『洗礼』
「――こんなッ……こん、なッ……!」
――認められない。ただ、その一念だけが心を満たしていた。
レースに絶対は無い。たとえ一度の負けも知らないとしても、未来に待つゴールで何が待っているかは誰にもわからない。
だが。どんなウマ娘であっても、
「……ふぅ」
両膝に手を当て、肩で息をし続ける。しかし目の前――ゴール板の先にいるその彼女は、軽く一息をついているのみ。
こんな筈じゃなかった、こんな事があるとは思わなかった。しかし、現実は変わらない。そう思い、肩を落としたまま頭を上げて、
「……自分の勝ちですね?
”天才”、”帝王”。
そう呼ばれているウマ娘よりもさらに先のゴールにて。藍色の髪を靡かせた無名のウマ娘が立っていた。
◇ ◇ ◇
「ここが、中央トレセン学園。君が今日から通い、走る場所だよ」
「――……」
中央トレセン学園の門前にて。シンボリルドルフに連れられたドロップスティアーは、ぽかーんと大口を開けて立ち尽くしていた。
なんだここは。なんだこれは。いや……なにこれ? そんな気持ちが、言葉にすら出来ない程に満ち満ちていた。
何故か。それは、彼女が
「……あのー。すみません、ルドルフさん?」
「何かな、ティア君」
「どこに”学園”が?」
「君の目の前にあるだろう」
何を言っているのやら。シンボリルドルフはドロップスティアーへ怪訝な目を向ける。
だが、ドロップスティアーは本気で言っていた。本気で、どこに”学園”という物があるのかわからなかった。
……正確には。
「ッスー……ふぅー……ルドルフさん。もう一度確認します。目の前にある
「一目瞭然。さっきから何を言っているのだ、君は」
「……いやいやいや! おかしいですってコレ! なんですこの、バカデカい場所!? 道路何メートルありましたっけココの幅!?」
ドロップスティアーは、確かにトレセン学園の門前に立っている。それは紛れもない事実だ。
しかし、ドロップスティアーは認められない。ただ、その一念だけが心を満たしていた。その理由は極めて単純、トレセン学園の敷地の広さのせいである。
シンボリルドルフは地方から新幹線で戻り、即座にタクシーを手配。ドロップスティアーの分まで身銭を切り、中央トレセン学園まで戻ってきていた。
どんな所なんだろなー。そんな風に思っていたドロップスティアーの無邪気なワクワク感は、トレセン学園前の長過ぎる直線道路に差し掛かった時点から変貌していった。
「道路の長さは流石に測った事は無いが……トレセン学園の敷地面積はおよそ80万平方メートルだったか。流石に逆算は勘弁して欲しいな」
「はちじゅっ……まっ……あ……? あ……?」
異世界。異次元。異常地帯。地域一帯、幅から高さまで縦横無尽に広がる中央トレセン学園の全貌を目の当たりにして、ドロップスティアーの思考回路はショートしていた。
スケールが違う。散々っぱら地元の山のあらゆる
しかしシンボリルドルフにとっては見慣れた光景が故に、ドロップスティアーが何を言っているのか少し理解出来ずにいた。
「そこまで驚くのは流石にオーバー過ぎはしないかい? 確かに
「いや、いやいやいや。流石にこれは……えっ、学園? 生徒通ってんですよねここ? ……何百人です?」
「……? およそ二千人程だが……」
「がっ……! ぐっわ……!」
ばたーん。ドロップスティアーはふらりと後ろに倒れ、歩道に大の字を描いた。
「だ、大丈夫かい!? の、乗り物酔いか何かかね!?」
「にせん……せん、かけるに……に、かける、せん……」
「ティア君! しっかりしたまえ、ティアくーんっ!」
虚ろな表情で虚空を見上げるドロップスティアー。それを介抱するシンボリルドルフ。
ドロップスティアーはこの日、ある意味完膚なきまでの敗北を味わわされた。学園の敷地にすら入ってすらいないのに。
◆ ◆ ◆
「――心慌意乱。あまり心配させないでくれたまえ、ティア君」
「失礼しました。これが……”中央”ッ……!」
「いやまだそんな衝撃を受けるには早すぎると思うのだが」
三分後。ようやく正気を取り戻したドロップスティアーは怯えながらもトレセン学園の門をくぐり、シンボリルドルフと共に学院棟を目指して歩き始めた。
その姿、正しくお上りさんの如し。敷地に植えられた木々、その隙間から垣間見える施設。それら一つ一つに目を向け、きょろきょろと高速で頭を左右に振るドロップスティアーの様子は、ぶっちゃけ不審者と間違われてもおかしくなかった。
「……様々な生徒がそれぞれの表情で学園に入ってくるのを見てきたが、門に入る前から倒れる生徒は初めてだよ。何がそんなに君を驚嘆――というか、恐慌させたんだい?」
「……自分の通ってた学校の生徒、二百人ぐらいだったんです……」
その言葉に、今度はシンボリルドルフが驚かされた。が、その直後にすぐ納得もする。
彼女はトレセン学園に所属すらしていなかった、ヒト・ウマ共学の一般校の出だ。それも地方の一般校ともなれば、スケールは自然と小さなモノとなる。
それからいきなり十倍の人数・百倍ほどの敷地に転校ともなれば、我を忘れるのも仕方ない――いや、仕方なくは無いだろうあのリアクションの大きさは。
幼い頃から英才教育を受け、中央トレセン学園に入る事が運命付けられていた様な存在であるシンボリルドルフにとって、ドロップスティアーの受けたショックはまるで未知のモノだった。
(何もかも未知数、か)
地方から中央へとやってくるウマ娘そのものは珍しくない。殆どのウマ娘は地方よりも、中央のトレセン学園に入る事を夢に見る。
だがそれは、最初からレースを目指す者に限った話だ。オグリキャップの様に天禀を見出されて地方の学園からスカウトされた例外もいるが、此処にやってくるウマ娘の概ねは出身を問わず中央の試験を受験し、この門を通過する。
トレセン学園に通わず、レース場も走った事が無く、トゥインクル・シリーズすら知らない。門前に立つだけで怯え竦んでぶっ倒れたこのウマ娘は、この中央に於いて正真正銘の未知の存在と言えるだろう。
「……こほん、ティア君。わかっているとは思うが、急な編入となった以上こちらには十分な用意が無い。寝泊まりする所は寮の適当な空き部屋、学生証も発行出来ていない以上は各施設の使用も許可されない。少しの間だが、窮屈な生活を強いる事になるだろう」
「寝泊まり出来るだけ有り難いです。……あの、でも食堂とかは流石にその、出来れば使わせてもらえると……自炊とか出来ないので……」
「……最優先で話を回そう」
スカウトの話その物は事前に理事長に通してあった為、ドロップスティアーが中央トレセン学園の正式な所属となるのは然程時間がかからないだろう。シンボリルドルフからの推薦があった以上、後日の面接で余程の問題が無ければ数日でドロップスティアーはこの学園の生徒として正式に編入される。
が、それでも数日。その間中まともな食事を絶たれる事は、生態的に莫大なカロリーを必要とするウマ娘にとって文字通りの死活問題となる。
ドロップスティアーがどれだけ食べるのかは解らないが、考えられ得る最悪を想定するとして――例えばオグリキャップに『数日はヒト並の食事をしてもらう』と言えば、恐らく彼女は絶望する。そしてその後、どんな
とりあえずカフェテリアの利用許可だけは最優先。用意していない以上制服を着ていない事で奇妙がられるかもしれないが、その辺りは予備のジャージなど着てもらうなどしてカバーする。
いや、正直本当に手続きするちょっとの時間ぐらいは待って欲しかった。スカウトした身ではあるが、即決が過ぎる行動にシンボリルドルフはそう思わざるを得なかった。
「ともかく、今日は理事長と顔合わせだ。面接と編入手続きは後日――なるべく早く手を回す。理事長室での話が終わったら、私は生徒会室に戻らなければならない。その後は恐らく理事長秘書の駿川女史が学園の案内を引き継ぐだろう」
「あー、ルドルフさんって偉いウマでしたよね……いやぁ、本当に迷惑をかけます」
「…………うむ」
本当にそう。シンボリルドルフはコンマ一秒だけ出かかった文句を、ギリギリの所で抑え込んだ。寛容さでも学園トップクラスの”皇帝”の、文句のコースレコードを更新する寸前だった。
山での勝負といい、彼女には振り回され続けている。が、彼女をこの道に引き込んだのは自分である以上、シンボリルドルフは安易な言葉を放つ事も出来ない。
今回ばかりはナリタブライアンにもきっちり仕事してもらおう。なに、事前にビワハヤヒデに事情を説明して協力を仰げば逃げ道も失くせるだろう。一先ずの方針を思案・決定しながらも、シンボリルドルフはドロップスティアーを連れて学院棟へと向かっていく。
「――なんです、この像?」
「ん? あぁ、三女神の像だね」
その手前、庭園の噴水広場。その中央に聳え立って水を流す特徴的なオブジェの前で、ドロップスティアーは足を止める。
様々な生徒達が憩いの場として、待ち合わせの場所として使う、人気スポット。その中央に座するのが、この学園の名物の一つである三女神像だ。
ウマ娘の始祖をモチーフとしたとされるそれは、学園のスクールモットー――『Eclipse first, the rest nowhere』に並んで生徒達に知られている。それは偏にウマ娘の神達への感謝を忘れない為に……と言っても、信心深いウマ娘でもそこまでは考えている者は少ないのだが。
トレセン学園に通うウマ娘の今後を見守り、導いて欲しい。三女神像はそういった想いと願いのシンボルであり、故に通う全てのウマ娘が目にするように学院棟の目の前に建てられていた。
「――あはっ」
小さく。本当に小さく、隣のシンボリルドルフすら聴き逃しそうな笑い声が、ドロップスティアーから漏れた。
「神サマなんてモノがいるなら――」
その時、ぶわっとシンボリルドルフ達の背後から突風が吹き抜ける。
ドロップスティアーの呟きと横顔は、彼女の藍の髪で覆い隠された。
「む? ティア君、今何と――」
「……あっ! カイチョー、カイチョーおかえりーっ!」
何やら平常と僅かに異なるドロップスティアーの声色に、シンボリルドルフが声をかけたタイミング。底抜けに明るい声が後ろから飛んでくる。
シンボリルドルフにとっては、日常の一部と言ってもいい程に聞き慣れた声。背を翻せば、全ての元凶――じゃなく、運命の大本たる少女が満面の笑顔を浮かべて駆け足で近付いて来た。
「”ただいま”だね、テイオー。一言芳恩、君のおかげで良い休暇になったよ」
「ホント!? あー良かったー、カイチョーが喜んでくれなかったらどうしようかなーって、ずーっと心配してたんだよー!」
「そんな事は無いさ。他ならない君の気遣いから来た物が悪い事な筈が無いからね」
えへへー。やってきた鹿毛のポニーテールの少女は、シンボリルドルフへ向けて照れ笑いを浮かべる。
トウカイテイオー。恐らくはシンボリルドルフに誰よりも憧れ、慕い、そして越えようと志している少女。容姿や性格は対照的に子供染みているが、成し遂げてきた実績の質に関して言えばシンボリルドルフにも劣らないと言っても良い、トゥインクル・シリーズのスターの一人だ。
”天才”と呼ばれた、無敗の二冠所持者。”奇跡”とすら言われた、前人未到の三度の骨折から一年越しの復活。
そんな彼女の辿った軌跡は、あらゆる者に知られ――
「……あれ? カイチョー、その子誰?」
「あっはい。どうも初めまして、ドロップスティアーです」
てはいなかった。何度でも言うが、ドロップスティアーはトゥインクル・シリーズを知らない。
全くもってバカげた話ではあるのだが、ドロップスティアーはいきなりやってきたトウカイテイオーの事を『なんだか元気な娘だなぁ』程度にしか思っていなかった。なんなら背丈の分、自分より年下なのかなとすら思っていた。
三度の骨折から復活しての勝利――有馬記念を制した現在のトウカイテイオーは、高等部に属している。つまり、ドロップスティアーより圧倒的に歳上だった。
「へー、見たこと無い娘だけど……受験生? 転校生?」
「私がスカウトした生徒だよ、テイオー。向かった地方で出逢ってね」
「えっ、スカウト!? カイチョー自らが!? ……って、なんで休みにまで仕事してるのさー! ボク、カイチョーにゆっくりして欲しくてあげたんだけど、あのチケット!」
「何も仕事をしてきた訳では無いのだが……その辺りは長くなるから、追々話すよ」
驚愕、衝撃、勃然、呵責。ころころと声色と表情を変えるトウカイテイオーに、シンボリルドルフは苦笑して応対しつつも安心感を覚えていた。
生徒会に居る時とは全く違う、真っ直ぐで純粋な慕情から来る居心地。感情の起伏は激しいが煩わしさを感じさせない、天性の社交性。
シンボリルドルフの居る所へトウカイテイオーはやってくる。しかし逆接的に、トウカイテイオーが居る場所もまたシンボリルドルフの代え難い居場所の一つとなっていた。
「ドロップスティアー、だっけ? 高等部? もうレースとか出てるの?」
「いえ、中等部です。デビュー……ってのはよく知りませんけど、レースは出てないです」
「成程成程、つまりボクの後輩だね! うんっ、ここで遭ったのもカイチョーとボクの縁、何か困った事があったらなんでも聞くといいよ!」
「うわぁ、頼りになります……ホント、
「ふふーん、ワガハイが居るからには心配御無用! よろしくね、えーと……スティアーちゃん!」
「ティアで良いですよ。これからよろしくお願いしますっ、テイオー先輩っ!」
「テイオー……先輩……!」
トウカイテイオーはその社交性により、捲し立てるようにドロップスティアーとの距離を詰める。ドロップスティアーもまた、そんなフレンドリーで明るい応対を喜んで受け入れた。
ドロップスティアーにとって、中央のウマ娘とのファーストコンタクトがトウカイテイオーというのはこの上無い幸運だろう。そうシンボリルドルフは思った。
何せ、トウカイテイオーのコミュニケーション能力と交遊範囲、そして自分を慕う者への面倒見の良さは抜群に高い。自分がかつて”皇帝”に憧れた様に、今度は自分が誰かの憧れの”帝王”となる。そういった心持ちが、今の彼女にはある。
(合縁奇縁。テイオーにティア、彼女達は良い関係を築けそうだな)
このテイオー先輩に全て任せたまへー! わーい、せんぱーい!
波長の合った二人のやり取りを見て、シンボリルドルフはくすりと笑う。トウカイテイオーによる巡り合いは、他ならぬテイオー自身の手によって良い未来を築いて行くだろう。
シンボリルドルフは、二人が紡いで行くだろう明るい前途を夢見た。
◆ ◆ ◆
「勝負だよ、ティア! キミは、ボクが倒すッ!」
「テイオー、先輩っ……!」
(なんで?)
翌日、学園内の練習用レース場にて。
シンボリルドルフの眼前では、敵対心を露わにしたトウカイテイオーがドロップスティアーに人差し指を突き付けるという、前日とは真反対のセカンドコンタクトが発生してしまっていた。
第二部、ラスボス戦開始ィィィ!
三話だけ出来たので、三日だけ連続投稿します。