残業ざっくり300時間分……75万円さ。このうち約4万円はこれから振り込まれる。……残業禁止法は違法労働の一切を禁じているけど、残業代を支払うことは罪じゃない。というか、労働に対して賃金を支払わないということで逆に罪になる。残業で稼いだ金そのものは合法の金だから、返金とか賠償の必要はない」
「……」
「すげえ金だろ? 一日に一時間弱追加で働くだけで、一年半でこれだけの金になるんだ。そりゃあ目も眩むよ。ちょっとの手間ですぐ稼げる文字通りの大金さ! 単純計算で年収が50万円も増える! やらない道理が無い!」
「労河原……」
「でも──人の人生を、家族の人生をめちゃくちゃにするにはあまりに少ない額だろ……!? なんだよ、75万円って……! たったこれっぽっちの金額のために、親父はみんなの人生を棒に振ったんだ!」
75万円。紛れもない大金だ。休恵の今の給料では、額面であったとしても四か月以上は働かないと手にできない金額だ。手取りともなればもっと少なくなるし、純粋な貯金で溜めるとなるとさらに時間がかかることは考えなくてもわかる。
そんな大金だけれども……逮捕されてまで欲しい金額だとは思えない。たった75万円のために人生を棒に振りたいとは思えない。たったそれだけで家族に迷惑をかけたいとは思えないし──妻子のいない休恵でさえそう思うのだから、家族持ちである労河原の父親であれば、もっとその気持ちは強いはずだろう。
だけど、事実として。
残業犯罪を、労河原の父親はやったのだ。
「親父も馬鹿だよ。やるんだったら一億とか二億とか、もっとデカい額にすりゃあよかったんだ。こんなせこい金額で牢屋にブチ込まれるなんて、やっただけ損だろうが」
「……そういう言い方はよくないんじゃないか」
「いーや、損だね。だいたい、五年間も親父の収入が無くなるんだぜ? 進学どころか、明日食う飯の心配だってしなくっちゃいけない。弟たちも働かなきゃやっていけない……ちくしょう」
「……そもそも、どうして親父さんは残業なんて」
自分で口にしていて、既に休恵はその答えに確信にも似た思いを抱いている。話を聞いているだけでも、家族思いであることが伝わってくるくらいの人間だ。そんな人間が罪を犯してまで残業をしたというのなら、その理由なんて一つしかない。
「……あいつらに、クリスマスプレゼントを買うためだってよ」
「……」
「家計は火の車。弟の受験があるし、下の妹だって大学に行かせたい。せめて学生のうちに、一回くらいは本当に欲しいものを送ってあげたかったって……」
「……」
「準備期間は長く取ったつもりだったけど、予想以上に景気は悪い。クリスマスまでに目標金額まで溜まりそうにない。だから焦って残業を増やして……そのせいでバレた」
「……そっか」
労河原は、絞り出すように告げた。
「……俺のせいだ」
「そんな、ことは」
「いいや、俺のせいだよ。社会人になったらあいつらにクリスマスプレゼントをあげたいって話したから……! 実家に援助するほど稼げていないから……! 独り立ちしてなお、頼りないって思われていたから! だから親父が、残業して稼ぐしかなかったんじゃないか!」
もし労河原の稼ぎがもっとよかったら。実家にもっと仕送りが出来ていて、金銭面の負担はかなり少なくなっていたことだろう。あるいは、父親の方から何か相談……頼りにされていたかもしれない。少なくとも、犯罪に手を出そうとするほど追い詰められることは無かったはずだ。
「労河原、お前は悪くないよ。お前が残業しろって言ったわけでも、脅迫したわけでもないんだろ? そりゃ、親父さんのことは残念だけどさ……最後に選択したのは、親父さんだ」
慰めのつもりで紡いだ言葉が、休恵自身の心に突き刺さっていく。もしかしたら言わないほうが良かったのではないかという思いと、しかしそれでも何か言葉をかけかければいけないという気持ちが、休恵の心の中でせめぎ合う。
なにより……どの口がはざいているんだと、休恵は自分で自分のことが嫌になる。休恵はたまたま運が良かっただけで──周りに止めてくれる人がいただけで、同じことをしようと考えたのは間違いないのだ。もし何かの歯車がほんの少しでも噛み違っていれば、逮捕されていたのは休恵であったかもしれないのだ。
「ああ、そうだ。結局は親父の責任だ。親父がとびきりバカな大人だったって、それだけの話だ」
「……」
「だけど……さ」
「……労河原?」
労河原の雰囲気が変わったことに、休恵は気づいた。
「俺の親父はとびっきりのバカだ……バカだけど、悪人なのか?」
それは、問いかけてくるというよりも。むしろ、自分を納得させようとしているように休恵に聞こえた。
「子供にプレゼントを買ってやろうと頑張ることが、そんなにいけないことなのか? 子を想う親の気持ちが、法で裁かれるほど悪いものなのか?」
労河原は、確信をもって言い切った。
「いいや、悪いわけがない。その気持ちだけは、否定させない。親父は俺達のためを思って頑張ったんだ。人を殺したわけでも、傷つけたわけでもない。誰にも迷惑をかけていないのに……法律がダメだと言っているだけで、犯罪者にされた」
冗談でもあまり言ってはいけない言葉。法律を、重罪を否定するようなその発言。酔った大学生が居酒屋でふざけて発言した……そんなシチュエーションであっても良い顔する人間はいないのに、この静かな夜の公園ともなれば。
その言葉は、心からの本心だと言える。
「俺には、納得ができない。いったいどうしてこれが罪になるのか、理解ができない。わからないことは……納得できるまで、粘り強く取り組めってのが親父の教えで、だから」
労河原は、自らを落ち着かせるように息を吐いた。
「休恵。お前だから言うんだ──お前は、どう思う? 親父は、悪人なのか?」
「お、れは……」
悩んだ。悩んでしまった。
悩んだというその段階で──休恵の本心がどうあるかだなんて、もはや語ってしまっているようなものだ。
そして皮肉なことに、自分のことを俯瞰している冷静な休恵自身が、そのことをはっきりと自覚してしまっている。
「俺は……悪くない、と思う」
「……どうして?」
「親父さんの気持ちも。働くという行為そのものも。それらは決して、道徳に反するものじゃないし違法でもない。なのに、全く同じことをほんの少し違う時間にやるだけで逮捕されるのは……おかしいと思う。誰にも迷惑をかけてないのに……やっちゃいけない根拠が法律しかない。やっちゃダメな理由が……思いつかない」
残業は悪だ。今までそう、盲目的に信じていた。生まれた時から社会がそうだったのだから、それが普通だと思っていた。
でも、実際はどうだ。
なんでダメなのかが、休恵にはわからない。どうしてダメなのか、休恵には説明ができない。
そこに悪意はあったのか? いいや、少なくとも労河原の父親にはなかった。
そこに害意はあったのか? いいや、仕事をするだけなのに害意なんてあるはずがない。
それは倫理に違反するものだったのか? いいや、ごくごく普通の仕事で、誇りをもてるものだ。
労河原の父親が、何か邪悪な試みの元に残業をしていたというのなら、まだ話はわかる。法で規制すべきことだろうと思う。だけど、そういうわけでもない。親が子供のために贈り物の代金を稼ごうと……子供の学費を稼ごうとしただけだ。その行為自体は、決して悪なわけじゃない。
そう。
残業は悪だ──ただし、その理由が説明されていない。法律でただそう言われているだけで、どうしてダメなのかはどこにも、誰にも説明されていない。やってはいけない根拠が法律だけで、そもそもの理由がどこにもないともなれば……休恵には、その行為を否定することができない。
残業を否定する理由も根拠もない。でも、残業を肯定する理由はある。
ならば──残業を根拠なく否定する法律の方がおかしいのだと、休恵にはそう思えてならなかった。もう、そうとしか思えなかった。
「……ありがとう。それだけ聞きたかったんだ。俺の親父は間違ってなかったんだって、誰か一人でいいから、認めてほしかったんだ」
「……本当にそれで満足、できるのか?」
休恵の心の中で燻っていた小さな火種。
それが今、大きく燃え上がろうとしていた。
「……どういうことだ?」
「──間違っているのは社会の方だ。だからお前は……俺に肯定してもらいたかったんだろ? だからわざわざ、普通の人ならドン引きするような本音を俺に話したんだろ?」
「……」
「お前は何か事を起こそうとしていて──俺だったら、協力してくれるかもしれないって思ったんだろ?」
「……ははっ」
そう。労河原は今回の結果に納得いかないといったのだ。そして休恵と労河原は親友であり、つまるところ似た者同士で、同じ穴の狢である。
なにより──表面上はともかく、休恵は以前から残業肯定派だったのだ。労河原に手を貸さない理由が無い。
「そうだよ。間違っているのは社会の方だ。この短い時間でさえ、おかしいと思えるところをいくつも挙げることができた。俺たちがそう思うんだ、不満を抱いている奴なんてもっといる。なら俺は……納得するまで、とことんまでやってやる」
「……正直、 見過ごしてくれるだけでもラッキーだって思ってたんだけど」
「バカ言うなよ、労河原」
休恵は、にいっと笑って見せた。
「俺達の気持ちも、親父さんの気持ちも否定させない。そんなの俺が許さない」
──俺達に残業を許さなかったことを。俺たちに考える時間を与えてしまったことを。
──後悔させてやろう。
「間違ってるのは