イギリス・ウィンザーで迎えた朝は肌寒くて、薄い霧も出ている。
昨日は疲れて着替えもせずに寝ていたから服がヨレヨレだ。
とりあえず風呂に入ってスッキリするために、部屋の浴室に湯を張る。
待ってる間にストレッチをして体の具合を確かめる。
「―――――まあまあだな。時差ボケはどうだろう」
実際に走ってみないと分からないか。先に風呂に入ろう。
熱い風呂で目を覚まして着替えを済ませて、テレビをつける。
「分かってたけど全部英語か。ほんとここ日本じゃないな」
思えば遠くに来たものだ。
ちょっと走りに行きたいけど、トレセンスタッフから今日は迎えに行くまで大人しくしてと言われてるから、暫く部屋で大人しくしている。
そういえば時差が九時間あるから、まだ日本だと昼の三時か。メール送っても大丈夫だな。
一先ず、トレセン関係者と家族全員に、イギリスの夕食は予想より美味しかったと生存報告だけしておく。
数人から返事が返ってきた。
「―――無事について良かった、か」
あとイギリス飯が美味しいとか本当か?なんて疑問が返ってきた。まだ一食目だから、たまたまかも?
一通りニヤニヤにしてから、オンさんの部屋に行ってみる。
オンさんは起きてて、着替えを済ませたところだ。
「やあおはよう。その様子なら、よく眠れたようだね」
「はい、おかげさまで。オンさんも平気そうですね」
「まあね、じゃあ朝食を食べに行こうか。今日はさっそくレース場に行くから、しっかり食べておきたまえ」
一緒にホテルのレストランで、伝統的なイングリッシュ・ブレックファストを食べる。
焼きたてのパンと、カリカリに焼いたベーコンとマッシュルーム、目玉焼きが美味しい。ただ、米も合うメニューだから、ちょっと不満だ。
一応イギリス料理にもライスプティングがあるけど、あれは主食というよりデザート感覚だからな。試しに食事の最後に頼んで食べてみたけど、甘いお粥と思って食えばそこそこ食えるという程度だった。
「米が恋しくなりそうですよ」
「そういう時はインド料理店でカレーを頼むか、イタリアレストランでリゾットやピラフを食べたまえ」
その手があったか。日本のカレーも、元はインドを植民地にしていたイギリスがシチューをベースに考案した料理。ちょっと探せば見つかるはずだ。
数日ぐらいならパン食でも我慢できるから、それまでに探しておこう。
たっぷり食べて、部屋に戻って今日の準備をしておく。
朝の九時に予定通り、トレセンスタッフの森崎さんが車でアスコットレース場まで送ってくれた。
実際に見る海外のレース場は日本と全然違う印象だ。日本はどのレース場も最初から作った印象が強いけど、イギリスのレース場は、元からある広い草原にスタンドを作って利用している感じがとても強い。
「オンさん、パリのロンシャンレース場もこんな感じ?」
「うーん、そうだね。日本のレース場とはかなり趣が異なるよ。その上ここは日本とは全く異なる形状のコースだから、まずは慣れる事だ」
なら、まずはコースを上から見てみようか。
俺達は警備員に許可証を見せてレース場に入り、スタンドの上部からコースを俯瞰する。
「はー本当にコースが三角だな。日本と全然違う」
しかも一周が約2800メートルととても長い。スタンドから見て右手には、三角コースにくっつくように伸びたロングストレートがある。あれも俺の出るレースでは、最初に1200メートルのストレートを走る。
今まで日本で走ったコースとは全く異なる、異質な走りを要求される。これは慣れないとまともに走れまい。
でも、俺の同居者は我が物顔でコースを走り始めたぞ。まったく、勝手な奴だ。
「確認はしたね。じゃあ、次は着替えて実際に芝に触れてみようか」
オンさんに言われた通り、更衣室でトレーニングウェアに着替えて、一緒にコースに降りる。
一歩目で大きな違和感を感じた。芝が長い。よく刈られた日本の芝とかなり違う。ただ、何となく前にも触れた事があるように思った。
「札幌レース場とメジロの保養所の芝に少し似てる」
「あそこの芝はヨーロッパの芝に似せてあるという話だからね。でもあくまで似てるだけだから、結局は走って慣れるしかないよ」
その通りだ。まずは走って自分の身体に感覚を叩き込まないと。隅っこで十分に体操をして準備してから、軽く走り始める。
よく日本で言われる、沈み込んで絡み付くような芝というのはそこまで誇張じゃない。走るには結構パワーがいる。しかし、ここしばらく晴れで芝が軽いのもあるから、そこまで走りにくいとは思わない。
三十分ほど走ってある程度慣れたから、八割の速さで直線コースを過ぎて、三角コースへと入る。
走っている内に気付いた。勾配がかなりきつい。
第一コーナーを回った第二コーナーまでの間の直線は高低差20メートルの下り坂。コース奥の第二コーナーを回ってから、ゴールまでの1マイルの間は高低差が最大22.5メートルの登り坂なのをデータで知っていたが、実際に走ると常に坂道を走らされるレースだと思い知らされる。
勾配がきつい中山ですら4.2メートルなんだから当然だな。それでも日本にいる間は、ずっと坂道トレーニングを重点的にしてたから多少はマシだ。
まるっと一周してから一度オンさんの所に戻る。スポーツドリンクを受け取り息をつく。
「どうだった?」
「常に坂道を走らされるような気分ですね。ある意味俺向きのレース場です」
「だろうね。日本で最高の持久力のあるアパオシャくんなら、合う地形をしている」
二人でニヤリと笑う。坂道はスピードより持久力が要求される。パワーが必要な沈む芝はちょっと辛いが、それを補えるタフな坂路はスタミナモンスターの俺に向いてる。
それから休憩を挟んで、コースと芝に慣れるために三回ほど軽く走って体に馴染ませた。
既に他のレースに参加するウマ娘も集まっていて、休憩中に簡単な会話は出来た。
分かってるだけでも、地元イギリス以外に、アイルランド、フランス、イタリア、ドイツ、オーストラリア、ニュージーランド、アメリカ、カナダ、バーレーン、サウジアラビアなどなど。とにかく国際色豊かで、世界中から三百人以上のウマ娘が集まるオリンピックみたいな祭典だよ。
それと、面白い事が分かった。実際に走る俺よりオンさんの方がウマ娘の中で顔が知られている。
よくよく考えたら、オンさんはジャパンカップでワールドレコードを、一気に三秒縮める記録を叩き出したバケモノだ。
約2400メートルG1レースは、イギリスならキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス、フランスは凱旋門賞、アメリカではブリーダーズカップターフ、と世界に数多くある。引退したとはいえ、そのワールドレコーダーともなるとウマ娘の中ではかなり有名だ。
昼前の休憩中、俺とオンさんに近づくウェーブのかかった栗毛のロングヘアのウマ娘がいる。俺よりも結構年上の人だ。トレーニングウェアにイギリスの国旗があるからイギリスの人だけど、見た事ある顔だな。
『久しぶりだなアグネスタキオン。現役の内にまた会う事になるとは思わなかった』
『やあ、ストレイトヴァイス。凱旋門賞以来だねえ。今年もゴールドカップを走るのかい』
ストレイトヴァイス。道理で見た事のある顔だと思った。二年前までのイギリスの誇るスーパーステイヤーだ。
現在成績20勝。それも俺が走る予定のゴールドカップ三連覇、グッドウッドカップ四連覇、他重賞レース多数勝利の怪物である。長距離なら間違いなく日本のシンボリルドルフ会長を超える超大物ウマ娘。
さらにこの人は今年でシニア5年目で、昨年は負けてしまい連覇記録は途絶えたが、今回のゴールドカップの優勝候補だ。
『マンハッタンカフェの事は聞いている。引退とは寂しい限りだ』
確かこの人は二年前の凱旋門賞でカフェさんとレースをしていたな。順位は7着だったか。オンさんとはそこで知り合ったのか。
『君はさみしいだろうが、意外とカフェは今の生活を楽しんでいるよ。それに、今年はきっと寂しいとは感じない。―――アパオシャ』
『初めまして、アパオシャです。今年は俺がゴールドカップとグッドウッドカップを走ります』
『ほう、君がか。では、あの時のマンハッタンカフェと同じぐらい強い事を期待している』
『それは心配しなくてもいいよ。この子は私達が何年も鍛えたんだ。長距離ならカフェと同じか、それ以上に強い事を私が保証しよう』
『面白い。ならば私が後で世界を見せてやろう』
『後で?』
『もう昼だ。並走はランチの後でしよう』
意外と気安い人だな。でも、お堅い人よりは付き合いやすいかも。
ストレイトヴァイスさんに誘われて、彼女のトレーナー(五十歳過ぎのナイスミドル)とレース場のレストランで同席する。ここはレース関係者に無料開放されていて、食欲旺盛なウマ娘の胃袋に何人ものコックが真っ向から挑んでくれる。
基本はヨーロッパの料理だが、米料理も幾つか扱っていた。それにイギリス式カレーがあったから、付け合わせに米を選ぶ。他に白身魚のパイとニンジンたっぷりの野菜スープ、フルーツジュースもだ。
カレーの味はまろやかなチキンカレーかな。米は細長いインディカ種でも米には変わりがないし、何より美味しい。これなら毎日でも食べられる。
『イギリスの食事を気に入ってもらえたようだな』
『美味しい料理は好きですから』
美味い料理に国籍は関係無いよ。それにここの料理は東京トレセンの食堂並みにレベルが高い。
これだけ美味しい料理を無料で食べさせてくれるんだから、英国王室万歳と言わせてもらいたい。
腹が満たされたら、いよいよかつての絶対王者と並走だ。
今回は俺が初日でここの芝に慣れていない事もあって、軽めで済ませてもらうように頼んである。オンさんからも九割の力を超えるな、≪領域≫も絶対禁止を言い渡されている。オーケー、情報はなるべく隠せって事だな。
過去のレース映像を見たら、身体能力や走り方はある程度研究されてしまうけど、≪領域≫は実際に走った所を見られないと分からないらしい。ギリギリまで隠すに越したことはない。それと予想していたがストレイトヴァイスさんは≪領域≫に入れる人だ。
スタート地点は直線の中ほどから、コースも一周。つまりゴールドカップとシチュエーションは同じだ。
スタートの合図は向こうのトレーナーに頼んで、位置に着く。
――――――――レース一回分を走り終えて、ゴール地点で軽く息を吐いた。結果は二バ身さで俺の負け。初日で場に慣れるためだから、特に悔しいとも思わない。向こうも軽い調整程度に思ってるから本気は出していない。
でも、この人が強いのはよく分かった。カフェさんやシャル先輩とだって引けを取らない。これでシニア5年目なんだから、二年前はもっと強かったんだろう。その時に戦わずに良かったと言うべきか、惜しむべきか。
『さすが強いです』
『君もヨーロッパのレース場が初めてにしては速くて相当タフだよ。今度のレースが楽しみだ』
『あと二周ぐらい付き合ってくれますか?』
『はははっ!君は本当にタフだ。だが、初日でそこまでする必要は無い。また明日にしよう』
断られてしまった。でも確かに本番までは半月ある。並走は明日にして、後の時間は他の走者を研究するのに留めよう。
スタンドでオンさんと一緒に、今回のアスコットミーティングに参加するウマ娘の走るフォームなどを見て、取り入れられそうな技術は記録しておく。今回のレースには間に合わないが、来年にチームの誰かがここに来るかもしれない。出来るだけデータを持ち帰る価値はある。
ある程度データが集まったら、もう一度軽いランニングして芝に慣れて、シャワーを浴びた。
その後にストレイトヴァイスさんのお誘いで、オンさんと一緒に本場のアフタヌーンティーを体験した。
ルールは大体知っている。メジロ家でみんなで体験した経験が意外な所で役立った。
そして予想より堅苦しい物ではなく、同年代のウマ娘達のお喋りだからか、住む国は違ってもチームメイトやゴルシー達と駄弁るのとそんなに変わらない。
お茶会の参加者には、執事を連れているガチ貴族の出自のウマ娘なんかも当たり前のように居るけど、意外と堅苦しさが無い。何となくダンと喋ってるような感覚だ。
こういう時は極東の田舎者扱いしたり、家格を引き合いに出して笑いものにするのが普通じゃないのかな。
その辺りをかなり控えめな表現で聞いてみると、意外な答えが返ってきた。
『私達は生まれ育った国が違っても、同じレース場を走るウマ娘、いわば同朋です。ならば私達は対等ですよ』
『それにお二人は、どちらも日本のレースで多くの実績を残した尊敬すべきウマ娘ですわ。軽んずる理由は何もありません』
『というわけだ。ここでは最低限のマナーさえ守れば、後はレースの勝ち星が尊ばれる世界だよ』
イギリス長距離レースに未来永劫破れそうもない偉業を打ち立てた人が言うと説得力が違う。
俺もその方が合ってるから文句は全く無い。
こうして俺のイギリスでの練習初日は大きな収穫を得て終わった。