ダブル鋭角コーナリング。五つの武器の最後にして、名入をして禁忌とした最終兵器。この技には、信じられない程のリスクとデメリットが存在する。
相手へ激突するラインで突撃するという自殺行為。これは強制斜行と違い、自分から崖に身投げする様な危険と、多大な脚のダメージを招く。
鋭角コーナリングの二回という回数制限は、
だがこれを
ウマ娘の脚はガラスで出来ている。特異な足先と技術を無意識に兼ね備えているとはいえ、フルスピードの慣性という世界の摂理に連続して逆らうこの技は、通常の鋭角コーナリングの何倍もの難度と負担がある。ウマ娘の脚を普通に容易くへし折る筈の技の、何倍にも。
だからドロップスティアーは最終コーナー終わりで、僅かに膨らんだ。セイウンスカイのラインを奪う、その理想の走りが出来なかった。
「負ける、かァーッ!」
強制斜行が無ければ、進路変更は普通に出来る。セイウンスカイはキングヘイローの右、ドロップスティアーの左の空いたスペースに入り込む。
セイウンスカイにはドロップスティアーがどうして自分の走行ラインを奪わなかったのかは分からなかった。だが、なんらかのミスによって空白が生まれたのだ。ならばブロックされる前に、横に並べば良い。
「勝つのは、私よッ!」
キングヘイローはこのコーナー終わりまで、内を走り続けた。セイウンスカイの影を常に見せられる心理的消耗に耐え、むしろ逸走策というカウンターも当てた。
まだ行ける。まだ走れる。坂に入ってすぐ、ロングスパートで飛んできたドロップスティアーとセイウンスカイが、キングヘイローが横一列に並んだ。
そう。
「――こぉーっ……」
(……ッ!?
ドロップスティアーのロングスパートは、坂で差を付けてくる。二バ身差が付けられれば、ドロップスティアーは容赦無くブロックのラインを描く。だからセイウンスカイは横に出た。
セイウンスカイはレース的には、極めて正しい判断をした。実際、この坂で二バ身差が付いてしまえば、ドロップスティアーはセイウンスカイの直進を許さなかった。
だが、予想を上回られたという一瞬の焦りが。
「だあッ!!」
「うぐぅっ……!?」
東京レース場・坂の中腹。
震山脚。ドロップスティアーの周囲――
東京レース場の坂は、ゴール前の約450メートル地点から300メートル地点まで、二メートルの勾配がある。150メートルで高低差二メートル、この勾配は中山の坂に及ばないまでも、実質的な長距離レースであるこのダービー終盤に於いては凶悪な勾配だ。
だが、ドロップスティアーにとっては平地と変わりない。だから坂の最中でも、震山脚は問題無く放てる。
その上でこの位置・この状況では。
(の、
セイウンスカイは坂の入りで一歩失速した。この最終盤に訪れる、パワーとスタミナを要求される急坂の始まりで。結果、
それはかつて、シンボリルドルフですら階段ショートカットで苦しんだ現象・加速不足。勾配のある地点を登るには、助走という名の加速が必要となる。事前の速度こそ、坂を登る為に必要な翼である。
レースにおいてストライド走法がピッチ走法に劣る、少ない弱点。それは、
「くっ、そぉぉぉーーーッ!!」
セイウンスカイは、抜かれた。キングヘイローとドロップスティアーに置いていかれる形で、坂で大きく失速した。取り返しの付かない、そんな一歩のロスで。
彼女は、坂の終わりギリギリまで二バ身弱の差をキープすべきだったのだ。そうすれば、少なくとも坂での震山脚という最悪の攻撃を受けるよりはマシだったから。しかし、この予想外だらけのレースで、策士である彼女は初めて判断を誤った。計算がズレた。
というより、知る由も無かったのだ。震山脚は最後の最後の競り合いで力を発揮する、それは青葉賞で見た。だが、坂でこそ真価を発揮するという情報が無かった。
――そして。ドロップスティアーの武器には、
「――すぅっ!!」
空手には、”息吹”と呼ばれる逆腹式呼吸という技が存在する。息を音を立てて吐き切り、それから息を吸い上げて呼吸を強引に整える。震山脚と瞬間呼吸は、
震山脚は、ただでさえスタミナを多量に使うピッチ走法の中で、意図的に一歩を強く踏み締める技術だ。この時、瞬間的なスピードロスと息の消費が発生する。だが、
ダブル鋭角コーナリングからの追い上げ、坂での震山脚。これによりドロップスティアーは、肺腑の酸素を
「そう簡単に、行かせないわよッ!」
平然と坂で息を入れ直したドロップスティアーの速度は、ほぼ落ちない。キングヘイローも抜かれるが、しかしセイウンスカイ程に差は開かない。
震山脚はあくまで、周囲一バ身近くでしか作用しない。よってセイウンスカイを挟んだ――二人分隣にいるキングヘイローには、単なる大音を伴う踏み込みでしか無い。
脅迫マークの様な至近距離や死角からのカッティングならともかく、少し離れた場所で立てるドロップスティアーの踏み込みの音など、集中状態のキングヘイローにとっては何の揺さぶりにもならない。
追い縋る。ドロップスティアーが自分より速いのは、坂だけだ。この坂で離されなければ、最後の300メートルという平地直線で差し切れる。東スポ杯のアタマ差の時は、もっと距離があったのだから。
――
「あっはっは、っはー!!」
「……ウソでしょうッ!?」
坂が終わり、平地に入り、キングヘイローは末脚を出し始める。だが、
坂ではなんとか食い下がれていた筈だ。平地になれば自分の方が速い筈だ。にも関わらず、
瞬間呼吸でスパートを維持しようが、最高速が上がる訳では無い。にも関わらず、キングヘイローは自慢の末脚で速度負けを起こしているという事態を、一瞬で理解させられた。
そんなバカな。彼女のロングスパートに、自分の鋭いスパートが負けるなど、有り得ない。
――
(――違う!
キングヘイローは、どこまで行っても差しウマだ。抜群の切れ味を持つ、瞬発力重視の脚を持って産まれてきて、そしてそれを磨き上げてきた。
皐月賞ではギリギリまで先行を取れた。だが、初めての2400メートルの立地で、逃げという作戦に対し。
ドロップスティアーは”三強”の位置を、離れていても大体把握出来る。そして誰よりも東京レース場を走り続けてきた。だから、分かった。分かってしまったのだ。
キングヘイローはこの日初めて。ドロップスティアーに、
《抜き去ったドロップスティアー! やはり怖いドロップスティアー! セイウンスカイとキングヘイロー、食い下がるもついて行けない! 先頭に、ドロップスティアーが立った!!》
スペシャルウィークは、ダブル鋭角コーナリングという一度限りの禁じ手に沈んだ。
セイウンスカイは、早まった仕掛けから坂での震山脚を受けて失速を取り戻せない。
キングヘイローは、セイウンスカイと逃げていた消耗によって末脚を出し切れない。
《ドロップスティアー、ドロップスティアーだ! ドロップスティアーが――》
セイウンスカイが沈み、キングヘイローが追いつけない。観客から見れば、”三強”を実力で上回った様な、そんな光景。現実的に、二人はドロップスティアーに追い付く術を失った。
ロングスパートを繰り出して前に立ったドロップスティアーに対し、青葉賞では誰も追いつけなかった。彼女が勝つ。実況も観客も、そう思った。
――
◇ ◇ ◇
(……お母ちゃん達。皆……)
――ダブル鋭角コーナリングによる死の恐怖。それを間近に受けたスペシャルウィークは、ほぼ最後方まで落とされた。
死の恐怖。
だけど、それでも、諦められない夢がある。
譲れない勝利がある。
大きな想いが、ある。
(私の中には、まだ残ってる)
母の夢。自分の夢。応援してくれるファン達の夢。
”日本一のウマ娘”。母が・自分が・皆が、後押ししてくれている夢。それはスペシャルウィークの心の内に、背中に、両脚に、全身に。その全てに、込められている。
ずっと。ずっとずっとずっと、想い続けている夢。叶えたい夢。
皆と走り、競い、目指して。掴みたい
(勝ちたい)
燃え上がる。心の奥底から、込み上がるモノがある。
(勝ちたいっ)
抑えられない情熱が、留まらない。魂が吼えている。
(勝ちたいッ――!)
自分の心を、焦がす様な熱い願いが。
(……”日本一のウマ娘”として……このレース――)
――名入は。スペシャルウィークに対し、こう評価していた。『潜在能力がえげつない』と。
彼女の才能は、
故に、このダービーという”日本一”を競う勝負で。彼女の
極限まで押し込められた想いが、究極に追い詰められた状況が、
(この勝負――勝ちますッ!!)
スペシャルウィークは。
◇ ◇ ◇
《――いやっ!? 後方、最後方から、
「……はぁぁーッ!!?」
関係者席の名入は、声を上げて驚愕した。シンボリルドルフとトウカイテイオーも、言葉を失ってその光景を見た。
確かに一度、スペシャルウィークはあの自殺的な究極のコーナリングを受け、バ群に沈んで最後方を回された。絶対に挽回出来ない、そんな失速だった。
実際、スペシャルウィークは終わっていた。一度失速して後ろに回ってしまえば、差しウマの前に壁が出来る。物理的な壁に対し、差しウマは大外を回らざるを得ない。
しかしスペシャルウィークは一度、大外を回らされて皐月賞に負けた経験がある。外を回れば、負ける。その経験が、直観が、そして追い詰められた限界の窮地が。
――鋭角コーナリングの、
「ウソだろオイ!?
ダブルだろうがシングルだろうが、鋭角コーナリングは鋭角コーナリングだ。即ち、バ群の内に封じ込められて沈み、大外を回らされるロスに陥る技術。失速とバ群の壁と大外のロス、この全てが邪魔をして負かされてしまう。
鋭角コーナリングの最大の攻略法。しかし
――だが。
「……凄まじいな……」
「……うん……」
シンボリルドルフとトウカイテイオーも、それを見た。
凄まじい切れ味のロングスパートをしながらも、前方を走るバ群の誰にも接触せず、針の穴を縫い続ける様な異次元の足捌きによる中央突破。生半可な精神では出来ない、卓越という言葉ですら足りない超越的な走り。
一歩間違えれば、それこそ誰かと追突する事態だった。ドロップスティアーがやる様な、極まった集中力が成立させた、究極の追い上げ。夢幻と疑う、驚天動地の走りだった。
「――
「……アレ喰らっといて、追い付くってのかよッ……!」
トウカイテイオーは一目見て、スペシャルウィークの末脚を見極め、予測を終える。”天才”の直観は”皇帝”よりも早く確実に、この先の数十秒先までの未来を導き出した。
脅迫マークを超えた擦過マーク。散々に集中力を乱され、その上で間髪入れず受けたダブル鋭角コーナリングの死の恐怖。そしてバ群の最後方に沈むという、最悪を極めた状況。
そこからスペシャルウィークは、ドロップスティアーに追い付くのだ。限り無く低い可能性を、彼女は見出して。流星かと見紛う速度で彼女は、セイウンスカイやキングヘイローも、他の全員を抜き去って。一気にドロップスティアーへと迫っていた。
「……確かに、届く。いや……
「…………マジかよ」
シンボリルドルフは直観の後に、計算した。最上位のウマ娘として、最上方のこの席で俯瞰して。そして、スペシャルウィークの末脚が保つと仮定した場合。
これこそが、名入が最も恐れた事態。想定以上の――
――レースに。
◆ ◆ ◆
「――あっ、はぁっ……!!」
ドロップスティアーは、
ヤマ勘が最大級の警鐘を鳴らしている。間違える筈も無い、スペシャルウィークの気配が猛追して来ている。どうやったかは知らない、だけれど彼女は自分の最大最強の技を完全に打ち破り、自分に迫ってきたのだ。
嬉しい。楽しい。
ヤマ勘は共感覚であり、直観の一つだ。即ち、確信である。残り100メートル強、この状況で自分は凄まじい速度で突っ込んでくる彼女に、ギリギリ差されてしまう。
(あははっ! やっぱ、スペさんは凄いなぁっ!)
”黄金世代”で最初に戦った相手、スペシャルウィーク。自分と皆を引き合わせてくれた、運命の分岐点であるウマ娘。
”日本一のウマ娘”。彼女の言葉は、決して間違いじゃなかった。一年を捨ててまで得たレース運びと、死ぬ覚悟で放った自分の技術を打ち破って勝とうとしている彼女。彼女が”日本一”じゃなかったら、誰がそうだと言うのか。
ドロップスティアーは負けを確信しながらも、心が高揚してどうにかなりそうだった。
「うあああぁぁぁーーーッ!!」
スペシャルウィークは全身全霊を尽くし、突っ込んでくる。まだ少し距離はある、しかし自分の末脚
ドロップスティアーには出来ない。掛かれない彼女には、限界を超えられない。これ以上速度を上げる事など出来ない。”絶対”の
ああ、ああ、どうしよう。このままでは負ける。絶対に負けてしまうんだ、自分は。
(――あっ。そうだ)
スペシャルウィークがすぐ傍に迫ってきている。もう一秒ぐらいか、それで抜かれるだろう。
そんな確信を抱きながら、ドロップスティアーはまるで思考を乱さない。彼女に敗北の絶望は無い、だから全力を尽くして負ける寸前であっても思考が回し続けられる。
だからこそ
自分にしか出来ない、”絶対”を覆し得る――
◆ ◆ ◆
《スペシャルウィーク捕まえるか! ドロップスティアー逃げ切れな――えっ、
「ああ゛!?」
ゴールまで残り50メートル強。そこでドロップスティアーはスパート速度のままフォームが崩れて、
バカな。名入は本気で、その刹那の異常事態に目を疑った。
あの掛からない、そして地獄マラソンで散々叩き込んだメジロパーマー式走法を体得したドロップスティアーが。この土壇場で歩調を乱して転倒など、する訳が無いのに。
「ティア君ッ!!」
「危ないッ!!」
シンボリルドルフもトウカイテイオーも、倒れ行く光景を見て大声を上げた。
ウマ娘の最高速度による転倒によって訪れる未来。それは、
そう、誰もが思った。
《いや、倒れない持ち直しッ――違う!
「――はあぁぁぁッ!?」
名入が絶叫する。ドロップスティアーは、
彼女のピッチ走法は、誰よりも極まっている。それは誰よりも歩数が多いという事。つまり、
彼女は過去の菊花賞の映像を大量に見せられた。その中で一つ、印象的な勝利が幾つかあった。それが、この
《ゴールまで残り僅か! ドロップスティアー転ばない、だがどんどん崩れている! スペシャルウィーク届くか! ドロップスティアーかスペシャルウィークか!》
空気抵抗を減らす、超前傾姿勢。ナリタブライアンのそれは本来、深く前傾しながらも足裏で踏み込み続ける異次元の走りだ。それをドロップスティアーは出来ない。
だが、彼女はピッチ走法のフォアフット――
だから思いついた。
「バカな! あれではゴール直後に倒れてしまうぞッ!!」
「スピード上げてる!
レースの勝利は、ゴール板を過ぎる事。だから、
”勝てれば走るのをやめていい”。そう言われるレースで、
この50メートルで、ドロップスティアーは。
《追うスペシャルウィーク! 届くかスペシャルウィーク! ドロップスティアーと
スペシャルウィークの脚は、その命懸けの付け焼刃よりも速かった。そして並んだ。
後ろから並ばれるという事は、速度で負けているという事。このゴール直前で、最早この絶対的な速度差は覆せない。
――しかし。ドロップスティアーはかつて、名入に言われた言葉を思い出した。
『お前がどんだけトレーニングをしようが、トップレベルの相手にはギリギリ
そう。命を捨てたとしても、足が届かない。
だけど。
《スペシャルウィーク差したか! スペシャルウィークが今――えっ!?》
ドロップスティアーは、ピッチ走法の歩幅の調整を最も得意とする。走る足を瞬間的に極限まで狭める、それが鋭角コーナリングの最も肝要な部分だ。
だから、
《――
――簡単な事じゃないですか。
足で勝てないなら。
◇ ◇ ◇
負けないから。絶対に、負けないから。
――あの時、言ったよね。
だからわたしは、まけないよ。
◇ ◇ ◇
本物の日本一と、本当の命知らず
死力を尽くすとは、こういう事です。