机に向かい、一枚の紙切れに黙々と字を書き続ける。それが正しいという保証はどこにも無く、ただ己の信じる真実と記して、時に疑い書き直す。
何度も何度も繰り返し、背中に受ける視線と刻まれる針の音に焦燥感を抱きつつ、最後までやり遂げた達成感を味わった。
それでも何か見落としが無いか疑い、何度も見比べて大きく息を吐いた。おそらくはこれで良い筈だ。確信が持てない己の不甲斐なさが恨めしい。
「はい、そこまでだよ。お疲れ様」
「あー。ようやく終わったー」
シャーペンを投げ出して、椅子に背中を預ける。解放感が一気に全身を駆け巡る。
何をしていたかと言ったら一学期の期末試験。東京のトレセンとほぼ同日の六月末に、ここグッドウッドトレセンの一室を借りて二日間かけて行った。
俺から答案用紙を回収したオンさんは、答案用紙を写真に撮って東京のトレセンに送った。後日答え合わせをしてデータを送ってくれる。
「これでようやくレース場でトレーニングが出来ますよ」
トレセンが学生の本分の勉学を大事にするのは分かるが、外国にいる時ぐらいは試験も免除してもらいたいものだ。
ゴールドカップの疲れを癒すための期間も兼ねているから、軽い運動ぐらいしか出来なかったのもあって、走りたい欲求が日に日に高まって辛かった。
「と言っても学習時間は一日に数時間は取るから、休日以外にずっとトレーニングは駄目だよ」
「分かってますって。明日からみんなでトレーニングするぞー!」
イギリスの学校は基本五月末に試験をして、七月下旬から夏休みに入る。それまではここの生徒と一緒にトレーニングが出来る。
そしてその夏休み初めは、ここのグッドウッドレース場で、俺の走るグッドウッドカップを始めとした重賞レースの祭典『グロリアス・グッドウッド』が五日間に渡って開かれる。一年で最も華やかな時期を共に過ごせるのは喜ばしい。
さて、腹も減ったから昼食を食べに行こう。相変わらずここの料理の味には不満しか無いけど、腹を満たさないと明日からトレーニングだって出来やしない。
翌日、昼からトレーニングウェアでレース場に顔を出した。天気は曇りで一雨来そうな気配を感じる。
ヨーロッパの雨を吸った芝は日本と段違いの悪路になるから、出来れば雨は降ってほしくない。
準備体操を入念にして、まずは軽く一走りしてみる。
ここの芝の触感は練習出来なくても、毎朝歩いてそこそこ掴んでいる。自然の山をそのまま利用したコースなだけあって、山道を走っているような気分がする。
「でも、日本のレース場より開放感があって悪くない」
北海道出身のフクキタさんは地元の草原を走っていたと聞いた事がある。多分こんな感じで走っていたんだろう。
コースの奥へ行き、例の8の字の上の部分のカーブを曲がり、内ラチから外ラチへと位置を変える。
日本やアスコットのレース場と違って、ここのコースは内ラチと外ラチが入れ替わる箇所が幾つかある。スイッチするタイミングを見極めて、時にはコースの中央を走る必要もあった。今までの常識が通じない特殊な位置取りは世界の広さを感じさせる。
過去の映像を参考に、自分なりの位置取りで走って、感覚を馴染ませて一周してきた。
ゴールで待っていたオンさんが感想を聞く。
「ゴールドカップ以上に仕掛ける場所が多いテクニカル……いやタクティカルなコースですよ。単純な速さだけじゃ、絶対に勝てない」
「それはそれは。君に合うコースだけど、馴染む時間があるかどうかだねえ。こちらでもデータを揃えて検証はするけど、クッフッフッフ楽しくなってきたよ」
オンさんが楽しそうで何よりだ。この人はウマ娘の速さの『可能性の果て』を証明したいから今もトレーナーとしてレースに関わっている。
その速さだけで勝てないと言われたら、学者として難題に挑まずにはいられない。
データ解析はこの人に任せよう。俺は少しでも走る回数を増やしてコースに馴染みたい。
『さて、お待たせ。みんな、練習に付き合ってもらって助かるよ。シングもメンバーを集めてくれてありがとう』
俺との並走に集まってくれた、二十人ほどのグッドウッドのトレセン生と、彼女達のトレーナーに礼を言う。
ここに来て最初に話しかけてきたダンシングナイトと既に打ち解けて友人になり、俺はシングと呼ぶようになった。
『私達こそ、ゴールドカップ勝者と一緒に走れるなんて光栄です』
この中に直接グッドウッドカップに出走した子は居ないものの、毎年行われるレースを見ていて、練習でなら何度か走った事もあって、多少は本番に近い練習が出来ると思う。
早速半数の十名が俺と一緒に、約3200メートルのグッドウッドカップ用のスタートラインに並ぶ。
スタート役のトレーナーが赤旗を振り下ろして並走トレーニングが始まった。
休憩を挟みながらの、都合四度の並走トレーニングで位置取りの基本は掴めてきた。
オンさんもスタンドからレースを俯瞰してデータを集めて、幾つかの改善案を示してくれる。それを取り入れて実際に走って確かめないと。
『みんな、休憩したらあと二回ぐらい一緒に走ってくれ。初日だから今日はそれでおしまい』
なぜかみんな俺の事をバケモノみたいな目で見てくる。今日はこれでも控え目なぐらいだぞ。慣れるの優先で『逃げ』も使ってないんだから。
でも、しょうがない所もあるか。ここのトレセンは重賞に勝った子がシング他数人いる程度で、現在はG1に出走経験のある子が居ない。世界トップレベルを今日初めて知ったようなものだ。
イギリスのトレセンは、日本のように中央トレセン一極集中と十ほどの地方トレセンではなく、各地にグッドウッドのような大きなトレセンが十数ヵ所、さらに日本の地方トレセンのような小さなトレセンが七十~八十は点在している。
ここも所属するウマ娘は百五十人ぐらいで、うちのトレセンが二千人在籍していると言ったら、滅茶苦茶驚かれた。
だからか各地のトレセンのレベルはある程度均一化されて、田舎でもG1ウマ娘がいるのは珍しい事じゃない。
イギリスは基本的に貴族が優雅な趣味としてトレセンを運営するから、貴族の分だけ存在すると言っていい。ここもリッチモンド公爵家が管理運営していて、初日に会ったメアリ=レノックス理事長も親族らしい。
それはいいんだが、どうもトレセン自体が伝統という名目から、レース以外は閉鎖的で外部との交流が疎かになっているようで、あの理事長はそれを問題視してるのか、徐々に伝統を時代に合わせて変えていくつもりと耳にした。俺を迎えたのも、遠い異国の王者を迎えて、トレセン全体に良い刺激を与える第一歩と思われる。
そうした諸々の面倒事や大人の思惑は、俺みたいな学生にはまだ関係無い。もしかしたら大学生や社会に出たら、色々考えないといけない立場になる可能性だってあるんだろうが、今はまだレースを走って勝つ事だけを目指していればいい。
というわけで、今はグッドウッドカップを勝つ事だけを考えて練習再開だ。
その夜、今まで試験中で連絡を絶っていたチームの皆やビジン達に久しぶりに連絡を入れた。
特に先日宝塚記念を走ったダン、ゴルシーとセンジには、お疲れメールを送っておいた。
レースはグラスワンダー先輩が勝利。ゴルシーは2着、ダンが4着、センジは7着と、それぞれシニアの厳しさを味わった。ビワハヤヒデさん、シャル先輩にエルコンドルパサー先輩も出てたのに、纏めて一刀両断とは恐ろしい。あの人も≪領域≫に入れる人なんだろうか。その割に昨年の有マ記念の時には見えなかったのが不思議だ。
ただし、その代償は大きく、グラスワンダー先輩はレース後に左足の骨折が発覚して入院した。クラシック期の右足骨折と合わせて、怪我に泣かされる先輩だよ。
それから三週間、ひたすら並走トレーニングと模擬レースを続けて、十分にレース場に慣れる事が出来た。
グッドウッドの生徒達も、俺とのトレーニングは大きな経験になったようで、かなり実力を付ける事が出来た。
来週のグロリアス・グッドウッドはG3、G2も多く行われて、ここの子も何人か出走する。レースを前に大きく実力を高める事が出来たのは喜ばしい。
ただ、長期間にわたる単調な食事に嫌気が差して醤油を使い始めたら、周囲が興味を持たので醤油と蜂蜜で作った照り焼きチキンを食わせたら、案の定ここでも餓鬼ウマ娘が発生して、もっと寄越せと言われた。
しょうがないから持ち込んだ醤油を全部放出して全校生徒と理事長初め、職員にも振舞った。おかげで美味いと言って食ってくれたけど、醤油が全部無くなった。決して『しょうがない』と『醤油が無い』をかけたわけじゃないぞ。
そして祭典が終わったら、みんなでパーティーを開く事も約束して、いよいよ今年の祭りが始まる。
ゲームのシステム的に言うと、アパオシャの現在のスタミナ値は1300ぐらいあります。控えめに言ってバケモノですがまだ伸びる余地が残ってます。
一方でスピード、パワー、根性はシニアの上層なだけで常識的な数値です。