昔からプールトレーニングは、走るほどではないがまあまあ好きだ。冷たい水が泳いでいる間に、段々と温かいと感じるようになる感覚が良い。
他のウマ娘と違って頭と尻尾に毛が殆ど生えていないから、泳いだ後の手入れも楽。
ホテル内にあるプールは縦に25メートル、日本トレセンの半分の長さしかない。しかし清掃のある深夜以外ならいつでも使えるから利便性はいい。
ガラスから入り込む日差しがプール一杯に張られた水に反射して淡い影を作り、バシャバシャと泳げば容易く形を変えた。
ウマ娘の筋力をもってすれば、泳ぎの素人でさえ容易く世界記録に届いてしまう。
あくまで常人の娯楽用に作った設備だから仕方がないけど、ちょっと窮屈さを感じる。
今も大して速く泳いでいるつもりが無いのに、端から端まであっという間に泳ぎ切って、すぐさまターンをしないとぶつかってしまう。
だからか巻き添えになったら堪らないから、俺が泳いでいる間はここの宿泊客がプールを使うのを避けているように思える。あるいは護衛のウマ娘がプールの入り口にいて無言で圧力をかけているから入ってこられないのかな。
でもホテルもそういうのを盛り込み済で、招待客を泊まらせているんだから、こちらが気にする事はあるまい。イギリス王室の要請を断れるだけの胆力がこのホテルのオーナーに無いと言えばそれまでだが。
アスコットミーティングが始まってから、脚に負担をかけないように毎日プールでトレーニングをしている。朝の自主練は敷地内の散歩か、ここの水泳とトレーナーから言われている。
こと頑強さにおいて、並のウマ娘を遥かに凌駕するこの身なら、レース前日も通常トレーニングで問題無いと思われるがトレーナーの指示なら従うほか無い。そしてあの髭が間違った事を言った事は一度も無い。
いつも髭と言って敬語を使った事は無い。気恥ずかしさがあるから頻繁に言わないけど尊敬してるし信頼もしている。
たぶん両親や笠松の小松先生と同じぐらいの信頼だと思う。
はたと気付いた。肉親を除いて異性にそこまでの信頼を寄せたのは、あの髭が初めてだったな。
カフェさんとはいつ頃結婚するのかなー。今通ってる調理師専門学校を卒業したら成人するし、来年ぐらいかな?
結婚式には勿論俺は出る。レースがあっても出走取消してもいいから優先して出てやる。実家に帰ったフクキタさんには、教え子一同の代表でスピーチをしてもらいたい。オンさんは同僚代表のスピーチかな。ブーケトスは誰が受け取るんだろう。ガンちゃん辺りがいの一番に掴もうとしそうだ。催し物はたっぷり用意しよう。
「なんか色々楽しくなってきたぞ」
「泳ぐのがか?」
上を見上げれば同じトレセン指定の水着を着たナリタブライアンが見下ろしていた。
勝負服の時に分かっていたが、こうしてじっくり見ると背は俺とあまり変わらないのに、肉の付き方が全然違うな。この肉が高いパワーを生む源泉になるのか。
しかしこいつには姉さんのビワハヤヒデさんみたいな色気を全く感じない。同じ姉妹なのに不思議なものだ。
ふむ、ナリタブライアンにウェディングドレスを着せたら、どういう反応をするのか見てみたいな。恥ずかしがるのか、こんなもの着れるかと怒るか。
アスコットミーティングの前日祭には、ちゃんとフォーマルドレスを着て参加していた。最初から最後までブチブチ文句言ってたけど、本心から嫌がってたら仮病でも使って不参加決め込んでたはずだから、あれで内心は楽しんでた可能性だってある。
実は子供の頃の将来の夢がお嫁さんになる事だったかもしれない。
「なあなあ、ナリタブライアン」
「どうした、変な声出して?」
「ウェディングドレス着てくれないか」
「はっ?」
「だからウェディングドレス。一流の職人が丹精込めて縫った肌触りの良いシルクのやつ」
「……………トレーナー、こいつ医者に見せた方が良いかもしれないぞ」
「レース前のストレスでおかしくなったのかしら。こういう時はどの医科か判断に困るわ」
「半分ぐらい冗談が混じってるから真に受けないでください。今じゃなくて、将来のことを考えてただけです」
一旦プールから上がって、デッキチェアの上に置いてあったタオルで頭を拭く。
ナリタブライアンが一泳ぎしている間、水分補給をして座って体を休める。
その間、隣の東条トレーナーと軽く話をする。
「―――ふーん、それでウェディングドレスを着ろ、なんておかしな事を言ったの」
「そうなんですよ。今からカフェさんのウェディングドレス姿が楽しみで楽しみで」
東条トレーナーが俺をアホのように見る。我ながらジョークのセンスは無いと思うから、その視線は分からんでもない。
大事なレースの前に緊張してないか、ナリタブライアンを試したのもあるだけどな。
あいつは今日、アスコットミーティング二日目のメインレース、プリンスオブウェールズステークスを走る。
でもあの様子だと初の海外レースだろうと緊張してない。むしろ楽しみで仕方がないから、トレーナーがよく見てストップをかけてやらないと、オーバーペースになりかねない動きをしている。
「アパオシャは着たいと思った事は無いの?」
「俺ですか?無いですね。と――――んんっ!ウマ娘の勝負服の中にはドレスもあるから、ナリタブライアンが今年の年度代表ウマ娘に選ばれそうなら、新しい勝負服をドレスにするようにURAに意見送ってみよう」
危ない危ない。東条トレーナーも着てみたら、なんて言ったら俺は明日の朝日を拝めなくなってた。
そして俺一人じゃ意見は通らないだろうから、日本全国に『ナリタブライアンにウェディングドレスを着せる会』を発足して、署名活動してみようかな。
「仮にその意見が採用された所で、あの子が素直にドレスを着ると思う?」
「あれで勝負服もスカート履いてるから、俺よりは脈あり?」
「日本のウマ娘が凱旋門賞に勝つぐらいの確率ね」
「意外と高いって事ですか」
カフェさんの時は三着、エルコンドルパサー先輩は惜しいけど二着。なら、今度は一着を取れるかもしれない。俺は走らないけど。
「あなたってインタビューだと割と悲観的なコメントが多い印象だけど、空港の時といい意外と楽観的にものを考えるのね」
「謙虚って言ってください。大言吐きよりはファンに好まれると髭の教えです。最近は八冠になったから、多少意識して振る舞いを変えてますけど」
かつて、オンさんが現役時代に色々炎上発言をしたのもあって、うちのチームは出来るだけ控えめな発言をするように、髭から指導を受けている。
でもオンさん本人はあんまり効果が無かったようだし、カフェさんはともかくフクキタさんとバクシさんは独特過ぎた。
まともに機能するようになったのは俺とダンの世代からだ。
――――さて、休憩も済んだ。朝食前にもう一泳ぎしよう。
昼過ぎにはナリタブライアンはレース場に向かった。
俺と髭トレーナーはそのままホテルに残ってトレーニングをしたり、部屋で明日のゴールドカップのデータのおさらいをしている。
出走するライバルの過去のレースを見て、自分がどういうラインの走りをすればいいか予測を立てる。
「そろそろナリタブライアンのレースだな。テレビで見るか?」
「同じレースを走る相手がいないのに見る必要は無いよ。チームの仲間でもないんだし。それに、結果の分かるレースなら明日以降に見ればいい」
髭がニヤニヤして見てくる。ウゼえつーか気持ち悪いぞ。
「なんだよ気持ちの悪い笑い方して」
「お前がナリタブライアンの事を常に意識してるのは知ってるが、そこまで評価してるんだと思ってな」
「あいつは中距離なら世界最高クラスだよ。そして半月のトレーニングでこの国の芝にも慣れた。だったら負ける要素なんて無い」
そんな無駄な時間の使い方をするより、今は明日のレースに力を注げや。
「むしろ俺の方が他人を心配する余裕なんて無い。相手はヨーロッパ最強ステイヤーのキュプロクスだぞ。分かってんのかトレーナーよぉ」
「根を詰めすぎるのも効率が悪いから、休憩を勧めただけだ。お前のレースの難しさは忘れてないぞ」
――――なら、いい。
その日の夜。ナリタブライアンと東条トレーナーがホテルに戻って来た。
結果なんて二人の顔を見れば分かり切っている。
ライバルはまず栄冠の一つを掴み取った。なら、俺もライバルに恥じないよう走るだけだ。