◇ ◇ ◇
「んじゃー、まぁ。勿体ぶる話でも無いんで、スパッと言いますね。自分が走る理由は、楽しい勝負がしたいから、ってだけなんですよ」
「楽しい勝負……ですか?」
グラスワンダーが入院した時、病室で行われた会話。トゥインクル・シリーズで走る理由を聞かれたドロップスティアーは、簡潔にして曖昧な答えを返していた。
”楽しい勝負”。その目的は極めて主観的で、不明瞭なモノである。彼女は確かに勝負に拘り、実際にレースでは楽しそうに笑っている。
そういう意味では、彼女は毎レース目的を達成していると言えるだろう。
「はい。だから、一番でっかくて一番楽しい勝負やろっかな、って」
「……? 一番でっかい……?」
「ええ。それで、
「――はい?」
他愛の無い目的が、一瞬にしてとんでもない規模にまで膨らむ。思わずグラスワンダーは、目を点にして呆けた声を出した。
日本ダービーは三冠レースの中でも最高の栄光を競う場だ。確かにそれは、『一番でっかい勝負』である。だが、『ちょっと出るか』というコンビニ感覚で行く様なレースでは有り得ない。
ダービーに勝てれば走るのをやめても良い。そう言うウマ娘すら居る程、クラシック期の中では最上級の、GⅠの中のGⅠレースなのである。
「……あの~……流石に、そんな簡単に出れる様なレースでは無いと思うのですが……?」
「そりゃ流石に知ってますよ。だから
「よ、予行練習……?」
そう言われても、グラスワンダーにはピンと来なかった。
確かにダービーと同じ距離やコースを走って練習する事は出来る。だが、どれだけ同距離を走ろうが、多くのウマ娘達がひしめいて天候・バ場状態が日々変わる本番のレースでは完全な練習にはならない。
だが、ドロップスティアーの言い分は明らかに、ダービーその物を限定的に練習するというニュアンスが含まれていた。
「自分が走ったレース、ほぼ全部東京レース場なんですよね。そんで、メイクデビューの時からずっと、
「……下調べ……?」
「はい。ほら、東京レース場の1800と2000って、どっちも第二コーナー手前からスタートするじゃないですか。だから
「……!?」
グラスワンダーはそれを聞いて、目を見開いた。
東京レース場については、グラスワンダーも二度レースで走った事があるから構造を知っている。ホーム・バックストレッチ、その両方が長いが故に、マイルレースの中でも二つしかコーナーが存在しないという、その特異性。
直線が長すぎて、コーナーが少ない。だから、ジュニア・クラシック期では青葉賞・ダービー・オークスを除いた場合。
「……ティアちゃん。まさかあなたは……メイクデビューの時から、ダービーに出る為だけに、走っていたのですか……?」
「そりゃそうでしょ。自分がフツーに走ってダービー勝てるとか思い上がっちゃいませんて。だけど、
ドロップスティアーの目標であり、予定していた本当の勝負は最初から日本ダービーのみだった。だから、
ダービーに確実に出る為には、青葉賞で二着以内に入る必要がある。そして青葉賞に出る為には、相応の実績が必要だった。
かつてドロップスティアーは、キングヘイローに連れられて皆でカラオケ屋へと行き、ウイニングライブの練習をさせられた。だが、一着の振り付けを必死で覚える必要性は然程強く考えていなかった。
上手く上位に入着し続ければ、勝てずとも青葉賞に出れる目はある。ジュニアGⅠレースの楽曲である”ENDLESS DREAM!!”の振り付けなど、
「……
「そうでもしないとグラスさん達に勝てないじゃないですかー」
グラスワンダーはその言葉に、真の覚悟という物を思い知らされた。
ドロップスティアーは、自分達には勝てないだろうと初対面の頃に思い知った。だから、
たった一つのレースで、勝てない相手に勝つ為に、他の全てを捨てる。彼女には、
共同通信杯では、エルコンドルパサーと対戦したのでは無い。
キングヘイローの時も同じだった。だが、勝てる勝負であった為に
「予定だとホントに東京でしか走らないつもりだったんですけど、グラスさん達が強かったんで中京にも一回
「――……」
あの時はホント予定外で困りました。そう言うドロップスティアーを見て、グラスワンダーはもう何も言う言葉が無かった。
『ちょっとダービー出る』。そんな軽い言葉の裏にあったのは、デビューするより以前から決めた一年越しの、一本しか存在しない綱渡りをするという深く強すぎる一念だった。
「まぁおかげでほら、エルさん相手でも思ったより良い勝負出来てたでしょ? エルさんと自分の力の差考えたら、だいぶ練習の成果出てる感じしません?」
「…………」
ドロップスティアーがエルコンドルパサーをギリギリまで追い詰めた、共同通信杯。彼女はそこで、エルコンドルパサーだけを徹底的にマークしながらも、掲示板入りするだけの好走を見せた。
その時、誰もが消耗する不良バ場であった事が一番の有利要因ではあった。だがその土台、
彼女は
抱いた唯一の信念を貫き通し、何一つ揺らがず、決めた事へ向かって一直線。
――”不退転”。彼女はそれを、デビュー前からこれまでずっと
「でもでも、最初っからダービー狙いってバレちゃったら、ちょっと警戒されちゃうじゃないですか。ギリギリまで隠しときたいんで、シーッでお願いしますね、シーッで」
「……ええ……」
人差し指を口元に当てて、念入りに口止めを願う。それも全て、勝つ為に。
彼女は本当に、東京レース場の二種の距離でしか走らない。青葉賞・ダービーの二つ、そこで勝つ為だけに出走を制限している。プレオープン戦も重賞レースも、
ダービーで勝つ事を夢見るウマ娘は星の数程いる。だが、二度と来ないジュニア・クラシック期の
だからこそ彼女は、世代の伏兵だった。
そんな彼女の覚悟を吹聴するなど、グラスワンダーには出来る訳が無かった。
「まぁ、
「……っ……」
たった一度の大勝負の為に、全ての自由を捨てて戦う。
『それだけ』と笑い飛ばすドロップスティアーの前で、グラスワンダーは深く黙り込んだ。
◇ ◇ ◇
「――バカげている……っ」
「俺もそう思うぜ。言っとくが、コレは契約直後にアイツが決めた事だ」
日本ダービー・関係者席。名入よりドロップスティアーの走る真の理由――”ダービーで勝つだけ”と、その為の過程を聞かされたシンボリルドルフは、それだけしか口に出せなかった。
トウカイテイオーも絶句していた。彼女達は強さ故に三冠を求め、それ以外のレースをステップとして蹄跡を刻む自由があった。彼女達は、険しい道を自ら選んで走ってきたのだ。
だから、
「『ダービーで勝負したいんで、
「……ウソでしょ、ティア……」
「ウソかどうか、ダービー終わった後に聞いてみるか?」
「…………」
トウカイテイオーは黙る。黙るしか出来ない。何故なら、ドロップスティアーはそれこそ絶対に自分には――誰にも嘘を吐かない、そんな素直なウマ娘だから。
聞けば、間違いなく答えてくれる。いつも通りの調子で笑いながら、名入が言った言葉を肯定してみせるだろう。この大勝負をする為だけにデビューした、と。
彼女は勝負で
あの時と同様に。ドロップスティアーは、
「アイツは最初からダービーの練習になる道だけを選んだ。
「「――……」」
「だからこの世代の中で、実力はともかく。ダービーが一番
三冠もティアラも賞金も栄光も、そのどれも。レースの世界を知らない彼女は、何にも興味が無かった。彼女は勝負に拘るウマ娘であり、
今日という最大級の山場の為に、第二コーナー以降を練習出来るレースにのみヤマを張り、登り詰めた。そのコースへの理解力の差が、青葉賞の勝利に繋がった。
ダービーを夢見て実力を付けるのではなく、勝負がしたいからダービーに出る。それこそ”絶対”に有り得ないだろう、逆転の発想。
『一番楽しい勝負だから』。
「レースに絶対は無い。……だが、
レースに絶対は無い。それをシンボリルドルフとトウカイテイオーは良く知る理解者である。
だが、ドロップスティアーは。レースに絶対が無いという理を根本から崩す、
◆ ◆ ◆
「……初めから、全部……全部、今日の為だけに、走ってきたと言うの……あなたは……?」
「いやー、びっくりしました? どうです、面白いでしょ?」
「……ティ、ティアちゃん……ほ、ほんとに……?」
キングヘイローとスペシャルウィークは、本気で戦慄していた。
ダービーにだけ勝つ。それをデビューより前から決め、それ以外の一年間のレースを全て予習に費やした。コースの走り方など、経験という根本の土台で優位を取る為に。
彼女は、本当に
「……笑えないよねぇ。セイちゃんだって、そこまでして一つの勝負に拘れないよ。正直、
「どれでも良い、って……どういう事、セイちゃん?」
「一番凄いレースが皐月賞だったら、菊花賞だったら。ティアちゃんさんは、中山か京都しか走らなかったでしょ、って事だよ」
「?
四人がいる地下バ道に沈黙が訪れた。彼女は、
一番の大勝負だから、ダービーへの一本道を選んだ。だがクラシック最大のレースがダービーでなかった場合、彼女は
楽しい勝負がしたい。そう思う彼女は、
「――私との、東スポ杯の時もっ……アレも、ただの練習だったっていうの!?」
「違うよ、キング。違うんだ。……ティアちゃんさんは、『
「全部が、今日……?」
「トレーニングも・休みも・デビューも・プレオープンも・重賞も。
「さっすがセイちゃんさん! やっぱ、自分の事よく分かってくれますよねー!」
分からない。分かる訳が無い。冷や汗を一筋流して、セイウンスカイはそう思っていた。
セイウンスカイは強者相手に、布石や策を練る事で走ってきた。だが、
同じ策士でありながら、根本から異なる思想を持つウマ娘。『スペちゃん達とはまた違う強敵かも』と思った、河川敷での初対面。あの時抱いた思いは、まるで間違っていなかった。
――このウマ娘は。
「……そんじゃー、いっちょ勝負と行きましょうよ、皆さん! 皆さんの一年と自分の一年、どっちが勝つか。一世一代の大勝負ですよ! あははははっ!!」
両腕を広げ、ドロップスティアーはいつも以上に無邪気に大きく笑い、そして去った。
かつて最弱だった彼女の純粋な笑いを。世代最強と謳われている、三人全員が恐れた。
◆ ◆ ◆
(……まだ。まだ私は、あなたを甘く見ていたのね……ドロップスティアーさん)
キングヘイローは、本当の意味で誰よりも勝負に拘っていた彼女の想いに、内心で感嘆するしかなかった。
自分こそが”一流”のウマ娘であると、”キングヘイロー”であると。その証明の為に、自分は走ってきた。その矢先に、泥に塗れた彼女の勝負への執念に屈し。それからキングヘイローは、勝利への想いを強めてきた。
それでも尚、まるで及んでいなかったのだ。
(……スゴイよねぇ、ホント……”策士”なんて名乗れないよ、そんなのさぁ……)
セイウンスカイは、自らが天敵と睨んでいた彼女が心底怖かった。
他のウマ娘とは、何もかもが違いすぎる。強さや戦術、その全てを根本から覆す異次元の精神と信念。レースを知らない世界から来た、それ故に生まれた世代のイレギュラー。
戦略だけで言えば、既に負けている。自分はレースを走る中で戦術を用いて戦うが、相手は一年の間、
(……凄い……本当に、本当に凄いよ、ティアちゃん)
スペシャルウィークは”黄金世代”の中で、彼女と一番最初に走ったウマ娘だ。
その時、彼女は本当に弱かった。走り方を知らずに走り、曲がり方も知らず曲がれず、万に一つの勝ち目も無い。それ程の差によって、彼女は完全に敗北してターフに突っ伏した。
だが、今。一年越しに彼女は、自分達を脅かす最高峰の存在となっていた。一年をかけ、ただこの場で勝つ事だけを想って。
産みの母・育ての母・自分自身。『日本一になる』という、三人分の
(それでも)
(だけどさ)
(だけどっ)
世代最大の伏兵。最も怖ろしいウマ娘。それがこの一戦の為だけに、牙を剥いた。
――だが、三人は。”三強”は。
(絶対、負けないわよ……!)
(絶対、負ける訳にはいかないんだよねぇ)
(絶対、負けないからっ……!)
絶対に勝つ。その想いは、誰もが共通して抱いている。
例え相手がこの一日だけに一年を賭けていようと、関係無い。
◆ ◆ ◆
《二番、キングヘイロー。二番人気です》
皐月賞で惜しくも敗れ去った、キングヘイロー。しかし彼女は今回、二番人気だった。
あの時の敗北は、ハナ差の僅差。その上で今回、差し有利の東京レース場で限り無く最内スタート。キングヘイローにとっては、明らかに有利な要因が揃った状況である。
彼女のこれまでの負けは、どれも『あと一歩』だった。だから、その一歩は今度こそ届く。そんなファン達の想いが、彼女を二番人気にまで押し上げていた。
《三番、ドロップスティアー。六番人気です》
だがその隣に居るのは、そのキングヘイローを最初に負かした問題のウマ娘だった。
誰一人として真似出来ない、前例の無い、考えが読めない。事前人気やレースの常識、全ての土台を破壊し尽くして青葉賞を制した、予測不可能の存在。
彼女が出るレースは、尽く荒れる。彼女が走るレースでは、一番人気のウマ娘が勝てないジンクスがある。それから逃れたエルコンドルパサーも、クビ差の辛勝だった。
《――五番、スペシャルウィーク。
そして、スペシャルウィーク。皐月賞では一バ身半以上の差で負けた、”三強”の一人。
彼女は、
実際、皐月賞では不利の大外を最後まで回されていたのだ。最悪の距離のロスを受けながら、中山の短い直線で凄まじい追い上げを見せた。その末脚は、この東京レース場でこそ十全に活きるだろう。そう考えられている。
《――十二番、セイウンスカイ。三番人気です》
”最もはやいウマ娘”、皐月賞の覇者・セイウンスカイは今回、三番人気だった。
東京レース場は逃げが不利である。アイネスフウジンやミホノブルボンなどが例外だっただけで、このレースで――というより、逃げという作戦その物が本来勝つのが難しい事があっての、三番人気だった。
とはいえ、セイウンスカイも”例外”と成り得るだけの力を持っているウマ娘だ。事実、中山レース場の構造にも耐えてキングヘイローより逃げ切った事は、高い実力を証明している。
逃げが不利という定説を覆し、二冠目を取ってほしい。外側に回されながらも、彼女はそれだけの期待を背負っていた。
「……六番人気かー。随分、登ってきちゃいましたねー」
パドック後の返しウマで、トコトコのんびり走りながらドロップスティアーはそう零す。
自分は、弱い。そりゃもう弱かった。模擬レースは全部負けた、初めて会ったスペシャルウィークに負けた、続け様にグラスワンダーとキングヘイローに負けた。そんな彼女達は、今では最強の”黄金世代”と呼ばれている。
そんな異次元の強さを誇る彼女達の存在を考えると、自分の六番人気というのは随分と過大評価されているものだな、と思った。まぁ正直、人気なんて勝負に関係無いしどうでもいいのだが。
だが、十八人出走するこの最高峰のレースにおいて、上から六番目。そう言われて、悪い気はしない。
「あのバカオヤジも、流石にダービーぐらいは見てるでしょ。ふっふっふ、実家に帰った時のツラが楽しみですねー……」
ドロップスティアーは芝状態を確認しながらも、調子は全くいつも通りだった。
一年かけて、命を賭け続けて、全てをかけて来た大一番。それでも結局、”今日”は”今日”だ。
ダービーの賞金は調べてないが、ちょっと勝った時はその金額が載った紙でも叩き付けてやろうかな。父親に対する変な報復を考える程度には、ドロップスティアーは心理的余裕があった。
「――見ててよね」
少しだけ、ドロップスティアーは歩を緩めて空を見上げる。
そして、再び足取りを戻す。やる事はやってきた、だからやるだけ。いつも通りの日だ。
いつも通りの――楽しい勝負の、始まりだ。そう思い、ゲート前に着く。
(うーん。めっちゃ警戒されてるなー)
ヤマ勘が、作動している。三つの視線が向けられているのを強く感じる。
視線を向ける三人の方向と、それがどの誰なのか、見ずに判別出来る程に。それが分かるので、そちらへ目を向ける事はしない。目を合わせる必要すら無かった。
スペシャルウィーク・キングヘイロー・セイウンスカイ。彼女達は有り難い事に、かつて足元にも及ばなかった
それでこそ、勝負は楽しくなる。本気の彼女達をまとめて倒す、これ程面白い勝負は無い。
地元の山でやってきた勝負よりも、もっともっと、ずっと面白いだろう。このレースを楽しむ為だけに、今までずっと走り続けてきたのだから。
(さぁ、”三強”――いや、”最強”の皆さん。この”最弱”と良い勝負、しましょっか?)
あはぁっ。心中に抑え切れずに溢れた笑い声を漏らし、牙を剥いてゲート入りする。
ヤマ勘が強まる。絶えず警鐘が鳴り続けている。絶対の強さという危機が、視線という形で、意識という形で襲おうとしている。
だが、
《――全ウマ娘、ゲート入り完了しました。……2400メートル先、栄光はただ一つ! 『東京優駿・日本ダービー』……》
全ウマ娘が、意気を上げていく。この大勝負・大一番に、全ての想いをかけて。
唯一人だけ、意気を保っている。この大勝負・
ここは勝負所だ。だから、勝つ。全く以て、いつも通りのまま。
――
《――今! スタートです!!》
ここから、本当の地獄が始まります。