日本には昔から『マ子にも衣裳』という、ことわざがある。
ウマ娘の子供のように可愛らしい子に美しい衣装を着せれば完璧という意味だ。
つまりウマ娘ではない常人に使われる言葉である。
ではウマ娘に美しい衣装を着せた場合はどうなるのか。
個人的には『天衣無縫』と評したい。何も手を加える事の無い、完全無欠と言ってよい。
実際そうした評価が相応しいウマ娘は世の中に居る。
身近な人物で挙げるなら、友人のゴルシーだろう。容姿の端正さは平均の高いウマ娘の中でも、突出して優れている。
彼女の先輩だったゴールドシップ先輩も、普段のヘンテコな帽子を外してエキセントリックな行動を控えれば、トップクラスの美女と言って差し支えない。
うちのカフェさんも系統は違えど同性も見惚れる美女だろう。バクシさんも黙っていれば美人。
では目の前の人物はどうだろうか。
黒い長袖のフォーマルドレスに身を包み、仏頂面で腕を組んで車の外を眺めている。
普段髪をポニーに縛っている荒縄はドレスに合わせて付けず、髪をストレートに降ろしている。代わりに会場では、つばの広い白い帽子をかぶる。
凛々しさが際立ち、初対面の相手に女優と紹介したらあっさり信じるぐらいには、今のナリタブライアンは堂に入っていた。
「なんだ?」
「今日もドレスがよく似合ってると思って」
「こんなもの、出来ればもう着たくないんだぞ。前夜祭だって美味い肉が食べられるから我慢したんだ」
「そうは言うけど、表彰式でトロフィーを貰うまでがレースよ。我慢しなさいブライアン」
隣に座る東条トレーナーに窘められて、ナリタブライアンはバツが悪そうに横を向いてしまう。青のスカートタイプのフォーマルスーツは、出来る女の東条トレーナーによく似合う。
俺の隣の髭も淡い灰色のモーニングコートを着て、トレードマークの顎髭も綺麗に整えてある。シルクハットも用意済み。ただし、スーツほど着慣れていないのかあまり似合わない。紳士には見えず、言って悪いがコメディアンの類だと思う。
送迎用の車の中でフォーマルな服装をしていないのは、今日レースを走る俺だけだ。レースの日までドレスなんて着ていられるかっての。おかげでナリタブライアンは、車に乗る前に俺を羨ましいと言っていた。動きやすいジャージ万歳。
ホテルからレース場はあっという間だ。車から降りる時は、護衛の人がわざわざ赤絨毯をビローンと広げてくれる。
絨毯の上をナリタブライアンと共に歩けば、周囲のギャラリー達が砂糖に群がるアリのように寄って来るので、護衛と会場警備員が押し留めた。
その隙に会場に入り、俺と髭は選手控室に、後の二人は受賞会場に別れた。
控室に荷物だけ置いて、先に昼食にする。レースまで、まだ五時間はある。
腹にある程度詰めてから、どんよりとした重い雲が出てきたレース会場をちょっと散策。
たまに警備の人がこちらを見るけど、顔と許可証に気付いて特に何も言ってこない。
本当は会場の服飾規定でドレスやスーツでないと締め出されるエリアなんだが、当日レースを走るウマ娘だけは見逃してもらえる。
そういうわけで一番ドレスコードのがっちりしたロイヤル・エンクロージャーの区画でも、ジャージ姿でフラフラしていられた。
当然目立つから、たまにこちらの様子を窺うイギリス貴族や他国の招待客が居る。
その中には先日、味噌煮込みうどんを美味そうに食べてたファインモーションちゃんが両親やよく似た年上のウマ娘と一緒にレースを観戦している。
さすが王族ファミリーだけあってロイヤルオーラが増幅されて、眩しさすら覚える光景だ。
向こうも俺に気付いたから、手だけ振っておいた。
レースを見て出番の二時間前になったら、合流した髭とトレーニングルームに行き、ウォーミングアップを始める。
異国の友人達に挨拶した後は、黙々とエアロバイクで体を温める。
「――――雨か」
途中、優れたウマ娘の耳が地面を打ち付ける雨音を拾う。朝の予報で夕方までは持つと言っていたけど、もたなかったか。
イギリスの六月は雨が少ないと聞いている。どうやら今年の神様は俺の味方になってくれないらしい。
「お前にとっては厄介だな」
「今更文句を言っても仕方ないよ。条件はみんな同じだ」
それでも勝ちにいくのは変わらない。
身体が十分に温まったら、控室に戻って汗を拭いて勝負服に袖を通す。
去年はオンさんと一緒で、勝負服も中東風の物だったのを思い出す。
和服に似た改造巫女装束を着ての海外レースは初めてになる。この服を使い始めてから、自分は日本のウマ娘なんだって意識は少し強くなった。
服というのは帰属意識を強くするのに適しているんだろう。トレセン学園に限らず、世の中の学校が制服を定めるのも、識別と同時に帰属意識を持たせるためか。
その辺り、移籍が容易に行われるヨーロッパやオーストラリアと日本は違う。どちらが良いかは分からないけど、選択肢が多いのは良い事だと思った。
着替えを済ませて、ゼリーで水分と糖分補給を済ませると髭が来た。
「調子はどうだ?」
「万全だよ。明日は二つ目のイギリス製カップをトレーナーにも見せてやる」
髭がニカっと笑う。レースに臨むウマ娘を完璧な状態で送り出せたなら、トレーナーは笑顔しかない。例えそれが俺にとって不利な雨のレースでもだ。
その後は特に会話もせず、リラックスした状態を維持し続けた。
時間になり、スタッフに呼ばれてパドック裏へ行く。
雨粒の打ちつけるパドック裏にはまだ一人しか来ていない。去年も居た黒いシスター服のスパニッシュフェイスか。
そのすぐ後に三人ほど纏めて来た。昨年同様の黒いドレスのキュプロクスを先頭に、サンデーティー、ブルースマートのアイルランド出身のウマ娘達。
キュプロクスは俺を見て、ドレスの裾をつまんで挨拶をした。返礼に顎を下げる程度に軽く頭を下げた。
次に来たのはディアンドルを着たドイツのベテランウマ娘プリンセスゾーンか。勝負服は同郷のエイシンフラッシュちゃんに似てるけど、本人の印象は結構違うな。そして俺を見ると、少し顔が強張る。同じレースを走るのは三度目だから対抗意識を持ってるのか。ライバルと思われるならアスリートには誉だな。
さらに二人が姿を見せる。もう何度目かの対戦になるご当地ウマ娘のモーニングスターと、一緒にいる大柄な黒鹿毛の子。練習中に顔合わせした時はエースオブワイルドと名乗っていた。同郷の燕尾服の麗人とは対照的に、トランプのジョーカーのような派手な彩色の勝負服を着こなす。
最後の一人、アメリカ出身のフレイムウィナーも来た。
これで全員揃った。今年はこの九人で一つの黄金のカップを奪い合う。
お披露目が終わり、小雨の降るコースに出る。勝負服のモデルになった天照大御神の加護は得られなかった。
一歩芝を踏めば、水を吸った草に足が沈む。やはり去年に比べて雨水を吸った芝が重い。グッドウッドカップの時のワカメみたいな芝ほどじゃないが走りにくい。
同居者も毎度のように雨を嫌って、屋根のある場所で不満そうにこちらを見ている。今日はお前の不戦敗だ。
スタートまでの少しの時間に、モーニングスターが親し気に話しかけてくる。
『新しい服もなかなか似合っている』
『ありがとう。今年はこの服でセンターを飾るよ』
『ははっ!残念だけど、今年は私がセンターで歌わせてもらう。君はエースオブワイルドに続いて三番だ』
この程度は互いに挨拶と思って受け取り、握手を交わして清々しく背を向けた。
軍楽隊の荘厳なファンファーレが雨音と交じり合い、観客の高揚は一層高まりを見せる。
ゲートに走者が次々入り、俺も3番のゲートに入ってスタートに備えた。
扉が開いた瞬間、勢いよく飛び出した。周りにも遅れた奴は居ない。
何人かはスタートから速度を上げて先頭争いを始めている。
まずは後方を選び、周囲の状況を油断無く観察する。
先頭争いをしているモーニングスターを筆頭に三人、そのすぐ後ろに続く二人。俺の前に二人、後ろには離れてキュプロクスがいる。
さて、周囲は俺の事をどう見ているのか。直線距離のうちに、少し前へと出る。
すると並んだ相手は例外なくこちらを見て、顔を強張らせるか張り合おうとするだけで離れる事は無い。
常に意識しているが日本のように≪領域≫を恐れて距離を離す事は無いか。―――より前へ行こうとするモーニングスターと、後ろのキュプロクス以外は。
まあいい。バ場の悪い今回は、前半に動き過ぎてスタミナを余計に使いたくはない。後半になるまでは大人しくしておこう。
直線が終わりコースに入って第一コーナーまで、全体的に単調な展開が続く。互いの出方を窺う駆け引きは、ヨーロッパレースのセオリーだから気にするほどではない。
第一コーナーを過ぎてからコースは下り坂に突入した。
ここからレースが動き始める。先頭を走っていたモーニングスターが道化服を纏うエースオブワイルドと並んだ。二人は並んでコース内側を塞ぐ。それから下り坂でもペースが少し遅くなった。
なるほど、同郷同士で組んでレースをコントロールするつもりか。イギリスはこれ以上外国に勝利の栄誉を渡したくないか。
スローペースになって、イラついたアメリカのフレイムウィナーが無理に外側から抜いてハナを獲る。それに続いてブルースマートも壁を外から抜いて二番手に躍り出た。
他は無理に抜こうとはせず、一度出来たペースに合わせて走り続けた。
雨を吸って少し重くなった衣装と、脚に絡み付いた濡れ芝を力任せに引き千切って走り続けるのはいつもより疲れる。
スタミナモンスターの俺でさえ苦労しているんだから、既に第二コーナーを経てレースの半分を過ぎた現状では、多くの走者が疲労を感じ始めている。
さらにここから先はゴールまで1マイルの登坂が続く。
だが、この苦難を超えなければ、至高の金の杯を掴み取れないと知れ。
雨に濡れた肉が研ぎ澄まされ、神経が鋭敏化した。頭はドライアイスのように冷え切り、魂は灼熱のマグマの如く熱く昂った。
≪領域≫へ入り、赤い砂塵がターフを覆い隠して荒れ野へと作り替えた。獲物を狙う蛇のように砂塵が周囲の走者の身体に絡み付いて離れる事は無い。
背中に目が張り付き、後ろのキュプロクスが息を呑む仕草と共に、さらにペースを落として距離を取る様がよく見える。
さあ、挑戦者達。王者を倒せるなら倒してみろ。
すぐ前を走るサンデーティーとスパニッシュフェイスは、背に張り付いた恐怖と喉を焼く痛みを感じながらペースを上げた。それ以外に逃げる道はレースを放棄するしかない。でもそれはウマ娘として絶対に選べないのは分かっている。
登坂を必死で駆け上がる前二人に触発されて、先団もペースが上がりつつある。
長い直線の過酷な登坂が続き、徐々に先団の足並みが乱れ始める。
スローペースに我慢出来ず無理に先頭に立った、フレイムウィナーとブルースマートが最初に脱落して後ろに追いやられる。
さらに最終コーナー直前で、俺に直接追い立てられたサンデーティーとスパニッシュフェイスも顔を下げて沈んでいく。
現在前を走っているのは、先頭で肩を並べて走る地元イギリスの二人組、その後ろに古豪のプリンセスゾーン。
最終コーナーに入り、プリンセスゾーンは加速してイギリス勢二人と並ぶ。
おそらくは俺への壁か。示し合わせたわけじゃないだろう。それでも勝つための最善手をその場で選べる判断は流石だ。
残りは最終直線500メートル。前は三人の壁、後ろには動きを見せない強敵が一人。グズグズしていたら負ける。
すぐさまエースオブワイルドの真後ろに付く。蹴り上げられる泥の混じった芝が顔に付いても無視だ。
壁の三人の中でエースオブワイルドは最も経験浅く、俺のプレッシャーに耐えられない。それを見逃すほど間抜けでも甘くもない。
残り350メートルで読み通り、前の道化が横にふらついた。その隙を逃さず、生まれた隙間に身体をするりと捻じ込んで、壁をすり抜けて先頭に立った。
後は残るスタミナを使い切るつもりで、一気に脚のピッチ回転を上げて加速する。
急加速した俺を見て、余力の残っていない壁三人が絶望する。だがそれでも勝ちを諦めずに必死で追い縋ろうと走り続ける。
だから俺も絶対に手加減せずに差を広げ続けた。
残り100メートルで、背後に何かが擦れるような奇妙な音が耳に入る。その上、背中に刃物を押し当てられたような冷たい殺意に襲われた。
あぁ、来たか。黒いドレスを内ラチに擦らせて、狼の如き栗毛のウマ娘が花びらをまき散らしながら肉薄する。
――――まだだ。まだ並ばせはしないぞキュプロクス。
既にゴール板は目の前にある。このまま俺が逃げ切って勝つ!
あと30メートル………15……10……並んだか。
5……3……0……。
揃ってゴール板を駆け抜けた異国のライバルと共に、少しずつ脚の力を抜いて同時に走るのを止めた。
どちらが勝ったかなんて掲示板を見なくても分かる。
『………俺の負けか』
『今日は雨が降っていなかったら、私が負けていました』
それも含めてのレースだ。
グッドウッドカップで負けてから、ヨーロッパの重バ場でも勝てるように、ここ一年は筋力トレーニングをメインに積み続けたがまだ足りなかった。
ギャラリーからキュプロクスを讃える大歓声が起きた。写真判定で勝ちが確定したんだろう。
『これで三度走って、俺の負けが多くなったか。次はグッドウッドカップか?』
『はい―――――と言いたいところですが、私は走れそうにありませんね』
キュプロクスが自身の足の指先に視線を落とした。足元には雨水に混じって血の赤が見える。それも両足から。
『幸運にも爪が何枚か割れています。出走登録していたグッドウッドカップには間に合わないでしょう』
『怪我をしても幸運?』
『雨が降って芝が緩くなっていなければ骨が折れていました。貴女と走って勝った上に、この程度で済めば幸運です』
『そうかい。ならグッドウッドカップは君の不戦敗で、俺とは二勝二敗。フランスのカドラン賞までに治ってたらまた走ろう』
彼女は勝者として誇らしげに笑みを見せて、挑戦者になった俺の差し出した手を握った。
レースを終えて控室に戻ると、髭が先に居てタオルを頭に被せて乱暴に拭く。
「惜しかったな」
「悔しいけど負けは負け。でもグッドウッドカップは随分勝ちやすくなった」
次のグッドウッドカップを勝てば、また勝率はイーブンに戻る。そこから次はフランスで勝てばそれで済む事だ。
反省会もいいけど先に濡れた服を脱いで乾かさないと寒いし、この後のライブにも使えない。
一旦髭を部屋から追い出してから着替えた。
三日目のレース工程が全て終わり、後は客のお待ちかねのライブが待っている。
ライブ会場のバックヤードには今日レースを終えた七十人ほどのウマ娘が出番を待っている。その中に新しい王者のキュプロクスの姿は無い。足の怪我を理由にライブを取り止めたのだろう。
そのため繰り上がって俺がセンターを務め、両脇を三着のモーニングスターと四着のエースオブワイルドが固める。地元イギリスのファンにとっては、少し嬉しいサプライズというわけだ。
ライブは盛り上がり、授賞式の後も残っていたナリタブライアン達と一緒にホテルに帰った。
その夜、部屋にナリタブライアンが訪ねて来た。しかもジュースの入った瓶を持ってだ。
珍しい行動に少し面食らったものの、追い返す事はせずに部屋に招いた。
グラスを二つ出して、ニンジンジュースが注がれるのを黙って見る。
「………アンタが負けた悔しさで腑抜けてないか見にきたが要らない心配だった」
「負けたのは悔しいよ。けど、次のレースがあるのにそんな無駄な時間を使ってる暇は無い」
注いだオレンジ色のジュースに口を付ける。あんまり美味しくない。レースに負けたからかな。
ナリタブライアンは一息でジュースを飲み干した。お代わりはしなかった。
「アンタの言った通り、日本以外にも強いウマ娘は沢山いる。次のレースも楽しみだ」
それだけ言ってナリタブライアンは帰った。
残っていた美味しくないジュースを飲み干して、部屋の隅でニヤついてる同居者をうざったく思った。
ふん、分かってるよ。わざわざ俺を元気付けに来てくれたって事だろ。傍から見たら俺はそんなに落ち込んでたのか。
「――――よしっ!もう負けないぞ!」
昼から降り続いた雨は、もう上がっていた。