白金燐子合同集   作:エノキノコ

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君ともう一度、音を奏でるために

まるで足に鉛でも埋め込まれたような重さを感じながら、廊下を歩く。少年が真っ先に向かうのは、自室。階段をやっとの思いで上がって、ドアに手をかける。部屋は、夕時になって薄暗くなっていた。しかし、少年はそんなことはお構い無しに、明かりも点けず部屋に入る。少年の目には、部屋の中央に置かれたピアノしか映っていなかった。少年は、ピアノ前の椅子に腰掛ける。慣れた手つきで鍵盤蓋を空け、キーカバーを取り、鍵盤を露出させる。薄暗い部屋でも、それに順応した少年の目は、八十八鍵を鮮明に移していた。すぅっと息を吸い込み、指先に全神経を集中させる。そして、鍵盤に指を走らせた。

 

 しばらく演奏して、鍵盤から手を離した少年は、唇を噛み締めた。それも、血の味がするほど。

 

 天井を仰ぎ見る彼の頬には、一本の筋が通っていた。

 

 

 

 

 

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「ごめんね。片付け手伝わせちゃって」

 

 白金燐子(しろかねりんこ)は、手を動かしながら、目の前の人物に感謝を伝える。

 

「僕はここのスタッフだから。当然だよ」

 

 燐子の目の前の人物は、笑顔でそう応えて、また手を動かし始める。

 

 今日も、ここCiRCLEではRoseliaの練習が行われていた。そして今は、練習が終わって片付けをしているところだった。いつもなら、Roseliaのメンバーだけで片付けを済ませるところだ。けれど、今日は機材を借りたこともあって、大変だろうからと、CiRCLEでバイトをしている八重洲和己(やえすかずみ)が手伝ってくれていた。ちなみに和己は、燐子の幼馴染で、同じピアノ教室に通っていた。それもあって、この二人はとても親しくしている。

 

 そして、燐子にとって今の状況は、願ってもない好機であった。燐子には、和己に何としても聞きたいことがあるのだ。

 

「……ねぇ、和己君」

 

「どうしたの、(りん)ちゃん?」

 

 すうっと一呼吸置いて、燐子は和己を正面から真っ直ぐ見据える。

 

「……なんで、ピアノ、止めちゃったの?」

 

 燐子の言葉に、和己が息を飲んだ。

 

「……や、やだなぁ。前にも言ったけど、飽きちゃったんだよー」

 

 そう笑いながら言う和己。燐子は、やはり()()だと思えなかった。

 

「和己。誤魔化すのはやめなよー!」

 

 ここで、燐子の後ろから今井(いまい)リサが出てきた。

 

「べ、別に……誤魔化してなんか……」

 

「えー。目を思いっきり逸らしてる人が言っても、説得力ないぞっ!」

 

 和己が逸らしていた目を、燐子とリサの方に向ける。真剣な顔でこちらを真っ直ぐ見据え続けている燐子。そして、口調とは裏腹に、リサも真剣な雰囲気を出していた。さらに、湊友希那(みなとゆきな)氷川紗夜(ひかわさよ)宇田川(うだがわ)あこと、Roselia全員の注目が和己に注がれている。

 

「燐子のためにも、あなたは早く本当のことを言うべきだわ」

 

 友希那が和己に言う。

 

「……なんで、それが燐ちゃんのためになるんですか?」

 

 和己が眉間に皺を寄せて、友希那にそう言い返す。

 

「白金さんのためでもありますが……私たちRoseliaのためでもあるからですよ」

 

 横から紗夜が、友希那の言葉をさらに補完する。

 

「最近のりんりん、練習に集中できていなかったんです!」

 

「だから、燐子に事情を聞いてみたら、和己がピアノをやめた理由が納得できないって」

 

 あこ、リサがそう続ける。

 

 和己が、CiRCLEで働き始めたのは、つい最近のことだ。和己が、燐子に気づいて声をかけてきたのだ。そこから、二人は旧交を温めることとなった。燐子はRoseliaの練習後、和己はバイト後に、一緒に帰ることになって、今どうしているのかをお互いに話したのだ。その中で、燐子は和己に、「今もピアノを続けているの?」と聞いた。そこで、和己は「やめた」と言い、燐子が理由を聞くと、和己は「ピアノに飽きちゃったから」と自嘲気味に話した。しかし、燐子にはそれが()()とは思えなかった。言葉とは裏腹に、和己は未練がましいというふうに、とても悲しげで辛そうな表情をしていたからだ。

 

「……それで、燐ちゃんとRoseliaの練習の質のために、僕がピアノをやめた本当の理由を教えてくれ、と……」

 

 苦虫を噛み潰したような表情で、和己が言った。和己にとって、Roselia全員から注目されているというこの状況は、まるで蛇に睨まれた蛙の気分であった。

 

「……わかりました」

 

 和己は今まで、誰にもピアノをやめた本当の理由について言ったことはなかった。それを、自分の口から言いたくなかったのだ。言ってしまえば、遂に()()()()を認めてしまうようで、避けていたのだ。

 

 しかし、和己自身、()()()()を認めなければならないとわかっていた。たとえ、それに痛みが生じても。

 

「……皆さん。この後、時間ありますか?」

 

 

 

 

 

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 和己とRoseliaの面々は、先程とは別のスタジオにいた。和己が予約の入っていないスタジオを、CiRCLEの管理者である月島(つきしま)まりなに頼んで貸してもらっていた。

 

 スタジオの中心で、和己がキーボードを準備していた。これも、まりなに頼んでCiRCLEの備品を貸してもらっている。その様子を少し離れたところで、Roseliaの面々はじっと見つめていた。

 

「ねぇりんりん。『なぜやめたかは、僕が弾けば解ります』ってどういうことなんだろう?」

 

 あこが、隣にいる燐子に尋ねる。

 

「……分からない」

 

 燐子は首を横に振って言った。久しぶりに和己が演奏する姿を見られることに、燐子は心踊った。しかし、それ以上にこれから行われる演奏によって、和己がピアノをやめた理由が示されるということに、困惑を禁じえなかった。

 

 準備を終えた和己が、鍵盤の前の椅子に座る。燐子は、今の和己に、昔の和己の姿を重ねた。小学生の頃と同じく、彼は真っ直ぐ背筋を伸ばし、両手を太腿の上に置いて、目を瞑っていた。ピアノを弾く時のルーティーンだ。しかし、唯一、昔と違うところがあった。顔を顰め、苦しそうに鍵盤へと対峙していた。小学生の頃のような、弾くのが楽しみで仕方がない様子の和己は、そこにはいなかった。

 

 ゆっくりと目を開いて、和己が鍵盤へと手を伸ばす。演奏の始まりだ。

 

 演奏が始まってしばらくして、燐子は違和感に気づいた。あまりにミスタッチが多いのだ。今、和己が演奏している曲は、難易度としては、そこまで高くない。小学生の時は、完璧に弾けていたはずの曲だ。ピアノから離れて、ブランクがあることを勘案しても、多過ぎる。特に、曲の中でも難所と思われるところで顕著にそれが出ている。燐子は、演奏中の和己を見た。苦しげに歪んだ顔の額には、汗が光っている。ミスタッチが多いだけではない。和己の奏でる音色は、ただただ首を絞められるような、苦しげな音だった。

 

 また、ミスタッチで大きく音を外した。その瞬間、和己は、鍵盤から手を離し、腕をだらんと垂らした。その曲を弾き切ることなく、演奏を止めてしまったのだ。

 

「これが……ピアノをやめた理由です」

 

 燐子たちの方に顔を向けて、和己は消え入る声で絞り出すように言った。

 

 それから和己は、理由を補足するためにゆっくりと語り始めた。

 

 ある日、和己がいつものように練習していた時、指が思い通り動かなくなったという。最初はただ、調子が悪いだけだと思っていたが、練習を重ねる毎に、指が強ばったり、あらぬ方向に動いたりするようになった。何かの病気かと、親に病院にも連れて行ってもらって医者にも診てもらったが、精神的なものとも考えられるが、その実よく分からず、原因不明と言われたとのことだった。その後は、元通りピアノを弾けるようにあらゆる手を尽くしたらしい。例えば、一度ピアノから離れて、しばらく期間を空けて弾いてみたり、指の動きを補助する器具を手に装着して練習してみたりした。しかし、どの方法を取っても大きくは改善されず、ピアノをやめた、いや、諦めたと和己は話した。

 

(まさか、そんな事情があったなんて……)

 

 燐子は、驚きを隠せなかった。和己に、どう声をかけていいか分からなかった。

 

「今まで、このことは、誰にも言ってこなかったんですよ。言ってしまったら、自分が弾けなくなったことを受け容れることになりますから……」

 

 沈んだ雰囲気の中、和己が話し始める。

 

「でも、いつか受け容れなきゃいけないことだったんです。だから……今日、ここで話せて良かった。これで、過去の自分と決別できました」

 

 和己のその言葉は、燐子たちに気にしないで欲しいと言っているようでも、自身に言い聞かせているようでもあった。

 

(そう思っているなら、どうして……どうして、君はそんな顔をしているの?)

 

 和己は、先程まで弾いていたキーボードを見つめながら、悲痛な表情を浮かべていた。燐子には、和己がそれを受け容れたとは、到底思えなかった。

 

 

 

 

 

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 練習帰り、駅への道のりで、燐子は先程の和己の様子を思い出していた。苦しそうだった。ピアノを弾くのを楽しんでいない和己を見たのは、初めてだった。

 

(昔は、あれほど楽しそうに弾いていたのに……)

 

 

 

 

 

 

 燐子の通っていたピアノ教室で、一番ピアノが上手だったのは、和己だった。難曲を楽しそうに弾きあげる技術を持ちつつも、同い年とは思えない程、情感豊かな演奏をする和己に、燐子は憧れた。

 

「ねぇねぇ燐ちゃん。一緒に連弾しようよ!」

 

 和己はそう言って、燐子を連弾に誘った。人見知りな燐子は、上手く話せなかったけれど、ピアノの音色を通して、和己と仲良くなっていった。

 

 燐子が、ピアノの大きなコンクールで失敗して、落ち込んでしまってピアノ教室を辞める時も、和己は燐子を連弾に誘った。いつものように、楽しい音色ではなくて、どよんとした音色だった。二人での演奏を終えた後、和己が口を開いた。

 

「ピアノ教室、辞めちゃうの?」

 

 燐子は、和己の言葉に無言で頷き、俯いた。その声は心做しか、震えているようにも感じられた。

 

「そっか」

 

 燐子が気落ちしているのをわかっているからか、和己はそれからしばらく、何も言葉を発することはなかった。和己は、歳の割に聡い子どもだった。聡いからこそ、次の言葉を探していたのかもしれない。

 

 しばらくの沈黙の後、和己が口を開いた。

 

「燐ちゃん」

 

 燐子は、顔を上げられなかった。どういう顔で彼を見ればいいか、わからなかったのだ。

 

「僕、燐ちゃんのピアノ、好き」

 

 燐子は、顔を上げた。

 

「だから、ピアノを弾くことだけは、辞めないで」

 

 和己は、真っ直ぐ燐子の目を見て言った。今から考えると、何だか一種の告白のようだった。

 

「またいつか、連弾しよ! 約束!」

 

 和己が差し出した右手の小指に、燐子も自然に小指を絡ませていた。

 

 

 

 

 

 

(あの一言があったから、わたしはピアノを弾き続けられた……。それなのに……)

 

 燐子が昔の記憶に思いを馳せていると、リサが声をかけてきた。

 

「和己のこと、悩んでる?」

 

 地面に目を落とし、燐子は頷く。

 

「和己君のお陰で、わたしはピアノを弾き続けてくることができたんです。だから、こうやってRoseliaにも出会えたんです。……さっき、あんなに苦しそうに弾いている彼に、どう声をかけたらいいのか……分かりませんでした」

 

 Roseliaの面々は、燐子の言葉を静かに聞いていた。

 

「和己君が苦しんでいるのに……。わたしは何もできないんです……」

 

 燐子は、悔しそうに声を絞り出した。

 

「何もできないと思うには、まだ早いわ」

 

 友希那のその言葉に、燐子は顔を上げる。

 

「ええ。何か、何か方法があるはずよ」

 

「りんりん! 一緒に考えるよ!」

 

 紗夜とあこが続けてそう言った。

 

「でも、どうすればいいんでしょうか……」

 

「うーん……」

 

 Roselia全員が一斉に考え込む。

 

「和己が前みたいにピアノを上手く弾けるようになればいいんだよね……」

 

「しかし、本人が通院もして、色んなリハビリをした上で今の状況とのことですから……。素人の私たちでは、それは難しそうですね……」

 

 リサと紗夜がまずそう言った。

 

「彼は、ピアノが弾けずに苦しんでいるのかしら?」

 

 友希那が呟いたその疑問に、全員が首を傾げた。

 

「……? どういうことですか? 友希那さん」

 

 あこが、その場全員の気持ちを友希那にぶつけた。

 

「私には、ピアノが弾けずに苦しんでいるというより、むしろ、()()()()()()()()()()()()()()()()に苦しんでいるように思えたわ」

 

 燐子はハッとした。昔の和己は、ピアノを弾くことをいつでも楽しんでいた。音色がいつも嬉しそうに躍っていた。

 

「自分の思い通りに弾けないから、楽しくないってことかな……?」

 

「ええ。おそらくは」

 

 リサの言葉に友希那は頷き、答えた。

 

「やっぱり、和己君が昔みたいに、ピアノを弾けるようにならないと……苦しみ続けてしまうのでしょうか……」

 

 燐子の言葉に、雰囲気が沈む。五人で考えてはみたが、どうしても、今の和己を助けられそうになかった。

 

 五人が頭を捻りながら、駅に差し掛かった時、ピアノの音が聞こえてきた。

 

「あら、こんなところにストリートピアノなんてあったかしら……?」

 

「どうやら、期間限定でここに設置されているようですね」

 

 友希那が疑問を口にする。そして、『期間限定でストリートピアノ設置中!』と書かれた看板を指差しながら紗夜が答えた。少し向こうにあるストリートピアノの周りには、多くの人が集まっており、なされている演奏に耳を傾けていた。

 

 聴衆の奥にいるせいで演者はよく見えなかったが、音を聞くに、二人の演者がピアノを弾いているようだった。一人が主旋律を担当し、もう一人が補助しながらアレンジを加えている。連弾であった。

 

「あ!」

 

「どうしたの、燐子?」

 

 急に大きな声を出した燐子に驚き、リサが目を丸くして聞いた。他の四人も燐子の大きな声に驚いて、目をぱちくりさせていた。

 

「和己君が、もう一度ピアノを弾くことを楽しむ方法、思いついたかも知れません」

 

「えっ!」

 

 燐子の言葉に、更に四人は驚く。

 

(今度は……わたしが!)

 

 

 

 

 

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「和己。そろそろよろしく!」

 

「了解です!」

 

 和己はそう言うと、リサとの通話を切り、所定の物を持ってRoseliaのいるスタジオへと向かう。これは所謂、ドッキリだ。リサからこの話を持ちかけられた時は驚いたが、和己もノリノリでまりなに頼んで、シフトの中に時間を作ってもらっている。スタジオの前に着いた和己は、深呼吸する。そして、スタジオのドアをいきなり開け、声高らかに言った。

 

「燐ちゃん! ハッピーバースデー!」

 

 そのまま、部屋の中心にいる燐子のところに駆け寄る。

 

「はい!」

 

 皆から燐子へのメッセージがしたためられたバースデーカードを手渡す。

 

「皆さん……ありがとうございます……」

 

 燐子はにっこりと笑って、バースデーカードを受け取った。更に、リサとあこから燐子にプレゼントが渡されたり、皆で記念撮影したりと、燐子の誕生日サプライズは大成功していた。和己は、これに参加してよかったと喜びを噛み締めていた。

 

「あの……。和己君」

 

 誕生日サプライズも一段落して、和己はそろそろ業務に戻ろうかと思っていた。その時、燐子が声をかけてきた。

 

「燐ちゃん。どうしたの?」

 

「一つ……お願いがあるの」

 

 燐子が真剣な顔で、そう言う。今日は、燐子の誕生日ということもあり、和己はできるだけ願いを叶えてあげようと思った。

 

「どんなお願い?」

 

 和己はそう聞いた。燐子は、意を決して言う。

 

「一緒に、連弾……しよう!」

 

 和己は動揺した。まさか、そんなお願いをされるとは思っても見なかったからだ。

 

「前も言ったけど、指がちゃんと動いてくれないから……。無理だよ。それに、もうバイトに戻らなきゃ……」

 

 和己はそう言って、スタジオから去ろうとした。しかし……。

 

「そこは心配ないよ」

 

 そこをリサが止める。

 

「……?」

 

「このことは、予めまりなさんにも言って協力してもらっているんだ」

 

 ここで和己は理解した。これは最初から仕組まれていたのだ。和己はリサに恨みのこもった目線を向ける。

 

「燐子の誕生日会に誘えば、和己なら警戒せずに来てくれるかな〜って……。燐子の誕生日の余興……みたいな」

 

 リサはそう弁解する。そこに、燐子が助け船を出した。

 

「元々これは……わたしの言い出したことが原因だから……。責めるならわたしを責めて」

 

「燐ちゃん……。でも……なんでそこまでして弾いて欲しいの?」

 

 和己は不思議だった。なぜ弾けない自分に連弾しようと頼むのか。

 

「約束……だから」

 

「……!」

 

 約束という言葉を聞いて、和己の身体はビクッと反応した。

 

「覚えていて……くれたんだね」

 

 小さな頃のあの約束を、和己が覚えていたことが、燐子は嬉しかった。

 

「……でも、弾けないよ」

 

「完璧に弾けなくてもいいの……。だから、お願い」

 

 渋る和己に、燐子は頭を下げる。

 

「……分かった。でも、一曲だけだよ」

 

「……! ありがとう!」

 

 ガリガリと頭をかいた和己は、一曲だけという条件をつけて、燐子の願いを受け容れた。

 

 

 

 

 

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 椅子に並んで座った燐子と和己の前に、燐子のキーボードと、譜面台が用意されている。譜面台の上には、今回、燐子が和己と弾くために用意した曲の譜面が載せられている。燐子以外のRoseliaの四人は、燐子と和己の後ろから、二人を見守っていた。

 

「準備は、いい?」

 

 燐子は、隣に座る和己の顔を覗き込む。鍵盤を凝視していた目を、燐子と合わせる。

 

「……ねぇ、燐ちゃん。この譜面だとしても、たぶん、すぐミスタッチしちゃうよ」

 

 和己は、暗い口調でそう言った。

 

「……ミスをしたっていいの。……一緒に演奏を、楽しもうよ」

 

 燐子は、そう言って演奏する体勢に入った。和己もそれを見て、演奏前の自分のルーティーンに入る。両手を太腿の上に置いて、目を瞑る。いつもの流れだ。そして、目を開き、隣の燐子と目を合わせる。二人はお互いに小さく頷く。

 

 まず、燐子のパートから演奏がスタートされる。次に、和己のパートの演奏が重なる。序盤は、至って順調だった。燐子は、和己がミスを少なく抑えられるであろう、簡単なパートの譜面を渡していたのが、功を奏していた。しかし、燐子の感覚は「違う」と主張していた。演奏は成り立っているけれども、昔、二人で連弾をした時のような、心躍る演奏とはかけ離れていた。

 

 燐子は演奏をしながら、隣の和己を見た。和己は、ミスをしないことに必死で、演奏を楽しむことなど全くできていないようだった。

 

 ここで燐子は、急にアレンジを加えた。和己が驚いて燐子の方を見る。燐子は構わずアレンジを続ける。和己と目線を合わせ、願う。

 

「思い出して」

 

 

 

 

 

 

 

 燐子の急なアレンジに、和己は思わずミスタッチを出してしまった。

 

(なぜ、ここでアレンジを……?)

 

 和己は思わず、燐子の方を見た。燐子は、楽しそうに演奏していた。誰の目にも明らかなくらい、笑顔で。燐子も和己の方を見た。

 

「思い出して」

 

 燐子がそう言ったことを、口の動きから読み取った。しかし、和己は分からなかった。一体、自分が何を忘れているというのか。

 

 曲ももう終盤。和己は、燐子のアレンジに必死について行く。ミスをしないように。燐子がここで、張り切り過ぎたのかミスタッチしてしまう。和己は、「あっ」と声を出しそうになった。しかし、燐子はミスタッチを気にしてはいない様子だった。それよりも、弾くことをのびのびと楽しんでいた。

 

(ああ。そうか)

 

 ピアノが上手く弾けなくなって、和己の頭にはずっとある思いが渦巻いていた。……もう一度ちゃんと弾けるようにならないといけない。その焦りが、楽しかったピアノを、弾けば弾くほど苦しくなるものへと、変貌させていたのだ。

 

 演奏が終わる。和己は、スッと立ち上がった。燐子は、楽しそうだった表情を一転させ、心配そうな表情で、和己を見た。

 

「和己君……あの……!」

 

 燐子が和己に何かを言おうとする。

 

「燐ちゃん」

 

 和己は、それを遮った。そして、次の瞬間、和己は言った。

 

「燐ちゃん。好きな曲、弾いてよ」

 

 

 

 

 

 

 

「え……?」

 

 一瞬、和己が言ったことを、燐子は理解できなかった。和己は、燐子の顔を真っ直ぐ見据える。その顔に、さっきまでの苦しそうな表情はなかった。

 

「合わせるから。一緒に弾こう」

 

 和己は、そう言って椅子に座り直す。

 

「たぶん、ミスはしちゃうけど」

 

 そう言った和己の口調は明るく、弾んでいた。両手を太腿の上に置いて、目を瞑る。そのルーティーン中の表情には、これから始まる演奏への不安ではなく、これから始まる演奏への高揚感を表すような笑みを浮かべていた。

 

(和己君が……戻ってきた!)

 

 燐子は、小さい頃……まだ小学生にも満たなかった歳の、和己の面影を、今の和己に見ていた。

 

 燐子も鍵盤に向き直った。呼吸を整え、和己を見る。和己が、頷く。燐子がこの場面で弾く曲は、決まっていた。そう、昔、二人でよく連弾した曲。

 

 演奏が始まる。たとえミスタッチをしたとしても、もう和己は、苦しそうな顔をすることはなかった。ただ、燐子との演奏を楽しんでいた。

 

 演奏中、和己は燐子を見て呟いた。

 

「ありがとう」

 

 それを見た燐子は、和己に答える。

 

「おかえり」




君ともう一度、音を奏でるために 作:鳩ポッポ様
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鳩ポッポ様の別作品も、ぜひご一読ください。
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