トウカイテイオー。それはかつて、”皇帝”に最も近付いた存在だった。
皐月賞・東京ダービー・菊花賞。トゥインクル・シリーズを走るウマ娘が一生に一度だけ挑戦権が与えられる、代表的なGⅠレースの三つの冠。
シンボリルドルフは、そこに至るまで全てのレースを負けないまま勝ち取った。ただ一つ戴冠するだけでも歴史に名を残すGⅠレースを、一切の瑕無く。それは永きに渡るトゥインクル・シリーズの歴史において、史上初の偉業だった。
トウカイテイオーは、その道程を辿った存在だった。無敗のまま皐月・ダービーの冠を獲り――しかし、その直後に骨折というウマ娘にとって致命と言える怪我を負う。
しかし、トウカイテイオーの心を折る事までは出来なかった。二度、三度。一回でも競走生命の終わりが見える脚の骨折を何度となく経験しても、彼女は不屈の心で立ち上がり、その後もGⅠの冠を獲ってみせた。
天才、帝王、奇跡、不屈、不死鳥。誰よりも波乱に満ちた道程をことごとく乗り越えてきた、そんな彼女の生き様を称える代名詞は誰よりも多いと言えるだろう。
「行くよ、ティア……! キミの力、見せてもらうから……!」
「くっ……! 本気ですか、テイオー先輩っ……!」
(どうしてこんな事になったのだろう)
そんな偉大なる彼女は、シンボリルドルフの目の前で昨日出逢って意気投合したばかりの後輩へ、烈火の様な感情を燃やしていた。
別にドロップスティアーが失礼な事をしてトウカイテイオーに嫌われたとか、トウカイテイオーが急激な乱心を起こした訳では無い。大本の原因は、シンボリルドルフにあった。
『ねーねーカイチョー! ティアちゃんってどんな娘!? どんな走りで、なんでスカウトされたの!?』
遡ること昨日、ドロップスティアーを理事長室まで案内したシンボリルドルフは、生徒会室へと向かった。初対面にしてドロップスティアーの事を気に入ったトウカイテイオーも、それまでずっとシンボリルドルフと共に付いてきていた。
トウカイテイオーは理事長室に行くまで、学園内についての案内や説明をドロップスティアーに意気揚々とこなしてくれていた。ドロップスティアーもそんな親切で優しく明るい先輩に、強く懐いて顔を輝かせていた。
が、その後。ドロップスティアーの転入手続きを進める為に足早で生徒会室へ向かう途中、シンボリルドルフは極めて簡潔にドロップスティアーと自分の経緯を話した。
『旅行先で無敗のウマ娘が居ると聞いた』
『興味が湧いて実際に会い、一緒に走った』
『一言で言い切れない負け方をしてしまった』
そう、極めて簡潔に。スカウトするまでの経緯も長いし、生徒会で早急に仕事をする必要もあった。故に生徒会室に到着するまでにトウカイテイオーへ話せたのは、概要の三つだけ。
まぁ、これでテイオーもドロップスティアーへより興味を持ってくれるだろう。後日落ち着いたら、改めて笑い話として説明しよう。そう思って、シンボリルドルフは生徒会室でトウカイテイオーと別れた。
が、それが良くなかった。
『カイチョー! ウソだよね、負けたって!』
最低限の仕事を急ピッチで終えたシンボリルドルフは門限ギリギリ、寮へ戻る最中に再びトウカイテイオーと出会って質問された。
本当の事だよ、それでスカウトしたんだ。いたって敗北感を感じさせない様に、シンボリルドルフは朗らかに笑ってそうとだけ答えた。思い返しても、面白い負け方だったから。
単に負けた訳では無い、何か理由がある。テイオーの読解力ならば自分の余裕のある笑みからそう受け取ってくれるだろう、そんな信頼から答えた。
それがさらなるボタンの掛け違いを引き起こすとも知らず。
『カイチョー! ティアと走らせて、仇討ちするから!』
今朝、シンボリルドルフと出会ったトウカイテイオーが開口一番にした言葉がそれだった。
あ、やらかした。シンボリルドルフはその瞬間、自分の言動と行動が完全に自分とテイオーとの認識に致命的なズレを引き起こした事を理解してしまった。
学園内外でも常識レベルに周知されている事だが、トウカイテイオーはシンボリルドルフを慕っている。夢の原点であり、永遠の憧れであり、超えるべき壁。
そんな存在が敗北を認めた。それも笑って――完全に納得したと見える形で。実の所なんかもう色々な心労を積み重ねていたシンボリルドルフは、自分の言動を客観視出来ていなかったのだ。
「ティア、ボクとキミは良い関係を結べると思う……だけどね! ここでボクが走らなかったら、そのスタートラインにすら立てない! ……だからこの勝負、逃げないでほしいっ……!」
「……テイオー、先輩っ……」
(私のせいだろうな、うん。私のせいだった)
そして時は今に戻る。ドロップスティアーは転入手続きの最中で、施設を借りる権利を持たない。
実際に学園内のレース場を借りるには、転倒などのアクシデントをいち早くフォロー出来る第三者の許可と同伴が必要だ。なのでトウカイテイオーは、先帝の無念を目の前で晴らす為にもシンボリルドルフにレース場の使用許可を要求してきたのだった。
現役にして絶対の生徒会長たるシンボリルドルフの監視下であれば、ほんの一レースの間だけ許可を出す事など問題にならない。一石三鳥、公私の問題全てをクリアする一手。”帝王”の閃きは、直情的に見えてその実完璧な解を導いていた。
肝心の問題が、テスト用紙一枚分ぐらい根本からズレている事を除けば。
「……あー……その、なんだ、テイオー。確かに私は負けるには負けたが、その辺りは実際に話した方が早くてね……ティア君もまだここに不慣れだし、一度落ち着いて……」
「カイチョーなら分かるでしょ? ボク達にとっては百の言葉より、一度走る方が伝わるモノがある……ボク達ターフで命を懸けている者にしか、わからないモノがあるんだよ!」
(ダメだこれは)
ジャージ姿のトウカイテイオーからレース前にも劣らない熱量の闘気が迸っているのを感じて、シンボリルドルフは完全に説得を諦めた。諦めざるを得なかった。
数々の死闘を経てきた彼女は、感情的な性格に反して自身の熱を完全に制御出来る理性を持つ。だが今回はその理性が”ドロップスティアーを見極める”という一点にのみ注がれてしまっている。
トウカイテイオーはシンボリルドルフが本来の意味――真っ当なレースで負けたとは全く考えていないし、贔屓目無しでも確信していた。だが、なんらかのハンディキャップを背負い、その上で敗北を完全に認めさせた。そう受け取っている。
だからこそ、その理由を知りたい。”絶対”に有り得ない敗北、それを見極める為には一度走る方が早い。これ以上無くシンプルで、アスリートとして当然の欲求。
(……凄まじい既視感だ)
”絶対”を覆すウマ娘と、その走りへの興味。真意を確かめる為の勝負。
ぶっちゃけ今のトウカイテイオーは、先日のシンボリルドルフと全く同じ状況だった。
「ティア君、君もここに来て走るのは初めてだろう。無理をする事は無い、テイオーには私から説明するから――」
「……ダメですよ、ルドルフさん。自分は、逃げちゃいけないんです」
「――ティア君?」
「『命を懸けている者にしかわからない事がある』――テイオー先輩の言葉は確かです。そんな本気の先輩から逃げたら……自分は、二度とあの人を”先輩”と呼べないッ……!」
(ダメだこれは)
もう一方、テイオー同様に貸出のジャージを着たドロップスティアーも、真剣味と緊迫感の極まった表情を浮かべている。正に不退転、ここで退く事は自分自身が赦さない。そんな顔立ちをしていた。
なまじドロップスティアーがトウカイテイオーに懐いていたのも逆効果だった。完全に、テイオーの熱意にあてられている。掛かってしまっている。少し落ち着きを取り戻せると良いのだろうが、原因であるシンボリルドルフの言葉では無理だった。
どうにもならない。別に死ぬ訳でも無いし、好きにさせよう。なに、テイオーなら確かに一度走ればドロップスティアーの走りを――完全なるレースの素人である事を理解してくれるだろう。
シンボリルドルフは、全ての思考を投げ捨て成り行きを傍観する事にした。なるようになれ、実に”皇帝”らしからぬ精神の極致に陥ってしまっていた。
「ティア。キミがカイチョーに勝ったと言っても、流石にただで勝ったとは思ってない。だから、ハンデはあげるよ」
「……ハンデ、ですか?」
「うん。何メートルでも何秒でも、どんなハンデでも。好きなだけキミが決めていい。……必ず、ボクはそれを覆してみせるから」
しかしトウカイテイオーとて、何も別にかわいい後輩を本気で叩き潰すつもりは無い。なのでテイオーは、主導権をドロップスティアーへ委ねた。
未デビューのウマ娘はスピードが足りない。スタミナが足りない。パワーが足りない。シンボリルドルフに勝ったという以上、そのドロップスティアーはその何れかにおいて特化し、中等部から逸したウマ娘なのだろうとトウカイテイオーは睨んでいた。
故に、その土俵に乗る。ドロップスティアーというウマ娘の真価が発揮される条件を提示させ、見極めた上で勝利する。それが今回のトウカイテイオーの狙いだった。
「――……」
好きなハンデを貰える、そう聞いたドロップスティアーは真剣な顔でレース場を眺め始めた。
空気が一瞬ひりついたのをトウカイテイオーは感じる。未デビューの中等部でありながら、彼女は勝つ為の答えを見出す為に、真剣にこのコースを見やっているのだ。
本気で勝つ気の者にしか感じられない闘志。それを見たトウカイテイオーは、笑みを深めた。
”皇帝”に勝ち、”帝王”にも勝とうとしている。未デビューのウマ娘では有り得ない闘志は、確かに彼女の実力と自信を感じさせてくれる物だった。
まぁ、ドロップスティアー本人はトゥインクル・シリーズの”帝王”を知らないのだが。
「……ルドルフさん。ゴールって、あの向こう側にあるアレです?」
「む? ……そうだな、丁度ここから真反対の、あのゴール板だね」
少しの思案の後、ドロップスティアーはシンボリルドルフへ質問を投げた。
今三人が立っているレース場は、極めてオーソドックスな平地の練習場だ。坂も癖の強いコーナーも無い、500メートルのホーム・バックストレッチの直線と、400メートルのコーナー。
直線とコーナー二つずつ、合わせて1800メートル。選抜レースやメイクデビューでの距離感覚を養う為のこのレーンは、特徴が無いのが特徴と言えるだろう。
そしてドロップスティアー達が今居るのは、ゴール板とは反対側にある直線の入口だ。
「……決めました。テイオー先輩、一番内側を自分に下さい」
「まぁ、当然だね」
最内枠、一番。特にバ場状態が悪くなければ最も有利なポジションを、ドロップスティアーは要求する。
余程の事情が無ければ、どんなウマ娘も望むだろうスタート地点。ハンデといえば真っ先に思いつくだろうそれを、トウカイテイオーは当然受け入れる。
その次。次にドロップスティアーが提示するだろうハンデこそが、この勝負の本質だろう――
「
「――えっ?」
「自分が最内でここからスタート。先に向こうのゴール前を抜けた方が勝ち。……それだけが、自分がこの勝負で要求するハンデです」
そう思っていたトウカイテイオーの思考が、一瞬で打ち切られた。
最内が欲しい。それ、だけ?
「……ティア、対等を望むキミの姿勢はスゴいと思うよ。だけど、これは勝負だ。言っておくけど、
空気が張り詰める。トウカイテイオーから発せられた圧力は、静かながらも重みを持ってドロップスティアーへと叩き付けられた。
リードも時間も貰う事無く、横並びでスタート。それは、純粋なレースで勝負すると言っているのと等しい。
その度胸や良し。だが、全くのハンデ無しで”帝王”に挑むというのであれば――加減はしない。紛れもない強者の風格を立ち昇らせて、トウカイテイオーはドロップスティアーを真っ直ぐ見据える。
ドロップスティアーは、視線を逸らさなかった。
「……テイオー先輩は、強いです。何も知らない自分でも分かるぐらい……ルドルフさんに近い、空気を感じます。だから――」
ドロップスティアーは”帝王”を知らない。っていうか知ってる事の方が少ない。
だが、”トウカイテイオー”の強さは分かる。今の闘志に満ちたトウカイテイオーから感じられる力は、山の麓で出会った時のシンボリルドルフよりも遥かに上だ。
あの山道勝負のラスト、全力のシンボリルドルフから感じられた圧。それにも近しい、全身の産毛が逆立つ様な感覚。それに近いモノを、ドロップスティアーは今感じている。
――だからこそ。
「――この勝負。本気で、勝ちに行きます」
ドロップスティアーは、己の全力を見せる事にした。
ルドルフ(なにこれ) ←温度差についていけない皇帝