――マリーシア、と呼ばれる技術がある。
サッカー用語の一つで、ポルトガル語では”狡猾さ”を意味する言葉。これはサッカーで、自分が反則を相手から受けたと大袈裟に審判へ訴えて、相手の
だが、
サッカートレーニングの最中、ドロップスティアーのやらかす傍若無人のプレイに対し、ちょっとだけ怒った社会人サッカーチームは、軽い悪戯気分でそれを仕掛けた事がある。つまり、パスを受けた直後の彼女に対し、審判から見えない位置で軽く尻尾を触って動揺を誘ってみた。
『ひゃあぁんっ!?』
そんな甲高い悲鳴を上げてボールを取り損ねて、顔を真っ赤にして睨んでくる女学生の姿を見て。……当時のグラウンドには、とんでもなく気まずい沈黙が流れた。
そんな一幕はさておき。ともかくバレにくいプレイという物は確かに存在する。そしてドロップスティアーは、その一点においてどんなウマ娘よりも真剣に思案・追究する。
だからこのレースで、
「わっ!?」
「ひゃっ!?」
最終コーナー、まともなピッチ走法でイン側を爆走する最中。先行集団でイン寄りを締めていたウマ娘数人に対し、ドロップスティアーは
自分の体で接触・押圧する事は、いかに膨れやすいコーナーと言えど反則と取られる可能性がある。なので相手の姿勢に直接影響を与えない、そういうギリギリを追求した結果、このプレイの可能性に気付いた。
コーナーで仕掛けたスパートの勢いによって、尻尾を外側へと流す。遠心力によって自然と振られるそれを、インを走る近くの相手に対して軽く当てながら抜ける。
レースの終盤、最終直線に至る直前、集中を高めながら遠心力に逆らい曲がっているだろう最中。この僅かな
それにより、普通以上に先行集団達は外へとヨレてしまった。その結果、キングヘイローから見て”壁”としか思えない、とんでもない横広がりの展開に繋がったのである。
「アイツ恥とかねーんかな」
そう言う名入もこのアイデアを事前に聞かされ、ゴーサインを出していた。そして実際に起きた目の前のプレイは、名入の思った以上にイン側のウマ娘達を動揺させる事に成功していた。
しかも、名入が居るホームストレッチ側からは
ドロップスティアーが先頭集団の隙間を縫う様な超イン突きをやったのは今日が初めてだ。というか、重バ場のレースすら今日が初めてだ。
ぶっつけ本番、一発勝負。そういった所で、ドロップスティアーはミスをしない。考えていた通りの事を、考えた通りにやってのける。何食わぬ顔で。
「……とはいえ。こっからが本番、だな」
当初考えていた以上にドロップスティアーの最内追込は先行集団を膨らませる事に成功し、コーナー終わりで見事に差しウマの走る場所を塞ぐ壁を作り上げた。
キングヘイローの広い視野に対し、鋭角コーナリングによる一瞬のカッティングによって意識を奪い、動揺させた。ここまでは、完璧なまでに予定通り。
だが。十回やって十回負ける、そう評する相手に
「――はあああッ!!」
ドロップスティアーは最終コーナーで先行集団を外に大きく膨らませながらフル加速、斜行を取られない前後距離を取ってから最内の不良バ場より抜け、傍の最も速く走れるラインを取っている。
キングヘイローはそれに対し、大外へ回らされた。だが、遠心力を使って内から外へ出る事で、加速力を得た。そしてそのまま、200メートルの坂に入る。
当然キングヘイローは苦しい。想定外の事を重ねられ、最悪のロスを強いられ。心理的にも身体的にもしんどい、そんな状況で坂を登らされる羽目になった。
だが、それでも。今日のキングヘイローは、絶好調だったのだ。
《大外キングヘイロー! キングヘイロー、凄まじい脚で上がってくる!》
東京レース場、最終直線。重く脚が取られるこの場でも、キングヘイローの脚は完全には死んでいなかった。
ドロップスティアーはコーナーを最内で抜け、得意な坂を誰よりも速く登った。先行集団を抑えて走る形で、大きくリードを作ってスパートしている。
しかし、それでも尚。キングヘイローは坂の中腹からどんどんと加速し、大差にも等しい彼我の距離をその切れ味でぐんぐんと詰め始めていた。
「かー、マジでデータ以上に速ぇー。ったく、もう少しは余裕出ると思ったんだがなー」
コーナーと坂で出来た差。そこから300メートル、キングヘイローは脅威とすら言いようがない追い上げを見せていた。
先頭の壁を大袈裟に避けさせた時点で、こちらのイン突きが完璧に決まった時点で、普通のウマ娘なら決着が付いていた。だが、相手はキングヘイローだった。それも、絶好調と言って良い完璧な仕上がりの、だ。
ドロップスティアーは直線が弱い。ストライド走法より劣る歩幅で、十分にパワーを伝えきれない歪んだピッチ走法によって、最高速が出しにくい。
だから、キングヘイローに勝てない。というか、勝てなかった。保健室送りになる程の圧倒的な格の違い、直線を走るだけで大差を付けられていた。
「――だが、キングヘイローさんよ。ソイツの走りが
◇ ◇ ◇
「うひゃー。なんですこの、クッソ長い道は」
「坂路だ。速度遅めでも負荷がかかるキツイこの場所を何度も走らせて、足腰とスタミナを鍛えるのがメインの坂コースだよ」
それはかなり前、名入がドロップスティアーの担当についた直後。トレーナーとしてこれからどんなトレーニング施設を使うか、その案内をしている時の事だった。
坂路施設。ミホノブルボンのトレーニング、距離適性という覆し難いウマ娘の身体を作り変えた事で一躍有名となった施設である。
ウッドチップが敷き詰められたこのコースは、走るだけなら脚部への負担は比較的低い。芝コースは芝が根を張る事によって固められている、それ故にウマ娘の脚力が十分に活かせて、その反面として反動で負担がかかってしまう。
ただし、どれだけ脚部負荷が緩くとも、坂を登るのは純粋に辛い。何せ坂路コースの最後の最後に待つ急勾配は、かの中山の急坂の倍以上はキツいのだから。
「坂ぁ? ゆっるゆるじゃないですか、こんなん。ウチの実家の山はもっとヤバかったですよ」
「野山と一緒にすんな、だあほ。キッチリ計算されてこの角度なんだよ」
しかしドロップスティアーから見たら、ちょっと斜めってる道路となんら変わらない。最後の勾配すら、彼女の帰路にある山道の途中にある急坂の角度には遠く及ばない。
だが、トレーニング施設はウマ娘の脚を鍛える効率を追求している。ドロップスティアーの走っていたジョギングコースや曲芸染みた近道とは違う。ちゃんと速さを追求して走れる様に設計されている設備に対し、走りが鈍くなる自然の山道と比べないで欲しい。
そういう事を、名入が呆れと軽い罵倒を交えて上から説明してやろうと思った時。
「練習場の直線も
「――……」
何気無いドロップスティアーの言葉に、名入は引っかかる物を覚えた。
確かにウマ娘にとって、レースの直線は長く感じる物だ。ホーム・バックストレッチを含めて、レースはコーナーよりも直線の方が長い。だが、ドロップスティアーの言い分はニュアンスが違う様に感じた。
その違和感に対して、名入はある一つの可能性を考えた。
「……おい、お前」
「お前て。せめて名前で呼んでくださいよ、失礼ですねホントあなた」
「お前が走ってた山道。そん中の直線、一番長いトコ何メートルあるかわかるか?」
「え? ……うーん、正確にはわかりませんけど。レース場に立ってる棒と棒ぐらいの距離、ですかね? ……あ、ハロン棒! 自分テイオー先輩に教えてもらいましたよアレ、ハロン棒って言うんですよね!」
その時、名入はこのウマ娘の弱点の一つの
このウマ娘はろくに平地を走った経験が無く、山道を走り切る為のピッチ走法によるミドルペースのジョギングが根本にあった。そこで走法が歪んでしまったワケだが、それよりもっと以前に大きすぎる問題があった。
せいぜい一ハロンしか存在しない、山の短距離直線。そこでしかまともに速度を出せなかった。だから彼女は、練習コースの直線でトップクラスの同期に大差を付けられる程弱かった。
「この坂路、何メートルあるかわかるか」
「はぁ? ……まぁ、レース場の直線より凄い長いのはわかりますけど」
「1000メートルちょいある」
「うおぉ、なっが……」
「
坂路は長い。勾配を付けた坂を登らせる、それに集中させる為にほぼ直線状に造られている。コーナー勘も養える芝・ダートのコースと違い、ただ
名入は、即断した。
「お前、今日から坂路走りまくれ。で、
「えっ」
「脚がガタガタになったらプールにぶち込む。そんで、肺活量を鍛えてもらう」
それは、鋭角コーナリングの開発よりも更に前に決めていた、ドロップスティアーの基本トレーニング方針。
直線の走り方を知らないウマ娘に、
トレーニング内容を聞いてきたトウカイテイオーに、かつてドロップスティアーはこう言った。『多くやっているトレーニングは、坂路とプールとサッカー』と。
ドロップスティアーはずっと、ずっとずっと。
◇ ◇ ◇
「……ッ!?」
先頭を走るドロップスティアーが空けた大きなリードを、キングヘイローは追ってぐんぐんと縮めて行く。
差はどんどんと詰まる。大外に飛ばされたのは痛かったが、重バ場は外側の方が芝の状態が良い。だからキングヘイローの末脚は、しっかりと地を踏み締められていた。
だが、
――差が、遠い。
「く、う、あぁぁっ!!」
最後のハロン棒は既に通過して、勝負はドロップスティアーとキングヘイローの一騎打ちの体を成していた。後ろのウマ娘達は、最終コーナーの膨らみとドロップスティアーが走る事で理想の走行ラインを荒らされ、乱されたスタミナと脚が重バ場に沈み、坂を登った直後から限界になっている。
残り百メートル強という状況。およそ残り七秒前後、その辺りでゴールしてしまう。しかし、脚が重い。想像よりも遥かに、重バ場と坂の影響が出てしまっている。
――それでも! それでも、自分の方が、速い! キングヘイローは前を見据え、自分の脚を信じた。差は詰まる、詰められる、届く。
絶対に勝つ。自分はキングだ、キングヘイローだ。一流のウマ娘として、こんな所で負ける訳には行かない。こんな所で、無様に
だから、前を向いた。絶対に、私の方が速い。それなら、届かない訳が無いのだから。
「――あはっ」
もう少しで手が届く、そう感じた時。
遠くのイン側を走っている、彼女の笑いが聞こえた気がした。
◇ ◇ ◇
「キングヘイローのフォームには、もう一つ。弱点でしか無い、大弱点がある」
広い視野を確保するキングヘイローに対し、鋭角コーナリングでその視野から消える様にインを突き、動揺させる。どんなタイミングからでも異常な角度で曲がれるドロップスティアーだからこそ突ける、キングヘイローの弱点。
しかし名入のキングヘイロー弱点講座にはもう一つ、最も大きなポイントがあった。
「お前、雨は好きか?」
「いやぁ、あの時来た台風は最高でしたね……めっちゃ楽しかったです……」
「……楽しかった? いや、そこは置いとくか、スゲェめんどくさい匂いするし。ともかく、お前は雨風に苦手意識は無い。そうだな?」
「そりゃそうですよ。っていうか、雨でコースが荒れる事前提じゃないですか、この作戦」
ドロップスティアーは台風の中で出会った謎のウマ娘Cさんとの、自由自在・縦横無尽・天衣無縫の一時を思い出す。元々ドロップスティアーは、雨続きの山でぐちゃぐちゃになった山肌を走る事が好きだった。
雨だとこっちのショートカットは使えないなー。ならこっちなら速いかなー。そんな感じで家に帰るまでに泥に塗れた道草を食った。食い散らかしてきた。そして父親に怒られた。
だからこそドロップスティアーは、雨風の中を遊び気分で走れる。
「だが、キングヘイローは百パーセント違う。というか、雨の日に凄まじく機嫌が悪くなるらしい事が聞き取りでわかった。めっちゃ証言あったわ」
「まぁ……キングさん、そういうの気ぃ使ってそうですもんねぇ」
対してキングヘイローは名家の出だ。体を大事にするのは当然、雨風に晒されるなど言語道断。不機嫌極まりない時は、『雨の方がキングを避けるべきなのよ』などと言っている始末だった。
いくら嫌いだからと言ってレースのコンディションに大きく影響する訳では無い。ある程度好調で集中状態に入ったウマ娘は、そういった事より闘走本能を優先し、走る事に専心する。
だが。そういった非日常を避けるという事は、イレギュラーに対しての経験が薄れる、という事だ。実際、キングヘイローはトレーニングでのダートで汚れる事すら嫌ったという証言すらある。
「で、キングヘイローは首を下げない。顔を上げたまま、正面を向いてスパートする。いつもならそれでも自分の末脚を出し切れる、だが――」
「――
名入とドロップスティアーの悪い笑みが、交錯した。
◇ ◇ ◇
「あはっ、あははっ!」
「う、く、うっ……!」
最終直線、最後の最後。ウマ娘として全力を出し、前だけを向く。
そうすれば自然と、
雨の日は、なるべく室内で基礎トレーニング。末脚を出し切れる様に、ジムの施設で体幹や脚に継続的な負担を与え、効率的に身体能力を上げていた。
だが、ドロップスティアーは
(邪魔、なのよっ……!)
キングヘイローは顔を歪める。風を受け、同じ速度で顔に当たる雨が煩わしくて仕方が無い。
「あはははっ!」
ドロップスティアーは笑い続ける。笑うしか無かった。
風を突き抜ける事が、雨に抵抗して走る事が、ぬかるんだコースを走る事が。
最後の最後。二人のゴール直前に立ちはだかったのは、雨という第三の敵だった。
《内ドロップスティアー、外キングヘイロー! ほぼ並んでゴールイン!》
その二人には、差があった。王と庶民、生まれと育ち、そして走り。
庶民は弱かった。歯牙にもかけられず、生まれた時点で負けていた。
――だが。
《一着、ドロップスティアー! 二着はキングヘイロー、アタマ差で惜しくも届かず!》
王は首を下げない。それを体現し続けた、誇り高き
誇りの欠片も無い。泥塗れで下げられた
アタマ(の使い方の)差
ドロップスティアーは選抜に勝つ為に一ヶ月かけました。
作者はキングヘイローに勝つ為に一ヶ月書きました。この章は最初からそういう類の戦いでした。