「く、そっ……!」
森林を割くが如く伸びている、山肌に設けられた階段。ドロップスティアーは
シンボリルドルフもカーブを曲がろうとしていた自身の脚を方向転換させ、慌てて階段方向へと舵を切った。
(やられたっ……! こんな抜け穴があるとはっ……!)
体の向きを反転させる様な超急コーナーを曲がるのはそれだけでロスになる。ならばどうするのが正しいのか、答えは
シンボリルドルフは慣れないこの山道を、道路を走る事だけに集中して走ってきた。故に、
これで瞬間移動のトリックについても理由が付く。シンボリルドルフが険しい山道やコーナーに苦戦している中、ドロップスティアーはその全てを無視し、どこかの抜け道を真っ直ぐに駆け上がって来ていたのだ。
そして今。シンボリルドルフの顔を歪めているのは、そんなチープ過ぎる手口だけではない。
(コーナー前の加速は、階段を昇る為の助走か!)
ドロップスティアーは軽々と、跳ぶ様に階段を上がっていく。対するシンボリルドルフは、そのスピードにまるで追いつけていない。
理由は目の前の階段の角度が、最初の急坂にも劣らないものだからだ。
(速度が、出ないっ……!)
シンボリルドルフは踏み固められた階段を、パワーで蹴り上げていく。しかし、前を行くドロップスティアーとの差は広がっていくばかりだった。
一歩一歩、一段一段、距離を離されていく。それは、昇り始めの
助走がほぼ無い状態で階段を昇り始めたシンボリルドルフは、駆け上がる速度を上げられない。どれだけパワーで補おうと、坂を走るのと階段を昇るのは似ているようで違う行為だ。
階段を高速で昇る事は、上へと跳ぶ事。そして昇り続ける事は、一番高くを目指して跳び続ける事と同義だ。
跳ぶ為に最も必要なのはパワーだが、高く跳ぶには助走が要る。そして跳ぶ度に、最初の助走で得た上方への推進力は目減りしていく。
そして、シンボリルドルフはその助走が殆ど無いまま階段を昇り始めた。現状のドロップスティアーとシンボリルドルフの
「く、くくっ……!」
あの生徒達が言った通り、確かにこれは滅茶苦茶だ。これは速さを競うレースでは無い、それどころかスタミナを比べる持久走でも無い。何でもアリの、無差別勝負だ。
強いて言えば、
レースに絶対は無い。だが、まさかこんな形で”絶対”が覆されるとは思いもしなかった。
「良いだろう、付いていってやるっ……!」
――”皇帝”を
助走も無く昇り始めてしまった、だからどうした。レースとトレーニングで無駄無く鍛え上げてきた身体能力任せに、シンボリルドルフは階段を昇るペースを強引に底上げする。
助走の有無など無視して純粋な脚力だけで駆け上がっていく、文字通りのパワープレイ。それで、少しずつドロップスティアーとの距離を詰めようとする。
だが、詰まらない。上を昇るドロップスティアーに離されはしない、だが近付けない。
(幅、かっ……!)
その原因は、階段その物。走る両者の能力では無く、地形に問題があった。
森をゆっくり眺める為の物なのか、登山者用に最低限備えられた階段は均一な造りをしていなかった。階段の段差一つ一つ、殆ど全ての幅が違っている。
一段昇れば、幅広に。数段昇れば、幅狭に。歩くならともかく、走るには全く適していない変則的な段差の変化に、シンボリルドルフは全く対応出来ない。
その一方でドロップスティアーは、幅の狭い区間は二段・三段と軽やかに飛ぶ事で対応している。恐らく階段の昇り方を最初から最後まで把握しているのだろう、目の前にある数段に対応するだけで精一杯のシンボリルドルフとは雲泥の差だ。
「それだけでっ……!」
それだけで負けはしない。だが、それだけでこうも差が出る。
シンボリルドルフは思い切って目の前から、上方を走っているドロップスティアーへと視線を向ける。階段では無く、階段を昇る彼女の足取りを見上げた。
壁の様に膝を上げなければ昇れない急階段の足元へ目を向けられない事は恐怖を伴う。だが、そうしなければ追いつけない。
(違いがあるなら合わせれば良い、それだけだっ……!)
冷や汗混じりにドロップスティアーの足跡を、まるで加速している様に見える程のペースで駆け昇るラインを追う。そうしてようやく離されていた差が、徐々に縮み始めた。
心底恐ろしい、シンボリルドルフは震撼していた。走る相手を恐ろしいと感じた事はあったが、
ドロップスティアーの辿る道筋と昇り方は、豪快に見えて極めて際どく繊細だった。数センチもズレれば爪先や踵が埋め込まれた丸太に誤って接地し、昇る勢いが逸れてしまいそうになる。
或いは、意図的に硬い丸太を足裏の広い面積で踏む事で、ジャンプ台の如く反発力を得て幅狭の段差を数段飛びする地点もあった。
「……無理はしない、つもりだったがっ……!」
シンボリルドルフは熱が入っている自覚はあったが、それでも全速は出していない。ドロップスティアーと同じ走り方とライン取りをしているのだから、身体能力の差だけ余裕がある。
だが、全力に近かった。速度に割いていない分のエネルギーを、手入れもされていない階段を昇る事と前を行くウマ娘の動きをトレースする労力に割いている。
怪我に繋がる可能性が一パーセントでも出る、そんな無理はしない。しかし”無理”に届かないギリギリのラインまで、シンボリルドルフは攻めていた。
(っ、やっと終わりか……!)
昇り続けていたドロップスティアーの姿が、唐突に右側へ失せる。同時に、シンボリルドルフの視界に階段の終わりと道路が映った。
突き放されて背を追えなければ、またどんな横道を使われるか解った物では無い。故にシンボリルドルフは、脚に力を込める。
八割。階段を昇り終える僅かな距離だけ、シンボリルドルフは本気の二歩手前の力を出した。
「く、う……!」
一気に昇り終える。道路に足を付け、すぐに右に曲がる。ドロップスティアーの姿は、およそ六バ身程前の直線にあった。
だが、勾配が厳しい。階段という不整地からコンクリートの舗装路に出て、即座に右に切り返し。その直後に急坂を上らされるという、嫌がらせの様なコース構造がシンボリルドルフの脚を鈍らせる。
とにかく、追わなくてはならない。改めて言うようだが、ドロップスティアーの直線での速度はシンボリルドルフよりも遅い。故に、背を捉え続けるなら容易だ。
「そう易々とは、逃がさんっ……!」
シンボリルドルフはドロップスティアーを追っている。ドロップスティアーは一足早くコーナーに入る為に外側にラインを取っている。
アウトインアウト。コースを隠す木々の陰で、ドロップスティアーの姿が見えなくなる。
(成程、これは走りやすい……!)
後を追うシンボリルドルフもまた、その走行ラインを辿った。脚の出力を八割から戻しながらも、ドロップスティアーの走りを本人以上の速度でコピーしてみせる。
果たして効果は劇的だった。センターライン上を忠実に走るよりも圧倒的に、脚への負担が軽く速度が乗る。コーナーを抜けて直線に入れば、再び両者の差は二バ身程にまで詰まっていた。
しかし、シンボリルドルフには
(
無理せず抜かせる。しかし抜かせば、再び知らない横道を使われてどこからともなく抜き返されるだろう。
既に二千メートルという指標は何の目安にもならない。ドロップスティアー専用とすら言える近道の前では、急坂や急コーナーなどを含む道路の距離など意味が無い。
故にシンボリルドルフは、ドロップスティアーからのイレギュラーな接触を避けられるマージンを取りつつ、どこに行くのか想像不能の道筋を追い続けるしか無いのだ。
(……『先行がハンデなど甘い』、か。これではもう言い返せないな)
考えている内に逆のコーナーが迫る。コーナーを曲がるドロップスティアーの後ろに付いているシンボリルドルフは、そのラインの走りやすさに感嘆しつつも、スタート前に言われた言葉を思い返していた。
シンボリルドルフはこうして後ろを走る、つまり後行の位置取りをする事で圧倒的に楽が出来ている。知らないコースで先行を下手に取れば、先程の様に知らないショートカットを連発され、意味が分からない内に負けるだけ。
後行を取れば、相手の挙動を観察出来る。相手の動きをコピーすれば、能力勝負に持ち込める。先行が有利なのは確かだ、しかしコースを知らない
(……いや。私が後行であったとしても、そこまで変わりはしなかったろうな)
だが、結局最効率・想定外にある道だろうが、この山が険しい事に変わりは無い。何せ勾配の続く曲がりくねった道路を無視し、代わりにそれ以上の急勾配の直線を昇っているのだ。
走行距離は短く済む、厳しいコーナーを曲がるという浪費も無くなる。だからと言って今駆け上がった階段の様に、
今シンボリルドルフがついていけてるのは、ただ強いから。相手より強いから、相手の無茶な走り方を真似出来ているだけ。先行が有利だった事は変わらない、後行で変わるのは心理的な余裕ぐらいなモノだ。
「コレに一発で付いて来られるのは初めてです」
先を走るドロップスティアーから、称賛の混じった声がかけられる。
事実、シンボリルドルフは一時的に全力寸前の力を出す事でようやく想定外の近道に対応出来た。これが別のウマ娘であれば、ただ理不尽にぶっちぎられて背中を見失っていただろう。
単に相手のラインをコピーする、言うだけなら簡単だが高位な芸当をシンボリルドルフがやってのけたのは間違いない。だが、ドロップスティアーの声色は称賛のみ。
『凄いですね』、たったそれだけ。自分が編み出したであろう独自の走法をコピーされても、何の焦りも見せない。
「ルナさんは、レースで走ってる方でしたっけ」
「? ……ああ」
過酷な坂道を走り続けている最中とは思えない、日常会話の様な質問がドロップスティアーから投げかけられる。どんなレース場やトレーニングよりも過酷かと思える程に厳しいこの山道を走りながら、未だ声色に疲労が見られない。
その強靭さに敬意を表しつつも、シンボリルドルフは素直に質問に答える。麓でも一度言った事を、改めて聞かれた。
だが何故。何故今、このタイミングでそれを確かめる必要がある?
「なら
そう言って、一つコーナーを抜けた所でドロップスティアーは加速を始める。
先に待っていたのは勾配が殆ど無い、ほぼ平地の直線。三十メートル程だが、それまでに比べれば休憩区間と言える場所。
山道特有の短距離直線、その先にはやはりコーナーと――
「――まさ、かっ」
獣道や簡易の階段のような、山の狭間に多々あるだろう近道に見られる、山肌の土色すらない。そこにあるのは、塗り潰した様な一面の
「や、やめろ! そんな事、出来る訳がっ……!」
ドロップスティアーは迷う事無く加速していく。やはりコーナーを曲がるつもりも無い、これからショートカットをしますよと宣言するような速度を出している。
シンボリルドルフはそれをやめさせようと声を張り上げた。
そこにあるのは、
「――あはっ」
笑い声が聞こえた。当然この状況で、シンボリルドルフは笑う事など出来ない。
一人のウマ娘が、全速力で壁に向かって直進している。そのまま行けば壁に衝突する、そんな狂った光景を見て笑える者など、いる訳がない。
笑えるのは。狂った光景と同様、狂っている者だけだ。
「いやっ、ほぉぉーいっ!!」
爽やかに、楽しく、そして気が狂った様に。
ドロップスティアーは笑いながら、目の前の石壁に向かって大ジャンプした。
【狂奔(きょうほん)】 ――