ミトお姉ちゃんがキリトをヨシヨシするターンだぜ
コツリ、コツリ。
堅い地面とブーツの触れ合う音が狭苦しい洞窟の壁に反響する。自分の足音でしかないと分かっている筈なのに、それが暗闇の向こうからモンスターが襲い来る前兆ではないかと、身構えてしまう。
3人パーティの先頭に立って周囲を警戒しながら、知らず知らずのうちにキリトの呼吸は浅く、速くなっていく。
進んでは止まり周囲を明りで照らす。トラップや隠れたモンスターがいないことを確認しては、また進む。洞窟の攻略、とりわけ完全な一人称視点であるVRMMOではこの地道な確認作業こそが、生き残る秘訣とされている。
だが。それも過ぎれば毒となる。10歩進んでは立ち止まり、周囲を警戒する。その作業が、5歩で立ち止まるようになり、今は3歩毎に立ち止まるようになっていた。
「一旦引き返しましょう」
すぐ後ろから掛けられた言葉に、ハッと我に返る。
振り返るとそこには、こちらを心配そうに見つめる赤い瞳があった。
「な、なに言ってんだよミト。今日中にこの洞窟を抜けて、夕方にはトールバーナに着くって予定だろ?」
「キリト君、きみ、分かってないの?」
「アスナまでなんだよ」
赤い瞳の後ろから同じく心配そうに見つめるヘイゼルブラウンの瞳に問いかける。
「だってキリト君、さっきからずっと震えてるよ」
「はぁ?」
言われて、壁に打ちしだされた3人の影が小刻みに揺れている事に気付く。キリトたち自身が動いていないのだから、その原因は光源である松明──もっと言えば、それを持つ左手にあるのが道理だ。
「な、んだよこれ」
視線を落とすと確かにキリトの左手が小刻みに震えている。それはまるで寒さに凍えているようであり、これが現実世界なら鳥肌でも立っているだろう。
「おっかしいな。別に寒くはないのに……」
言いながら、キリトは右手で左手を抑える。それでも震えは止まらず、むしろ掴んだ右手まで一緒になって震え始めた。
「なんだよこれ。止まれって」
「和人」
理解できない状況に混乱するキリトの手をミトが包み込むように握る。
「大丈夫。お姉ちゃんが付いてる」
「や、やめろよ。子供じゃあるまいし」
自分の手を包む暖かさに、顔を赤くするキリトにミトは優しく微笑みかける。
「和人さ、私に言ってくれたよね。『家族の前でまで肩肘張るな』って。だから私も言うよ。お姉ちゃんの前では無理しなくていいの。アスナにカッコいい所見せたいのは分かるけどね」
黒い瞳を真っ直ぐに見つめながら、軽くウィンクするミトの姿に、ふっとキリトの力が抜ける。
「あ、れ……?」
そのまま膝をついてしまったキリトの顔が丁度ミトの胸の高さに来る。
「大丈夫。焦らなくても。だから、今日は一度戻りましょう?」
茫然とするキリトの頭を胸に抱きながらサラサラとした黒髪を梳く。
ピタリと震えが止まるのを感じて、キリトは初めて自分が手だけでなく全身から震えていたのだと知った。
「あぁ………」
微笑ましいものを見る目でアスナに見守られながら、キリトが立てるよになるまで2人の姉弟は暗闇の中で抱き合っていた。
*********
洞窟から帰ってきたミトたちはホルンカの森でレベル上げで時間をつぶし、夕方になって宿にしているNPCの家まで戻ることにした。その間のキリトの状態は想像以上に悪く、洞窟からホルンカの村へ戻る途中、ホルンカの森での戦闘ですら、何度かソードスキルを
「とにかく!キリト君はゆっくりお風呂に浸かって、ぐっすり寝ること!朝食までに起きてきたら怒るからね!」
「わ、わかったから……」
普段見られない弱ったキリトを見て母性本能に火が付いたのか、珍しくアスナが強い口調でキリトに休息を命じる。
下手に抵抗すると服を剥ぎ取られて湯船に突き落とされそうだったため、キリトも素直に従うことにしたらしい。
今はNPC宅の2階でぐっすりと眠っているだろう。
「キリト君、大丈夫かな」
キリトが眠る部屋の隣、女子用として借りている部屋の中でアスナがつぶやいた。
「そうね。アイツがあんなに怖がってるところなんて初めて見たから、正直私にもわからない」
「そう、だよね……」
僅か数週間の付き合いではあるが、アスナがキリトに対して抱くイメージは『最強』の一言に尽きる。
日々の戦闘でもモンスターに与えるダメージ量は3人の中でトップであるし、先日のネペントの一件では、ソードスキルが上手いとか視野が広いといったプレイヤーとしての強さだけでなく、何というか、ひとりの人間としての強さを思い知らされた。
いつも飄々としている彼が、恐怖に身を震わせ一歩も進めなくなるなど、今の今まで想像すらしなかった。
「でも、どうしてあそこまで怖がったんだろう」
「そこはキリトに聞くしかないわね。…………聞いても分からないかも知れないけど」
「うん………」
キリト自身、その恐怖の正体を知らないのではないか。いや、それよりも。自身の身を震わせていた感情が”恐怖”であるとすら、自覚できていないのではないだろうか。
「多分、だけど」
数分の沈黙の後、ミトが口を開いた。
「アイツは、迷ってるんじゃないかな」
「迷う?なにを?」
「ここが現実かどうか」
「それって……」
「アスナにとっては、こういうネットゲーム自体が初めてだから特にそうかもしれないけど、私たちみたいなゲーマー、それもベータテスターにとって、ここはゲームの中なのよ」
「?ここがゲームの中なのは当たり前でしょ?」
「あ~なんて言ったらいいのかな……。アスナはさ、モンスターの攻撃を受けてHPがゼロになったら本当に死んじゃう、っていう実感があるでしょ?」
「う、うん」
「でも、私やキリトはちょっと違う。ベータテストでなんどもHPを全損した経験があるせいで、本サービスでHPがゼロになったら現実でも死んじゃうっていう実感に乏しいの。それは多分、ベータテスターじゃない普通のプレイヤーも大なり小なり感じてることだと思う」
だからこそ、ここが現実なのか虚構なのかという迷いが生じるのだとミトは語る。
「その迷いが、視界の効かない洞窟っていう場所で噴出して、キリトを追い詰めたんじゃないかな」
「なるほど………暗い所にいると普段考えないことまで考えちゃうもんね………」
アスナ自身、暗い夜道を歩くときなど、後ろに誰かいないか必要以上に確認してしまう。そういう『暗闇とう環境の特性』がキリトにあれだけの恐怖を抱かせたのだろう。
「でも凄いね。キリト君のことをちゃんと理解して、深澄ってすごくいいお姉ちゃんだったんだ」
「コッチで本名だすのは禁止よ」
茶化すように笑うアスナにミトも軽口で返す。くすりと笑い合う2人の間には一つの共通認識が生まれていた。
「さ、私たちももう寝ましょう。明日こそ、キリトを連れてトールバーナまで行かないと」
「うん。おやすみなさい、ミト」
「おやすみ、アスナ」
『キリトを連れて』少し前までは、どちらも口にしなかっただろう台詞。それはキリトどこかでキリトという強者に甘えていた自分たちを自覚したからこそ出た言葉だ。
((キリト(君)は私が守る………!))
1つ年下の少年を守るという静かな誓いの元、ミトとアスナは眠りについた。