「ヘーイ! 今日は頑張りましょうね、ティア! いいレースにしましょー!」
「……あっ、エルさん……はい……そっすね……」
「なんでレース前からそんな落ち込んでるんデス!?」
GⅢ・共同通信杯当日。エルコンドルパサーは今日共に走る友人の背を見て、駆け寄りながら声をかけた。だがそこにいたのは、なんかもう完膚無きまでに負けた直後みたいな、どんよりとした雰囲気を漂わせたドロップスティアーであった。
辛気臭いという言葉を乗算したかの様な、圧倒的なる暗さ。学園や休みで顔を合わせる時は基本一緒にニコニコノリノリになる、そんな友人がここまで沈んでいる姿は初めて見た。
「聞いてくださいよエルさん……うちのトレーナーさん、『お前如きがエルコンドルパサーに勝てると思うな』とか、レース当日に言ってきたんですよ……やる気ダダ落ちしますよ、なんで身内からダメ出し喰らわなきゃなんないんですかね……」
「オ、オー……そ、それは、ええと……」
エルコンドルパサーはかける言葉に悩んだ。自分は世界最強を目指しており、その自信の根拠としてホープフルステークスも取ってみせた。つまり、自分が実力者であるという自覚と自信を持っている。
だが、その事実を相手のトレーナーが自分の担当に、しかもレース直前に『勝てるわけ無い』とハッキリ断言した上でレースに挑ませるなど、普通あり得ない。普通『それでも君なら勝てると信じている』とか、そういう激励をするのがトレーナーという物だろう。
というか、勝てないと思うのならなんで出走させたのか。エルコンドルパサーは本気で困惑していた。
「……で、でも! アタシのトレーナーもティアの事、褒めてましたよ!」
「えっ、ホントですか? な、なんて言ってました!?」
「『速いのも強いのも他にいる、だけど一番
「あの、それなんか褒められてる気全然しないんですけど」
エルコンドルパサーのトレーナーはベテランだ。ベテランが故に、ドロップスティアーというウマ娘の異常性・異質性をよく理解している。
有り得ないパワーのピッチ走法、曲芸というか極芸とすら言える異形のコーナリング、キングヘイローという世代トップクラスを相手にし、実力差をひっくり返して勝つ作戦実行能力。まともなトレーナーでは絶対育てられない、まともじゃないウマ娘。
オープンクラスのウマ娘の中で言えば、良い所で下の上ぐらいの強さ。しかしそれは純粋な走力だけの話であり、想定外にして常識外の奇策を迷いなく使ってくる、世代最大級の伏兵。
強くはない。速くもない。ただ、怖い。まともな精神を持っていればしない作戦を、まともじゃない精神でやってくる。新人としてこれまで何の実績も無いだけに、トレーナーもウマ娘も何を考えているのか、まるで読めないのだ。
「うう……エルさぁん……エルさんは別に自分の事バカにしたりしませんよね……? ぶっちゃけここ最近ずっとトレーナーさんにバカにされてるんですよぉ……具体的には一日五回ぐらいのペースで『だあほ』って言われてます……」
「え、ええと……だ、大丈夫デス! ティアは確かに強いデスよ、エル知ってます!」
縋り付く様に、というか実際ドロップスティアーはエルコンドルパサーに縋り付いて抱き着く。なんかもう、完全にグロッキーであった。これから一緒に覇を競うのに、エルコンドルパサーは本気でライバルを慰め始めた。
実際、エルコンドルパサーはドロップスティアーの事をちゃんと警戒している。併走などのトレーニングで一度も負けた事は無い。しかし誰にも出来ないだろうレース技能を持ち、それを駆使してキングヘイローに勝ったという事実もある。年始から地獄の様に走り込みをしている姿も幾度となく見た。なんであんな薄着なんだろう、とは思ったが。
ベテラントレーナーをして『怖い』と言わしめる彼女をバカにする気も、侮るつもりもない。でも、走る前からメンタルがトレーナー直々にボコボコにされている友人を見てちょっと同情してはいた。
「うう……あったかい……ここ最近ホント寒い事ばっかで、他人の温かみに飢えてたんです……もうホントあのバカトレーナーさん、ほんとばかばかばか……」
「お、おおう……」
今にも泣きそうと言った具合に、エルコンドルパサーの肩に顔を埋めてドロップスティアーは愚痴る。ぐちぐち愚痴っている。レース直前のウマ娘の姿か? これが……と言いたくなる程に、彼女は凹んでいた。
なんかもう、大丈夫だろうか。相手の調子が悪いからと言って手心を加えるつもりは全く無いのだが、こんな状態で重賞に挑ませるのは流石に無理があるだろう。エルコンドルパサーは本気でこの友人の行く末を案じ始めていた。
「……エルさんは、”世界最強”を目指してるんでしたよね……自分とは違って……あぁはい、どうせ自分はそこらのザコですよーだ……『身の程弁えて走ってこいや』とか、仮にもトレーナーの言う事じゃないでしょ……」
「え、ええ……そう、デスけど……っていうか、ホントに言われてるんデスか、そういう事……」
「レコーダーに記録したら訴えられませんかね、こういうの……」
何もせずとも、胸の中でテンションがどんどん下がっていくドロップスティアーへ、エルコンドルパサーは本気で対応に悩んでいた。
レース本番、友人との初対戦。ウキウキで走ろうと思っていた所で、肝心の相手はうごうごと呻いている。ドロップスティアーは素直なウマ娘であり、態度や振る舞いで嘘を付かない。つまり正真正銘、彼女は落ち込んでいるのだ。このレース直前という一番集中すべき時に。
どうしようこれ。自分に縋り付く友人に対し、エルコンドルパサーがそう悩んでいると。
「――自分程度に
「――……」
声は落ち込んだままだ。このウマ娘は、嘘を付かない。
だが。だがこのウマ娘は、この絶不調極まりない気分で縋り付いているウマ娘は確かにエルコンドルパサーに告げたのだ。
『負けないで下さい』。つまり、
「……ふふん、ティア。それでこそ、アタシのライバルデース! ……レース、楽しみにしてますよ?」
その一言で、一瞬でエルコンドルパサーの抱えていた不安感は消えた。自分に縋るドロップスティアーの体を引き離し、闘志を込めて睨みつける。
顔は相変わらず覇気が無い。走る直前のグラスワンダーの様な、肌がヒリつく様な威圧感は全く感じない。しかし、同時に緊張もしていない。この”世界最強”を相手に弛緩しきったまま、『負けるかもしれない』と告げたのだ。
一般的には、練習で出来る事を本番でどれだけ発揮出来るかが勝負と言われている。だがこのウマ娘は本番が強い――レース本番でこそ真価を発揮する、勝負に特化した存在だ。それが自分を挑発してきた以上、まるで油断は出来ない。
あー、ぬくもりが消えてゆくー。引き離されて他者の温かさを失ったドロップスティアーの呟きを他所に、エルコンドルパサーは自分に出来る本気で、この友人を叩きのめす事を決意した。
「それじゃ、アタシは先に行きます! 負けませんからねー!」
「行かないでぇ……エルさんだけが自分の味方なんですぅ……」
「レースする以上エル達はライバル、敵同士デスよ?」
「心の友って事ですよぉ……心の温かみを感じていたいんですよぉ……」
未だにぐちぐち言って手を伸ばしているドロップスティアーを置いて、エルコンドルパサーは会場へ向かう。
いや本当に油断ならない相手なのはわかっているつもりだし、全力を尽くすべきなのはわかっているのだが、どうにも調子が狂う。キングヘイローが『あの子と対決するなら気を付けなさい、色んな意味で』と忠告してきた意味がよくわかる。
――だが。”最強”は自分だ。エルコンドルパサーは決意を漲らせてその場を去った。
「……あー、うぅぅ……」
そして置き去りにされた、藍色の髪の小物は未だに自分の体に残されたエルコンドルパサーの温かみに縋る様にその場で立ち尽くし。
「――
あは、と。まるで力の無い笑みで、自分の
◆ ◆ ◆
『ダート開催にした方が良いのではないか』。事前にそう言われた程の、圧倒的な不良バ場。雨こそ去った、しかし未だに暗雲で包まれた曇天の下で、今回の共同通信杯は開催される。
エルコンドルパサーは返しウマで軽く走ってみる。それだけでばしゃばしゃと足裏から水飛沫が上がる。最内は土が捲れ上がったかの様に大荒れで、そこから少し外れた通常のイン側も酷い有様である。この状態で内側を攻めるウマ娘など、存在しないだろうと思われる。
(ティアなら、走れる)
エルコンドルパサーは自分が走るだろう外側のラインにある程度目処を立てつつ、そのグチャグチャのインを完璧に走れる存在を頭に過ぎらせる。
東スポ杯、キングヘイロー戦。世間では散々まぐれだフロックだと騒ぎ立てられた――なお聞かされたドロップスティアーは『まぁそうなんでしょう、その人達の中ではね』とドヤ顔した後、キングヘイローに怒られた――その勝利の一因は、彼女の重バ場への耐性である。
ピッチ走法は悪路に強いと言われている。しかし彼女のピッチ走法は、”強い”と言うレベルでは無い。エルコンドルパサーのトレーナーは、あの最内突きは重バ場だから逆に出来たという事を既に見抜いていた。
『確かに普通に曲がれる様になった可能性もあるが、どちらにせよ彼女が悪路に強い事は変わりがない。今回、天気はあちらに味方している。気をつけて欲しい』
キングヘイローに勝利したあのレースを見て、あれはまぐれだと言う楽観的に言う観客やトレーナーなど、レースの駆け引きを理解出来てない知識不足の人間だ。
確かに一歩間違えれば終わりの作戦だったが、内容は緻密極まりない。キングヘイローがどの様に仕掛けるか、どう動くか。そのタイミングを事前に考え抜き裏をかく、それが完璧に出来るという確信が無ければあの綱渡りの勝ちは有り得なかった。エルコンドルパサーのトレーナーはそう判断し、相手を高く評価している。
今回の共同通信杯の出走者は九人。散々まぐれと言われ、しかし重賞を取った存在たるドロップスティアーは、今回四番人気に収まっている。だが、この不良バ場の今日に限れば、二・三番人気に決して引けを取る存在では無いと思っていた。
(あの時の借りを返す時デス……!)
新年バレー大会。あの時”怪鳥”は、ある意味完璧に負かされた。レースとは全く関係が無い、本当に全く関係が無いのだが、”世界”の高さを知った。物理的に。
その後の当の本人は併走模擬レースでは普通に最下位になって潰れていたのだが。しかし新年直後、トレーニングに本腰を入れる前の練習レースなどお遊びでしか無い。ドロップスティアーも含め、後日のトレーニングを鑑みて、全員が全力を出してはいなかった。
だが。エルコンドルパサーは確かに、強さの形が脚の速さだけでは無いという事を知ったのだ。あのセイウンスカイと結託した、完璧なる圧倒劇を経て。お遊びのバレーボールだけど。
(とはいえ、負ける気はしません)
自分のトレーナーは言った。『たとえ最内を完璧に曲がられても、君が勝つ』。
彼女の代名詞たる大外捲りも、『直線まで我慢すればあの技は意味が無い』と分析済みだ。
信頼するトレーナーが『勝てる』と言ってくれた。そして自分は”怪鳥”エルコンドルパサー。ならば、恐れる物は何も無い。直線まで我慢して、長いホームストレッチで全員抜き去る。
ホープフルステークスを制したエルコンドルパサーは、今日ぶっちぎりの一番人気。二・三番人気も当然強いとされているが、重賞を取ったウマ娘では無い。そういう意味では、ドロップスティアーが仮想最大の敵とも言える。
(……よし。いけます)
今回、エルコンドルパサーのゲートは八番。東京レース場では不利も不利とされる大外を回されたが、重賞――後半開催で荒らされた不良バ場の現状では内も外も最早誤差だ。なんなら不良が過ぎる分、内の方が不利まで有り得る。
そして警戒すべき――と思っていたがやっぱりなんか元気が無いままトコトコやってきた、そんなドロップスティアーは四番。中央寄りに位置しており、これはエルコンドルパサーのトレーナーが最も警戒したゲート位置でもある。
『彼女は必ず最初のコーナーでバ場を荒らす。最初のコーナーは警戒してゆっくり越えて、第三コーナー前に先行の位置に付けなさい。多少外側を回されても、今の君なら勝てる』
ドロップスティアーがキングヘイロー戦で使ったレーン殺し。これだけは実質、どうやっても不可避の攻撃だった。
バ場の影響をまるで受けないロケットスタート。最初のコーナーを的確に踏み潰す、常軌を逸したコーナリング。最初に前寄りの好位を目指す程、この技に脚を取られる。
東スポ杯の時、最初のコーナーに入る直前に足元を見てぎょっとして、足取りを乱した先行ウマ娘達を見た。見た上で、エルコンドルパサー達は最初は様子見する事が正解だと判断した。
実際、後ろにいたキングヘイローは最初のコーナーで然程動揺していなかった。故に、今回のエルコンドルパサー陣営が立てた作戦は至ってシンプル。
最初は後ろで、少しずつ前に行き、最終コーナーまでに先行外側まで上がる。そして最終直線に入り、坂を上がった後に横に出て、残り300メートル地点から末脚で先行集団を抜き去る。
『……ただ……本当に何を考えて来たかわからないから、注意だけはしておいてね』
『ブエノ!』
まともにやれば勝てる。内をどれだけ綺麗に曲がられようが、純粋な能力差で勝てる。
向こうはエルコンドルパサーを相手にせず、掲示板入りを狙っている可能性もある。その場合は自分が有利な最内を回って、不良バ場も坂も物ともしないロングスパートで好走する、という流れになるだろう。つまり最内に入った時点で、エルコンドルパサーの警戒する相手はいなくなる。
エルコンドルパサーの強さを正しく理解し、普通の思考の相手ならそうする。しかしエルコンドルパサーは確信していた。彼女は、
(『自分程度に』、デスか……ティアは自分の事を低く見ているフシがありますからね)
彼女は確かに普段から『やだやだ弱いのに走りたくないです負けたくないですやだやだ』などと、併走時は弱音を吐く。めっちゃ駄々こねる。そしてなんだかんだ走り、確実に負ける。
自分達六人の中で、彼女は確かに一番遅い。だが、
世代最大の伏兵とすら称された、
(間違いなく、今回のターゲットはアタシデス。……エルは、油断しませんよ)
元気も覇気も欠片も感じられなかった宣戦布告。それを冗談と笑って流すつもりはない。
何か策がある。トレーナーに散々口悪く言われていても、レースに出走する事を最終的に決めるのはウマ娘。つまり彼女は、間違いなく自分と戦いに――勝ちに来ているのだ。
その上で、その作戦ごと叩き伏せる。”世界最強”として、この年始最初のレースを力で制する。絶対に、負けない。
胸の上で拳を握り、集中する。全員が、ゲートに入った。
《さぁゲート入り完了。共同通信杯、今――スタートしました! 先頭に立ったのは四番ドロップスティアー、いいスタートを切りました!》
レースが始まる。直後迷い無く、一瞬間違えればゲートに衝突するだろう程の初速で、ドロップスティアーはいつものスタートダッシュを完全に決めた。
彼女が不調なのは確かなのだろう。しかし彼女は、勝負で強い。それは即ち、勝負で常にベストコンディションを引き出す事が出来る、という意味である。
大逃げと疑う程のスタートダッシュで、一気に最初のコーナーへと突っ込む。そして内より少し外側、ベストの走行ラインをとんでもない速度で鋭角に曲がっていった。
(実際に後ろから見ると、凄まじいデスね……!)
彼女の曲がり方は映像で何度も見た。何度見ても『何でコレで曲がれるんデスか』と言いたくなる、神業的な走法。それを実際に後ろから見たエルコンドルパサーの目には、まるで一瞬時間を飛ばして曲がった様に映った。
彼女のトレーナーが『絶対に真似しないで』と真剣に言い放った、遠心力完全無視のコーナリング。脚が砕けていない事が奇跡と言われた、切れ味その物としか言いようの無い鋭さ。そのパワーが、見事なまでに内と外の中間・最も走りやすいコースのラインを破壊していく。
レース映像で見るのと実際に見るのではまるで違う。実際に先行バ達は抉り取られたコースに歩を乱し、足を取られたり外にヨレたりしていた。
(トレーナーさんの言う通りデス、控えて正解でした)
後方に付いていたエルコンドルパサーは、その様子からどこが最も走りにくいか――どう走ればいいのかゆっくり観察する事が出来た。観察した上で、弧を描くコーナリングを否定する様なその場所に対するアプローチで一瞬戸惑った。
だが、一瞬だ。要は一番走りやすいポイントが破壊されて外に行く事を強要されているだけで、
自分が遅い分、相手の速さを潰す。そういう思考を読めば、この破壊されたラインを一度飛び越え、外寄りに曲がれば影響は最小限で済む。
意識して外を回らされる時点で向こうの術中ではあるのだが、これだけは本当にどうにも出来ない。正しい速さと引き換えに手に入れた、彼女だけの武器であると言えよう。
(そして、ティアは必ずペースダウンして追込の位置を取る……)
東スポ杯と同様、ドロップスティアーはコーナー終わり際から露骨にペースを落とし、先行バが強制的に避けざるを得ない程のローペースに切り替えて落ちてくる。
ピッチ走法の利点の一つは、ペースの変えやすさだ。狭めの歩幅で走るピッチ走法は、ストライド走法よりも細かく速度を加減しやすく、自分のペースを作りやすい。
ストライド走法で急激なペースダウンをすると、歩幅が大きく変化してしまい、自身の足取りとリズムを自ら崩してしまう。だがピッチ走法は元々の歩幅が狭い為に、足の回転数だけ注意すれば良い。
足を多く回す事によるスタミナ消費と、直線での最高速の伸びの悪さから敬遠されがちのピッチ走法だが、習熟されたピッチ走法はそういう技巧派な走りを可能とするのだ。
(……来た)
破壊されたレーンを踏み越え終えて、エルコンドルパサーが再度イン気味にラインを取り直し。向正面に入って少しして、がくんと速度を落としたドロップスティアーが眼前にやってくる。
先行集団を強制的に避けさせる程のペースダウン。ストライド走法ではありえないチェンジオブペースと、破壊的なピッチ走法。速さでは無い、”強さ”で勝負してくる走り。
このまま、自分の後ろに付いてマークしてくるのだろう。そう思い、エルコンドルパサーが外に避けようと構えて――
(……あれ?)
どういう事だろう。彼女はピッチ走法の消耗を防ぎ、ロングスパートの為にスタミナを温存する必要がある。だからいつも必ずペースを落とし、追込の位置に付けてきた。
だが、彼女はエルコンドルパサーの前でペースダウンを止めた。もしや、ロングスパートの距離や末脚の速度が上がって、差し気味でも勝負出来る様になったのだろうか。エルコンドルパサーはこれまでのレース勘から、そう推測した。
実際、彼女が信じられない量の走り込みをしていた事は知っている。この差し気味の位置から、最終直線で勝負が出来る様になった。そう考えるのが自然なのだが、
(とにかく、前に行くべきデスね……)
どういう訳かペースダウンを止めたドロップスティアーは、今もエルコンドルパサーの目の前で走っている。ばしゃばしゃと芝を踏み荒らす彼女の後ろに付くのも、最後のロングスパートに付き合うのもあまり良い事では無い。
少し予想は狂ったが、当初の作戦通り前に出るべきだ。今走っている長いバックストレッチの間に、先行集団に追いついて外側の好位を取ろう。そう思い、エルコンドルパサーが外側へ向けて足を動かし、走行ラインをズラす。
「……えっ?」
ヨレた。何もない場所で、いきなり横に動いた。そうにしか見えなかった。
これは足を取られる不良バ場ではよくある事である。芝の状態が悪いのだから、そこを避けようとして、或いは前レースの足跡にハマって姿勢が揺れる。そういう事は、多い。
そう思ってエルコンドルパサーは、もう一歩外側へと動いた。
(――ウソ、デスよね、ティア……?)
エルコンドルパサーは二回程走るラインを外側にズラした。よってその分、内側が空いた。走れるスペースが出来た。だから、
エルコンドルパサーがイン側に寄る。ドロップスティアーは、
(……ッ!!)
信じられない。信じられないが、信じるしか無い。
今、前だけを見て走っている彼女は。生粋のマーク屋である彼女は。
(そんな、バカな事がっ……!?)
エルコンドルパサーがもう一度外へラインをズラす。ドロップスティアーも同じだけ外に動く。
内へ動く。内に動かれる。外へ。外に。動く度に、動かれる。
ドロップスティアーは頭を動かすとか耳をこちらに向けるとか、そういった事もしていない。ただ正面を見据えて、真っ直ぐ走っている様にしか見えない。
にも関わらず、信じがたい事に。彼女は真後ろで見えもしない筈のエルコンドルパサーの進路を、
◇ ◇ ◇
「わかりやすい嫌がらせから話すと……
「バカかお前」
名入へ提案した、ドロップスティアー五つの武器、その一つ目。それは初っ端から、全くもって意味不明・理解不能・不可能の発想だった。
相手の前を走る――ブロックとは、立派な技術の一つである。斜行とは後続の前を斜めに走る事で、そのまま走れば接触する・或いはバ群やラチに突っ込んでしまいかねないと思われる事で判断される。
一方ブロックは、基本的には最終直線で相手が動く以前に早仕掛けをして、先んじて前を塞ぐ行為だ。つまり斜行とは危険に繋がる進路妨害であり、ブロックは相手の進路を読んで先に走っておく作戦という違いがある。
だが、そんな神経を使う作戦を、千メートル単位で走るレースの最初から最後まで続けるなど、どんなウマ娘であろうが不可能だ。
「まぁ聞いて下さいよ。一緒に朝日杯行った時、レース前に自分言ったじゃないですか。『グラスさんがヤバい』って」
「あー、なんかそんな事言ってたなお前」
ドロップスティアーの速さに繋がらない、変な特技の一つ。中央に来る前から習得していた、技術ともいえないモノ。
初対面で何も知らない内から、シンボリルドルフの強さを走る前から感じ取った。トウカイテイオーの強さも雰囲気から察した。ゴールドシップやライスシャワーにも
自分よりも圧倒的に強い相手、驚異に対する第六感。”
だが、朝日杯の時のグラスワンダーには働いた。それだけじゃなく、
「自分のこの勘、自慢じゃないけど結構当たるんですよ。初対面のライスさんの凄さも見抜きましたし。まぁライスさんは凄いだけじゃなくて性格もめっちゃ最高だったんですが」
「そりゃもう良いんだよ腹ぁ一杯だ。……で、お前のその勘がどうした」
「多分ですけど。今なら、
最初に”皇帝”。次に”帝王”。ゴールドシップ、ライスシャワー。そして最後の最後まで喰らいついてきたキングヘイローと、史上最強状態のグラスワンダー。
様々なウマ娘と出会い、レースで走り始め、同期と鎬を削り――主に削られたのは自分の心だけ――。その中で、彼女の勘はどんどんと研ぎ澄まされていって。
「グラスさんと同レベルなら、エルさんの力もなんとなく感じ取れます。つまりですね」
山で驚異と死線を幾度も自主的に潜り抜けた事で得た、野性的な直感。
「
「バカかお前」
ドロップスティアーの一つ目の武器。弱い彼女が持つ、しかし他の弱者が持っていない、自分よりも強い相手の驚異を感じ取る第六感。
相手の雰囲気を
相手の後ろに張り付き続ける脅迫マークの真逆の技術。”強さ”という曖昧なモノを自分の勘だけを察知して、
それこそが『エルコンドルパサー以外に試せない』『出来たら面白い』という、レース内で全く前例が存在しない技術であった。
アプリトレーナーがやられたらブチ切れるだろう最凶最悪の特殊技能
ちなみに次回「二つ目」を出しますが、そっちは更にもっと酷いです。