十一月の最終日曜日の朝。そろそろ朝が寒くて布団から出たくないが頑張って起きる。
カーテンを開けて外を見る。昨日降り続けた雨も何とか上がり、僅かな雲の隙間から朝日が差し込んでいる。
これなら東京レース場も満員御礼か。せっかく世界中から走りに来てくれたんだから、盛り上がる中で走って欲しい。
「さて、今日は勝てるかなー」
今日も余裕のレースとはいかない。準備をし過ぎて困る事は無い。
午後二時。学園でウォーミングアップを済ませて、隣の東京レース場へ歩いて向かう。
今日は近いのもあってチーム全員が応援に来てくれた。
「私は負けてしまいましたが、アパオシャさんは頑張ってくださいっ!」
「はい、バクシさん。きっと勝ちます!」
先週引退したバクシさんの激励が心に響く。最後の引退レースと定めたマイルチャンピオンシップ。残念ながらバクシさんは三着に終わった。せめて最後にマイルG1を勝ちたかったが願いは叶わなかった。勝負の世界は厳しいのは分かっていても、割り切るのはなかなか難しい。それでも勝者にケチを付けるなんてことは絶対にしない。
そして勝ったのが、しばらく勝ちに恵まれてなかったエルコンドルパサー先輩。これでフランスの凱旋門賞で負けて以来のスランプから見事に脱したわけだ。
二着はハッピーミーク。今年は六戦してまだ一度も勝てていない。断っておくがG1を五戦して、全て三着以内には入っているから成績自体は非常に良い。ただ、常にあと一歩が足りないから、どうしても勝てない。他人事ながら惜しいと思う。
まあ、よその事はよそが解決すればいい。それよりうちのチームの事だ。
「ガンちゃんもレース終わったばかりで、すぐに帰ってきてくれてありがとう」
ガンちゃんは昨日阪神レース場で京都ジュニアステークスを勝って、ジャパンカップの応援に間に合わせるために昼には戻って来た。嬉しいねえ。
「ふっふーん。マヤちんはワクワクするレースがあれば、どこでも飛んで駆け付けるよ!」
胸を張る後輩の頭を撫でる。相変わらず可愛いよ。
そのままみんなとレース場に行けば、さっそくファン達に囲まれシャッター音の嵐に見舞われる。
彼等の声援と視線の中を通って、チームの皆と別れて選手控室に行き、勝負服に着替えて出番を待つ。
時間になり、パドックへ向かう。
パドック裏で待つウマ娘の半分以上は外国出身者で、勝負服も国際色に富んでいる。
その中に紫の燕尾服を着たモーニングスターも居る。俺を見て、無言で手を胸の前に置いて一礼した。レース前に言葉は要らないか。
それから16人がそれぞれの順番で客に顔を見せた。もっとも声援が大きいのは昨年覇者のシャル先輩。当然、今日は一番人気を誇る。
俺も五番目に姿を見せて、大きな声援を貰った。
地下通路を通ってコースに出る。芝を確認して無意識に顔が渋くなった。
「コースが酷い…」
明け方まで降っていた雨を吸って芝がまだ重い。それに昨日からのレース続きで、コースの芝が剥げて凸凹だ。内ラチ側は特にひどい。
内側は避けた方が却ってロスが減るか。
同居者は濡れた芝を嫌って今日は見物か。邪魔な奴が一人減って清々したよ。
今日のレースプランを即興で考えていると、ナリタブライアンが傍に来た。
「身体はもういいのか?」
「ああ、アンタに勝てるぐらいには回復した」
言うねえ。でも、病み上がりでレース勘が鈍ってるかもしれないぞ。
でも、それは走った五分後には結果が出るか。
ファンファーレが鳴り響き、それぞれのタイミングで走者がスタートゲートに入る。
今回は無駄に遅滞戦法はせずに、早めに5番ゲートに入った。
―――――ゲートが開き、すかさずスタートダッシュを決めて前へと急ぎ、200メートル地点で先頭に立つ。コースの内側を走らず、やや中央に寄せたラインを維持する。
二バ身後ろにはモーニングスターとビジンが張り付いている。
そのままハナを取り続けて、最初のコーナーに入った。
コーナーの曲面を利用して後ろを見ると、思った通り他の走者も内側を避けて大回りで走っている。
ナリタブライアンは六番前後で、ゴルシーは大体真ん中。ウオッカちゃんとシャル先輩は後団で様子見。
しばらくは俺がレースを作っていいわけか。
それじゃ、ちょっとペースを上げよう。
少しずつ加速を初めて、第二コーナーが終わった頃には全体に伸び切ったレースになっている。二番手とは差が開いて四バ身ぐらいある。
長い直線に入ってから、気持ち速度を落として追いつかせてから、再度加速をする。こうなると後続はペースが正しいのか疑いが生じる。特に外国のウマ娘は日本の芝に慣れておらず、芝の重さもあって自分の感覚を信じきれない。
中間点の1200メートルを過ぎた。そろそろ本気を出して行こうか。レースの高揚感が魂を震わせ≪領域≫へと入る。
体の感覚が広まり、後ろを走るビジンとモーニングスターが息を呑む仕草すら、我が身のように感じられる。
そのまま第三コーナーへと突入。後ろは俺との距離を一定に維持したまま近寄ってこない。分かってるよ、俺の背中が怖くて仕方ないんだろ。
悪いなビジン。友達でもレースで舐めた真似はしたくないんだ。
と思ったら、モーニングスターとナリタブライアンは徐々に差を縮めてくる。そうか、アンタ達は恐れを知っても前に向かっていけるか。
良いだろう。なら気の済むまでとことん走ろう!
唇を噛み切って血を流しながら恐怖を誤魔化して、端整な顔を歪めつつも、なお俺に食い下がる二人を引き連れて走る、走る、走る。
そうだ!もっと喰らい付いてこい!せっかくの国際G1だ、このままで終わったりしないでくれよ。
最後の第四コーナーに入った。その時、後ろからガンガン追い込みをかけて俺達に近づく影が一つ増えた。
金糸の美しい髪に泥を付けてでも、お構いなしに大荒れの内側から最短を抜いてゴルシーが俺の隣に並んだ。
しかしその顔は恐怖を感じていない。赤い砂塵も彼女の体には纏わり付かない。
――――ああ、そういうことか。横に離れ過ぎていて、プレッシャーを受ける範囲の外なのか。≪領域≫の意外な盲点だったよ。去年の日本ダービーをそっくりやられたようなものか。
俺は脚が突出して速いというわけはない。しかも常に大回りで走り続けているから、ゴールドシップ先輩仕込みの、常人より長い脚を活かしたゴルシーの走りの方が断然早く走れる。
けど、あの悪路を走るのか。芝が剥げてぬかるんだ泥道を全力で、しかも滞空時間の長いその走法は、一歩間違ったら着地時に滑って転倒する危険を孕んでいる。俺なら可能な限り避ける手段だぞ。それを躊躇無く実行するんだから大した奴だよ。
それでも最短距離を走るメリットは殊の外大きく、俺を抜いて先頭を取った。
最終コーナーを抜けて、あとは最後の直線500メートルを残すのみ。
ゴルシーはコース内側から、やや外寄りに寄せてきた。だがもはや最終直線を残すのみで、≪領域≫のプレッシャーの影響を受けようが関係無い。距離が短すぎてスピード出せない俺では、このまま逃げ切られる。
ふざけるなよ。負けてたまるか。
脚のピッチ回転を上げて無理矢理スピードを上げる。だが、それでもゴルシーとの差は縮まらないし、大外からナリタブライアンが黒い影を纏って追従する。
残り200メートル。ここで左耳がさらに嫌な音を拾う。水を吸った泥がベチャベチャ撥ねる音と共に、二種類の足音が増えた。
今度はアンタらかよ、シャル先輩、ウオッカちゃん。内ラチギリギリから強烈な末脚を利かせて、グングン順位を上げていく。
まるでゴールドシップさんの皐月賞と同じだ。≪スピカ≫はどいつもこいつも頭のネジ二~三本抜けてるだろ。
先頭のゴルシーを筆頭に、俺、シャル先輩、ウオッカちゃん、ナリタブライアン、モーニングスターが一団となって最終直線を駆け続ける。
残り100メートルでもゴルシーとの差は半バ身開いたままだ。それどころか光を伴ったシャルさんが僅かに俺の前に出た。
くっそ、どれだけ脚を動かしてもこれ以上速度が出ない。
一歩走るごとに猶予が失われていく。まだだ、まだ俺は走れるんだぞ。
けど、無情にもゴール板が迫り、俺は友達の背中を見ながらレースに負けた。
泥だらけになっても美しさは微塵も損なわれない。勝利者だけが纏う気高い美がそこにある。勝者となったゴルシーに、十万を超える観客は惜しみの無い拍手と声援を送り続け、彼女もそれに応えた。
掲示板を見れば、シャルさんが二着で俺が三着。ウオッカちゃんが四着、五着がモーニングスターか。
ナリタブライアンが着外とはな。療養で調整不足だったのか。
「まったく、今日は≪スピカ≫にやられたよ」
「やっとアパオシャに勝てたっしょ!!アタシ凄い!」
しかもこんな大舞台で勝つなんてな。
考えてみれば俺が≪フォーチュン≫に育てられたように、ゴルシーやシャル先輩も≪スピカ≫に育てられたんだ。弱い筈が無い。
『日本のウマ娘はみんな強い。こんなレースを続けていたら、君が強くなるのも分かる』
『お疲れ。日本のレースも良いだろ?』
モーニングスターが泥の付いた顔を袖で拭う。負けて悔しいと描いてあるが、同じぐらい満ち足りた顔をしている。
『そうだな。また鍛えて来年走りに来よう』
そして俺に手を差し出したから、握り返した。
レースが終われば、あとはウイニングライブだ。多少泥が付いたままでも、勝利の武勲として栄える。
ライブが終わって、着替えてから学園に帰った。部室で俺の残念パーティーを開いてもらい、そこそこ楽しんだ。
悔しいと聞かれたら悔しいが、こういう時もある。というか今日は負けるべくして負けたレースだったと思うから、納得もしているし、ゴルシー達を褒めた方が正しい。
よし、切り替えていこう。来月の有マ記念を勝てばいい。どうせナリタブライアンだって走るんだ。今度はしっかり調整してくるだろうし、こちらも万全の状態で迎え撃とう。