ヘッドスライディング。言わずと知れた、野球の技術。
一点の終着点に到達する
そして、
時速60キロメートルオーバー・絶命に至らしめる速度。勝負服のプロテクターなどという心許ないペラペラの守りを容易く貫通する、圧倒的な慣性のままに。
(――あー。コレ死にますかねー?)
ゴール板を過ぎた瞬間・地面に落下する死の間際。走馬灯を巡らせる代わりに、ドロップスティアーは思考を加速させる。彼女を止めるのは死の恐怖だけだが、
そもそも、落下中なので体は止まっていないのだ。
ヘッドスライディングでゴールした後の事は考えてなかった。”六つ目”は単純に『その方が速いから』という単純なひらめきでやらかした技であり、生きるか死ぬかを考慮する余裕は無かったから。
――だが。
(……あ!)
六つ目・転倒疾走。ドロップスティアーの人生最大の、最速最短自殺ショートカットとすら言うべき、真に最悪極まった技術。
あらゆる技には弱点が存在する。よってこの技にも、
乗るか反るか、出たトコ勝負。なぁに、
あはっ。笑う時間も無いから、心だけが笑った。
《ドロップスティアー転倒! 転ッ――!》
実況が悲鳴を上げる。観客席も悲鳴と絶句で割れる。関係者席のシンボリルドルフとトウカイテイオーも、当然名入も。身を前に乗り出して、死の悲劇を眺めるしか出来ない。
そう、死ぬ。絶対に死ぬ。――
「――あんにゃろう。
「へ、ゴルシ!?」
いつの間にか関係者席で、トウカイテイオーの背後に立っていたゴールドシップが、珍しく呆けた顔をしながら、地面に胴から落ちるドロップスティアーを眺めていた。
ゴールドシップは、ゴールドシップだけが、彼女のやる事に一瞬早く気付いた。気付けた。有り得ない筈の――
《――えっ!?》
ドロップスティアーは、落ちる直前に伸ばした腕の肘を咄嗟に引く。
そしてプロテクターと一体となったグローブ部分・掌全体を地面と水平に構える。
「
「ムチャだよッ!!」
新春バレー大会と称した、”黄金世代”を唯一完敗させた出来レース。あの場面で何度もフォローとしてやった、受け身の技術だ。
ひとまずこれで、胴や頭から落ちる事は無くなった。しかしそれでも慣性は乗ったままであり、腕ごとひしゃげ、続けて頭から落ちる事となる。
だから、
《転っ――
実況が声を裏返す。ドロップスティアーは掌のフライング着地から瞬時、
凄まじい体幹コントロールのみが可能とさせる、異常なまでの瞬間的な受け身。だが、これはドロップスティアーが敬愛する先輩の――
ゴールドシップ。初対面一日目から謎のシンパシーを感じて、一方的に慕い始めた彼女が最初に教えてくれた、異様なまでの前転速度と回転数を誇るでんぐり返し。
ふざけた調子で教えられた、”
「うぐ・ぐあ゛・あが――おぉぉぉーッ!」
ドロップスティアーは時速60キロメートルの運動エネルギーを背中に受け、転がり、また背中に受け、転がり続ける。地獄行きの車輪に巻き込まれる様な、絶大な苦痛が何度も何度も、全身に叩き付けられる。
ドロップスティアーは、ゴールドシップを慕っている。破天荒に自由に非常識に、自分にも出来ない事を可能とする彼女の事を真剣に『姐さん』と呼んでいる。
だから、
だから、彼女は。この死の間際で死を覆せる、たった一つの技術を繰り出せたのだ。
「――ぐあ゛、ぅあッ、ぐへぇっ! ……ハァッ、ハァッ、ハァッ……! ごほっ、げほ、ぅ、ごぇ……」
かつてゴールドシップが見せた十二連続の前転。時速60キロメートルオーバーから繰り出したそれは、その時に見せられたモノを遥かに超える回転数と速度でドロップスティアーを苛め抜き――そして、止まった。
勝負服はこの一瞬でズタズタになった。プロテクターがあろうが無かろうが、致死のエネルギーは体を襲った。だがしかし、それらは数え切れない回転の最中に、地面と全身へ何十・何重にも分割されてゆき。
ドロップスティアーは、ゴールした先で。全身のあちこちから血を流しながら――
《――――……い、一着は……しゃ、写真判定、です……》
実況は、ターフで傷から血を滲ませ倒れ込んだドロップスティアーが、苦悶に蠢く姿を見ながら――つまり生きている事を確認し、自分の責務を果たす。勝敗は、写真判定に委ねられた。
審議ランプは、点いていなかった。ダブル鋭角コーナリングは斜行では無かった・スペシャルウィークの中央突破は他者の走行妨害にならなかった。よって、不正・反則行為が無かったと判断されていた。
だが、スペシャルウィークとドロップスティアー。その二人のどちらが先にゴールをしたのか。それを目視で判断する事は、誰にも出来なかった。
「「――……」」
「……うっそだろ、おい……」
「……このアタシが、マジでビビらされるとはな……」
シンボリルドルフとトウカイテイオーは、ターフで真の満身創痍となりながらも生き残っているドロップスティアーの姿に瞠目と絶句しか出来なかった。
名入は、絶対に死ぬと思った彼女が本当に生きている事が現実かどうか、何度もまばたきを繰り返しながらそう漏らすしか出来なかった。
ゴールドシップは、自分がふざけて教えた技術をこんな形で使った後輩に心底ビビっていた。トレセン学園に来てから、最大級と言える衝撃であった。
「……ぶ……無事……なの、か……?」
「……い、生きてるよアレ……ホントに……?」
「…………」
シンボリルドルフは”絶対”を覆した事を目前にしても、未だに信じられなかった。
トウカイテイオーは天才的な直観で生存を確信していたが、自分の判断を疑った。
名入は、手に挟んでいたココアシガレットを落として、何の反応も出来なかった。
関係者席は。ダービーのゴール直後とは思えない、異様なまでの沈黙に包まれた。
「――ティアちゃんッ! ティアちゃん、ティアちゃんッ!!」
だが、ターフの上はそうではない。
スペシャルウィークが真っ先に、ウイニングランを引き返してドロップスティアーの場所まで戻ってくる。出走者全員はゴールし、ターフの隅に寄っていた。
それは救急の為の進路を空けたと言うより、半ば忌避感だった。信じられない事が起きて、血と共にターフで倒れる彼女から距離を置きたかった、ただそれだけ。
だが、出走者の全てがそうな訳では無い。彼女の友人は、一人だけではなかった。
「ティアちゃんさんッ! 生きてる!? ホントに生きてるのッ!?」
「ドロップスティアーさん! あなたはまたッ――いや、返事をしなさい!」
セイウンスカイとキングヘイローもゴールしてから慌ててゴール板より先、ドロップスティアーが倒れ込んだ地点へと戻ってくる。自分達も後方からゴール寸前にやった彼女の受け身は見た、しかし生存を確信は出来なかった。
誰も見た事が無い、誰もやった事が無い、そんな自殺行為と延命行為。その二つを連続して見せられ、頭はパニック状態だった。ぴくぴくと動いているドロップスティアーの姿を見ても、生きているとは信じられない程に。
彼女は、生者がやってはいけないラインを超えていた。だから、理性的な心配よりも本能的な恐怖の方が勝っていた。本当に死んだのではないかと、未だにその一念が拭えなかったのだ。
「――あー。……生きては、いますね……あっ、いだだぁ……」
「……よ、よかった……よかったよぉ……いきてる、いきてるよぉ……っ」
「……ホントだよね……? ウソ、ウソはつかないよね、いつもさぁ!?」
「あっ、あなたはっ……あなたはぁっ……!!」
むくり。ドロップスティアーはあちこちに擦り傷を負いながらも、しかし致死速度で転倒したとは思えない程に軽々と体を起こした。
彼女は、育ってきた山で何度も生死の狭間を彷徨ってきた。近道に不慣れな時は、山肌を滑落する事もあった。しかし彼女はそれでも、平然と生きて走ってきた。今日まで生きてきて、そして今日も”今日”だった。
本当の死を覚悟したのは久しぶりだったが。彼女は、
「――おばかッ! おばか、おばかッ! 死んだら、ほんとに死んだらどうするつもりだったのッ! ゴールしても、生きてなかったら意味無いじゃないッ!!」
「……え? ……あ、そっか。死んじゃったら勝利って降着扱いですか?」
「キングが言いたいのはそういう事じゃないっての! ……ホントに、本当に。私だって心配したんだからね……!?」
「セイちゃんさん……」
「ティアちゃん……ティアちゃあんっ……」
”三強”が、”最恐”を囲む。彼女は正真正銘の自殺行為を敢行しておきながら、レースの勝敗の方を心配していた。それ程までに、純粋に勝負に拘っていた。勝負に狂っていた。
だが、そうじゃないのだ。重度の故障はアスリートの死と喩えられるが、彼女は本当に
スペシャルウィークは、骨折という大怪我でグラスワンダーが病室で無気力となった痛々しい光景を今と重ね、縋り付いて泣いていた。ダブル鋭角コーナリングで受けた恐怖など既に忘れていた。ただこの友人が生きている事を、縋って確認し続けたかった。
「……あ、写真判定ですよ写真判定、初めて見ました! ホントに”写真”って出るんですね、あの掲示板。わー、レアって聞いてるんですけどアレ」
ドロップスティアーは全身に激痛を伴う傷こそ負ってこそいたが、
勝負直後のアドレナリンで痛みは和らいでいるが、自分の全身を軽く動かして大体の状況はわかる。
ひょこっと立ち上がり、両腕・両脚を曲げ伸ばしてみる。足首を回す。首を振る。背を伸ばす。
「……あー、楽しかったー。あ、だいじょぶですよ、コレどこも折れてないです。久々ですけど、こんぐらいの痛みなら経験済みなんで、自分」
「こ、こんぐらい、て……」
「おばかッ! 大人しく座りなさい! 担架が来るまでじっとしなさい、怪我人なんだからッ!」
「うえっ? え、いや、担架て。血は派手に見えますけど、この通りピンピンして――」
「座りなさいッ!! 命令よッ!!」
「ハイィッ!」
王者の一喝。ドロップスティアーの天敵の所以たる有無を言わせぬ圧力によって、キングヘイローは彼女を強制的に安静にさせた。
このウマ娘は、自分がどれだけ危険な事をやったか自覚が無い。アスリートとして体を大事にする感性が無い。
――そして。人の気も、知らない。
「……座って……休みなさいよ……本当に、死んだんじゃないかって、思ったんだから……」
「……キングさん……」
キングヘイローは責める言葉を、弱々しく零した。
ドロップスティアーにとって、自殺行為はいつもの事だ。誰も出来ない無茶を、体を壊す半歩手前の事を、人生レベルでやってきた。
だが、周囲は違う。”命を懸ける”事と”命を捨てる”事は、全く違う。目の前で友人が大怪我をして、平然でいられる筈も無い。
ドロップスティアーはグラスワンダーが怪我した時、狂乱した。だが、
「ティアちゃん。傷、痛い、よね?」
「まぁ……耐えれるレベルですけど、そこそこには」
「なら、休もうよ? ……お願い、だから……」
「ス、スペさん……な、泣かないで下さいよ……」
スペシャルウィークは泣き続けていた。本人がどれだけ平然と振る舞い、重大な怪我を負っていないと言い張っても、見た目の説得力がカケラも無いのだ。
全身は傷と打撲痕と血だらけ。勝負服のあちこちは千切れている。芝と土がこびり付いた前髪の下には、頭から流れてきたと思わしき血雫が見えている。
そんな有様で、立って全身の動作チェックを平然とこなされても、心配はまるで拭えない。ウマ娘は、動けば良い機械などではないのだから。
「……担架、来たわよ。乗りなさい」
「……それは、イヤです」
「あなたッ!!」
「まだ勝負がついてないです! 結果が出るまでは、絶っっっ対、動きません! これは、これだけは、譲れませんッ!」
「譲れと言っているのよッ!!」
「少しの間だけです!
救急の担架が到着するも、ドロップスティアーは大怪我人にしか見えない有様でありながらゴネた。これまでで一番語気を荒げて、抵抗した。
ドロップスティアーは、強引に担架に引き寄せようとするキングヘイローの手に対し、怪我人とはまるで思えない途轍もない力を出して跳ね除け、押しやる。
この満身創痍の身のどこから、こんな異常な力と執念が湧いてくるんだ。キングヘイローは、全くドロップスティアーの力に対抗出来なかった。
「……後からじゃあダメなの、ティアちゃんさん? そんだけ元気なら運ばれながらでも、リアルタイムで結果は見れるでしょ」
「
セイウンスカイが理性的な提案をするも、そんな正論すら毅然として拒絶された。
異常だ。レースは終わっている。確かに判定こそまだ下されていないが、結果は揺るがない。にも関わらず、『結果が出るまでは此処で勝負が続いている』と主張している。
支離滅裂にして、確固たる信念。一体彼女はどれ程、勝負その物に拘っているというのだ。セイウンスカイはそう思わざるを得なかった。
「ねえ、ティアちゃん。せめて、傷だけでも消毒してもらって、それで担架の上で休もう? ……判定が終わってすぐ、運んでもらえる様に……」
「――むう。それなら、確かに……でもっ! 結果出る前に運ぼうとしたら、自分逃げますからね!? これでもまだ走れますよ自分は!」
心の底からの心配を顔に浮かばせるスペシャルウィークが折衷案を出し、ようやくドロップスティアーは担架の上に乗る。乗るには乗ったが、あぐらをかいて座り込む形で。
不動。腕組みして掲示板を睨み付け、絶対にこの
全員が気付く。珍しく、ドロップスティアーの耳が後ろに絞られている。名入との喧嘩でもごく一部でしか変化を見せない程、彼女の耳は常に穏やかだった。常に”今日”、そんな平時の落ち着いた調子が全く見られない。
「……オイ。どうするよ……?」
「……言ってた通り、応急処置するしか無いだろ」
「ああ……なんでアレであんな元気なんだ、マジで……?」
救急隊員達が揃って顔を見合わせ、仕方無く救急箱を取り出して準備をし始めた。
隊員達は困った。彼女は普通致命傷を負っている筈の、大怪我人の筈の、こうして平然としている事がおかしい筈の――一刻も早く、この場から運び出すべきウマ娘なのだ。にも関わらず、誰よりもこの場を離れようとしていない。
怒るウマ娘の処置は難しい。力のある種族なのだ、本気でウマ娘が暴れれば人間どころか、同じウマ娘ですら対抗し辛い。彼女は姿に限れば満身創痍なのだが、ついさっきピンピンと健康に全身を動く様を見せつけたのだ。
そして相手はドロップスティアーである。過剰なパワーが最大の特徴である――世代一の膂力を持つだろう彼女が普段通りの力で抵抗出来るなら、誰にも止められない。それこそ先程見せた、キングヘイローとのやり取りの通りに。
「――なっがいなぁ……」
「長いわね……」
「……長い、ね……」
セイウンスカイ・キングヘイロー・スペシャルウィーク。全員が全員、全く点灯しない掲示板の様子に焦れていた。
ドロップスティアーは今の所、担架の上で大人しく傷の消毒や絆創膏・包帯などの患部保護を受け入れている。その上で隊員達は、彼女が痛がらない事に本気で驚いていた。
傷は多い。打撲もしている。だが、その全てが思った以上に、異常に軽症なのだ。レース終了時の興奮などとうに過ぎ去った上で、彼女の全身には致死量のダメージが入っている筈なのに。
クールダウンにかこつけて、軽く触診もした。打撲はある。だが、骨折の様子が全く無かった。
だが、精密検査は必ず要る。こんな現場だけで分かる事は少ない。それが分かっているからこそ、三人と救急隊員達は揃って掲示板の確定を待っていた。
掲示板が、結果が、まるで定まらない。いくらなんでも遅すぎる、そう全員が思い始めて――
《……来場の皆様、出走者の方々へ。連絡がございます》
掲示板が灯らないまま。アナウンスだけが、レース場に響き始めた。
《ただいまのレース結果について、写真判定の結果が出ました》
「おおっ、待ってました!」
ドロップスティアーは待ちに待った報告に耳をピンと立て、スペシャルウィークとキングヘイロー、そして救急隊員もホッとした顔を見せる。
結果はともかく、この結果発表が終わりさえすれば搬送が出来る。誰もがそう思った。
(……いや。なんか、おかしくない……?)
だが。セイウンスカイだけが、そのアナウンスの
写真判定の結果が出たなら、聞き間違いのある口頭ではなく真っ先に掲示板に点灯すべきだ。確かにどちらが勝ったのか分からない僅差だったが、判定が出たのに掲示板に出さないのは妙である。
《厳密な判定の結果。ゴールを先に迎えたのは、約六センチ程の差で、三番・
「おおっ!」
「うっ……」
ゴールを先に迎えたのは、極めて僅差ではあったがドロップスティアーだった。スペシャルウィークはその言葉に、落胆と納得を同じ程抱いてしまった。
彼女の技をあれだけ受けて、自分も中央突破などという無茶をやって、その上相手は文字通り命懸けで走り切った。スペシャルウィークは、自分も二度と出来ないだろう超会心の走りをしたという自覚と、冷静になった今ではアレはどうかしていたと反省すらしていた。
だから、この結果は仕方無いとも思った。
《――ここからは、URA公式の発表となります》
――だが。
《レースの着順とは、基本的に
ルールとは。”守るモノ”である。それは、遵守の義務だけでは無い。
それらは、
《これまで腕や手の先
ドロップスティアーは、ルールを守った。ルールを破る事をせず、可能な全てを尽くした。
しかし。ルールとは、何らかの意図があって
《上層部や現場との厳密な談義の結果。前例こそありませんでしたが、
URAは、レースの世界は。ウマ娘の意志と命を、可能な限り守ろうとしている。
そしてドロップスティアーは。
《――今回のケースでは、
トゥインクル・シリーズにおいて、着差の決定はウマ娘の体の一部が決勝線に到達した瞬間を指す。それをドロップスティアーは、ちゃんと知っていた。
だが、レースやウマ娘に絶対が無い様に――
《……今後も、同様の行為を禁じる為・及びレースの公平性を守る為。腕より先の差による着差は無いものとされます。後日公式発表がされますので、納得の程をお願いします》
そして、掲示板が点灯する。審議も何も無い、ルールに則った結果が。
一着は、五番・スペシャルウィーク。二着は三番・ドロップスティアー。差は、クビ差。
ここに。
「――――へっ」
ドロップスティアーは、アナウンスの内容を一字残らず頭に刻み込み、掲示板を見た。
二着。一年をかけ、一念で駆け、一命を賭け。ルールを守って、ルールに従って走った。
その上で。彼女は、生まれて初めて
「……あ……ぇ……?」
瞬間、彼女の体は真横に傾き出す。担架の柔らかい白布の上に、転がる。
視界を真横に変えても、電光掲示板のランプの内容が変わる事は無かった。
――自分は。負けた。
「……ぅ……ぁ……あ……」
「……ティア、ちゃん……?」
全部。全部全部。自分の全てを使ってきた。全てのルールを活用した。
何も間違えなかった。審議も付かなかった。ルールの上で、戦った。
だが。
――
「――ぁ……あ……あ゛ァァァーーーッ!!!」
それに気付いた瞬間。
独りの虚しい山彦の様に。ドロップスティアーは、スタンド全体に響く程の慟哭を上げて。
「ティ、ティアちゃん!? ティアちゃん、ティアちゃん!」
「――ッ! ちょ、ちょっと……な、何、これっ……!?」
「
彼女は、単なる敗北以上の非現実的な
「「「――……」」」
何万人もいる筈のレース会場が、一斉に沈黙に包まれる。関係者席も、誰も声を出せなかった。
当然の結果だった。前例の無い、自殺行為。そんな事が公式に認められる訳が無い。
しかし、この場に居合わせた全員が。彼女の決死の走りを見た。心の慟哭を聴かされた。全身に見える傷以上に、絶望を思わせるターフの去り際を見送った。
出走したウマ娘達も、”三強”も、正当な勝者であるスペシャルウィークでさえも。次に何をすれば良いのか、何を言えばいいのか分からず、ただその場で止まっていた。
耳の奥で響き続ける山彦の様な、彼女の
◆ ◆ ◆
後日。URAは正しく、今回の東京優駿で制定された新しいルールを発表した。
そこに特定のウマ娘――ドロップスティアーを責める様な色は無い。ただ、『トゥインクル・シリーズ及び出走者のこれからの安全を鑑みて』、そんな誰もが納得するだろうそんな一文が添えられていた。
今ここに、守る為のルールは新しく作られた。たった一人の、狂ったウマ娘によって。
彼女は、負けた。しかし、その場に居合わせた誰もがこう思った。
――誰もが。忘れる事は出来なかったという。
実在の競馬施行規定・第116条。『到達順位が馬の
つまり競馬では一瞬だけ脚が100メートル伸びたとしても、鼻が到達しない限り”絶対”に勝利とは見做されません。散々調べた作者がコレを知らない訳が無いです。
しかし”ウマ娘”という種族は、体の一部が先に入った時の体勢で完全に勝敗は決まります。”競馬”では無い弊害により、厳密に問われる事が無かったという設定です。
作者は「”ウマ娘”の可能性」を考え、この負け方だけを第二部最初から考えていました。
残酷で救いが無いようにも見えますが、まだ話は続きますので安心して下さい。