当然の事だが。ドロップスティアーの勘は、どこまで行っても勘でしかない。
ドロップスティアーのヤマ勘は元々自分を守る為の防衛機能であり、相手の存在を察知する共感覚と化したのは突然変異の副産物でしか無い。
なので、悪寒がしたからと言って確実に相手に身の危険が迫っているとは限らない。その事実としてドロップスティアーがグラスワンダーを引き止めたその日、グラスワンダーはトレーニングで故障しなかった。
そして、それ以来ドロップスティアーはグラスワンダーに対する悪寒を感じなかった。彼女の勘は、所詮
「ごめんなさいっ、ごめんなさいごめんなさいっ……! あの時っ、あのとき、ヘンだって思ったんですっ……! なのに、なのにぃっ……!」
だが、グラスワンダーが怪我をしたと聞いた時。
その瞬間、基本的に悪知恵にばかり回るドロップスティアーの思考が結論を一瞬で導き出した。それを確認すべく、そして間違っている事を祈りつつ、ドロップスティアーは今日グラスワンダーの見舞いに――願わくば、ただの様子見のつもりで来た。
そして、グラスワンダーの右足に巻かれた包帯を見て。
「ティ、ティアちゃん……? な、何を――」
「グラスさんが、なんとなくっ、危ないって……! あのっ、あの引き止めた時っ! 自分が、自分が気付いてればっ! 自分がっ、自分がっ! うあ、ああっ、あぁぁっ!」
「お、落ち着いて下さいティアちゃん! 少しこちらに来て、深呼吸をして下さい!」
「はぁっ……! はぁっ……! あっ、あぁ、あぁあぁあ……っ!」
グラスワンダーの憂鬱な気分が吹き飛ぶ程の、ドロップスティアーの変貌。いつもから感情も表情も豊かな彼女ではあるが、こんな姿は初めて見た。
グラスワンダーの元に寄って、憔悴と絶望に満ちた顔で過呼吸を起こしかけている。実際に骨を折った時のグラスワンダー本人にも匹敵するのでは無いかという程の動揺。
ベッドの足元の床にへたり込み、シーツを千切らんばかりに掴んで無力感に打ち震えている。これがあの、ドロップスティアーなのだろうか。どんなトレーニングやレースでも一切揺るがない精神を見せてきた、彼女と同一人物なのか。グラスワンダーは、本当に目を疑った。
「……顔を上げて下さい、ティアちゃん。今回の怪我は、私の不徳です。あなたが謝る事など、何一つとして――」
「じぶんがっ! 自分は、気付けてたんですっ! 気付いてた筈なんですっ! なのに止められなかった! なんにも出来なかった! 気付いてたのに、気付いたくせに! 今まで何も、あれから何も出来なかったんですッ!!」
グラスワンダーの言葉を遮り、ドロップスティアーが喚いた。
他人の怪我の可能性に対する形でヤマ勘が発揮されたのは、今回が初めてだった。初めてだったが故に、そのセンサーは殆ど働いていなかった。
シンボリルドルフ級のウマ娘で無ければ”強さ”という曖昧な物を感じ取れなかった様に。彼女の勘は、本来は余程の事が無い限り働かない感覚である。
故に、一度だけ。たった一度、グラスワンダーと二人きりで話した時にのみ。彼女の”悪勘”はたまたま、なんとなく働いて。それからは一切動かなくなった。
そして、時限爆弾の様に。”なんとなく”の理由が、今ここに証明されてしまったのだ。
「……自分が……自分は……なんで、なんでぇっ……」
「ティアちゃん……」
グラスワンダーの見舞いには、既に多くのウマ娘達がやって来ていた。
涙を流すスペシャルウィーク。表情を固めたセイウンスカイ。痛ましそうにしていたキングヘイロー。そして、ただ真顔でこちらの様子を見据えたエルコンドルパサー。
誰もがそれぞれの形でこちらを心配してくれていた。だが最後の最後、おずおずと一人だけでやってきた彼女は。心配と同じ程に
どうか間違っていて欲しい。あの時に感じた”なんとなく”が、本当に何の理由も無い物であって欲しいと誰よりも祈り。その悪い予感が、理由が、的中してしまった。
”自分の事の様に”という言葉があるが。彼女の場合、
「……少しは、落ち着きましたか?」
「――……」
呼吸を落ち着かせたドロップスティアーは、ベッドの縁に頭を沈めて動かなくなった。
ヤマ勘による、相手の身の危険の察知。それが初めて発動した、発動してしまったドロップスティアーは、心の底から自分が肝心な時に無能であった事実に打ちひしがれていた。
誰よりも早く、自分がグラスワンダーの危機に気付けていた。自分の”なんとなく”をちゃんと理解出来ていれば、もっと深く自分が考えていれば、更に勘を研ぎ澄まそうとしていれば。そのどれかが出来ていれば、この骨折は無かった。
「……あの時。ちゃんと引き止めていれば、と。そう、考えているんですよね」
「…………」
ドロップスティアーは返事をしない。返事もしたくなかった。
中央に存在しないウマ娘と散々言われ、他のウマ娘が持たない技能を無駄遣いし。なんとかそれをレースで活かせる様になって、自分だけが持つ能力に自信を持てる様になっていた。
だが、今回は事情が大きく異なる。自分だけが持つ能力で、誰かを助ける事が出来た。出来た筈なのに、何も出来なかった。ライスシャワーの様に、自分から誰かに助けの手を差し伸べられる事が出来た筈なのに。
骨折は甚大な怪我だ。完治にもリハビリにも時間がかかる。この時期に骨折すれば、近場のクラシックレースには出られない。ニュージーランドトロフィーは当然――マイルカップにも。
”最強”の彼女は、それを証明する資格を剥奪されたのだ。それを、自分なら――
「あなたなら止められた、等と。
「――え……?」
ドロップスティアーは歪んだ表情のまま、顔を上げる。
クラシックレース。一生に一度のみ挑戦出来る機会を失い、ベッドの上で挫けている筈のグラスワンダーは。凛とした顔で、ドロップスティアーを
「ティアちゃん。確かにあなたは、誰よりも早く私の怪我の可能性に気付いていたのかもしれません。トレーナーさんや私が違和感を覚えるより先に、あなたは私を引き止めた」
グラスワンダーは骨折する前から、トレーニング中に妙な違和感を覚えていた。なので怪我をしない様に、軽めの負担のトレーニングに抑えていた。
しかし、その違和感を覚えたのはドロップスティアーが悪寒のまま引き止めた時より少し後の事だ。負担を考え、ニュージーランドトロフィーの出走を踏まえ。十分に調整し、した上で、今回の怪我は起こった。
故に、グラスワンダーの骨折は多少の亀裂で済んでいる。治ってレースにまた出れる様になるまでは、およそ半年はかかるだろう。それでも、まだ競走生命が終わった訳では無いのだ。
「先程も言った通り。私の怪我は、私の不徳にして不注意です。怪我の責は、全て私自身の物でしかありません。……それに、あなたにだけは。そんな事を言われたくありません」
「……なんで、ですか……?」
「決まっているでしょう。あなたが誰よりも、怪我に近い走りをしているからです」
グラスワンダーは取り繕った微笑みを消し、”怪物”の鋭い顔を見せる。
ドロップスティアーは、中央で走るウマ娘の誰よりも怪我に近い。トレーニングからレースまで、その全てが命懸け。言動や行動がいくら
グラスワンダーのトレーナーは言っていた。『彼女の走りは、死んでいないのが不思議な程だ』と。死に最も近い彼女は、誰かを心配する前に自身を大事にするべきなのだ。
「あなたが思っているのと同じ様に、私は強くなりたかった。自分に出来得る限りを尽くし、レースと同じ気概でトレーニングに挑んだ。その結果、私の脚は折れた。……結果以外、あなたと何の違いがあると言うのですか」
「…………」
ドロップスティアーは、何も言えなかった。ハッキリ言って、山で無茶していた頃に比べれば中央のトレーニングなど命その物が懸かっていないだけ、気楽な物だと考えている。
脚など折れた所でその内くっつく。両脚が再起不能になったとしても、車椅子でも使って走る事でも覚えれば良い。彼女の思想は、根本からアスリートとして前向きに破滅的だ。
だから、平然と無茶が出来る。無謀に挑める。無理を承知で走れる。そんな彼女が自分に対して心底から心配してくれているという事に、グラスワンダーは喜ぶより憤りを覚えていた。
「私のクラシックは、終わっていません。マイルカップには出られません、しかし必ず年内に復帰します。……あなたは、あなたの勝負に集中すればいい。何時もの様に」
「……グラスさぁん……」
縋る様な目付きでこちらを見るドロップスティアーに、これではどちらが怪我をしたのかわからないな、とグラスワンダーは少し笑みを零してしまった。
文字通り親身と言える親しさを持ち、感受性も豊かなスペシャルウィークには泣かれた。だが、ドロップスティアーはそれに加えて『自分のせい』という加害意識を強く抱いている。途轍も無い見当違いにも関わらず、彼女はグラスワンダーの怪我について自身がいつも背負っている危険の何倍にも心配している。
こんな状態で走れば、彼女の曲芸染みた走りは精彩を欠く。一歩・一瞬・一心、そのどれかが欠けるだけで脚がへし折れる彼女の代名詞・鋭角コーナリング。こんな調子のままでは、彼女はそれを失敗する。そして、グラスワンダーの比にならない程の怪我を負う事になるだろう。
誰よりも勝負に集中する彼女のそんな姿を見る。それだけは、嫌だった。
「ほら、立って下さい――いや、座りましょう。そこに椅子がありますから」
「……はい」
ドロップスティアーは、グラスワンダーに言われるがままに椅子に座る。まだ気が抜けている、しかしこの部屋に入ってきた時――絶望に顔を満たしていた時より余程マシだ。
正直、彼女がこんなに自分の事を心配してくれていたとは思っていなかった。ドロップスティアーは基本的に明るく振る舞っている。見舞いに来ないとは露程も思っていなかったが、やってきたらいつもの元気を見せてそれを分けて貰える物だと思っていた。
蓋を開けてみれば、全くの真逆。クラシックの半分が実質的に終わった自分よりも狂乱して、落ち込んで、沈み切っている。普通慰める立場は逆だろうに。
「……グラスさんは……強いですよね……自分なんかより、何もかも、全部……」
「あなた程の覚悟も、頑健さもありませんよ。そう気落ちしないで下さい」
「……そんな程度で、レースに勝てりゃ苦労しませんよ……」
ドロップスティアーは自分の取り柄を客観的に自覚こそしているが、この中央においては価値の薄い物だと思っている。
確かに体の頑丈さは人一倍だ。サポートありきとはいえ、年始から始まった地獄マラソンの合計走行距離は七十万メートル近い。しかしこれは、レースで勝てない走りの歪みによって発生した、歪んだトレーニングでしか無い。
過大評価されている覚悟など持ち合わせていない。失敗したらそれまで、はい終わり。走る事は好きでも、走れなくなる事への恐怖は殆ど無い。勝負で一か八かの策に出られるのは、別に死ぬ訳では無いから。自分の足を止められるのは、死の恐怖だけだからだ。
「――そうだ。丁度良いですし、聞いておきたい事があったんです」
「え? ……なんですか?」
このまま暗い空気を引きずるのは良くない。そう思ったグラスワンダーは、話を大きく変える事にした。それはある意味、グラスワンダーが最も気になる話題である。
今まではライバル達に負けない様に自己研鑽するばかりで、わざわざ聞く機会も無かっただけ。時間が出来た今、この場に流れる空気も変えられる、一つの話。
「ティアちゃんのトゥインクル・シリーズの志を聞いておきたかったんです」
「志……?」
「目標とか、目的だとかですね」
グラスワンダーは常々、この異端のウマ娘を突き動かす原動力が気になっていた。
トレーニングでもレースでも平気で足を賭けられて、自分が周囲より劣ると知りながらも走る理由。キングヘイローすらも負かし、エルコンドルパサーの意識を変えた異形の走り。
トゥインクル・シリーズは国内で最大の興行だ。だが彼女は、一切それを知らないままこの中央にスカウトされて此処にやってきたと言う。
「エルは”世界最強”を示そうとしています。だから見舞いに来た時、エルは『
エルコンドルパサーの見舞いは、誰よりも短かった。短く、中身があった。
『先で待つ』。エルコンドルパサーは自身の最大のライバルに対し、『必ず戻って来い』という強い想いをぶつけていったのだ。これは以前の彼女から見れば、劇的な変化だった。
以前の彼女であれば、自分を慰めるべく尽くしていただろう。だが彼女は、自分の勝負に集中した。集中した上で、自分の親友が必ず戻ってくる事を確信し、既にその時を警戒している。
その前を強く見据える姿勢は、紛れもなくドロップスティアーの影響であった。
「スペちゃんは”日本一のウマ娘”。キングちゃんは”一流”。セイちゃんは……はぐらかしてよく教えてくれませんけれど。何の想いも無く、あれだけの走りは出来ません」
トゥインクル・シリーズを走るウマ娘達は、それぞれの想いがある。何らかの想いを背負い、それを燃やして走っている。グラスワンダーも当然そうだ。
”不退転”を掲げ、ただ邁進する。その言葉を最後まで貫く、それがグラスワンダーの想い。”怪物二世”だのと呼ばれても、自分は自分だ。”グラスワンダー”として、高みを目指している。
だが、対してドロップスティアーはどうだろう。地方のトレセン学園にも行っていなかった、レースのレの字すら知らずに山を走っていた。そんな彼女は、一体何を思って走っているのか。
単に賞金が目当てなら、キングヘイローやエルコンドルパサーと当たる、分の悪いレースなど選ぶ訳が無い。彼女は重賞で好走出来るだけの力を得た、つまり重賞を避けオープン戦で地道にコツコツ勝利や入着を目指すだけで良い。
「……皆ほど、大した理由じゃないですよ?」
「という事は、あるんですね? 理由が」
「まぁ……一応?」
ドロップスティアーは、うーんと唸って天井を見た。
彼女は命を懸けて走っている。勝つ為にはそれしか道が無いというのはわかる、だからと言って常に現世と地獄を反復横跳びする様に走る必要など無い。
以前から気になっていた、その理由。骨折して走れなくなった今は尚更、彼女が平然と足を賭けられるその想いの在り処が何処にあるのかを知りたかった。
「……うーん、うーん……グラスさん、口は堅い方です?」
「え? ええ、まぁ」
「じゃあ、絶対、絶対。ここだけの内緒バナシにしてくれるって約束してくれません?」
「……?」
やけに口ごもるドロップスティアーに、グラスワンダーは訝しむ。
トゥインクル・シリーズで走る、『大した事では無い』と自ら言う理由。大した事が無いと言いながら、随分と勿体ぶる。『内緒にして欲しい』というのも妙だ。
目的が金でも栄誉でも単なる趣味でも、グラスワンダーは別に笑う気は無い。抱く想いは人それぞれであり、特にこのウマ娘は何から何まで中央に居るあらゆるウマ娘と違う。
「ええ、良いですよ。私達二人だけの秘密、ですね?」
「はい。喋ったらグラスさんだってタダじゃ済ませませんよ?」
「あの、言い方が普通に怖いのですが~……?」
仮にも怪我したばかりで意気消沈しているウマ娘に言う言葉では無い。いっそ脅しとすら言える彼女の物言いに、余計グラスワンダーの疑問は膨れ上がった。
レースも知らず、地方からやって来て、命懸けで走る。『秘密』の『大した事無い理由』。一見矛盾している様に思える、ドロップスティアーの想いとは何なのか。
「笑いません?」
「笑いませんよ」
「……んじゃー、まぁ。勿体ぶる話でも無いんで、スパッと言いますね。自分が走る理由は――」
◆ ◆ ◆
「――……」
ドロップスティアーが去った後。グラスワンダーは、窓の外を眺めていた。
三月、春の訪れ。寒気は既に少しずつ失せており、窓を開ければ気持ちの良い風が緑葉を運んできてくれるだろう。今のグラスワンダーは立ち上がる事も禁止されているが。
だが。今の彼女は、そんな事など一つも考えていなかった。
(……”不退転”)
自分の掲げた目標。トゥインクル・シリーズで走る、自身の絶対の指針。
しかし。グラスワンダーはほんの少しだけ、そんな自分の想いを揺らがせていた。
ドロップスティアーが走っている、
(……エル。確かに彼女は、普通ではありませんでした)
彼女と共に走り、極限まで追い込まれ、そして勝利への渇望を増した親友。
思えば彼女がドロップスティアーと走ったのは、全くの偶然だったのだろう。故に、少し羨ましく感じた。あの常に負けを見据えながらも、勝負だけしか見ないウマ娘。
彼女は、
(何が、不退転か)
自らの右足に巻かれた包帯を見て、小さくそう思う。それは自虐めいた事では無い。ただ、自分の想いを見つめ直す。その為に、自分の原点たる言葉を想起した。
「……ティアちゃん……」
自分が復帰出来るのは、恐らくクラシック後半からとなるだろう。治った後、以前以上の力を発揮出来る様になるまでどれだけ時間がかかるか分からない。
だが、必ず復帰してみせる。強い覚悟を以て、自らの掌を強く握る。
彼女が走る、大した事が無いと言う理由。その
グラスワンダーは、自らの不幸に涙を流さず。ただ、これから自分が眺めるだけの――確実に荒れ狂うだろう、クラシックレースの行方に思いを馳せた。
いつだって大事な物は失ってから気付く
コイツはルドルフにスカウトされて中央に来ましたが、中央やレースその物を知らなかった以上、それだけでは走る理由になりません。なので、他に目的はあります。