「――どういう意味だい?」
「どういう意味も何も。言った通りです、ルナさんは自分に勝てません。そんな事を言ってる以上、絶対に」
山から降りてきた温い乾風が、二人の間を吹き抜けて髪を揺らす。
シンボリルドルフ、ドロップスティアー。二人の間にあった空気は、たった一分にも満たない時間で急速に温度を下げていた。
「……これでも私は、ウマ娘のレースに出ている身でね。自賛のようで悪いのだが、三バ身というハンデを君から受ける程遅いつもりは無いよ」
静かに、しかし秘める闘争心を僅かに燃やし。シンボリルドルフは、ドロップスティアーへ言い放つ。
地方と中央の差、トレセン学園の所属の差。それらの差がちっぽけと言える程、両者の力量には差がある。挑発に近い言動を受けても、シンボリルドルフの頭脳と瞳は冷静にそれを見極めていた。
目の前のウマ娘は、それこそ絶対に自分より弱い。そもそも走りにおいてシンボリルドルフを超えるウマ娘などそういないのだが、それは別問題としても純然な事実だと確信している。
「ええ、ええ。伝わってきますよ、ビリビリって。学園のあの娘達とは比べ物にならないぐらい、貴女は速い。そんなの、最初から雰囲気でわかってます」
”皇帝”という存在を知らないながら、ドロップスティアーもまたシンボリルドルフの力量をある程度は察していた。
シンボリルドルフの今の格好は全身を覆うジャージ姿だ。有名が過ぎる顔を除き、強さを察する事の出来る要素――付いている筋肉や身体のバランスなどは、解らない装いとなっている。
その上で、ドロップスティアーを感じていた。一流のアスリートが見せるというオーラに近い、そんな不明確なモノを、直観的に。
「でも、お姉さんは
その上で、滔々と言葉を連ねる。まるでセミナーの教師が生徒に、講習をする様に。
「だから簡単に言えるんですよ。先行がハンデなんて、
「……なんだと?」
その物言いが、ついにシンボリルドルフの口調に棘を生やす。『三バ身差が甘い』。
一バ身、二分の一バ身、アタマ、ハナ。レースの中でそれらの差を競って鎬を削ってきたアスリートとして、そこに涙を流す多くのウマ娘達の姿を見てきた者として。その言葉だけは、聞き逃せない物だった。
「ルールは今言った三つだけです。難しい事はありません、ただルナさんが最初に位置を決めて、最後にゴールした方が勝ち。これは何があっても譲りません」
「…………」
シンボリルドリフがつい漏らした怒気を受けても、ドロップスティアーは頑として意見を譲ろうとしない。単純明快にして、ただ一点を除き公明正大なルール。
三バ身差を背負うか、背負わないか。それを
(傲慢な自信……では無いな)
一度も負けた事が無いからというただの自信家ならば、最初から『ハンデとして自分は後ろから走ります』と言うだろう。それに初対面ではあるが、第一印象では傲慢な娘と感じられなかった。
グラウンドで話した四人も、このウマ娘に対して対抗心を抱いてこそいたが、敵対心は抱いていなかった。代わりにえらくバカにされ――呆れられていたが、ともかく知人にも悪印象を抱かれていない。
それに、このルールの理由は相手の安全を最初から前提にしていた。態度の急変に関してはプライドに触れた可能性はあるが、それでも有利な選択を最初から譲っている事に変わりは無い。
(後ろを走る場合のメリット)
シンボリルドリフは無言のまま、しかし実時間を何倍にも圧縮した様な思考速度で”位置”その物について焦点を向けた。
いわゆる後方脚質のウマ娘の強みは、判断力だ。十人以上のウマ娘が高速で前へと疾走する中、脚の消耗を抑えつつ状況を伺い、自分で思考して仕掛けるポイントを決められる。
強い追込バによるロングスパートや強烈な末脚から、後方脚質は豪快な印象を持たれやすい。だが、後方のウマはその脚力を最大限に活かす為の、後の先を取る思考こそが最大の武器だ。
「君は、先行でも後行でも良いのかい?」
「えっ、はい。どっちでも、先にゴールすれば良いのは変わりませんし」
三バ身という強烈な差を一旦忘れ、シンボリルドリフはドロップスティアー本人の意向を聞いてみる。あまりにもあっけらかんとした答えには、こちらを騙す
間違いなく有利な先行を相手にわざと選択させて、掛からせる。その上で後方から追い上げる事で動揺を誘って、スタミナの消耗を迫る。中央のレースでも用いられるような、そういう作戦かと思った。
しかし、そんな策に拘っている様子も無い。そもそも掛からずに三バ身差を詰めさせなければ、そういったトリックは無駄に終わるのだ。
だが、ドロップスティアーは『絶対に勝てない』と確信めいた断言をしている。その真意が、どうしても掴めない。
「……わかった。なら、先行でいいかい? 折角の配慮だ、有り難く貰う事にするよ」
「オッケーですよ。じゃ、ちょっと距離取りますねー」
長考の末、シンボリルドリフは結局先行を取る事にした。後ろを取ってどういう走りをするのか見たいという興味もあったが、それ以上に『絶対』の意味が知りたかった。
シンボリルドリフの強さを薄々察しながらも、三バ身差を詰められると断言した『絶対』。それが本気ならば、是非やってみせて欲しい。出来なければ、地方でよく見られる
それでも、もしかしたら。きっかり三バ身分の距離まで後ろに離れるドロップスティアーの背に、シンボリルドリフは僅かな期待を抱いて心を僅かに高揚させた。
「ルナさん、準備運動してからスタートします? この山道、自分で言うのもなんですけどめっちゃキツいですよ」
「いや、身体は軽く温めてある。少しストレッチをこなせば、すぐ始めてもらって構わない」
「それじゃー、自分が準備運動を終えた後の青信号でスタートで良いです? あんまり待たせないので」
「ああ。焦らなくても良いよ」
一時冷えて尖った二人の空気は、既に霧散していた。おいっちにー、おいっちにーと声を出しながら可愛らしく準備運動をするドロップスティアーを横目に、シンボリルドリフも太腿や脹脛、腕や脚関節周りの筋肉をゆっくり伸ばしていく。
目の前のウマ娘に会うのが一番の目的ではあったが、生徒達が勝負の場として選んだこの山道を軽く走ってみる事もシンボリルドリフの目的の一つだった。その為、事前にウォームアップは十分に済ませてある。
とはいえ、元々休暇でこの地に来ている身だ。下手に無理をして身体を痛めるなど言語道断であり、未知の道を走る以上全速で登るつもりは無い。目の前のウマ娘を侮るつもりは無いが、流すつもりで走ろうと思っている。
――あっ、
「……よーっし、オッケー! いつでも行けますよ、ルナさん!」
「準備万全、こちらも良いよ。……信号は、赤か」
最後に大きく背を伸ばし終え、ドロップスティアーは漲らせたやる気を表す様に笑顔で小躍りしていた。
先程見せた攻撃的な笑みはもうどこにも見られない。ハルウララの様だな、今のドロップスティアーを見たシンボリルドリフは、明るさの代名詞である生徒を思わず想起した。
「周期的に、あと三十秒もせずに青になりますよ。次のでスタートして良いですか?」
「ああ。……なら、喋るのはここまでにしようか」
「はい」
それを最後に、二人は完全に口を閉じる。シンボリルドリフとしては、これは少し意外だった。
ちょっとしたトリックとして、会話で信号機の音を誤魔化してスタートを躓かせる、という想像もしていた。それだけでどうこう出来る力量差では無いが、三バ身という差を埋めるにあたり仕掛けは一つでも多い方が良い。
解らない。どれだけ考えても、『絶対』と断言する程の自信が、根拠が、真意が。全く解らないままに、それでもシンボリルドリフは聴覚を集中させる。
すぅー、はぁー。後ろからドロップスティアーの、大きな深呼吸が聴こえる。下らないトリックは仕掛けない、そんな意志を確信出来る程の集中がその息遣いにはあった。
(そろそろ、か……?)
信号に目をやる。
点滅している。
スタートが。
(……来る)
――ぱっ。
「っ!」
音の鳴り始め、最初の周期の終わりよりも遥かに早く、速く。シンボリルドリフとドロップスティアーは、全く同時のスタートを決めた。
シンボリルドリフにとっては、上の下程度のスタート。いつも練習に使うゲートやホイッスルでは無い為に会心とまでは行かなかったが、それにしては十分な出だしと言える。
シンボリルドリフの上の下に、後ろのウマ娘は合わせて来た。ホームコースで慣れているのだろう、それを差し引いても良い集中力だと評価する。
だが。
(流石に、付いては来れないか)
山道を走る為のスタミナの温存と、休暇で無理はしないという自戒。それによるシンボリルドリフの今の走りは、平常のおよそ四割程まで抑えている。
それだけ抑えていても、後方のドロップスティアーの足音は離れていく。麓の今の道路が勾配の緩い、ほぼ平地である事も大きい。同レベルのスタートを切りながら、あっさりと二人の差は開き始めていた。
当然、山を走り切る為に向こうも最初は脚を抑えてはいるのだろう。だが、同様に脚を溜めているならば尚更差は歴然だ。
向こうは本気を出してくるだろう、しかしシンボリルドリフにはいくらでも余力がある。無理はしないとはいえ、何らかのイレギュラーがあれば少し余力を引き出せば良い。
故に、尚更解らない。この勝負における、『絶対』が。
(第一コーナー……と呼ぶのも変だな)
一ハロン程の緩い直線の終わりが見え、最初のコーナーがやってくる。山に生えた木々が邪魔をして、先を見通す事は出来ない。
レース場でも無いただの道路は、大量のコーナーがあるだろう。強引に拓かれただろう山道ともなれば、尚更だ。それを一だの二だの、数えるのはバカバカしい。
シンボリルドリフはゆっくりと曲がる。緩い坂を、見通しの利かないカーブを、ゆっくりと。
そして、緩く長い曲がり角を終えた先で。
「――なっ」
なんだ、これは。思わず、そんな声が出そうになった。
シンボリルドリフはそれを見た。
およそ百メートル程だろう短い直線。そこには、目算にして
作者はこの小説の為に実際に同レベルの急坂をダッシュしました。
即日に足がガタガタに震え出し、翌日に筋肉痛で死にました。