トレセンのレース場は観客席の半分まで埋まっている。観客はトレセンの制服を着た先輩ウマ娘と、背広やジャケットを羽織るトレーナーと思われる大人達。
生徒にとってはいずれライバルになりそうな後輩を、トレーナーは育て甲斐のある教え子を求めて見に来ていた。
彼女達も気になるが、それより今はレースの方に集中したい。
ボードを持った職員が長距離レースの走者を呼んでいた。
「これから長距離3000メートルの説明をします」
要約するとレースは芝の2000メートルコースを一周半してゴール板を目指す。一回の走者は十一人で行い、俺は第二レースの外枠九番のゼッケンを割り当てられた。
特に難しい事は無い。コースを一周半走って、一番早くゴールすればいいだけ。
問題はターフの状態だ。思いっきり荒れてコースの内側の芝生がめくり上がっている。今日だけで都合三百人を超えるウマ娘がレースしたから当然だろう。
第一レースを走っているウマ娘も不良バ場にはかなり苦労していた。中には多少距離のロスを覚悟で、比較的芝の荒れていない外側を走っている娘も一人いる。外側を走るタイムロスを選ぶか、荒れ場でメンタルを消耗をするか、二択の正しさはゴールを先に駆け抜けた方で分かる。
結果は内側を走ったウマ娘の方が早かった。さすがに3000メートルともなると数メートル外を走り続けるだけでもロスが大きかった。それとも単純に実力差が大きかったのかまでは判断が難しい。どちらにせよコースは自分で走って初めて状態が分かるのだから、他人任せはよした方が良い。
そしてレースに勝ったウマ娘はさっそく何人かのトレーナーと話をしている。勝者の報酬と言いたいが、負けて泣いている娘にも別のトレーナーが契約を持ちかけていた。負けても何か光るものがあったのだろう。それすら無いウマ娘達は肩を落として早々にコース上から退散した。
「第二レースを始める。走者はスタート位置について」
赤い旗を持った凛としたウマ娘が俺を含めた十一人をピタリと並ばせた。見た顔のウマ娘だったが、今は意識の外に出しておく。
一列に並べるとよく分かる。並んだウマ娘の四人に落ち着きが無く、明らかに走る用意が出来ていない。これには外側で寝転がってる同居人も鼻を鳴らして笑っている。
半分は捨て置いても自滅するから構わない。実質気を付けるのは六人だけだ。
スタートを担うウマ娘が赤旗を頭上に掲げ、数秒後にスタートの声と共に振り下ろした。
全員が一斉にスタートを切らず、案の定半分が出遅れた。そしてその出遅れを挽回するように、初っ端から全力で先頭に立とうとする。
そんな奴等に付き合いはせず、バ群の後ろ十番目に付けてコースのやや外側に陣取った。
長距離レースは焦れたら負けるし、何より後ろから機を見る、差しと追込みが最も合っている。
最初の1000メートルで、かかった四人の内の二人が先頭を争うようにスタミナを無駄に消費して破滅的な逃げを演じている。後の二人は冷静さを取り戻して徐々にペースを落として前方に位置付けている。
ちなみに俺は順位を落として今は最後尾。先頭とはもう二十バ身は離れている。
差がここまで開いたのは、一番の理由は爆逃げした二人に引っ張られてレース展開がかなりハイペースになっているから、後半のために余計なスタミナ消費を避けたからだ。それが分かっている冷静な走者は同じように後方で展開を伺っている。
レースに新たな動きがあったのは一周目の三分の二の距離の第二コーナーに入った時だ。無謀な逃げの二人がスタミナを使い果たして一気に速度が落ちて、三番手、四番手に抜かれた。
既にレースが後半に入ったのを機と感じ、一段ペースを上げる。
100メートルごとに一人ずつ追い抜き、死に体のアホ二人も抜き捨てて、順位を六番まで上げた所でコースを一周した。ゴールまであと1000メートル。
スタミナは体感的に半分以上残っている。ここでさらにギアを一段上に入れて徐々に、だが確実に先頭とのバ身差を減らしていく。
途中で掛かって前半でスタミナを浪費した二人をコーナーで抜いて、四位にまで上がった。
残りあと500メートル地点で先行者との距離は目と鼻の先。先頭とも七バ身まで縮まった。
「そろそろ本気で行くぞ」
短い宣言の後に一気に足に力を込めて加速。二番三番を最終コーナー終了間際で、荒れの少ない大外から抜き去った。
そして最終直線で先頭を走る姫カットの栗毛と一瞬並ぶ。相手はスタミナを粗方使い切って息が荒い。ここまで長く頑張ったようだな。
「…だが無意味だ。ではな」
「むーりー!!」
最後の相手を無慈悲に置き去りにして、ようやく先頭を走れた。
後ろから聞こえる足音はさっき抜いた一つだけ。それでも足から力を抜かず、ペースを維持して入れ替わった二番手との差を確実に広げて行き、練習用の簡素なゴール板を通り過ぎた。
「ゴーーール!!勝者は九番のアパオシャ!」
判定役のウマ娘の勝利宣言と歓声の中で、徐々に脚を緩めて歩く程度の速度まで落とす。
振り返ればそこでようやく二番手がゴールして、後続が二人、三人と続いた。二着と大体八バ身差のゴールかな。
さらに三十秒以上経ってから、最初に掛かった四人がヘロヘロになって走り切った。長距離で冷静さを欠くと悲惨なものだ。
息も絶え絶えの敗者に見向きもせず、職員にゼッケンを返して軽く息を整えてから、レースに満足した同居者を伴って観客席に行くと、五人ぐらいの男女混じったトレーナーに囲まれた。
「いやぁ凄いスタミナだね君。その様子ならまだまだ余裕があるのかい?」
「レース運びも冷静沈着で視野が広い。私の下で走法を磨けばもっと早く走れるよ」
「今度は私と一緒に菊の舞台に上がりましょう。それどころか貴女なら春の盾だって手が届くわ」
などなど。トレーナー達は色々と美麗の賛辞を並べて俺をスカウトしようとしている。正当な評価を受けるのは気分が良い。
けれど、彼等から一人を選ぶのは結構難しい。とりあえず今まで育成したウマ娘の主な功績を聞いてみると、全員が最低一人は重賞ウマ娘を育てていた。中でも年配女性のトレーナーは十年以上前に宝塚記念を勝ったG1ウマ娘を育てた事もある敏腕らしい。こういう実績を示してくれると選択もしやすい。
あれこれ話を聞いて五人の内、候補に残ったのは二人。3600メートルのステイヤーズステークスと3000メートルの阪神大賞典を勝った、長距離走者育成に長けた三十歳前の男の中堅トレーナー。もう一人は先程の宝塚記念ウマ娘を育てたベテラン女性。どちらも実績のあるトレーナーなので悩むところだ。
「………あの……お話し中…失礼します」
俺やトレーナー達の視線が声をかけた相手に注がれる。
声をかけたのは制服を着たウマ娘の学生だった。腰まで伸びた艶のある黒髪の天辺に立つ一本の白い房、光沢の薄い黄金色の不思議な瞳。右耳には特徴的な緑色のカフスが着いている。ミステリアスな雰囲気で、どこか浮世離れした印象を受ける。
「君はマンハッタンカフェ君か。出来れば大事なスカウトの時は遠慮してほしいんだけど」
男のトレーナーが可能な限り穏やかな口調で相手を気遣いながら、仕事の邪魔をしたウマ娘を制止した。
マンハッタンカフェ。菊花賞、有マ記念、春の天皇賞を制覇したシニア級ウマ娘の中でトップを走る長距離走者だ。さしもの腕の良いトレーナーとて、G1を三勝した現シニア級最高のステイヤーウマ娘を邪険に扱うのは難しいのだろう。
「……時間はあまり取りません。………アパオシャさん……貴女は視えていますか?」
マンハッタンカフェさんは最初に俺の隣にいたアイツを指差した。他の人からは誰も座っていない座席を指差しているようにしか見えない。
それから彼女は今度は自分の右肩を指でトントンと叩く。
あぁ、この人も視えているんだ。
「俺の隣は生まれた時から。マンハッタンカフェさんの方は、ボヤっとしたヒト型の輪郭ぐらいしか見えないよ」
「…やっぱりですか……『お友だち』から教えてもらいました………変なのが新しく入って来たと」
変なの扱いされた同居者は気分を害して、マンハッタンカフェさんの右側の揺らぐ空間に向けて歯をガチガチ鳴らして威嚇していた。実際お前は変なのだから仕方がないだろ。
それに気づいているのかいないのか分からないが、マンハッタンカフェさんは上機嫌に微笑んでいる。
「それと……レース一着……おめでとうございます。………気が向いたら私の物置部屋に遊びに来てください。………お邪魔しました」
彼女はぺこりと頭を下げて去って行った。
俺達の不思議な会話に置いてきぼりにされたスカウト目的のトレーナー達は、この場でスカウトの話をする気が無くなったのか、とりあえず名刺を渡して、指導を受ける気になったらぜひ訪ねて欲しいと言い残して、第三レースの観戦に回った。
この手の対応には慣れているから今更気にしない。それより初めて同類に逢えた喜びの方が余程大きい。レースで勝つ事よりもだ。
「マンハッタンカフェさんか」
社交辞令とは違い、本当に歓迎してくれたのだから近々遊びに行こう。
レースに勝ち、同類にも会えた。今日はこんなにもいい日だ。トレセンに来て本当に良かった。