ひとつめのおはなし
◇ ◇ ◇
――暗い、暗い世界に居た。
狭くて暗くて、息苦しい。記憶はあやふやで、意識は定まらない。
夢かな。そう思うには、わたしの吐息がやたら近くに感じられる。すぐ近くに何かがあって、それがわたしの存在を確かにしている。
「――アちゃんっ……スティア、ちゃんっ……」
目覚めたくはない。この朦朧とした感覚の揺籠の中で、そのまま意識を沈ませてしまいたい。
目覚めたい。狭くて苦しいこの場から逃げ出したい。だけれど、何故だか手足は上手く動いてくれない。
せめぎ合う自分の意識同士が反発して、体が動かない。どうすればいいのか、わからない。
だからせめて、腕だけでも動かしてみようとした。
「……スティアちゃん……よか、った……」
「……おかー、さん……?」
腕を動かす。おかーさんに、手を握られていた。
ドロップスティアー・六歳。彼女はこの時、前後の記憶が飛んでいた。
何が起きたのか、わからなかった。何があったのか、わからなかった。何がどうなっているのか、何も、何も。
「……スティアちゃん……うご、ける……?」
「……? うん……なんだか、せまいし、いたいけど……がんばったら、うごけるよ……?」
「ふふっ。力持ちだもんね、スティアちゃんは――ゲホッ! ごほ、ごほっ……!!」
「――!? おかーさん!?」
暗い世界の中で、少しずつ瞼が起き上がってきた。周囲は暗いままだが、目は少しずつ慣れてきた。
狭い、狭い所だ。とても狭く――
どこかはわからないけれど、おかーさんが苦しんでいる。わたしが、なんとかしないと。わたしはおかーさんの自慢の、力持ちのドロップスティアーなんだから。
そう思って、おかーさんがいる所を見た。
「――おかーさん……
「……ふふっ。ちょっと、ちょっとだけ、動きにくくってね……」
自分は動ける。だけれど、酷く狭苦しい。動きにくい。どうなってるのかわからない。
なんでこんなに狭いのか。ここは何処なのか。確かめようと、手をあちこちに伸ばす。腕を下に向ければ、
「――えっ」
この感触を、ドロップスティアーは知っていた。大好きな感触だった。
「――っ!? おとーさん! おとーさん、おとーさん!? おかーさん、おとーさんはっ!?」
「…………」
ここはおとーさんの車の中だ。そして、
そして、少し前。ドロップスティアーが気絶する、それより少し直前。
「おとーさん、おとーさんおとーさん! おとーさぁんっ!」
ドロップスティアーは、物心が付くのが比較的早かった。
小学校に入ってすぐの頃から、しっかりものだと良く褒められた。ウマ娘でありながら、自分の力加減を早い段階で覚えていた。テストも高得点を取って、いつも褒められた。
その時、自分のおとーさんの大きな手に、ごつごつした掌に優しく撫でられるのが好きで。いつでも『おとーさん』と呼べば応えてくれる、優しい自慢の父親。
おとーさんの車は、
「……おとー、さん……?」
ここは、自分の父親の車の中だ。おとーさんもおかーさんも、わたしも大好きな車。
おとーさんは、いつでもドロップスティアーの声に応えてくれる。運転している時は前しか見てくれないが、とにかく
なのに、
「……スティアちゃん。横のドア、あけられる?」
「おかーさん……」
「……お願い……おかーさんの代わりに、開けて……?」
「……う、うん」
まだ頭が混乱している。しかし、おかーさんが言った通り、自分側――後部座席の左ドアを開けようとした。
いつもとは違って、とてつもなく重い。どうしてこんなに重たいのかわからない程に。だから、全力を出す事にした。『ウマ娘は力を出し過ぎちゃダメだよ』と、幼稚園から言われている
「んぎぎぎぎぃ……っ!」
強引に、力任せに。扉の取っ手を引きつつも、不十分な体勢でドアを押す。少しずつ、少しずつだが、ガリガリと嫌な音を立てて扉が開いていった。
おとーさんの大事な車を、傷付けている。『誰かを傷付けてはいけない』って、
だけど、おかーさんに言われたから。今は何も考えず、扉を出来る限りの力で開けた。
「……スティアちゃん。そのまま、出れる?」
「えっ……お、おかーさんは……?」
「後から出るから、安心して――っぐ、ぅ……!」
「お、おかーさん……?」
おかーさんの声がヘンだ。状況も何もかも、全てがヘンだ。
混乱したまま、それでもドロップスティアーは言う事に従う。いつもの何倍も重く感じるドアを力任せに開いて、少しだけ空いた隙間だから抜け出る。
そして、
「――……な、に……これ……」
夜の暗闇の中、人気の少ない道路の上。街灯の心許ない光だけで
おとーさんの車は
そして、さっきまで自分が居た場所。おかーさんが居る場所。
「お、おかーさん! くるま、クルマがっ――お、おかーさん……っ!!」
「……ふふっ。出れて、よか、った……」
ドロップスティアーはトラックの衝突前、後部座席の左側に座っていた。右隣には、おかーさんが座って構ってくれていた。
そして今。トラックにぶつけられた車の
「おかーさん、おかーさんおかーさん!! で、でてっ! ここ、あぶないよっ……!」
幼くとも、ドロップスティアーは賢い部類のウマ娘であった。だから現状を理解出来たが、受容は出来なかった。
おかーさんは車の中・右側に今も居る。
自分だけは動ける。ドアからは出れた。でも、おかーさんは自分で動けなくなっているのは今の混乱した頭でもわかった。
一緒に出なきゃ。出さなきゃ。たすけなきゃ。わたしは、力持ちのドロップスティアーなんだから。そう思って、自分が出たドアから一旦車の反対側へと行く。
「――え……あ……?」
それが何か、一瞬分からなかった。だから地面を触った。
べちゃり。掌に、酷く粘る水の感触がする。確認しようと、掌を持ち上げて街灯の光に当てる。
「おかーさんっ!! おかーさんおかーさん、おかーさぁんっ!!」
全て、全て全て、本当の意味で分かった。分かってしまった。
いっぱい、いっぱい血が出ている。こんなに血が出たら、いっぱい痛いに違いない。
早く、助けないといけない。おとーさんも、おかーさんも。わたしが、たすけないと。わたしは力持ちで、わたしだけがうごけるんだから。
「う、ぐぐ、うううっ……!!」
ひっくり返った車の、ひしゃげた右のドアを開けようとする。しかし、完全に潰れた扉は、どれだけの力をかけても開く事は無かった。
自分がいた、左側のドアを開けるのにも全力の力が必要だった。にも関わらず、
しかし当時のドロップスティアーに、それを判断出来る程の余裕は無かった。
「おかーさん、ぜったい、ぜったいたすけるから! がんばって、わたし、がんばるから!! ん、ぐぅぅうっ……!!」
わたしが、わたしが、わたしが。
わたしが、たすけるんだ。わたしは、わたしだけは、がんばれるんだ。
そんな想いに反して、ひしゃげたドアは開いてくれない。ここにおかーさんが居るのに。おかーさんが、いっぱいケガをしてるのに。痛い筈なのに。
なのに、なのに。なんで、なんでドアは、開いてくれないんだ。当時のドロップスティアーには、
「――ィア、ちゃん……っ」
「っ、おかーさん!?」
潰れたドアの奥から、苦しんでいるおかーさんの声が聴こえる。こちら側からは上手く聴こえない。
助けないといけない。こっちからがダメなら、戻って向こうから。声に導かれるままに、また左側のドアへと戻った。
「……スティア、ちゃん……は……ぶじ……なのよ、ね……?」
「……おかー、さん……?」
酷い匂いだけど、ここにはおかーさんが居る。開いたドアの隙間に頭を入れて、おかーさんの声を聴こうとする。顔を見る。
暗い車内の中、暗闇に目が慣れた瞳がようやくまともにおかーさんの姿を捉える事が出来た。
「……スティア、ちゃん、は……」
「お、おかーさん……おかー、さぁん……」
ドロップスティアーは、悟った。こんな狭い所から、出れる訳が無い。
自分であっても出れないだろう程、車の右側は潰れている。おかーさんは、自分より大きい。つまり、
おかーさんの声だけが頼りだった。おかーさんの、弱々しく、今にも消えてしまいそうな。そんな声しか、今頼れるものは無かった。
「スティアちゃん……は……
「……おかーさん……?」
「つらい……こと……あって……も……
「おかー、さ、あ……ぁ……っ……」
かくりと。持っていた人形を落とした時の様に、おかーさんの頭が前に倒れる。
苦しそうな顔で、しかしなんとか笑って。おかーさんは、それだけ言い残して。
――
「――おとーさん……おかーさん……」
ひしゃげた車。おとーさんとおかーさんが居る、潰れた車。
いつでも明るく応えてくれる、おとーさんの声がしない。さっきまで自分に呼びかけてくれていた、おかーさんの声もしなくなった。
ドアの隙間から頑張って手を伸ばし、おかーさんの顔に触れる。
掌を引けば。
「…………あ…………」
ドロップスティアーは、賢い子供だった。幼いながらも、自分の頭で今起きている事を考えられる頭があった。
トラックが来て、車が潰れた。おとーさんの居た所が潰れた。おかーさんが居た所も潰れた。さっきまでおかーさんは
いっぱい、いっぱいの血の匂いがする。掌に付いている。信じられない大怪我をしている。こんなに血が流れて、ただで済む訳が無い。
その瞬間。子供のドロップスティアーは今まで知る由も無かった、
「――ぁ……あ……あぁぁぁーーーッ!!!」
――
◆ ◆ ◆
「――おう」
「…………」
それから暫くの間、記憶は無い。気付けば自分は病院にいて、横にはおとーさんの弟――”おじさん”が居た。
トラックの運転手の居眠り運転による、交通事故。それにより、被害者の車の右側は大破。死者二名、負傷者一名。生き残ったのは、死者である父と母の一人娘。それがニュースとして、テレビに流れていた。
ドロップスティアーは、何もかもわからなかった。わかりたくなかった。掌に残る、鼻の奥にまで残る、血臭と死臭。両親の死亡を眼前にするというショック。それにより、一時的に彼女は心神喪失による無気力に陥っていた。
しかし、目覚めはした。意識はあった。だから、挨拶をしてきた”おじさん”の存在にも気付いた。反応をしたくなかっただけで。
「……何を言っていいのかわからん。お前もわからんだろうが、ひとまず。しばらくは、俺が横に居る事になった。まぁともかく、ちょっとの間よろしく、な」
「…………」
当時、両親を失ったドロップスティアーは祖父と祖母に引き取られる筈だった。しかし、祖父母は子供の世話の為に毎日病院に通える程の足が無い。
”おじさん”は、一人暮らしだった。『こっちのが余裕がある』、そう言って入院中はつきっきりになる事にした。ある程度精神が落ち着いて退院したら、祖父母の家に住んでもらう。そういう流れだった。
当時のドロップスティアーに、その事情を理解する力も記憶する余裕も無い。ただ目の前で両親が死んだ事を完全に理解し、発狂した時のショックが大きすぎた。
だが。退院までの間、自分の隣には殆どの間、ぶっきらぼうで優しい”おじさん”が居てくれた事だけは理解していた。
そして、お見舞いに来る時には必ず。
◆ ◆ ◆
「――う、ぁ、あっ」
しかし、祖父母の家の
そこは、
そして。
「やだ、やだやだ、やだぁっ! おとーさん、おかーさぁんっ! う、あ、うぁぁーーッ!!」
「お、落ち着けッ! 落ち着け、おいッ!!」
「おかーさん、おかーさんおかーさん! あああぁぁッ!!」
彼女はその場所と行き交う車に対して、特にトラックへ深い
祖父母は、老いている。子供とはいえ、ウマ娘が暴れた時の対応が出来ない。そこで、一人暮らしだった叔父が引き取る方が良い、となったのだが――
◆ ◆ ◆
「――くる、ま……あ……あ……」
叔父の家――
隣町へ通じる峠の上の、隠れ家的なカーショップ。そこには、叔父が売る為の車・車・車。ある程度の落ち着きを得たドロップスティアーは、トラック以外には多少の耐性が付いていた。
しかし、車は
「やだ! くるまは、やだっ! おとーさんもおかーさんも、みんなしんじゃった! おかーさん達がしんじゃうくるまなんて、やだぁっ!」
叔父の居る山から小学校までは、山道を降りれば比較的車通りの多い道を避けて到着出来る。しかし、日常的にあちこちを行き交う車から、完全に目を背ける事は出来ない。
その上で、住む家の前に一杯の車があるというこの店は、深いトラウマを抱える子供にはあまりに酷な大問題だった。
「――車は、キライか」
「きらいっ!! おとーさんもおかーさんも、ころしたのはくるまだっ! わたしの、わたしのだいじなおとーさんとおかーさんを! しんじゃったのは、くるまのせいだっ!!」
落ち着いたドロップスティアーは、”死”と”殺人”の概念をニュースで知った。鮮烈な光景を目に焼き付け、子供の身の上で最も早く深い理解にまで及んでいた。
トラックが、車が自分の両親の命を奪った。両親が死んだ場所は車だ。おかーさんの最期を見てしまったのは、車の中だ。
叔父の所を除き、最早ドロップスティアーに行く所は無い。生活能力的にも、立地的にも、ここが最もマシだった。ただ、経営内容が最悪であった。
――だから。
「んじゃ、
「――え?」
◆ ◆ ◆
「――あー。サッパリしたなー、オイ。綺麗なもんだ、お前もそう思うだろ?」
「……おじ……さん……?」
叔父は、
車に関係する全てのパーツやグッズも、何もかも全て売り払った。理由を説明すれば、叔父の知り合いは全員協力し、なるべくまともな値段で購入していった。
こうして。山上の隠れ家的にニッチな需要でコアな人気があった、叔父の店からは。綺麗さっぱり、車に関係する物が跡形も無く消えた。
叔父は、店を畳んだ。ただ一人、遺された兄の娘の為に。
「……お店。いいの……?」
「なーに言ってんだ。お前のお陰でいっぱい金が入ったんだ。お前がメシ一杯食っても問題無いぐらいには、大金持ちになったんだぜ? ありがとよ」
くしゃくしゃと、おとーさんとは全く違う乱暴さで頭を撫でられる。そんな感謝を受けている当のドロップスティアーは、叔父がとんでもない事をやったと思っていた。事実、そうだった。
自分が我儘を言っている自覚はあった。嫌だと駄々をこねても、きっと祖父母か叔父のどちらかの家を選ばなければならない、そういう現実は分かっていた。
それでも自分が制御出来なかった。子供心にあまりにも酷なトラウマが、理性を消し飛ばしてしまう。どちらかを選ばなければならない、叔父の店が最もマシ。それは、分かっていたのだ。
だが、叔父は問題を綺麗さっぱり消した。
自分の為だけに。叔父は、自分の職を丸ごと捨てたのだ。
「……安心しろ。オトナの世界にはな、保険とかお前が知らんお金が色々あるから、メシは食っていける。学校も行ける。……いや、行かなくても良い。山降りて道路見るのが嫌なら、
「…………」
叔父は、通信教育も視野に入れていた。祖父母の家は立地が事故現場に近すぎて、トラウマを何度も思い出して払拭されない可能性がある。
一方、この山の上には何も無い。峠道を通る車も居たが、カーショップを畳んだ今は通行が激減するだろう。そして峠道は狭く曲がりくねっており、トラックが通れない。
つまりこの山上は、
「……あー。でも、お前の分しか金が無いし、俺が食ってけねぇなぁ。なんか新しい店のアイデアとかねぇか?」
「……新しい、おみせ?」
「どうせだ、お前が好きな店を作るんだよ。めっちゃいい感じの、クルマなんぞクソッタレより良い店。……そうだ、お菓子とかどうだ?」
「お菓子の、お店……?」
「ああ」
両親の生命保険と加害者からの賠償金、大量の車を売り飛ばして得た金、そして祖父母の援助。これだけあれば、ウマ娘一人が一般校に通うには支障は無い。
しかし、引け目を作りたくなかった。ドロップスティアーの賢さは叔父も理解しており、普通に育っていけばこの空っぽの場所に対して責任を感じてしまうだろう。そう考えていた。
だから全く別の、このウマ娘が帰ってくる店を作る事にした。採算度外視、見た目だけのハリボテでも構わない。ただ、独りとなったこの娘がほんの少しでも住むのを楽しめる様な、そんな
「見ろコレ」
「……たばこ?」
「ココアシガレットっつってな、コレもお菓子の一つなんだ。結構昔は流行っててな、案外こういうのバカ売れしちまうかもしれないぞ? ……やっべ、そん時はクルマめっちゃ来るかもしれねぇや。徒歩限定にすっかなぁ……」
「…………」
差し出されたタバコ型のお菓子。叔父はかつてタバコを嗜んでいたが、禁煙する際に口寂しくなったので、代わりにそれっぽいモノで代用する事にした。
別に電子タバコとかでも良かったのだが、このチープさが気に入った。そして、どうせなら自分が売る側に回るというのも悪くない。駄菓子屋なら、好きな時にこの娘にも色んなお菓子を与えてやれる。
色とりどりで飽きない、チープなお菓子の家。子供騙しだが、騙せる内は良いだろう。きっとそれまでには、彼女の心の傷はある程度は癒えるだろうから。
「うし。新しい店作る記念だ、今日は景気良くメシ作ってやるよ。……あ゛。やべ、俺のクルマ無くなったんだった、食材足りるか……? ……悪い、出前頼んでもいいか……?」
「――あは。バカだね、おじさん」
「……ははっ。やっと、少し笑えたじゃねえかよ」
――こうして。ドロップスティアーの新しい家が出来た。
子供騙しの駄菓子を山上で売る、寂れた”おじさん”の駄菓子屋。
リピーターの車など来ないだろう。無駄に駐車場だけが広い、そんな
「……それ。ほんとにお菓子なの?」
「ココアシガレットか? 変わった感じだが、甘いぞ」
「……食べても、大丈夫?」
「おう、ほれ」
「……なんか……味、うっすいね……」
「……だよなぁ」
記念すべき最初の駄菓子は、変な食感のうすら甘いモノだった。
天国へと行けなかった者。
――
あえて言うと、作者はこいつの命名に最初からこの意味を込めていました。
「スティア」呼びは両親を思い出してしまうので、本人は「ティア」呼びを好みます。