”ワープ”という単語が時折、レースの世界で形容詞として用いられる。
他の追随を許さない程の超スピードから来る、驚異的な末脚や追い上げ。どこから来たのか、どこからそれだけの加速を得たのか、目を疑う様な光景。そういった脚力を見せるウマ娘に対する、一種の賛美。
だが当然、それは言葉通り瞬間移動している訳では無い。あくまで他のウマ娘を凌ぐ、凄まじい走りだと言われる比喩表現でしか無い。
であるのに。シンボリルドルフの眼前では、まさにその
(抜かれていない、迫る足音も無かった! 何故、どうやって!?)
直線に入ったシンボリルドルフは、二十メートル近くあったドロップスティアーとの差をあっさりと二バ身までに詰めながらも、完全な混乱の渦中にいた。
そう、シンボリルドルフはここに至るまで完全な単騎行だった。急坂・急カーブ・うねり道。その全てに苦心しつつも、前を走り続けていた。
にも関わらず。シンボリルドルフは今、足音すら聞こえない程に後ろにいた筈のドロップスティアーの背を追うという立場にある。
(――ッ、動揺するな。どういう
横に並ばれるどころか、後ろから近付かれた訳でも無い。影も形も無い所から湧いた様に前方に現れた、正真正銘の瞬間移動。
シンボリルドルフがドロップスティアーとの距離を詰めたのは、動揺して掛かったからではない。純粋に、ドロップスティアーよりもシンボリルドルフの方が速いというだけだ。
ドロップスティアーのスピードは、シンボリルドルフの半分にも及んでいない。それは紛れもない事実だった。
(……まるで手品だな。確かに、彼女本人だ)
二バ身から差を詰めず、シンボリルドルフは前を走るウマ娘を観察する。藍色の髪、背丈、服装。その全てが、間違いなく目の前のウマ娘がドロップスティアーである事を示していた。
走るには過酷なこの山道を走ってきたにも関わらず、脚色には余裕が見える。まだ道の半分も登っていないのだから当たり前だが、それだけでも中等部のウマ娘としては相当な力量だと感心に値する。
だが。それでも今目の前で起きているこの現実は、まるで説明がつかない。
(見極めさせてもらおう)
この山で走る限り絶対負けない、シンボリルドルフにすら勝つかもと言われた存在。
ドロップスティアーというウマ娘、彼女が起こした理解を超えた現象。それを見るべく、シンボリルドルフは背後にぴたりと合わせて走る。
実際に三バ身差はこの序盤でひっくり返された。しかし普通に走るだけではあと千メートル以上もの距離を、シンボリルドルフの前を往く事は出来ない。抑えに抑えたシンボリルドルフにとって中等部のウマ娘に対する二バ身差など、一瞬で逆転出来る誤差でしかない。
しかし”普通”どころか常識をひっくり返した、追い抜く事もせず前方に顕れた手品の種。それをシンボリルドルフは、この目で見てみたい。
(む)
ドロップスティアーが直線の終わり際、少しずつ道の右端へと脚を運んでいく。
シンボリルドルフは次のコーナーを見る。
「……成程」
そこからドロップスティアーは、コーナーに
右端から左内、大外から最内へ。角度の厳しいコーナーに対し、外から真っ直ぐ切り込む様に侵入する。
そうしてドロップスティアーがコーナーを抜けた時、シンボリルドルフとの距離は半バ身ほど開いていた。
(確かに
僅かに開いた差をシンボリルドルフは半歩で軽々埋めつつ、今行われたコーナリングを分析する。
角度の厳しいコーナーに対し、歩幅を狭めて対応するのは同じ。だが最初に減速を挟んで、外から内へ切り込む。内を突く程厳しいコーナーに対し、外から攻める事でコーナーの角度を擬似的に緩くする。
そして、コーナーの終わる前から歩幅を戻して微加速。これは、この走法は――
(アウトインアウト、か)
外・内・外。レースはレースでも、カーレースで行われる走法。厳しいコーナーに対し、侵入角をなるべく大きく取って減速を最低限に抑える。
そしてコーナーの中間から微加速、速度を戻しつつ外側へと抜ける。速度と距離のロス、その中間を取る事で脚へとかかる負担を減らす。
そのコーナリングは、センターラインを同速で走る事に徹したシンボリルドルフを僅かだが確かに突き放していた。
(マルゼンスキー辺りが見たら喜ぶだろうな)
そして、また短い直線とコーナーがやってくる。再び左コーナー、外側へと抜けていたドロップスティアーは同様のラインを取ってインへと切り込んでいく。
しかし今度は歩幅を合わせる事による減速は殆ど無かった。外・内・
抜けた先は、五十メートル程の直線。そして、その先に見えるのは右コーナー。
コーナーの最初に外に付き、内へと切り込む様に走る。その基本を守りつつ、抜け出た時には既に次のコーナーから見て外側に付く様にラインを取る。
まさにモータースポーツのコーナリング。車が大好きな知人の喜色満面な顔が浮かぶようだ。
(……私は、そんな小手先の技術が見たい訳では無いぞ……!)
だが、それがなんだ。
確かに脚と速度の消耗を抑えられる良い走法だ。次のコーナーが左右どちらかを把握している以上、ドロップスティアーはシンボリルドルフよりも圧倒的に効率的なラインで走り続けられる。
しかし、それだけ。脚力の差どころか、コーナーを走るスピードをひっくり返せる訳でも無い。シンボリルドルフがその気になれば、溜めた脚を少し放出するだけで抜き返せる。
それに、脚が速いだけではさっきの現象――追い抜きもせずにいつの間にか前に居た、そんな夢幻の様な事は起こせない。シンボリルドルフが見たいのは、この山を走る
「少し失礼するよ」
シンボリルドルフは相手に合わせて抑えていた脚を、先程まで走っていた自分のペースに戻す。この直線で、シンボリルドルフは一つ小手調べを仕掛けた。
レースを走るウマ娘にとっては極めて短い直線で、シンボリルドルフはドロップスティアーの右側へとすぐに並びかける。二バ身差は一瞬で無くなり、二分の一バ身差へ。しかし、それ以上は前に出ない。
そして同時に、次の右コーナーの入口が来る。ほぼ横並びでドロップスティアーが外、シンボリルドルフが内という形になった。
(これでそのラインは使えない。さあ、どうする)
シンボリルドルフが内側に陣取った以上、外から最内へ切り込むラインはシンボリルドルフ自身の体が邪魔をする。理想的なラインを描けなければ、外を回る――つまり、距離的なロスを強いられる。
それだけではない。走ろうと思っていたラインをブロックされるのは、レースの世界でも心理的な
本来は自分の脚運びとラインを僅かに変える事で、付近の他のウマ娘のラインを乱して後方から来るウマ娘の進路を擬似的に膨らませる高等技術。しかし一対一ならば、ただ同速で横に並走するだけで成立する。
さぁ、どうするつもりだ。シンボリルドルフは外側に居るドロップスティアーの横顔を見る。
「なっ!?」
ドロップスティアーは、ラインを変えなかった。外から内へ、体を傾けて侵入するモーションに入る。ほぼ並走している状況でそんな事をすれば、どうなるか。
必然的に、シンボリルドルフの左肩にドロップスティアーの右肩が接触した。
「くっ……!」
シンボリルドルフは反射的に身を引く。接触と言っても、軽く互いの肩が擦れた程度だ。いや、その程度に
ドロップスティアーは何事もなかったとばかりに内のラインを走り抜ける。シンボリルドルフが身を引いていなければ、半ば体当たりの様な形になっていた。それ程までに、ドロップスティアーの脚運びには迷いが見られなかった。
言うまでも無い危険行為。斜行どころか、意図的に接触させに来た。いかに進路を塞ごうとしたのがシンボリルドルフ側と言えど、それを避けるマージンとして半バ身は空けていた。
それを無視してこんなダーティーな反則行為を敢行するとは。童顔に似合わぬルール違反に、思わずシンボリルドルフは顔をしかめ――
(――
しかめようとした所で、頭に引っかかりを覚えた。
ドロップスティアーは別に悪いウマ娘ではない。学園の生徒からも、顔を合わせた自分自身も、同じ印象を抱いている。
そもそも先行・後行を分けて、最初のコーナーでの競り合いの危険を避けたのは彼女自身だ。そんな娘が、何ら相手を思いやらない反則に及ぶものか?
危険な違反行為。安全を考慮した先行・後行のルール。
その矛盾が、シンボリルドルフに一つの事実を閃かせた。
(……これは、
彼女は確かに言った。コーナーで危険だから、前後を最初に決めると。
だが、
『ここで勝負する時、自分が決めたルールが三つ
『ルールは今言った三つ
スタートの合図。ゴールの目印。最初の位置関係。
合意と言うより、頭から抜け落ちていたというのが正しい。普通に考えればウマ娘同士の勝負で妨害を意図的に行うなど、下手をすれば骨折などの競争生命に関わるアクシデントに繋がるからだ。
やられた。前を走る側がブロックし放題とは確かに思ったが、まさか迷いもせずに接触をしてくるとまでは思わなかった。
「やってくれるじゃないか……!」
「失礼されちゃったので」
再びシンボリルドルフは二バ身差を自ら作り直し、目の前を走るドロップスティアーへ恨みがましく聞こえるようにそう言った。
本意では無い、ルールの落とし穴に気付かない自分に非がある。それを認めつつも、シンボリルドルフは少しでも相手に動揺を与える――というより、悪戯に近い気持ちからの言葉だった。
が、ドロップスティアーは恨み節の様な言葉を受けても何も思わず、しれっと返してくる。これにはシンボリルドルフも苦笑した。
(知らないとは恐ろしいな)
この山の厳しさを、ルールの抜け穴を、そして”皇帝”を知らない目の前の彼女にも。シンボリルドルフは内心で笑うしかなかった。
トゥインクル・シリーズを少しでも知る者なら、シンボリルドルフ相手に普通体当たりなど思ってもやらない。レース中での不慮の事故ならともかく、練習でもない平時の中で危険行為など仕掛けない。
ただ一人のウマ娘として。そう望んだのは確かだが、まさかこんな弊害があるとは。
「……その程度で私から逃げ切れる、などと思っていないだろうね?」
狭い山道で前方を走る、想像以上のアドバンテージ。仕掛ければ物理的な接触をちらつかせる、違反では無いが無法な行為。
だが、それも小手先の技術や駆け引きの範疇だ。相手の走行ラインの大外か大内を強引に、ブロックすら許さないスピードで追い抜く力業が有効なのは変わらない。
この狭い山道のコーナーで、横幅一杯に走行ラインを取る相手にそれをするのは至難だ。だが、直線なら違う。シンボリルドルフならば、十メートルも加速区間があれば相手が反応する速度を超えてブチ抜ける。
こんな
「まぁ無理ですねー、ルナさん速いですし」
その圧力が、あっさり肯定されて霧散する。
あまりにも潔い敗北宣言。せめてもう少し何か言い返さないのか、そう言いたくなる程の返答にシンボリルドルフは気先を挫かれた。
「でも。速い
しかし、次に紡がれた言葉はまるで逆の、確信に満ちた勝利宣言だった。
速いだけでは勝てない。どういう意味だ。ドロップスティアーの言葉の真意をシンボリルドルフが考えようとした所で、再び短い直線が終わる。
カーブミラーが立っている。ミラーが無ければ先を確認出来ないコーナー、つまりヘアピンカーブ。速度を完全に潰す、魔の曲線に再び差し掛かった事を悟る。
「じゃー。頑張って、ついてきて下さい」
そのコーナーの直前で、ドロップスティアーは外側に付いて。
「なんだとっ……!?」
目を疑う。コーナーでは減速するモノ、それも勾配のおまけが付いた山道の険しいカーブではそれが鉄則の筈だ。
事実、ドロップスティアーはこれまでのコーナーでそれをやってきた。コーナー前で減速、曲がった後に加速。それこそが手本だと、シンボリルドルフに教えるように。
だが、曲がる前に加速? しかもよりにもよって、脚が止まるヘアピンカーブで?
まるで意味のわからない蛮行に、シンボリルドルフは引っ張られないように速度を維持する。
コーナーに入る。目の前には木々で終わりが見えない、急旋回を描かせるヘアピンカーブが現れる。シンボリルドルフの洞察は、正しかった。
だが。
「こっからが本番なの、でっ!」
カーブの先に、ドロップスティアーがいない。
カーブの
視線を向ける。道から逸れた、木々の檻がある筈の場所へ。
「……その手が、あったかっ……!」
山肌、木々。その林は一箇所だけ僅かに拓かれ、狭間に土色が見えている。
狭間にある、文字通りの抜け穴。そこには、山肌に細い丸太を埋め込んだだけの、簡素な造りの階段が伸びていた。
「ワープ」なんてありませんよ……ファンタジーやメルヘンじゃあないんですから