「カイチョーッ、準備いーいーっ!?」
「ああ、まぁ……」
準備も何も、今回シンボリルドルフのやる事は正直あまり無い。
ただ走りを見るだけな以上、わざわざゲートを用意する事も無い。シンボリルドルフのやる事は、ホームストレッチのゴール前に立って笛を構え、どちらが先にゴールしたかを判定するだけ。
しかし、相も変わらずドロップスティアーの言う事は予想出来ない。
『本気で勝ちに行きます』
彼女は本気で、トウカイテイオーに勝つつもりだ。ハンデ無し、レース場未経験、ぶっつけ本番。この状況でドロップスティアーの勝機など、欠片も無い。
ドロップスティアーの武器は、過酷な山道を毎日走る事で鍛え上げられた坂路への強さと、地元の山を知り尽くした特有の走法、そして失敗すれば即大怪我の
だが、明確に勝っていると言える要素はその三つのみ。地方トレセン学園の生徒達に対して”近道禁止”でも勝てる程には身体は仕上がっているが、この
(一・二
バックストレッチからゴール前まで、500メートルの直線二つと400メートル続く右コーナー。強いて言えば末脚勝負となるだろう、シンプル極まりない芝の短距離平地レース。
平地で直線が長いという事は、純粋な地力勝負だ。彼女の住んでいた駄菓子屋は麓から道路の距離にして2000メートル程と聞いている、つまりスタミナ的には全く問題が無い――様に、見えるだろう。傍から見れば。
だが、彼女はレースを知らない。芝の感触すら知らない。平地の直線でウマ娘がどれだけ速度が出せて、どうやってコーナーでその速度を維持するのか、その二つの狭間で体力をどう配分するのか、何も分かっていない。
そして自分のスタミナ任せに遮二無二全力疾走した所で、トウカイテイオーに勝てる訳が無い。ウマ娘の為に整えられた芝のコースは、コンクリ仕立ての舗道とは比べ物にならない最高速度を出せる様に出来ている。
(直線が長い以上、どれだけスタートダッシュを早く切ろうがテイオーは必ず捕まえる)
そして末脚の切れ味において、トウカイテイオーは随一を誇る。三度目の骨折を経てかつての力は出せなくなったと言われている、それでも有馬記念でビワハヤヒデと競り合い差し切った地力と底力は健在だ。
テイオーが最後まで様子見に徹しようが、最終直線でテイオーは確実に抜きに行き、あっさりと差し切る。シンボリルドルフにはそういう未来が見えていた。
(……何かあるな)
しかし、このレースがそんな簡単に終わる訳が無い。未来は目に見え透いている、そんなシンボリルドルフの目測を完全に見誤らせたのがドロップスティアーというウマ娘だ。
ドロップスティアーは絶対に弱い。シンボリルドルフやトウカイテイオーの足元にも及ばない。しかし散々に想定外の事をやられたとはいえ、実際に負けたのはシンボリルドルフだった。
色んな意味で未知数と想定外のウマ娘が『勝ちに行く』と言った以上、何らかの勝算があるのだろう。
だが、どうやって。彼女の武器は、此処には何も無いのに。
「カイチョー、こっちの準備はいいよーっ!」
「笛、お願いしまーすっ!」
ドロップスティアーの狙いを考えていると、反対側のバックストレッチから二人の声が上がる。どうやら二人共、準備運動は終わったらしい。
あとはシンボリルドルフが笛を鳴らせば、この勝負は始まる。ドロップスティアーは最内、その一つ隣にトウカイテイオー。二人はスタンディングスタートの構えで、いつでも飛び出せる様に構えている。
ドロップスティアーはクラウチングスタートの構えも取っていなかった。シンボリルドルフは山道勝負で使われた技の一つを思い出す。
彼女の事だから、『禁止されてないから』とやるかと思った。そうすれば少なくともスタートだけは優勢を取れるのに、それも使わない。まさか、本気で真っ向勝負するつもりなのか。
――『禁止されてないから』。彼女が言いそうな言葉が頭に過ぎった時、何故だかシンボリルドルフはとんでもなく嫌な予感がし始めた。
「……鳴らすよーっ! 位置についてーっ!」
ともかく、自分が笛を鳴らさなければ勝負が始まらない。シンボリルドルフは二人に聞こえる様に叫んだ後、笛を口に咥えて構えた。
ゲートは明確に決まったタイミングで動く訳では無い。公平性と実際のレースを考え、シンボリルドルフは笛をすぐには鳴らさず、焦らす様に待たせる。
九秒程で良いか。シンボリルドルフは自分が笛を鳴らすタイミングを決め、自分の中だけでスタートまでのカウントを始めた。
三、四、五。いつ鳴るかも分からない笛に対し、トウカイテイオーもドロップスティアーも目はやらない。ただ眼前のレーンにのみ集中し、スタートを待つ。
六、七、八。いつ鳴るかも分からない合図に対し、集中力という弓の弦が引き絞られている。
――九。シンボリルドルフが、笛を大きく鳴らした。
「「ッ!」」
二人は、ほぼ同タイミングでスタートダッシュを切った。
ドロップスティアーのスタートダッシュは、驚く事にトウカイテイオーと殆ど同レベルだった。思えば彼女は、信号機の音を目安にスタートをする勝負のみを積み重ねている。
その分、音でスタートを切る事は上手いのだろう。しかし、ここからどうする気なのか。
「行きます、テイオー先輩ッ!」
シンボリルドルフがそう思った瞬間、ドロップスティアーが叫び。
「――へっ?」
ドロップスティアーは自分のスタートダッシュの勢いを、そっくりそのまま
「はいっ?」
レーンの内側。つまり、未整地のダートが広がるだけの空間。
ドロップスティアーは、コースを
「……ウソでしょぉぉぉッ!?」
トウカイテイオーの絶叫を背に受け、ドロップスティアーは自分だけの領域を走り抜ける。
ここで言う所の領域とは、一流のアスリートのみが到達出来る極限の集中状態とは当然違う。本当にドロップスティアー以外誰もいない、誰も走らない、走ろうとすら思わない。レースを走るコースの外――正確には内側なのだが――、空白の領域だ。
ドロップスティアーはまるで迷いを見せず、ゴール板への完全な最短距離を突き進む。他の入り込む余地の無い、不可侵の筈の領域。
シンボリルドルフは
「ッ、しぃっ!」
正真正銘、完全なる最短距離をブチ抜いたドロップスティアーはゴール板前のラチを両手で掴んで飛び越えて。
着地と同時に流れる様な旋回を見せ、勢いをなるべく殺さないままシンボリルドルフの前――ゴール板を通過した。全く減速の無い、無駄に高度なハードル技術だった。
「――ちょーっと、待ったぁぁぁッ!!」
そしてそれから一分も必要とせず、全速力でコースを駆け抜けてきたトウカイテイオーが顔を引き攣らせてゴールまでやってくる。
有馬の奇跡のラストスパートにも劣らない、”帝王”の脚。その全力全開でトウカイテイオーはレーンを駆け抜けてみせた。心の底からの叫びを秘めて。
「こんなッ……こん、なッ……!」
「……ふぅ。自分の勝ちですね? トウカイテイオー先輩」
「こんな勝ち方は無いでしょッ!?」
全開で1400メートルを駆け抜けて来たトウカイテイオーは肩で息をしながら、涼しい顔で勝利宣言をしてのけたドロップスティアーに全力でツッコミを入れた。
それもそうだろう。対等・本気の真剣勝負を望んだ筈の後輩が、思いっきり全力で反則中の反則をかまして来たのだから。
だが、ドロップスティアーというウマ娘を知るシンボリルドルフは苦笑いを浮かべるしか出来なかった。そういえばこういう娘だった、と。
「カイチョー、今のダメでしょ! いくらなんでも……無いでしょ!? 反則じゃん!」
「……済まない、テイオー。これは、
「えっ」
だからこそシンボリルドルフは、極めて苦い心境でありながらも不公平極まりないジャッジを下さざるを得なかった。
レースにおいて、ラチの内側を横断するなどそれこそ言語道断。というか、実際のレース場は内側に数々の障害物があり、こんな真似は出来ない。
だが、此処では出来る。そして、
「普通のレースなら当然反則だが……彼女はここまで一度も
「はい」
「えっ、えっ」
そう。ドロップスティアーは
レースなら反則だった、しかしこれはレースではないただの勝負。よって、レースでの反則はこの勝負中には当てはまらない。ドロップスティアーの迷いの無い返答は、紛れも無い故意的な犯行である事を示していた。
「そしてティア君は、この勝負で『最内を貰って、
「えっえっ、えっ」
そして、問題となるのはテイオー本人から貰ったハンデの内容。
最内を貰い、ゴールする。それだけがこの勝負に与えられたハンデであり、同時に
トウカイテイオーはドロップスティアーに好きなハンデを許した、審判役であるシンボリルドルフの前で。そして二人とも、ドロップスティアーの提示したハンデを認めている。
ドロップスティアーが言った『それだけ』という言葉は、この勝負をレースという形式からルールを”ゴールするだけ”に変更する為の、悪魔の一言だったのだ。
「……実の所、この勝負には大きな穴がありました。そういう意味ではこの勝負、ルドルフさんよりテイオー先輩の方が恐ろしかった……」
「い、いやいやいや! 何完全に終わった感じの雰囲気出してるのさ、認められないんだけどこんなの!? っていうか、ゴールまでまっすぐ突っ走る相手に勝負もへったくれも無いでしょ! 穴って何!?」
心底恐ろしかった、辛勝だったと言わんばかりの空気を漂わせるドロップスティアーに対し、トウカイテイオーは全力で抗議し続ける。それもそうだ、テイオーは本当の本気で目の前の後輩の実力を見極めるべく、レースを挑んだつもりだったのだから。
しかしシンボリルドルフはドロップスティアーの言うこの勝負の穴――つまり、ドロップスティアーが想定している負け筋の方が気になっていた。
「ティア君、その穴とはなんだ? やはり私同様、ショートカットを追走される事かい?」
「それもありますが、テイオー先輩にはもう一つこれ以上無い勝ち方がありました。それに気付かれていれば、自分は完敗していたでしょう……」
「カイチョー!? ちょ、ちょっと待って、話流さないで! 審議! 結果を確定しようとしないでよ!?」
必死のトウカイテイオーの心境は察するに余りある。何せ今のテイオーは先日のシンボリルドルフその物の、理不尽な負けを喰らっているからだ。なんなら模擬レース場という立地上、ルドルフより納得がいかない事だろう。
だが、こればかりは相手が悪い。ドロップスティアーはこういうウマ娘なのだと、確かに彼女は走りで見せつけた。なのでシンボリルドルフは敢えて抗議を無視し、彼女の言うテイオーの勝ち方を聞く事にした。
「シンプルな事です。
「……逆走?」
「スタートと同時に反転して、あの逆側のコーナーだけを走る。このコースに慣れた皆さんなら、自分が直進するよりも早くゴール出来るでしょ?」
当然の事の様に言い放ったドロップスティアーの発言に、二人は石化した。
そう、この勝負には実質的なルールが全く存在しない。故に、
スタートの直線から三・四角へ向かうのでは無く、背後にある二・一角の400メートルだけを全力で走る。確かに芝のコーナーを駆ける訓練を十分に積んだ中央のウマ娘であれば、未整備地帯を横断するドロップスティアーより速くゴール前を駆け抜けられるだろう。逆方向に、だが。
そんな発想ある? 仮に思い付いたとして、勝負でやる? 皇帝と帝王は、二人揃ってドロップスティアーのアイデアに同時にこう思った。
バカげている、と。
「……カイチョー……」
「……諦めてくれ、テイオー。私も同じだった」
縋る様なトウカイテイオーの瞳に、シンボリルドルフは同情と同調の視線を寄越した。
走りでは無く、ルールで勝つ。レースで勝てない相手には、同じ
恥も外聞も無く、常識を欠片でも持っていれば思いつかない・やらない行為。そんな事を平然とやらかす、無知にして未知のウマ娘。シンボリルドルフもまた、そんな”未知”の被害者だった。
此処にはドロップスティアーの武器は何も無かった。だが、コースの内側とレースの常識が”何も無い”事、それこそがドロップスティアーの唯一の勝機であり武器だったのだ。
「……ねー、ティア? レースでこんな事、普通やんないよね?」
「えっ、当たり前じゃないですか。実際のレースでこんなのやったらルール違反でしょう?」
じとっとした目でトウカイテイオーが問うも、ドロップスティアーは不思議がるだけだった。
そりゃ当たり前でしょ、ルール違反でしょ。先程やらかした自分の行為を忘れたかの様に、心底からの声色でそんな風に言ってのけた。なんなら小首を傾げていた。
この時、トウカイテイオーは完全に理解した。この娘、とんでもない大バカなんだ、と。自分の行動に自覚がある分、ゴールドシップよりタチの悪いバカなのだと。
「……テイオー先輩……ありがとうございましたっ!」
「ワケわかんないよーーーッ!」
ある意味彼女の代名詞たる叫びが、虚しく三人のみのレース場に木霊する。
トウカイテイオーはこの日。常識の埒外にのみ存在する敗北を喫した。
Q.このバカ主人公は永遠に反則し続ける気なの?
A.あくまで勝負のルールに則っているだけです。
テイオーがかわいいけどかわいそうなので明日も更新します。