三月になって少し寒さが衰えて、春の兆しが見え始めていた。おかげでトレーニングがしやすい。
学園はこの時期になると、毎度卒業生の送り出しと新入生の受け入れ準備で忙しそうにしている。
はて、去年も似たような光景を見たような気がすると思ったが、年中行事なんだから当然か。
似たようなと言えば、先月のバレンタインもチョコレートが飛び交って学園中がチョコレート一色に変わってたな。
ここは女子学校だから、バレンタインのチョコを送る相手は大抵同性になるんだけど、その同性相手でさえ妙に気合を入れて作る子も居るのがビックリだった。
俺は無難に、友達やチームの皆に買った普通のチョコを送って、相手からも貰ってワイワイ食べ比べしてそれでおしまいだ。
今年は見知らぬ下級生からチョコを貰う事も多かったけど、ああいうのはトップレースを走るアスリートへの激励だと思って受け取ってる。言ってみればアイドルに毎年チョコを送る子と変わらない。
チームの先輩達も色々貰った経験があるけど、既製品はともかく手作りは食べないように言われた。下手な作りの物を食べて腹痛になる事もあるし、過去に変な薬物入りの贈り物を食べてレースから追放処分を受けかけた事例もあったらしい。まだ日本のトレセン学園内なら数例だが、海外は有力な相手選手への妨害工作として常套手段だとか。
優勝賞金とグッズのパテント料が億を超える興行に関わると、そういう考えに至る者も一定数居るんだろう。
レースに勝った途端に親戚を名乗って近づいたり、寄付を求める輩が増える事もある。大金が絡むと人間性がモロに出て嫌だ嫌だ。
そんなレースの影の部分を教えられると、純粋に好意を伝えるためにチョコレートを渡そうとする行為は、見ていて落ち着く。
ウマ娘が異性の担当トレーナーに手作りチョコを渡すのがそこそこ見られる。何年も苦楽を共にして側に居続けてくれる頼りになる年上の男となると、恋愛感情を抱いても不思議じゃないんだろう。
男トレーナーの結婚相手の何割かは担当したウマ娘という統計が実際にある。大体はウマ娘側から迫られて、押し切られる形になるらしい。トレーナーから見たらただの教え子でも、俺達ウマ娘から見たら色々と違うのかも。
うちの髭はまだ結婚してないし、去年実家にお邪魔した時も浮いた話が無かったみたいだから、もしかしたらチームの誰かとなんて考えてしまう。
特になー、カフェさんが何かそれっぽいんだよ。この前のバレンタインの時も買ったチョコじゃなくて、本格的なチョコレートケーキで、髭に食べてもらって美味しいと言ったら、めっちゃくちゃ尻尾振ってて喜んでたし。『お友だち』も色々動いてるから、もしかしてと思ってしまう。
髭の方は全然気づいてないみたいだけどな。良くも悪くも俺達の事は学生で教え子にしか思ってないんだろ。カフェさんが来年高等部を卒業したら、どうなるか分からないけどな。
そのカフェさんは最近正式に引退表明して、これからは普通の学生をしつつ、高等部卒業後は調理師免許を取って、コーヒーショップか喫茶店を始めたいと聞いている。その上でチームにはまだ在籍して、マネージャーとして色々トレーニングを手伝うと言ってた。もうその時点でどんな目論見があるかは大体見当がついた。オンさんやフクキタさんも何となく察してる。
本当にそうなったら力の限り応援と祝福しよう。
甘ったるい話はそこそこに切り上げよう。何しろ今日は俺がクラシック期に入ってから最初のレースだ。
三月初週の今日のレースは中山で行われるG2弥生賞の芝2000メートル。芙蓉ステークスやホープフルステークスと同じ場所と条件で走る慣れたレースだ。
付き添いにはトレーナーと、バクシさんにクイーンちゃん。他はレースを控えてトレーニング中。
中山レース場に行くと、俺のポスターがあちこち貼ってあった。
「≪ブラックプリンス≫に≪つぼみ桜≫ねえ。URAも色々宣伝が上手い」
「アパオシャさんは同年代の女の子に凄い人気がありますから。王子扱いも納得しますわ」
髭トレーナーとクイーンちゃんがポスターを見て、それぞれ感想を述べる。≪ブラックプリンス≫は俺に付けられた宣伝用の二つ名だ。黒はそのまま髪と尻尾の色。王子は普段から男みたいな髪の短さと振る舞いからだろう。勝負服も男用だからな。
そして≪つぼみ桜≫は今日一緒に並走するクラチヨさんのことだ。G3は一度勝ってもナリタブライアンに二度負けてるから、開花前のサクラというわけだ。それでも戦績に比べて評価が高いのは、最優秀ジュニアを獲得したナリタブライアンの強さ故だ。相手が違えば、結果も違う。結構な数の人がそう思ってる。今日の弥生賞のポスターでも、G1ウマ娘の俺に次いだ人気なのはそういう理由だ。
実際俺から見てもクラチヨさんはかなり強くて、G1を勝てるだけの実力はある。でも俺ほど強くはない。だから今日のレースだって負けるつもりは無かった。
一緒に来たバクシさんはチームメイトの俺と、親戚のクラチヨさんのどっちを応援すべきか多少迷ったようだが、最終的に俺の方を優先したみたいだ。
昼前に着いたから、先に昼食にレース場グルメを堪能する。ここのキーマカレーは美味しくて良い。
適度に腹を満たしてから、皆と別れて控室に行き、いつも通りトレーニングルームで汗をかく。
「こんにちはアパオシャさん。今日は私が勝ちます」
「やあ、クラチヨさん。桜の開花にはまだ早いよ」
隣にクラチヨさんが座って一緒にエアロバイクをこぐ。
しばらく一緒に運動してクラチヨさんのデータを思い返す。
確かこの人は俺と同じように『差し』で最後に強い末脚で先頭を取る走りだった。あと、周りのペースに流されず、我慢強くチャンスを待つ粘り強いレースをする。親戚のバクシさんも車の中で同じことを言ってて、頑固なぐらい我を通すレースをするらしい。
ルームメイトのダンも、普段の練習は派手な事をせずとにかく基本に忠実に、何度も同じ練習を続けて一つ一つ改善点を探して良くしていく、スタンダードな選手だと評していた。
逆にナリタブライアンみたいな凄まじい強みは持たない。俺も過去のレースを見て、安定した良い選手でも爆発力には欠ける子だと思った。
それでも油断していい相手じゃないがな。
一時間ほどウォーミングアップして控室に戻り、レースの準備をする。
スタッフが呼びに来て、ゼッケンを渡す。今日は2番か。
バドックの裏側でウマ娘が集まると、皆が視線を向ける。大抵は俺への対抗心混じりの目で、他に委縮した目もある。同期のG1ウマ娘ならそういうのものか。―――トレーナーの言った通りだ。
表に出て観客達への顔見せが終わり、地下通路を通ってターフに出る。
冬の寒風から少し暖かくなり、芝もよく乾いている。これなら良さそうだ。
足の感覚を慣らしてゲートに入る。
左右から感じる視線の重みが邪魔だな。でも、それもすぐ無くなる。
一斉にスタートを切ったら、俺はハナを取って一気に加速する。後続の舌打ちがかすかに聞こえた。
そのまま、坂道に入ってもペースを落とさない。
今日の俺は全員からマークされてるのに気付いてたから、髭の言う通り『逃げ』を選んで先頭に立つ。
「先頭走ったらマークも何も関係無いよな」
先頭のままコーナーに突入。後ろからペースを上げてくる子の足音が聞こえるが、遅い遅い。バクシさん並のペースでないと先頭は奪い返せないぞ。
コーナーが終わり、長い下り坂のストレートに入る。内側から一人抜けて俺に並ぶ。『逃げ』なら多少ペースを崩してでも『差し』の俺から先頭を奪い返したいか。
包囲さえされなければ、それでもいいさ。二番手に落ちても構わずペースを保って再度コーナーへ入る。
俺と先頭以外の距離は5バ身ぐらい。意外と離れていないな。俺がハイペースを作ってるから全体的に早いのか。
一番後ろにクラチヨさんが居る。彼女は自分のペースを貫いているからあの位置か。
最終コーナーが終わり、後は直線と急な登り坂のみ。後ろの連中もどんどん加速して俺との距離を縮めていく。
坂道に入った時には、俺と三番手の距離は一バ身差だったが、後ろの足音がどんどん遠くなっていく。前を走っていた子も坂で失速して後退した。
俺がスタミナの暴力でハイペースに付き合わせたから、前の子と先団はもう坂を登る力が殆ど残ってなかったみたいだな。
後はペースを崩さず後方で耐え続けた『差し』と『追込み』連中がどんどん追いかけて来るが、仕掛けるのがちょっと遅いぞ。
最初に坂を登り切って、後はラスト100メートル。
すぐに後続が坂を上がってきたけど、残ったスタミナを注ぎ込んだ『差し』の末脚で容易に追いつかせない。
ジリジリと足音は大きくなり差は縮まる。それでも最後の最後まで抜かせる事無く逃げ切ってゴール板を通り過ぎ、スタンドからの声援を最初に受けた。
「よっし!いくぜ皐月賞!」
拳を天に突き上げた。
掲示板を見たら、二着の数字はクラチヨさんだった。俺が居なかったら勝てたんだろうが、そういう事もある。
その後はいつものようにライブに出て、最後のレースを見てから、帰り際に待ってた記者には皐月賞への意気込みを語り、学園に帰った。
数日後、ネットニュースで小さくクラチヨさんが桜花賞への出走を決めた記事を見た。
勝てそうなレースに出て勝つ。それも一つの選択だろう。でも、桜花賞はビジンが出るから楽には勝てないぞ。