――木星、第四衛星『カリスト』。
歴史上初めて次世代資源『メタトロン』が発見された地であり、同時に、高重力のため資源を汲み上げるのが困難だった木星本星のかわりとして開発された、現在の宇宙世紀を支える核融合技術の土台となるヘリウム3の採掘基地を備えた氷の衛星。
その端、『林檎の花』クラスの宇宙艦さえ係留できる港湾区を出てすぐの、採掘基地の末端部。
「わあ……!」
「そういえば、嬢ちゃんは街ってぇのは初めてだったな」
「はい、こんなに人がいっぱい……!」
この日、資源採掘関係者ばかりのこの町には珍しいことに、まだ幼い少女の声が響いていた。
ドーム型の壁に覆われた居住区内、労働者の宿舎が建ち並び、人々が行き交い、その腹を満たすための安食堂があちこちで煙を上げるその町の光景。
この日、買い出しの注文書を取引先に届けに来たビルに連れられて『林檎の花』から降りてきたアンジュは、初めてみる人が暮らす町に興味津々と言った様子でキョロキョロと見回していた。
「しかしまあ、ここいらも昔に比べたらすっかり綺麗になったもんだ。それに、作業員たちも」
「そうなんですか?」
「おうよ。昔の木星在住の作業員なんて、食い詰めて借金のカタに飛ばされてきただとか、政争や市場競争に負けて連れてこられたとか、なんなら無期限の強制労働で連れてこられた犯罪者とか、そんなんばっかりでよぉ」
当時を思い出すように、ビルが指折りその時の状況を語る。
「食う物は無え、給料はどっかでちょろまかされてて手元に届きやしねえ、物がねぇから盗みや強盗は日常茶飯事。仕事だけは寝る暇もないくらいある……そんな有様だったらしい」
「そんな…ひどい」
「まあもっとも、あの頃は木星全体が貧乏だったんだけどな。水も食糧も配給制でどうにかやりくりしてたのも、二度の戦争でパーになっちまった」
木星戦役。
神の雷計画。
大規模な戦争のために兵器を作るには、当然どこかに皺寄せがいく。木星帝国から木星共和国に名前が変わっても現実の暮らしがすぐに良くなった訳ではなく、疲弊し尽くしていた木星での暮らしには先が見えず、皆が暗澹たる思いを感じていた。
「――だが、テテニス様が木星に帰還後、父親であるドゥガチ総統の遺産を引き継いでユピテル財団を設立、木星の生活向上を推し進めてくれたおかげで、労働者の待遇はちったあマシになったし、食糧は安定供給されて配給制も無くなったってえわけよ」
他には、過去二度の戦争による風評被害から立ち消えかけていた、木星と他の星を繋ぐ艦船用ウーレンベック・カタパルトの誘致。
それに、このカリストで採掘されるメタトロンの、連邦政府から買い叩かれているような状態の正常化もそうだ。
そうしてユピテル財団が活動開始から既に十年以上……未だ貧しさと訣別できたわけではないが、それでも木星共和国はようやく安定した生活を手に入れる事ができた。
「へぇ……テテニス様、凄んですね」
「ああ、すげぇ。ただし、俺があの人をすげぇって思ってるのは政治力じゃねえし、むしろそっちはいつもカーティスの奴が言ってるとおり、向いてねぇんだろうよ」
「え、向いてないですか?」
「おうよ。なんせ超のつくお人好しさあ。誰も彼もが今を良くしたいと思ってるって信じ切ってるから、相手が悪意を持って接してきても気づけねぇのよ」
困ったもんだと肩をすくめながらも、ビルは話を続ける。
「だけど……あの人は、それでも木星に暮らす奴らのために今の立場に踏みとどまってる。それがすげぇのさ」
そう締めて……すぐに長々と語っていた事に気づいたビルが、興味津々の眼差しで見つめてくる少女に照れた様子で頭を掻きむしり、話を切り上げる。
「っと、柄でもねぇ事を語っちまったな……それよりも、せっかく居住地に降りてきたんだ。さっさと買い出しを済ませて、何か食いに行こうぜ」
「あ……はい!」
まだ少し照れたようにしながらふたたび歩き出すビルに、アンジュも慌てて小走りで着いて行こうとして……。
「……?」
しかし数歩も進まないうちに、不意にアンジュが立ち止まり、明後日の方をじっと見つめる。
それは何かが遠くから聴こえてきた気がしての行動だったが、しかし、見つめる先にあるのは町と極寒の外を隔てるドームがあるだけで、とくにおかしな物は見当たらない。
――ところで、このカリストの砕氷労働者居留地は今、一仕事を終えて戻ってきた者たちによって少々賑わっている。
そんな中で突然立ち止まればどうなるか。つまり……
「おっとと」
「……きゃ!?」
急に立ち止まった事が災いし、背中から何者かがぶつかってきて、アンジュがたたらを踏んで転びそうになる。
転倒したら来るであろう衝撃に対し咄嗟に身構えるアンジュだったが……しかし、結局痛みがやってくる事は無かった。
「おっと」
ひょい、という感じの何気なさで、転びそうになるアンジュの手が何者かに取られたかと思えば、あれよという間に体勢を立て直された。
アンジュを助けてくれたのは……先程ぶつかってしまった、無精髭を生やした作業着姿の男性の姿。
「悪いな、お嬢さん。怪我はないか?」
「あ……大丈夫です、心配してくれてありがとうございます」
「そうか……悪かったな、だが人の往来が多い場所で立ち止まったりすると危険だから、気をつけろよ」
そう言って、アンジュがぶつかってしまったその青年は、頭を下げて礼を告げるアンジュの頭をポンと撫でたのち、気にした風もなく友人らしき男女と並んで立ち去っていく。
それと入れ替わるように、数歩先でアンジュが居なくなったこと気づいたビルが、慌てて戻ってくる。
「嬢ちゃん、どうかしたか?」
「ごめんなさい、人にぶつかってしまって……あの人に助けられました」
もうだいぶ離れてしまった青年の方を差しながら伝えるアンジュ。ビルはその人物の方に目線を移し……直後、む、と小さく呻く。
「あの男か……ありゃあ、かなり『やる』な」
「やる、ですか?」
何をだろうと首を傾げるアンジュに、ビルは歩き去っていく男を観察しながら解説してくれる。
「相当鍛えてるってやつだ。それに立ち振る舞いがベテラン……その中でもいわゆるエースパイロットって言われてるやつに近い。なんでこんな採掘場で作業員なんてやってるんだ?」
「へぇ……ビルさんは凄いですね、私にはぜんぜん分かりませんでした」
感心したように、アンジュはビルが語る言葉に耳を傾けながら……
「……ディンゴさん、ですか」
アンジュは、先程ぶつかった彼に同行している友人たちとの会話から類推した名前を、なんとなく口にするのだった。
◇
「はー……今の子、礼儀正しくて可愛らしい娘だったねぇ」
「リック、お前……そういう趣味だったのか、今後は少し距離取っていいか?」
「ちょ……違うよディンゴ、そういう意味じゃなくて! 俺はただ、一般論として!」
必死に弁明する後輩作業員のリックに、無精髭の作業員……ディンゴはふっと表情を緩めて、慌てふためくリックの肩を叩く。
「冗談だ。あの子はまあ……今日、発着場に本国の実験艦が停泊しているらしいからな、その乗客だろう」
「ふぅん、いいところのお嬢様かな?」
「いやアンジー、たぶん違うと思うぞ。あまりそんな感じの服装には見えなかったが……」
そう呟いて……ディンゴと呼ばれた無精髭の青年は、なんとなしに今来た道を振り返り――そこでギョッと驚く。
「……ディンゴ、どうかした?」
「早く行きましょう、火星からのマーズリーグの中継始まっちゃうわよ、ディンゴだってあんな楽しみにしてたのに」
「あ、ああ……すまないリック、アンジー。早く行こう」
我に返り、怪訝な表情でこちらを見ている同行者二人を促して、歩き慣れた砕氷作業員の宿舎までの道をふたたび歩き出す。
――先程振り返った時に見た、あの光景。ただの見間違いかもしれないが、しかしそれは妙にディンゴの心をざわつかせていた。
もう辛うじて色で判別できるか否かくらいにずっと遠くに佇んでいる、