引き戸を開け、実験室に入る。豆電球の放つオレンジ色の光が、真っ白な壁に色をつけていた。窓からはうっすらと月光が差し込む。そんな実験室の中心にぽつんと置かれた白いベッドの上で、水色の手術衣を着た少年が寝ていた。
起こさないように静かに歩み寄る。覗き込むと、その顔は憔悴した様子だったが、同時に美しいものだった。中性的で、綺麗な鼻を持つ小さな顔だ。吉田所長は、彼の背中が見えるようにするために、寝ている身体を持ち上げて動かした。
「日向君、少し失礼するよ」
そう言って所長は、彼が纏う手術衣を捲り上げ、彼の肌を俺に見せる。
「これは……」
そこにはいくつもの痣や傷、火傷痕があった。それは思わず息を呑んでしまうほど惨いものだった。
所長は優しく少年の背を撫でる。
「つらかっただろう」
俺は感心した。所長にも他者に同情する能力があったのか、と。
俺と所長が出会った日を思い返す。あの日、所長は、人生を諦め、飛び降りようとしていた俺に、『どうせ死ぬなら臓器をくれ』などと声をかけてきた。少なくともそれは自ら命を絶たんとしている者にかける言葉ではない。そんな人間がするとは考えられないほど、彼女は今、慈愛に満ちた優しい表情をしている。
「んん……」
少年が目を開いた。眠りから覚めたばかりの彼は、ぼんやりとこちらを見つめている。
「んっ!?」
やがてはっきりとした意識を取り戻した彼は、かなり驚いた様子で勢いよく背を起こす。何故彼が驚いているのか、俺は一瞬理解できなかったが、自分の横に立っている女の姿をふと見た瞬間、すぐにその理由がわかった。
そういえば所長は今上半身下着姿じゃないか!!
目のやり場に困っているようで、視線をあちらこちらへと逸らす少年の姿に、俺はいたたまれない気持ちになり、思わず所長の肩をぐいと掴み、その場に伏せさせた。
しまった、必要以上に身体が密着してしまっている。
「私に手を出すつもりか今村。たしかに今が食べごろかもしれないが」
「こんな所でおっぱじめるわけないでしょうが」
「フッ、冗談だ。だが、仮に本当に襲われた時はしっかり通報してやるから安心しろ」
「警察が来たとして真っ先にお縄になるのはマッドサイエンティストのアンタですよ……」
俺は自分の白衣を脱ぎ、所長がそれを着るように促した。所長は、仕方ないと言うような顔をして、白衣に腕を通す。そして白衣を着終わると立ち上がった。
「さて日向君、キミには三日間ここで過ごしてもらったが、心変わりはないかね」
「所長、三日も彼を軟禁していたんですか……」
「人聞きの悪いことを言うな」
所長は、少年に水分をとらせたり、少年の手首に指をあてて脈拍を測ったり、少年の体調を確かめたりしながら、彼が結論を出すのを待っていた。
やがて、少年は決意し、真剣な眼差しで口を開いた。
「ボクは、変わりたい。もう一度、人生をやり直したいです。吉田先生」
その言葉を聞いた所長は、少年に優しく微笑み、彼の頭を撫でた。
「私は、キミの意思を尊重しよう」
所長は、実験室の一角に佇む、大きな布で隠された何かから、布を取った。すると、そこには人間が一人入れるくらいの、緑の液体で満たされた巨大なビーカーのようなものが現れた。
「キミには、性転換薬を飲んだ後で、この私特製のメディカルウォーターに身を浸して眠ってもらう。次に目が覚めた頃には、キミの身体は女性のものへと変わっているというわけだ」
ごくり。と、少年が息を呑んだのが見えた。
「お願いします」
「ああ。任せておけ。……そういえば、キミは高校生だと言ったな」
「はい。けれど、入学して一か月、まだ一度も学校に通えていません」
「まあ、まだ誰にも姿を見せていない分、元から女だったと言い張れるのは好都合じゃないか」
少年は頷いた。しかし、まだ少し何か思い悩んでいるように見える。俯いて、目をぎゅっと閉じて、葛藤している。
「こんな身体でも、与えてくれたのはお母さんだから、本当に、勝手に変わってしまって良いんでしょうか。ボクは……」
所長が、少年の手をぎゅっと握る。
「キミの人生は、キミの親のモノではない。キミを産んだ者のためではなく、キミ自身のために人生を選べ。キミの母親は、
所長は、少年を抱き寄せ、背を撫でた。苦しみから解き放たれた少年は、これまで堪えてきた涙を、すべて吐き出すように流している。俺は、今の所長のことなら、少しは称賛してもいいかななんて、そう、思ってしまった。
そんなこんなで、性転換薬を飲んだ少年は今、所長特製の怪しい水に、どっぷりと身を浸らせて眠っている。酸素マスクを繋がれたその顔は、とても安らかであった。
「所長、本当に良かったんですか? この毒毒しい色の液体をつくるのに、莫大な資金を投与してたじゃないですか」
「構わない。それに、新しい研究材料も手に入ったからな」
はぁ……。
その言葉を聞いて、俺は呆れた。
「彼のこと、研究材料扱いするんですか……」
所長は、ふっと鼻で笑った。いつもの、相手を下に見ているかのような笑いだ。
「洞察力が乏しいな、今村。日向君のことではないよ」
俺は、こんな人間に少しでも感心してしまったことを悔いた。だが別に、所長が何のことを言っているのかについては、俺にとってはどうでもいいことなので、これ以上聞かないことにした。
「勝手にしてください」
「言われなくても、だ」
所長は、自信に満ち溢れた研究者の顔を見せる。
「それでは、私は次の実験に取り掛かるとしよう。今村、B型の血液を多めに用意しておいてくれ」
相変わらず、研究のことを考えているときは、子どもみたいに楽しそうにする人だ。
「はいはい、かしこまりましたよっと……」