二ヵ月に渡る初の海外渡英戦も、いよいよ今日で最後になった。
今日から始まる五日間のグロリアス・グッドウッド。普段は閑散としたグッドウッドレース場は、先月のアスコットミーティングに匹敵する華やかさを見せていた。
この日もヨーロッパ各地から着飾った紳士淑女の皆様がやって来て、華やかな社交界を始めている。
ここのトレセンの子もこの時だけは、いつもの閉鎖的な環境から解放されて、思いっきり楽しもうと朝から盛り上がっていた。
俺は初日からグッドウッドカップを走るから、開催式に出た後はウォーミングアップをして静かに出番を待っている。
今回は前以上にきついレースになるのが予想される。
「よりによって前日に雨なのがなあ」
部屋の隅でダルそうにしている同居者が『ご愁傷様』と人事みたいに冷たく言う。
昨日は朝から雨が降っていて、会場設営の業者も四苦八苦して作業していた。予報では一応今日の明け方には雨も上がると出ていたから、開催式自体は予定通り行えたが、レースには大きく影響が出る。
「重バ場で走るのかよ」
窓からレース場を眺めて溜息が出る。
日本の重バ場ならここまで気にしたりはしない。水をたっぷり吸ったヨーロッパの芝の酷さは、この二ヵ月で存分に味わった。
何で今まで数いる日本の名ウマ娘がヨーロッパで勝てないのか、身に染みて分かった。アレは断じて芝ではない。まるでレース場に『ワカメ』を敷き詰めて走らされたような感触だった。
前回のゴールドカップは天候に恵まれて勝てたが、今回はその揺り戻しが来てしまったのかな。
おまけに今回は前のような初挑戦の新人ではなく、俺は王者として徹底してマークを受けるだろう。
「しかもストレイトヴァイスさんと、キュプロクスも出るとか」
地の利が得られず、相手も油断をしてくれない。おまけに≪領域≫に入れる強敵二人相手に勝ちをもぎ取る困難さに、昨日からオンさんと頭を突き合わせて悩み続けた。
それでもどうにか勝ち筋を見つけて勝ちに行く。負けていいと思って走るなんて御免こうむる。
やるだけやってやるよ。覚悟を決めて、勝負服に着替えた。
時間になり、パドック裏へ足を運ぶ。既に出走者の半分はいる。
『やあ、アパオシャ。また一緒に走れるね』
『また会えて嬉しいよ、エンプレスオブノウズ。でも今日も俺が勝つ』
一月前にゴールドカップを共に走った褐色肌の友人と握手する。そして勝利宣言により、他数名からムッとされた。特に前に対戦したプリンセスゾーンは、目に見えて不機嫌になっている。
それから少し友人と話していると、残りの走者もやって来た。
ストレイトヴァイスさんは声はかけなかったが俺達に笑顔を向ける。キュプロクスは一切こちらを見ずに、張り詰めた闘志を滾らせているのが分かる。
今日のメインイベントのお披露目の時間だ。
今日は俺が九人の中で1番最初に紳士淑女の皆様の目に晒される。
前と違ってそれなりに人気者になったみたいで、スタンドからは声援とブーイングの両極端の声が聞こえる。
強い者が好まれる一方で、自国の栄誉を奪っていく遠方の客人は好ましくないか。でも外野が何を言った所で俺は勝つだけだ。
コースに出て足で芝の具合を確かめる。
朝から多少晴れて水気が抜けているように感じるけど、それでも日本の芝とは比べ物にならないぐらい重く、ただ歩くだけでも絡み付く。
いまさらどうにもならんから、割り切ってプラン通りいこう。
楽団のファンファーレを合図に、九人がスタートゲートに入る。
同居者は濡れた芝を踏みたくないから、今日は走る気が無い。邪魔者が居ないからそっちの方が俺には都合がいい。
――――――――ゲートが開いたと同時にハナを奪取!そのままカーブする左側のラチに寄せて、他の走者を抜かせない。
この時点で半分の連中の目論見を潰せた。
オンさんは言っていた。ヨーロッパのお偉いさんにとって、新参者の日本人の俺を二度と勝たせたくない。だからルールにさえ違反しなければ、どんなレースだってやる。ヨーロッパでよくある、チームメンバーを勝たせるために、露骨に妨害する役を担うラビットを使うはずだと。
仮にそうした意図が無かった場合でも、マークを受けると無駄にスタミナを消耗させられるのは、今日のような重バ場ではマイナスになる。
よって、初手で『逃げ』を選び、俺がレースを作るのが今日のプランだ。予定通り先頭に立ち、このままペースを作っていく。
しかし絡み付く芝で思うようにスピードが出ない。いつもよりピッチの回転を早めて、加速力を生んで何とか先頭を維持する。これはスタミナ食いのバ場だな。
500メートル付近で徐々にコース中央へと移動するが、隣に居座る奴が露骨にブロックをかけて、身体をぶつけて来た。
こいつはエネミーワンとかいう名だったな。体格に劣る俺は少しよろめいて先頭を奪われた。
――――良いだろう、そういう事ならこちらも全力でお相手しよう。
≪領域≫へと入り、赤い砂塵で周囲の走者を纏めて縛り上げて、恐怖で大人しくさせる。その間にゆったりとポジションを修正して、再度先頭を走る。
800メートル付近で一旦≪領域≫を引っ込めて、そのまま1000メートル付近までに右側のラチに移動する。
そこから8の字の直角カーブに突入して、緩やかなまま曲がり切って直線コースへと入った。
何度も練習しているが凄まじい疲労で息が上がる。ただでさえ右に左に常にポジションを変えながら、起伏の激しい重い芝のコースを走らされて、他の走者から徹底したマークを受ける。
ストレイトヴァイスさんは、こんな悪条件のレースをクラシックから四連覇してきたのか。俺なんかより遥かにバケモノだよ。
そのバケモノ達を引き連れて、ようやくレースも中間点を過ぎた。
この時点でスタミナ残量は六割を切っている。いつもより消費が激しい。だが、まだまだいける。
今度は左側のラチへと体を寄せて後続を抜かせない。ここでなりふり構わない数人が外から俺を抜いて、無理に前に来た。おまけで真横にピッタリと着いてラチと挟むようにポジションを保っている。さすがに体をぶつけて、ラチに激突させるつもりはないみたいだが、意地でも俺を抑え込むつもりか。
そのまま8の字の右下部へと突入。他の連中が次々右ラチへと位置を変えていくのに、俺と妨害役三人は取り残されつつある。
ここまで露骨に妨害を受けると、この三人の方がかわいそうになってくる。多分彼女達もトレーナーより上の誰かから言われて、不本意なままやらされている。誰だって自分のレースを走って勝ちたいのに、外野から無理矢理憎まれ役を押し付けられた。
けど、情けをかける理由は無いぞ。
二度目の≪領域≫突入で、俺を囲む檻に綻びが生まれる。前を塞いだ一人が恐怖で右に寄れた。隙を逃さず加速して檻から脱して、かなりの大回りをしながら先団の後ろに付いて圧力をかけていく。
カーブが終わり、残りは日本の常識から外れた最終直線1000メートル。ゴールまで≪領域≫はおそらく持つだろう。さあストレイトヴァイスさん、キュプロクス。勝負と行こうじゃないか。
先を走る五人の背に牙を突き立てんとジリジリと迫り続ける。相手にとってはなまじ抜いてくれないだけ救いが無い。いつまでも己を刺し貫こうと背に触れた毒刃の感触が消えないに等しい。
砂塵に絡め取られて、五人の動きが徐々に鈍り始める。だが俺は決して前に出ない。少しでも長く地獄の渇きを味わってもらおうか。
――――とはいかなかった。予想よりかなり早くストレイトヴァイスさん、キュプロクスが≪領域≫に入った。
赤い砂塵、ロックミュージック、舞い散る花びらの、三者三様の≪領域≫による熾烈な争いは余人を弾き飛ばし、資格を持たない三人は恐怖に怯えたまま脇へと追いやられた。
残り500メートルで俺達三人は荒れの少ないコースの左側へと流れ、横並びで走り続ける。後はもう気力と根性がモノを言う。
2ハロン棒を通過した。―――――くそっ……息がしづらい。頭痛で吐き気がする。だがこのまま負けられるか。
1ハロン棒を超えて、僅かに俺が前に出た。ジリジリと二人との差を広げる。そうだ、俺はまだいける。
残り50メートルで背後から、今まで以上の圧力を感じた。寒気すら覚える殺気混じりの威圧感と共に、黒いドレスの女が俺達を捩じ伏せにかかった。
「…キュプロクスぅ」
重い芝を物ともしない末脚で加速したキュプロクスが俺を突き放した。
ふざけるなよ。このまま負けるなんて断固拒否する。
さらにピッチを上げて加速に入った瞬間、≪領域≫が遠のいた。
「えっ………」
意図しない≪領域≫の解除で、足から力が抜けていく。鉄のアンクルでも付けられたみたいに足が重い。
おい、待て。俺はまだやれるんだぞ。ストレイトヴァイスさんも俺を置いていくんじゃない。動けよ俺の脚。まだやれるだろ。
―――――――ここまでなんて、そりゃ無いぜ。
ふらつく脚のままゴール板を駆け抜けた。
呆然と先にゴールした二人を見る。
キュプロクスがスタンドに向けて手を振っている。ストレイトヴァイスさんは俺に近づき、手を差し出す。
『お互い負けたな。最後のレースだが、不思議と負けた悲しみは感じない』
悔しさを感じさせないスッキリとした笑みが眩しい。俺は負けてもそんな顔にはなれないぞ。
『私は今日で引退するが、君はまだ走るか?』
『…はい。走ってもう一度キュプロクスに勝つ』
手を握り、固く次の勝利を誓う。
そして今日の勝利者が俺達の傍に来た。
『これでようやく一勝一敗です。アパオシャさん、また私と走りますか?』
『もっと強くなって走るよ』
キュプロクスは勝者の誇らしい笑顔で握手を求め、俺もそれに応じた。
三着の俺はどうにかバックダンサーを免れて、その日のライブのメインを彩った。
初日のスケジュールが終わり、夜にオンさんの診察を受けて、当面トレーニング禁止を言い渡された。
「ふくらはぎと膝関節が少し熱を持っているからね。しばらく私の薬を飲んで大人しくしていたまえ」
「生まれて初めて足が痛くなりましたよ」
「あれだけの重い芝を力任せに走って、この程度で済んだんだ。私みたいなガラスの脚のウマ娘にとっては、羨ましいかぎりだよ」
熱取りの薬を塗って包帯を巻いて、七色に光る怪しい薬を飲めと言われた。物凄い抵抗感を感じだが、意を決して飲み干した。
味は悪いけど、髭みたいに虹色発光はしなかったから一安心だよ。
「結局二戦して一勝、入着一回か。なかなか上手くいかないです」
「私はアパオシャくんが怪我もせず日本に帰れただけで安心している」
「色々心配をかけてしまいました」
「なに、トレーナーとしての仕事をしたまでだよ。さあ、今日はもう休みたまえ」
処置が終わり、自室に戻ってベッドに入った。
ここに居るのもあと数日か。飯は不味いがそれなりに良い所だったな。でも、帰るまでは客用の美味い飯が食えるから、それまでは目一杯楽しむか。
レースが終わって肩の荷が下りたのか、意外とすっきりして眠る事が出来た。
翌日からはこちらが祭りを楽しむ側になって、グッドウッドトレセンの子達が走るレースを観戦したり、アスコットミーティングに来ていた子の何人かと再会して、会場で提供している美味しい料理を体重を気にせず食べ歩いて、短いイギリスの夏を楽しんだ。
時に記者が俺にインタビューを申込み、まともそうな記者達だから相手をした。質問内容はゴールドカップを勝った事と、グッドウッドカップの敗北に対する感想を聞く。あるいは勝因と敗因だった。
率直に勝った事は嬉しい、負ければ悔しいとだけ答えた。
勝因は俺がヨーロッパでは無名で、データが乏しかった事が大きかったと答える。敗因は沢山あるが、一番は自身のパワー不足と告げた。
記者の中には暗に、レース中の囲い込みが原因ではないかと尋ねられた。
『確かに数人からマークされてブロックを受けたのは事実です。ですがゴールドカップで勝ったから、警戒はされているとレース前から分かっていた。分かっていても防げなかったのは俺が弱かったからだ。むしろ彼女達が余計な人間のせいで自分の勝利を邪魔された事は、とても不幸で残念だ』
ウマ娘なら自分の勝ちを捨てて誰かを勝たせるなんてふざけた真似を心からしようなんて思うかよ。チーム戦ならチームメイトを勝たせる為と納得するが、個人競技で無粋な真似を強要するなっての。
そう答えたら、一人の女記者が意外だと顔に書いて踏み込んできた。
『失礼ですがアパオシャさんは、イギリスの伝統や栄誉を意に介さない人物と伺っていました。さらに粗暴で他者を気遣わないとも』
『貴女の言う通り国の伝統と栄誉に興味無いです。ウマ娘は自分の意志でレースを走り、勝つ事が喜びだ。その自由な意思を侵す行為に怒っているだけです。ウマ娘のレースは走るウマ娘のものだ』
『――――大変興味深い話をありがとうございます。では仮に、その数名が自らのレースを走り切った場合は、グッドウッドカップの勝者も変わっていたと?』
『いいえ、勝者はキュプロクスだったと思う。彼女の強さはストレイトヴァイスさん以上だった。雨を吸った重い芝で、パワーに劣る俺では勝率は20~30%だった』
『レースに≪if≫は持ち込んではいけませんが、もし数日晴れが続いていたら?』
『コイントスみたいなレースになってました』
俺かキュプロクス、どちらが勝つか全く分からなかっただろう。
記者達はインタビューに満足して引き上げていった。
それから気を取り直して、祭りのグルメとレースを楽しんだ。
空いた時間で荷造りを済ませて、まだ残っていた味噌や七味唐辛子をどうするか悩んだ後に、味噌、砂糖、七味、ニンニク、ワインを混ぜて、豚肉のピリ辛焦がしみそ焼きにして食べてもらった。評判は上々で、将来はグッドウッドトレセンの名物になるかも?
そして五日間のグロリアス・グッドウッドは例年通り終わり、翌日は見慣れた閑静なトレセンに戻っていた。
俺達三人も一ヵ月世話になったトレセンの人達に礼を言ってお別れした。その際にトレセン生から山のようにイギリス土産を持たされて、荷造りをし直したのも土産話の一つだろう。
空港で搭乗手続きを済ませて待っていると、何人もの記者に囲まれた。
『アパオシャさん、初めてのイギリスレースはいかがでしたか?』
『みんな強かったです。またイギリスに来て走りたいです。沢山友人も出来ました』
『来年のゴールドカップは走りますか?』
『キュプロクスとまた走る約束をしてますから、多分行きます』
記者達はさらに矢継ぎ早に、イギリスの思い出やレースの事を質問してくる。まともな質問には答え、そうでない物は無言で突っぱねた。
そうしているうちにフライト時間になって、飛行機に乗り込んだ。
森崎さんはビジネス席、俺とオンさんがファーストクラスの席で静かに離陸を待つ。
「――――イギリスは楽しかったかい?」
「ええ、日本では出来ない経験を沢山しました」
レースだけじゃない。食べ物、住む場所、国の違う友人達。どれもここでしか味わえない未知の体験だった。
負けたのは今でも悔しい。でも、また走って勝てばいい。この国での経験は絶対に無駄にならない。
「また来るから、じゃあなイギリス」
それから何事もなく飛行機は飛び立ち、俺達は無事に東京へと戻って来た。