今日の授業が終わった。クラスメート達は退屈な授業から解放されてノビノビとしている。幾ら学生にとって学業は必須でも、ここにいる生徒は全員が速く走る事を求めてトレセンの門を通ったのだから、やはり走っている方が性に合う。
彼女達は幾つかのグループに分けられる。
二割は既にトレーナーと契約して専属指導を受けて、二割は自分からトレーナーを探して売り込み活動をしている。五割は友達やクラスメートと集まって、地道な自主トレに励んで毎月の選抜レースに備えていた。
さらにもう一割は脱落組と呼ばれている。最初は自らの夢のためにトレセンの門をくぐったものの、全国から集まる猛者たちの強さに心をへし折られて、競う事を放棄した脱落者達だった。彼女達は早々に退学届けを提出して学園を去り、レベルが落ちる地方トレセンに移籍したり、地元に戻って普通の学生として青春を味わう事が多い。中にはトレセン学園にあるサポート科やデザイン科、芸能科などに籍を移して、今後も学園内でウマ娘に関わって過ごす事もあった。
脱落したとはいえ彼女達を蔑むような事はしてはならない。そもそもアスリートとして大成出来るのはごく僅かなウマ娘だけ。レースを十名が走れば、必然的に一人の勝者が生まれて、残りの九人は全員が敗者になる。
デビュー戦以降、未勝利戦に出走しても一度も勝てずに学園を辞めていくウマ娘はかなりの数に上る。そして一度勝利しても、その後に小さなレースに勝てる者はさらに数を減らし、G3のような重賞レースを勝利できる選手はもっと少ないし、国内最高峰のレースのG1レース優勝者など、ピラミッドの頂点の石ほどの数しか一年に出ない。
勝利の栄光を掴めるのはほんの一握り。多くは栄誉を一度も手に入れられず、レースから遠のく人生を歩む羽目になる。それが嫌だからウマ娘達は必死に己を鍛える。
そして俺はというと、先ほど挙げた場合のどれとも異なり、校舎内をフラフラしていた。既にスカウトの話は来ていて、複数から選んで数日中に返答するから少し時間に余裕がある。その間に済ませておきたい件があった。
放課後で人気の無くなった校舎の一室の前で大きく息を吐く。
ここはかつて理科室として使われていたが、今はマンハッタンカフェさんが物置として使っている部屋になっている。昨日選抜レースが終わってから寮に戻ると、彼女にコーヒーを御馳走したいから放課後に呼ばれた。
緊張しながらドアをノックすると、ドアが開いてマンハッタンカフェさんではない、制服の上から白衣を纏った濁った眼をした年上のウマ娘が出迎えた。
「おや、どうしたんだい。私に何か用かな?」
「……あの、ここはマンハッタンカフェさんが使ってる部屋と聞いたんですが……というかアグネスタキオンさん?」
「そうだよ、私はアグネスタキオンさ。ここは私とカフェが共同で使っている部屋だから、間違ってはいないねぇ。それで見知らぬ君はカフェに用があるのかい?」
予想外の人が出てきて思考が纏まらずに、ただ頷いた。
アグネスタキオンさん。マンハッタンカフェさんと同期でかつチームメイト。皐月賞、天皇賞秋、大阪杯、宝塚記念のG1四冠を達成した中距離を専門にする超一流のウマ娘。それと詳しく知らないがウマ娘に関する技術特許を幾つも持っている才女らしい。
「ふぅむ。残念だけど、今日はまだカフェはここに来ていないね。私も今は実験の途中で立ち話をしている暇も無いから、中で待っているといい」
言われるままに部屋に入ると、中は何とも言い難い不思議な空間だった。
元は理科室なので、理科用の手洗い場とガス栓のある机があるのはいい。薬品や書籍が並んでいる棚も自然だ。蛍光色に発光するフラスコと様々な実験器具も、部屋の主の来歴を知っていれば納得はする。
ただし、拘束椅子に縛り付けられて、全身を七色に発光している顎髭を生やした成人男性の、ぐったりした姿を見て悲鳴が漏れた。
「ひぇっ!」
なにこれ。怖い。同居者も俺の前に立って、唸り威嚇している。普段はイライラする事もあるが、こういう時は頼もしい。
「安心したまえ、彼は私達のトレーナー兼モルモットくんさ。今は開発した新薬の被検体になってもらってるだけだから、何の心配もいらないよ」
「今の説明にどう安心しろと」
「クフフフフ♪……」
あからさまに悪の科学者のような笑い方で誤魔化された。一流のウマ娘は大なり小なり癖が強いと聞いた事はあるが、超一流のウマ娘になるとぶっ飛んでいないとダメなのか?
正直恐怖を感じても今更部屋から出て行けないので、出来るだけ発光トレーナーや実験器具を見ないように反対を向く。
すると目に付く部屋の反対側は何とも不思議な空間だった。マッドな科学者の部屋に似つかわしくない、壁には蝶や花を模した壁紙が貼られ、抽象的な夜空の絵画が飾られている。家具には品の良いソファとテーブルの他に、アンティーク調の照明スタンド、ガラスランプにコーヒーミルまで置いてある。
マッドの部屋に似つかわしくない、占いの館のように幻想的な雰囲気をしている。
「そうそう、そちら側は全てカフェの私物だから、むやみに触ると酷い目に遭うよ。私も勝手に弄ったら研究資料を焼かれて泣いた」
つまり座る事も出来ず、すぐそばで発光体を弄り回して、たまに笑い声をあげるマッドサイエンティストに耐えながら待っていないといけないのか。
やばい、泣きたくなってきた。せめてもの救いは味方がいることだけ。
しかし救いの主は意外と早く来てくれた。
「なぜ……タキオンさんとトレーナーさんが……ここにいるんですか?今日は……プールでトレーニングの予定と……聞いています」
「やあ、カフェ。さっき思いついた新薬をどうしても試してみたくなってねぇ。君こそ右も左も分からない新入生を部屋に連れ込んで、いったい何をするつもりだったのかな」
湯気の立つポットを持ったマンハッタンカフェさんは、俺とアグネスタキオンさんの間に立って視線を遮った。
そしてあのぼやけた人型がアグネスタキオンさんに近づいて、白衣の長い袖をグルグルと縛ってしまう。
「あぁ、やめたまえ『お友だち』くぅん。手が使えないと実験がこれ以上続けられないよ」
「……貴女が…妙な事を言うからです」
あの『お友だち』は俺の同居者と違って現実世界にも干渉するのか。
そしてマンハッタンカフェさんはアグネスタキオンさんの抗議を無視して、棚からコーヒー豆を取り出してミルで挽き始める。
丹念に挽いた豆にお湯を注いでドリップする。待っている間にマンハッタンカフェさんはアグネスタキオンさんの戒めを解いてあげた。
「トレーナーさんも起こしてください」
「はいはい、分かったよ」
自由になった彼女は白衣のポケットから注射器を取り出して、まだ光っているトレーナー?の首筋に差した。
すると光が徐々に消えて、トレーナー?が首を振って目を覚ました。
「………うぅ。今日のは一段と効いたな」
「今日も助かったよトレーナーくん。おかげで良いデータが採れたよ」
「タキオンがやる気になってくれたならそれでいいさ。カフェに………君は?」
「新入生のアパオシャです。マンハッタンカフェさんに誘われました」
「カフェが新入生を誘うのは初めてだな。…………もしかして『お友だち』の関係?」
「トレーナーさんも≪こいつ≫らが見えるんですか?」
地元には俺以外に誰も同居者の姿を認識出来なかったのに、ここには二人もいるのに驚きしかない。さすが東京人は笠松人とは一味違う。
と思っていたが、どうもトレーナーにはマンハッタンカフェさんの『お友だち』や俺のは見えていないらしい。でもそこに居る事は認めているような口調だ。
「カフェがそう言ってるから俺は信じてるんだよ。まあ、後はこの四年近く不思議な事には事欠かなったからな。見えなかったり世の中に認知されなくても存在するモノは確かにある」
「私も『お友だち』に散々な目にあってるからね。貴重な研究対象として認識しているのさ。ハッハッハッ、いずれは全てを解明して見せようとも!」
「……タキオンさんは自業自得です」
「科学者なのに、こんな見えもしない変なのを信じるんですね」
「アッハッハハハッ!そもそも私達ウマ娘とて君の言う所の『変なの』の一例にして深淵じゃないか。人から生まれた高性能な耳と尾を持つ亜種であり、華奢な体格に付いた筋肉量に見合わぬ圧倒的な身体能力!特に走力は動物の中でも上位に位置している。――――ワハハハハハッ!私はねぇ、新人君。科学者として私やウマ娘がどこまで早く走れるか、その限界と可能性を突き詰め、信じて、その上で知りたいのさ!!」
それこそ可能性などというものは最も不確か極まりない、『見えないモノ』だと言われては頷くしかない。
あと、濁ったギラギラした眼で近づかないで欲しい。純粋に恐い。
「……タキオンさん………煩いです。……アパオシャさん……コーヒーが出来ましたよ」
マンハッタンカフェさんの差し出した、陶器製のカップから立ち昇るコーヒーの香ばしい匂いのおかげで、イカれた空気が飛散した。
俺とマンハッタンカフェさんが壁側のソファに座り、アグネスタキオンさんは紅茶を二人分用意して、トレーナーとテーブルを挟んだ椅子に座った。コーヒー派と紅茶派で別れた形になる。
淹れてもらったコーヒーを啜る。G1ウマ娘二人に囲まれた状態で飲んでも、味はよく分からないがどこか落ち着く。
トレーナーが脱いであった背広の上着を羽織って、崩れたネクタイを戻した。こうして見ると意外と若い。まだ三十歳前に見える。この年でG1ウマ娘を指導しているのは驚く。
「それで、アパオシャさんだったね。確か昨日の第一回新入生選抜レースで3000メートルを勝ってる」
「は、はい。そこでマンハッタンカフェさんに声をかけられて、今日はお邪魔しました」
「……もし呼び辛かったら…カフェで良いですよ」
「私の事は好きに呼びたまえ」
「分かりました、カフェさん、オンさん」
「……ふふっ……オンさん……」
「カ~フェ~なぜそこで笑うんだい」
「まあまあ、好きに呼べと言ったのはタキオンだぞ。それで話を戻すけど、誰に指導を受けるか決まったのかい?」
「とりあえず二人まで絞りました。三日以内には返事をするつもりです」
「ほう、まだ決まっていないのなら、いっそ私達のチームに来たまえ。トレーナーくんもまだ一人ぐらい指導する余裕はあるだろぉ」
「えっ、いやまああると言えばあるが……気に入ったのか?」
「ハハハハハハッ!勿論だともっ!私としてもカフェに続く二件目のサンプルを逃す気は無いよ!」
おう、気に入られたぞ良かったな。俺は同居者の方を向いて、ニヤリと笑えば、あいつは明らかに嫌がってる。たまにはこんな扱いも良い薬になる。
「私も……アパオシャさんが良ければ……歓迎します」
クレイジーなオンさんはアレだが、カフェさんに言われると心がかなり傾く。
実際二人の所属するチーム≪フォーチュン≫は、シニア二年目のカフェさんとオンさんのG1複数制覇を筆頭に、菊花賞を勝利したシニア一年目のウマ娘が一人、さらにもう一人クラシックで重賞勝利を重ねる有力なウマ娘が在籍している。
現在のトレセン学園でも三指に入る実力派チームに入れば、より実力をつけられるだろう。
トレーナーが発光するモルモットなのは大きな心配の種だが、指導力はカフェさん達の実績で文句のつけようがない。
結論が出て、俺はモルモットの髭トレーナーに頭を下げた。
「分かりました。これから指導よろしくお願いします」
「「「ようこそ≪フォーチュン≫へ」」」
こうして俺は幸運の星、あるいは運命を冠したチーム≪フォーチュン≫所属のウマ娘になった。